ヨブ記講解76 - まことの義人は(3-上)
説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記27:6-7
前回ヨブは、自分は不正を言わず欺きを告げないと主張しましたが、続いて友達を許さないと言っていました。これは前に、自分が言っていたこととまた違うことを言っているのですね。でも自分は正しいと言い張っているのです。このようなヨブの姿を見ながら、ヨブは愚かだなとか、どうしてこんなふうに合わないことを言っているのかと思わないで、自分の姿はどうなのかと顧みますように。感情的になって、このように自分の言っていることがわからないまま、かっとなって口にした言葉を後で考えてみれば、合ってなかったとか間違ったことを言っていたとか、言い過ぎだったとか思う時がありますね。潔めの福音を聞いている皆さんなら、後でではなくて直ぐ、自分の口にする言葉が正しいかそうでないか悟らなければなりません。
人と話をしているとき、相手の口の言葉によって傷ついてしまう場合があると思いますが、でも傷つくことも自分の中に悪があるからだと思います。相手が怒ったり怒鳴ったりしたかもしれないのですが、相手がまた強い口調で何か責めたりしたかもしれないのですが、でも自分がそれをなんであの人はあんなふうに言うのだろうとか、ひどいなとか心の中でそう感じるから傷つくのですね。でもそうではなくて、その人を理解しようとして、また何か事情があるだろうと思って話を聞いてみようとか、このように心の中が落ち着いていて穏やかならば傷つくこともないのです。ですから真理を基準にして、自分の心の中をこのように調べなければならないのです。また自分の口からもどんな言葉が出ているのか、もしかして自分の口の言葉によって人を傷つけるようなことはないのか、このように逆に自分を顧みることも必要です。
ですから今日、聞いたメッセージを聞いている時は、あぁ、そうだと思うかもしれないのですが、それを忘れてしまってはいけないのです。今日聞いたならこれを覚えておいて、今晩ダニエル祈祷会で祈る時、また明日もその次の日も自分の日常生活で、一瞬一瞬自分がどんふうに人の話を聞いて感じているのか、自分の口の言葉はどんなふうなのかをチェックしなければなりません。このようにヨブは自分が正しいと言い張っているのですが、でも合わないことを言っているのですね。このように、人が自分なりに正しいと思って義だと思っていることは、神様の義とは違うのです。ですから人が自分の考えや自分の義を持って、他の人を裁いてはいけないのです。前回は律法を適用することにおいて、旧約と新約の違いを伝えました。ある人は、イエス様が十字架の愛で律法を全うされたから、律法はいらないと言いますが、そうではありません。マタイ5:17でイエス様は、「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。」と言われました。
新約時代は律法がいらなくなったのではなく、聖霊が心の中におられるから、さらに律法を完全に守ることができるようになりました。例えば旧約時代には、心の中でむさぼりがあって憎しみがあっても、実際に盗んだり人を殺したりしなければ罪にならなかったのです。しかし新約時代に入っては、心を割礼して聖められることができます。つまり行いで罪を犯さないだけではなくて、心にある罪の性質まで捨てることができるようになりました。このように聖められたなら、自然に心だけではなく行いも真理の光の中で歩むようになります。したがって、旧約時代には行いで守っていた律法も、新約時代には聖霊の力によって神様を愛する心で心から守り行ってこそ、それが真の義だと言えるのです。今日もヨブは友達を、不正をする者、よこしまな者と言いながら、自分は正しい人だと言っています。また神様を誤解して、答えてくださらない悪い方だと言っています。皆さんはこのメッセージを聞いて、もしかして自分は人を裁いたり罪に定めているのではないか、憎んでいたり神様を誤解しているのではないか、顧みますように。そしてこれからは、ただ神様がご覧になるとき正しいことを行う皆さんになりますように。
本文ヨブ記27:6です。
私は自分の義を堅く保って、手放さない。私の良心は生涯私を責めはしない。(ヨブ記27:6)
ヨブは今まで自分が論じてきた自分の口の言葉、自分の義を決して手放さないと言いながら、意地を張っています。これは悪く言えば意地ですが、一方では、ヨブは自分が正しいと思っていることを貫く忍耐また勇気もあると言えるでしょう。ヨブのような立場になれば、普通はもうすでに諦めてしまうかもしれませんが、ヨブは最後まで退かないのです。自分が、これが正しいと思ったならば、それを強く最後まで貫こうとするのですね。こういう性分はまっすぐで節義のある良い面もあります。このような性分を持っている人が真理に入ってくると、ダニエルとかダニエルの3人の同僚のように、命を失っても信仰を守るために妥協しない人になるでしょう。
