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ヨブ記講解76 - まことの義人は(3-下)

4 日前
読了時間: 14分

説教:イ・スジン牧師

本文:ヨブ記27:8-11


イエス様もそうされたのではありませんか。イエス様はただ良いことだけされて善だけ行って、癒してくださり、多くの人に命をくださったのですが、悪い人々によって、迫害され蔑まれ、あざけられ、また十字架で殺されました。でもイエス様がよみがえられた時は大逆転になったのではありませんか。それでも悪い人々はそれを認めようとしないで否定しようとして、イエス様がよみがえったことを認めないで、イエス様の遺体を弟子たちが盗んでいったと、このように偽りの噂を立てたのです。でも実際イエス様はよみがえられて霊的に勝利されたのですね。それによって今多くの人々が救われて、霊の世界でもイエス様は勝利して神様に栄光を捧げたのです。その結果を見ればわかるのではありませんか。善が勝利するのです。だから皆さんもいくらいろいろ言われて迫害されて、また誤解されるかもしれないのですが、神様が私たちとともにおられ、また私たちが善を行っていけば、結局それが後で明らかにされて、神様に栄光を捧げるようになり勝利することになるのです。​


そして、より多くの人々が救われるようになります。神様の御心と摂理があるから、私たちはそのために祈っていかなければなりません。どうして悪い人が裁かれないのかとか、懲らしめが臨まないのかとか、悪い人たちに対して腹を立てたり、妬みを起こしたりしてはいけないのです。皆さん、このような真理の御言葉を自分に適用してください。私たちは、善をもって悪に打ち勝って敵をも愛することが、神様が望んでおられる正しいことであることを悟って、それを行わなければなりません。また、真理だけが絶対的な基準であることを知って、善と悪を正確にわきまえなければなりません。また自分が不当な目にあった時、また苦しみを受ける時、迫害される時、自分の心の中はどうなのかを顧みますように。​


イエス様は良い業をなさったのですが、悪い人に迫害された時手向かったりしませんでした。また神様につぶやいたのでもありません。彼らを許してくださいと愛の祈りを捧げました。ステパノ執事もそうでした。このように神様が認めてくださる義人は、どんな状況に置かれても善だけが出てくるのです。また皆さんもこれを通して自分を発見しますように。試練を通して自分を発見するようになるのです。皆さんも教会の試練の時そうだったのではありませんか?教会の中でも分裂があったり、またいろんな人が教会を攻撃してきたり、世の人に誤解されたりした時、皆さんの心はどうだったでしょうか?自分の信仰は自分の善はどんなものだったのか、顧みてさらに変えられますように。


ところで、今ヨブは友達と言い争って、互いに正しくないと攻撃しています。ヨブがこのように激しいことを言っていて友達を呪っているから、友達も腹が立って、さらに激しくなり感情的になるのですね。ヨブを慰めるために来たのですが、ヨブがこんなふうに言っているから、友達もヨブに対して攻撃したり言い争ったりするのです。皆さんも日常生活で家族の間でも、もしかしてささいなことでちょっと意見が違って口喧嘩をしたのに、相手を刺激する言葉とか相手が怒るような言葉をわざと言ったりして、さらに相手が怒ったりさらに激しく攻撃したりする自分の姿はないのか顧みますように。子供との間でもそうだし、夫婦の間でもそうです。だからそういうところを、本当に気をつけなければならないでしょう。相手を怒らせたりすることがあってはいけないと思います。また友達との関係でも気をつけなければならないでしょう。​


互いに何の役にも立たないことですから、感情的になってひどいことを口にしてしまうようなこと、互いに相手を刺激するようなことを言ったり、傷つける言葉を言ったりすることがあってはいけないでしょう。家族の間では特に気をつけなければなりません。自分の口の言葉によって子どもたちが傷つくようなことがあったり、また感情的になってしまったり、本当に言ってはいけないそのようなことを言ったりすることがないようにしましょう。今ヨブとヨブの友達はそんなふうに言い争っているのです。でもお互い様でしょう。この論争の火が消えるためには絶対的な基準である真理、正確に判定できる真理が必要です。この真理は何でしょう?敵をも愛しなさいです。善を持って悪に打ち勝ちなさい。仕えなさい。理解しなさいという神様の御言葉です。しかしヨブと友達はこのような真理を知らなかったから、自分たちが正しいと言い合っているのです。​


