ヨブ記講解75 - まことの義人は(2-下)
説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記27:5
ヨブは、自分の唇は不正を言わず、自分の舌は決して欺きを告げないと言いました。不正を言わないと言ったから、これからはヨブの口から真理だけが出て来なければならないでしょう。
次の本文、ヨブ記27:5です。
あなた方を義と認めることは、私には絶対にできない。私は生き絶えるまで、自分の潔白を離さない。(ヨブ記27:5)
あなた方、つまり友達を自分は義と認めないと言っています。あなた方は正しくないと言っているのです。ヨブは自分の唇が不正を言わないと言ったのに、またこんなふうに正しくないことを言っているのです。つまりヨブは友達を赦していないのです。正しい人の口からこのような言葉が出てくるでしょうか。ヨブは、自分は正しいとずっと言ってきたし、自分は潔白だと言っていたのですが、今、ヨブから出てくる言葉はどうでしょう?そうではないのですね。ヨブは今、自分が、不正なことを言っていることに気がつかないのです。ヨブは自分なりに正しいと思っていたからです。自分の方から相手に害を与えることがなかったから。でも相手が自分を攻撃するときは、自分もやり返す人でした。でもそれが悪いとも思わなかったのです。
神様に対してもそうです。神様が先に自分を苦しめたから、神様を悪いと言いながら、神様はひどいと言っているのです。そして自分がそんなふうに反応することは、当然だと思っていました。自分がまず誰かに悪いことをしていないから、また友達とも自分がまず争ったわけではない、自分は事実を言っているだけなのに、友達が自分を悪いと言いながら攻撃してくるから、私は反論しただけだと思っているのです。ヨブもヨブの友達もどちらも肉の人だったからです。真理を基準にしてみてみれば両方とも正しくないでしょう。御霊の人と御霊の人が会えば理解だけあって誤解がないのに、肉の人と肉の人はこのように互いに理解できないし誤解していくのです。御霊の人なら、肉の人を理解して受け入れて待ってあげるでしょう。しかし肉の人は、御霊の人が理解できず誤解してしまうのです。御霊の人は受け入れるから争うことはないと思いますが、でも肉の人は御霊の人のことを誤解したりするのです。苦手だと思ったり、裁くことがあります。そういうことがあってはいけないでしょう。
相手が理解できないのなら、神様の前に祈りながら理解しようと努力しなければならないでしょう。そして相手にあまりにもはっきりとした悪があって、悪い姿があって、到底理解できないそういうひどい姿があるかもしれません。でもそのような人のため、自分がどうしてそのためあれこれ悩んだり頭を抱えたりするのでしょうか?そうする必要はないでしょう。その人はその人で、自分は自分なのです。だから自分の心はそれと関係なく穏やかで平安があり、喜びがある。そういうのを保たなければならないのです。相手を裁かないで、あのような姿もあるのだ、あんな人もいるのだと思ってあげるのです。なんであんなことするのとか、どうしてとかそんなふうに思ったり、人をさばいたりするのではなくて、そういう面もあるのだ、そういうふうに考えることもあるのだと思って済むのです。そうするとその人に対して何のわだかまりとか誤解もないし、自分の心は穏やかでいいでしょう。私たちが御霊の歩みに入る前、肉に関するものを全部捨てる前は、自分も正しいと言えないし、また相手を正しくないとも言えないのです。
肉の人は自分を基準にして、合わない人を見るとイライラしたり理解できないから、それがつらいとかまた何か言ってやりたいと思ったりします。でもそれは必要ないものです。皆さんはどうでしょうか?周りの人が自分にあれこれ言ったり指摘したりするなら、また自分のことを悪いと言ったり非難したりするなら、皆さんの心の中はどうでしょうか?いや、あなたも完全じゃないのにと思ったり、自分も行っていないくせにとか思う姿はありませんか?その時皆さんどうでしょう?それを正しいと思いますか?後で振り返ってみれば、私悪かったな。そんなふうに考えてはいけないのにと思うと思います。でもそれで終わってはいけないのです。それも自分の中で相手を裁く姿があるからです。だからそういう心も考えも早く捨てなければならないのです。私たちはまず自分の目から針を取り出して、その後、真理の人、完全な人になってこそ、相手の塵を見て取り出すことも取り除くこともできるのです。
イエス様はこの地上に来られ福音を伝える時、真理だけを伝えました。でも祭司とかパリサイ人、律法学者などは、イエス様を迫害しました。なぜなら彼らの目には、イエス様が間違っていることをしているように見えたからです。彼らは律法を守っているつもりだったのですが、心の割礼をしていなかった肉の人だったから、正しく見ることができなかったのです。私たちもこれを通して、私が考えていることが正しくないかもしれないということを悟らなければなりません。そして自分は、自分が知っている真理をもって色々と思うかもしれませんが、それが神様の目には善でない場合があるのです。使徒パウロはどうだったでしょうか?福音を伝えて多くの人を真理に導いたのに、数多くの迫害を受けました。ユダヤ人が使徒パウロを殺そうとしたのですね。彼らが善と平和、真理に留まっていたなら、使徒パウロのことを見ていると分かったのでしょうが、そうできなかったのです。自分の義と枠に閉じ込められていたからです。