これとは反対に、よくあれこれ揺らいだりする人は、何か正しいと主張していても、自分の利益に合わなかったりまた命が危なくなったりすると、すぐ心が変わってしまいます。皆さんある宗教について国が迫害する場合もありますね。韓国ではキリスト教が入った時、政府が迫害しました。それでクリスチャンは、本当にいろんな罪人扱いをされて迫害されて殉教したのですが、しかし自分が信仰を持ったのに、そのような迫害を恐れてそれで心が変わってしまう人もいました。自分の利益に合わなかったり、また自分が住んでいるその地域の社会で、自分がのけものにされたりすると、暮らしの中で実際被害があるから、それを恐れて結局、主イエス・キリストを否定してしまい、裏切ってしまう人々もたくさんいたのです。でもヨブはどうでしょう。このように最後まで、自分が正しいと意地を張るくらい退かないで貫こうとしているのですね。だから良い面を見てみれば真っ直ぐで節義があるという性分なのです。変わらない姿ですね。
でも人の目を意識したりまた心が揺れ動いたり、二心を持っている人もいるのです。そのような人はちょっと自分が不利になったりするとすぐ変わってしまうのです。ああしたりこうしたり、二心があってすぐ変わってしまうのです。私たちはそうではないのかよく顧みますように。本文にヨブが私の良心は生涯私を責めはしないと言っていることは、自分は今まで正しく生きてきたし、これからも人に非難されるようなことがないから、自分の義を保っていくから、自分は責められないと言っているのです。自分が正しいと思っているから、今までの自分の人生を堂々と自分がよくやってきたと言っているのです。まことの義というものがわからないからこう言っているのです。でもその心は正しいことをしたということがわかります。このような性分を持っているヨブが、真理を正しく悟ったならどんな人になるでしょうか?正しく生きようとするそのような熱さがあってまっすぐな心があるから、潔めの福音を聞いているならすぐに変えられるでしょう。ヨブは自分が正しいと信じていることを、命を懸けてでも守ろうとする心です。また今まで、実際行いでは人に害を与えたことがなかったのですね。貧しい人も助けたし弱い人も助けました。また神様の前で罪を犯さないために気をつけていました。子供たちがもしかして神様の前に罪を犯したのではないかと心配して、代わりに生贄を捧げたりしました。このように行いでは、うわべでは潔白だったのですが、それは霊的な義ではなくて肉的な自分の義だったのです。
だから試練や患難にあったら、怒り、不満、恨みなどでそれが激しくなってしまい、友達と言い争って本当に口にするのも恥ずかしいようなことを言ったり、神様を誤解していろいろ攻撃的な言葉を口にしていました。ヨブはこういうことを、自分を悪いと思わなかったからです。なぜなら神様を見つけた体験がないし、神様が望んでおられる真の義が何かわからなかったからです。うわべだけの行いで自分自身を見れば責められるところがないから、自分は正しいと思っていました。でも神様が本当に望んでおられるのは、そういううわべではなくて中身だから、ヨブを練るしかなかったのです。皆さんの中でも主を受け入れる前、自分なりに善良に生きていたと思う方もいると思います。でも教会に来て神様の御言葉を聞いてみれば、以前の自分が悪かったこと、悪がたくさんあったことを悟るようになります。誰でも真理によって変えられる前は、ヨブと変わらないということを悟ってください。だから自分が正しいという前に、神様の御言葉によって真の義人に変えられるために祈らなければなりません。早く変えられるためにはどうすべきか、ここで分かるでしょう。自分が正しいという心、その義を主張することを早く捨てなければならないのです。
ヨブのように自分が正しいことを最後まで貫こうとするのではなくて、基準を自分ではなくて真理、神様の御言葉にしなければなりません。それで自分の悪、自分が悪いということ、自分が正しくないことを悟るならば自然に低くなりますね。謙遜になるのです。このような人は速やかに変えられるのです。メッセージを聞いて恵みを受けたら、私は悪い人だ、私にはこんなに大きい悪があるのだと思うのですが、でも日常生活で人に何かひどく言われたり、また人が自分に何か嫌なことを言ったりすると、すぐかっとなって言い返したりしてしまう自分の姿があるのです。ヨブは、そのように相手が自分にひどいことをしたなら、自分がそれに仕返すことは悪くないと思ったのです。皆さんにもそういう姿はありませんか?私が何か罪を犯しているのでもないし、人に何か迷惑をかけたり害を与えたのでもないのに、私は悪くないのにあの人が私に嫌味を言うからとか、あの人が私にひどいことをするからと、その人を憎んだり、また一言、言ってやりたいとか思う、そういう姿はないのか顧みますように。真理が教える善と愛、赦しをもって行っているのか、そうでなければ自分の感情に任せて、感情的に口から出てくる、思っていることを全部言ってしまうのではないか顧みますように。