ヨブ記27:8です。


神を敬わない者の望みはどうなるだろうか。神が彼を断ち切り、そのいのちを取り去る時は。(ヨブ記27:8)


ヨブは今、例えを挙げて友達のことを攻撃しています。神を敬わない者とは、友達を言っているのです。それで友達を攻撃して、もっと攻め立てるために事前作業をしているのです。自分は悪くないのに、自分なりに神様を敬っていたのに、今自分は、このように惨めな目に遭っていてどん底に落ちてしまったから、自分より悪い友達は、もっと厳しい目に遭うべきだと思って、このようにひどく言っているのです。それを直接には言えないから間接的に言っているのです。だから、神を敬わない者がいくらうまくいっているように見えても、結局は神様が彼を断ち切ってしまうと、命を取り去ってしまうと、友達にあなたたちもそうなると言っているのです。私は正しい人なのに、神様がこんな目にして惨めな思いをさせてしまってどん底に落ちているけれど、あなたたちは、私よりもっと悪いからもっとひどい目に遭うだろうと言っているのです。


ヨブは人が死んだらみんな同じようになるかのように言っているのですが、霊的には違いますね。命のある人が死ぬことと、神を敬わない人が死ぬこと、その次の結果は全然違います。正しく生きた人、善を行って生きた人は、死を前にしても堂々として喜びながら向かいます。でも罪を犯したりした人は苦しみますね。歴史を見てみると、国と王に忠実に仕えて不義を行わなかった忠臣は、中傷されて濡れ衣を着せられて殺されても、それでも堂々として王に向かってお辞儀をして、死を受け入れます。しかし私心や欲によって富を積んで悪を行っていた人々は、どうでしょう?自分が殺されるようなところになると、暴れたり騒いだり王を恨んだりしながら、あがいたり、殺されたくないから逃げようとしたりするのではありませんか?歴史ドラマとか見てみると、そうですね。このように忠臣と奸臣の終りの姿は違うのです。それを見ているとどれほど惨めでしょうか?でも不当に誤解されて濡れ衣を着せられて殺されても、国と王を愛する忠臣はどうでしょう?最後まで堂々としていて毅然としているのではありませんか?また人が死ぬ直前、臨終の前には、霊の目が開かれて霊の世界を見る場合があります。救われた人は、自分を連れに来たふたりのみ使いを見るから喜んで平安に目を閉じますね。でも救われなかった人は、地獄の使いが来ているから恐怖に怯えるのです。私たちは後の世があって、全てを知っておられ裁かれる神様がおられるということを認めて、いつも善と真理に従わなければなりません


ヨブ記27:9です。


苦しみが彼にふりかかるとき、神は彼の叫びを聞かれるであろうか。(ヨブ記27:9)


つまり聞かないという意味ですね。ヨブはこのように、自分の考え自分の思い込みによってずっと言っているのです。神様は詩篇50:15に「苦難の日にはわたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出そう。あなたは私をあがめよう。」と言われました。つまり罪人でも、悔い改めて立ち返って神様を呼び求めるなら、神様が聞いてくださるという意味です。でもヨブは自分のように潔白な人が、神様にあれほど求めても何の答えもなかった。だから、あなた方も同じだと決めつけているのです


続く本文も同じです。ヨブ記27:10です。


彼は全能者を彼の喜びとするだろうか。どんな時にも彼を呼ぶだろうか。(ヨブ記27:10)