私はそれでも前よりはずいぶん変えられているから、このくらいならよくやっていると思いますか。もちろんそうかもしれないのですが、でもそのくらいで安住してしまってはいけないのです。例えば100の中で60、70くらい捨てたならばそれでいいでしょうか?残りの30も捨てなければならないのです。それが神様の前で完全だと言えるでしょう。私たちはそのような完全さを求めているのではありませんか。だからこのくらいでいいやとか、適当にするのではなくて、本当に徹底的に捨てて完璧、完全なものになろうとしなければならないのです。悪はどんな悪でも避けなさいと言われました。それで悪を捨てようと努力してきました。でもただ捨てるだけではなくて、その反対の善と愛を満たしていかなければならないのですね。悪の100の中で70を捨てて30くらい残っているとしましょう。でも善と愛を70くらい満たさなければならないのに、満たさないままだったらまだまだなのです。ですから私たちは善と愛を満たしていて、だんだんそれによって悪も捨てられるようにしなければならないでしょう。
続く本文ヨブ記27:7です。
私の敵は不正をする者のようになれ。私に立ち向かう者はよこしまな者のようになれ。(ヨブ記27:7)
ヨブは4節で自分の唇は不正を言わないと言ったのに、今このように友達のことをひどく呪っているのです。そして自分は、生き絶えるまで自分の潔白を離さないと言ったし、自分の良心は生涯自分を責めはしないと堂々と言っておいて、今は友達に本当にこのようなひどいことを言っているのです。神様がヨブを練るしかない理由がここで、ヨブの口にする言葉を見れば分かりますね。ヨブが私の敵は不正をする者になれと言っていることは、目には目、歯には歯で報いること、復讐することを意味します。ここでヨブが言っている不正をする者とは、正しくないことをすることですね。例えば人に害を与えることや、凶悪な犯罪を犯すことなど、そのように悪い人のことを言っています。ヨブはそういう人は到底自分には理解できないし赦せないから、当然そのような人は重い刑罰を受けるべきだと思うのです。
そして自分は正しいのに、自分に立ち向かっている友達が、そのような不正をする者やよこしまな者と同じようになれと、このように呪っているのです。友達は、自分は正しいのに自分を悪いと言いながら攻め立てているから、ヨブの立場では理解できない、有り得ないことをされているから、友達が悪いと、よこしまな者になってしまえと言っているのです。自分に反対する人は全部悪い人だとこのように扱っているのです。皆さんはもしかしてこういう姿はありませんか?皆さんによくしてくれて皆さんを褒めてくれる人はいい人、でも、皆さんのことを指摘したり皆さんのことを間違っていると言う人は悪い人ですか?このような白黒をつけるような考え方はよくないのです。皆さん間違っていると人が皆さんに言っても、その人を悪いと皆さんがさばいたり罪に定めてはいけません。そして人によって違う面もありますね。人が自分と違うからといって、その人が間違っているのでもありません。人はいろんな好みも違うしまた考え方も違うのではありませんか?また育った環境も違うし持っている教養も違うし、だからこうしなければならないのになんであんなふうにするのかとか、こうすべきなのになんで間違ったことをしているのかと思いながら理解できないと思って、その人は正しくないとこのように決めつけてしまう場合はありませんか?多くの人がこんなふうにしていると思います。
自分を基準にして、自分と合わない人は間違っていると正しくないと思うのです。自分のことを賛成してくれない人、自分が言っていることと意見が違う人、自分のことに反対する人は嫌で、またその人は悪いとかひどいとか正しくないとか、このように心の中で思うのです。そういう自己中心的な姿はないのか顧みますように。皆さん、今まで誰かに何か言われたり誤解されたりした時、自分の心はどうだったのか顧みますように。また自分なりに良いことを言って意見を出したのに、それに賛成してくれない時、自分の心はどうだったのか顧みますように。だから自分と相手の考え方が違うことを理解しなければならないのにそうではなくて、自分だけ正しいと思っている姿はないのか顧みますように。夫婦の中でも、家族との関係でも、また教会で何か一緒に働きをする時も、会議をする時も、こういう姿はよくあると思います。会議をするといろんな意見がありますね。その中で一番良い意見をみんなが賛成してくれれば、それをもって教会のために進めていくことは良いと思いますが、でも100%意見が一致することはないと思います。