友達にこう言っているのです。私は正しく生きた。神様の前でちゃんと全焼のいけにえも捧げた。このように正しく生きた私さえ、神様の前でこのようにひどい目に遭っている。苦しめられている。だから悪いあなた方は、どんなふうになるかと言っているのです。神様の喜びにならないし、神様を呼ぶこともないだろうと言っているのです。これはヨブの思い込みで裁きです。個人的な意見です。神様は憐れみ深い慈しみ深い方です。エゼキエル18:23に「わたしは悪者の死を喜ぶだろうか。―神である主の御告げ。―彼がその態度を悔い改めて、生きることを喜ばないだろうか。」とあります。神様は、悪い人でも何としてでも救おうとする方です。それが神様の愛の心です。イスラエルの歴史を見ると、民が繰り返し罪を犯しても、立ち返って悔い改めれば、神様は憐れんでくださり、また機会をくださる姿がよくありました。


マタイ5:45に「天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。」とある御言葉を覚えて、神様の愛を誤解することがあってはいけないでしょう。ところで、人の心の地によって神様がくださる恵みと働きが違う場合はあります。詩篇103:14に「主は、私たちの成り立ちを知り、私たちがちりに過ぎないことを心に留めておられる。」とあるように、人はそれぞれ心が違うのですね。心の地が違うから、神様が練って導いてくださる方法は違うことがあります。ヨブのように自分の義の強い人は、自分というものを自分の思いを打ち砕くことが簡単ではないから、ひどく厳しく練られる場合があります。でもその心そのものは真っ直ぐだから、それが打ち砕かれれば尊く用いられるのです。でも恵みを受けてすぐ悟ると言っても、心が真っ直ぐではない人は、鍋のようにすぐ湧いてすぐ冷めてしまうから、尊く用いられない場合があります。ですから、厳しく練られているからと言って、その人が悪いわけでもないし、あまり練られることも懲らしめもないからと言って、その人が良いのでもないのです。だから人を裁いてはいけません。


使徒パウロは厳しく試練にあったのですが、それによって主の愛と善に似て、偉大な使徒になりました。ですから、人が自分の思い込みで人を見て、正しい正しくないと決めつけることがあってはいけないでしょう。またあの人は悪いことをしているのに、なぜそのまま放っておくのかとか、神様について呟くことがあってはいけません。そしてこれを誤解して、神様はある人には憐みと恵みをたくさんくださって、自分にはそうでないと思ってはいけません。神様は全ての聖徒に同じように、御言葉と祈りと賛美によって神様の前で求め祈る時、応えてくださり悟らせてくださる恵み深い慈しみ深い方です。でも人それぞれ心が違うし、慕う心も違って備えることも違うから、受ける恵みと愛が違うのです。そしてある人は、恵みをたくさん受けたのにすぐ忘れてしまうから、たっとく用いられない場合もあります。でもそのような自分は悟れないまま、神様は私をあまり愛してくださらないのだと誤解することもあります。これは、合っていないでしょう。悪い心ではありませんか?でもその悪を捨ててこそ、神様の愛を感じるようになるのです。


ヨブが神様を誤解したのも、そのためだったでしょう。私たちも信仰生活をしながら、神様を誤解することがよくあります。自分の利益をまず求めるからです。また人と自分を比較してしまうからですね。あの人は答えも受けていろいろ恵みも受けているのにとか、あの人はあまり試練にもあってないように見えるけれど、何故私だけ厳しく試練にあってこんなふうに癒されないのかと思いますか?それで神様の前に呟いたり、神様のせいにしてしまったりする姿はありませんか?皆さん厳しく練られるならば、感謝するべきではありませんか?このような過程を通して私は必ず変えられる。神様に尊く用いられるために、こんな過程が必要なのだと思って、喜んで感謝して神様を信じていくと、どんなに神様も喜ばれるでしょうか。しかし、落ち込んでしまって、私はこれしかできない人だとか、神様は私をあまり愛してくださらないようだとか、このように思ってしまうと、神様はどれほどもどかしく思われるでしょうか。