それぞれ意見が違うと思います。そのような時、自分がこれは良いと思う意見があっても、でもそれに問題がありますとかまた違う意見があるかもしれないですね。その時、何故あんなふうに言うのか、これが良いのにとかと思うならば、それは高ぶりかもしれません。その人を無視している姿かもしれないのです。女性の場合は、例えば洋服を売る店に入ってマネキンが着ている服を見ながら、あれあまり可愛くないのになんでマネキンに着せているのだろうとか、あのスタイルはあまり良くないのにとか思ったことはありませんか?でも、それでもそのマネキンが着ている服を可愛いと思ってそれを買う人もいるのです。だから人によって好みが違うのですが、ある人はこんな服誰が着ると言いながら決めつけてしまい、その服を着る人が間違っているかのように言ってしまう人もいるのです。こういう姿はないのか顧みて気をつけなければならないでしょう。だから私たちは、自分と人が違う面があるということをまず理解しなければなりません。
自分の口にはこれが合っているのに相手には合わないかもしれないし、自分は美味しいと思っても相手はまずいと思うかもしれないのですね。いやこれは美味しくないのにとか、味が薄いのにとか思うのに、相手は美味しそうに食べているかもしれないのですね。それで一緒に食事をする時、いやこれ美味しくないなとか、なんか味付けが合ってないなとか、薄いなとかすぐ不満を言ってブツブツ言う人もいて、何故あんなにおいしそうに食べているのとか言う人もいるのですが、でも相手の口には合うかもしれないし、おいしそうに食べているならいいのではありませんか。だからそういうのをすぐ口にしないで、それぞれの好みもまたいろいろ違うということをまずは理解しなければならないのです。
皆さんそれではヨブが言っているように、ヨブの友達が本当に不正をする者でしょうか?よこしまな者でしょうか?皆さん本当に悪い人がいるかもしれません。本当に不正をする人がいるかもしれません。でもそのような人を呪うヨブは正しいでしょうか?心は良いのでしょうか?そうではないのですね。真理で照らしてみればヨブも同じように正しくないのです。もちろんヨブが友達は正しくないとか言っているのですが、もちろん友達も正しくないし、よくやっているのではないのですが、でもそれをそうだと裁いて罪にさだめているヨブも正しくないのです。
絶対的な基準である真理で照らしてみれば、両方とも合っていないのですね。互いに悪いとかひどいとか正しくないと、攻撃して言い争っているのです。第三者の立場で見ると同じではありませんか。お互い様でしょう。人は自分には何の過ちもないのに相手が攻撃すると、自分が仕返すことは当たり前だと思います。でも神様が本当に望んでおられることは、目には目、歯には歯で償うことではなくて、善であり愛であり赦しです。ローマ12:20-21に「もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら、飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。悪に負けてはいけません。かえって、善を持って悪に打ち勝ちなさい。」と言われました。善を持って悪に打ち勝つことを皆さんはどのくらい悟っていますか?私は教会の試練の時いろいろ経験しました。そして以前、牧者がおられた時も、もちろん善をもって悪に打ち勝つという御言葉は知っていたのですが、それが自分に本当に肌で感じるくらいの痛感するほどのものではなかったようです。でもここ数年間私は本当にそれを痛感するほど体験していました。
そしてその当時は、自分が善を行っているけれどもそれでも悲しい思いもしたし、辛い思いもしたかもしれないのですが、でも最後まで善を行うことに飽きないで失望しないで行っていたら、後で全てが明らかになって、神様の前で認められるようになることを体験しました。私は善を行っていて良い心でいたとしても、私を攻撃したり私を訴えたり私に悪を行う人がいたとして、その人はその時どれほど苦しいでしょうか?喜び感謝をもってするわけではないでしょう。だからどんなに辛いだろう苦しいだろうと思うと本当にかわいそうだと思いました。でも私の心の中ではそれによって、私が苦しんだり悲しんだりしたのでもなく、ただかわいそうに思ってその人も赦される道が開かれたらいいのにとか思いました。自分の心は穏やかで神様のくださる平安があったから、これが善をもって悪に打ち勝つことなのだと感じました。痛感しました。この教会のマンミンの歴史が今までそうだったし牧者の行いがそうだったのですね。(つづく)