なぜ私の祈りを答えてくださらないのかとか、私はどうしてこの病気が癒されていないのかと、自分なりに頑張っているのに祈っても何故癒してくださらないのかと、神様のことを誤解したり神様が悪い方のように思ってはいけないのです。自分の霊的な問題を悟ろうとしなければならないし、またこのような過程が必要だからと思わなければなりません。神様の愛として受け止めなければならないのです。神様を誤解したりさばいたりしないで、低くなって謙遜に受け入れて、神様の愛を感じようとしなければなりません。ある人は、他の人は癒されて証をしているから羨ましいなと思うかもしれませんが、でもその人がどう行ったのか自分と比べてみてください。その人は断食して定めて祈って、自分を顧みて徹底的に悔い改めました。だから答えを受けたのです。でも自分は見てみるとどうでしょう。癒されたいと思っていても、定めて祈りもしなかったし、徹底的に悔い改めもしなかったし、相変わらず人のせいにしていて、人と言い争ったりしていて人を憎んだり神様の前で呟いたりしているならば、なぜ自分は癒されないのか分かるのではありませんか?それなのに、神様はどうして私の祈りを聞いてくださらないのかとか、このように恨んではいけないのです。


ヨブ記27:11です。


私は神の御手についてあなたがたに教えよう。全能者のもとにあるものを私は隠すまい。(ヨブ記27:11)


ヨブは神様を呼び求めても神様が聞いてくださらなかった。なぜ自分がこんなふうに試練にあっているのかわからないと言っていたのに、自分が神の御手について友達に教えると言っています。また全能者の心を教えると言っています。どれほど高ぶっている姿でしょうか。ヨブは自分なりに神様のことを知っていて、自分なりに試練にあって悟ったことを教えると言っています。これからとんでもないことを言っていくのが分かりますね。続きは来週説明します。皆さん、私たちは真理を知ってこそ正しく見分けることができるし、自分も発見することができます。でもヨブは真理を正しく知っていなかったから、自分が言っている言葉の中に、どのくらい真理と反対のものがたくさんあるのかわからないまま、自分が正しいと錯覚していました。神様が見て正しいものではなく、自分の義でいっぱいだったから、自分の主張を曲げなかったのです。


出エジプト15:26に「そして仰せられた。『もし、あなたがあなたの神、主の声に確かに聞き従い、主が正しいと見られることを行い、」とあります。人が正しいと見るのではなく、神様が正しいと見られることを行わなければなりません。イエス様が罪人たちと食事をなさっている姿を見て、パリサイ人や律法学者は、イエス様も罪人だと罪に定めました。でも神様の義で見てみれば、罪人を差別しないで正しい道に導こうとする、救おうとするイエス様だから、どれ程素晴らしいことでしょうか。このように人が見て正しいと思うことと、神様がご覧になる時、正しいこととは違うのです。聖書にある御言葉通りに完全に行うことが神様のご覧になる時の義なのです。真の義ですね。


旧約時代には、人の力では心にある罪の性質は捨てることができなかったから、行いで罪を犯さなければ罪人だと思われなかったのです。でも新約時代では、イエス・キリストを受け入れて聖霊が来られたから、聖霊の助けによって心にある罪も捨てることができるようになりました。だから心の割礼をしてこそ真の義人だと認められるのです。誰でも火のように祈って断食して、聖霊の助けと神様の恵みと力をいただくなら、本性の中の罪までも捨てることができるし正しい人になれるのです。ですから皆さんは、命の御言葉と火のような祈りによって真の義人になって思う存分神様に栄光を捧げますよう、主の御名によって祈ります。


聞いた御言葉を思い出して祈りましょう。 父なる神様、感謝いたします。今日もヨブは、自分は正しいと言い張っていました。意地を張っていました。そして、自分を苦しめて自分に反対する、自分を攻撃する友達は不正をする者、よこしまな者だと言って、友達を呪っていました。そして自分のように正しい者の願いも神様は聞いてくださらないのに、あなた方のことは全然聞いてくださらないと、罪人の結末は結局は滅びだと言っていました。また死んだら全部同じようになるからと言いながら友達を攻撃していたのですが、でも真理で照らしてみればヨブの言っていることは全然合わなかったのです。私たちは自分にはヨブのような姿はないのか、顧みなければならないでしょう。そのせいで言い争って、変えられるのが遅かったのではないのか、顧みますように。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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