今日も多くの人が、神様の御言葉をもって見分けるのではなくて、自分が学んだ知識をもって、また長老の言い伝えを持って、人を裁く場合があります。牧会者や聖徒を教える立場にいる人は、神様の御言葉を正確に理解して悟って慎重に伝えなければなりません。自分が間違って理解して人を教えるなら、盲人が盲人を手引きする結果になってしまいます。例えば真理の御言葉が100なら自分は10しかわからないのに、自分が知っている10を持って聖徒を教えるなら、その中には間違った内容もあるかもしれませんね。そして真理の御言葉を教えるのではなくて、メッセージを伝える時、世間話をしたり政治の話をしたり哲学の話をする人もいるのですが、そうしてはいけないでしょう。聖徒の間でも人をむやみにさばいたり、罪に定めたりしないで、神様の御言葉に従って、互いに赦し合って仕え合って平和を保たなければなりません。ただ真理、神様の御言葉を基準にして、何が真実で何が偽りかを正確に見分けなければなりません。肉の人の目から見ればヨブには偽りがなかったでしょう。事実だけを言っていて、人を欺かない心で、神様の前でも認められていたのではありませんか。そして本文でも私は生き絶えるまでと言っているのですが、これもヨブの正直さが表れています。
皆さんならこういう時どう表現するか考えてみてください。世の人々の中では、自分の断固さを表現する時、死んでもできないとか、死んでも言わないとかいう人がいます。こういう人がよくいますね。そして聖書を読んでみれば初代教会の聖徒が出てくるのですが、韓国に福音が伝えられた初期の時もそういうことがありました。例えば、偶像礼拝に対して神社参拝することに対して、その時それを反対していた正しい人もいたのですが、そうしてもいいと間違って教える宗教指導者もいたのです。そのようなことがあってはいけないでしょう。そして正しく知って教えなければならないし、自分の言葉にも気をつけなければならないのです。ヨブは、私は生き絶えるまで私の潔白を離さないと言っています。でも普通の人だったならば、死んでも自分の潔白を保つとか言ったかもしれません。でも死後の世界をわからない人が、死んだ後何ができるのでしょうか。だから死んでもという言葉は嘘なのですね。でもヨブは死んでもとは言わないで、生き絶えるまでと言っているから、ヨブの心の芯そのものは正直な人だったということが分かります。
ヨブは自分の潔白を離さないと言って、自分が正しいということを強調しています。ヨブは実際今まで自分を守って、また正しいことをしてきました。行いとしては潔白だったし、罪から離れていたのですね。また自分は友達と話をする時も、相手がまず自分を攻撃してきたから、自分はそれに反論しただけだから、自分は悪くないと。目には目、歯には歯という旧約時代だから、自分は律法を守っていると妥当だと思っていました。だから自分は潔白を離さないでいると思っていました。でもこれは霊的な意味の潔白とは違うのです。本当に潔白な人ならば、どんな試練にあっても悪を行わないでしょう。悪いことを口にしないでしょう。神様を恨んだりしないでしょう。ヨブはうわべだけを見れば潔白で正しい正直な人だったのです。でも神様の御目でその心の深いところを見てみれば、そうではなかったのですね。神様はヨブを認めてくださいました。彼のように潔白で正しく神を恐れ、悪から遠ざかっている者はいないと言うくらいだったのです。ヨブが心の悪を捨てた状態ではないけれど、旧約の律法を基準にしてみれば、彼の行いは潔白で正しかったから、また善行もあったから認めてくださったのです。
でも神様の方で、本当に霊的に潔白だと認められるためには、行いやうわべだけではなく、心そのものが変えられなければならなかったのです。ヨブは神様の基準では潔白ではなかったのですが、神様は彼のその行いを見て褒めてくださったのです。でもヨブが完全になるようにする為に、御霊の人に変えられるようにするために、このように試練に遭うように練ってくださったのです。でもヨブが友達と言い争っている姿を見ればどうでしょう。どれほど激しい言葉を口にして、悪をむき出しにしているでしょうか。また神様に対してもこんなふうに激しく言っているし、神様を誤解してさばいている姿を見ると潔白だとは言えないでしょう。人との平和を保っていない人、平和を壊す人は、決して神様の前で潔白だと言われないのです。皆さんはどうでしょうか?自分の心の中でだけ潔白ならいいでしょうか?人との関係ではどうでしょう?平和を本当に保っていますか?平和を作っていますか?そうでなければ平和でない姿はありませんか?
イエス様の時代で、悪い人々はイエス様を憎んで殺そうとして迫害したのですが、イエス様の方では全ての人と平和を保っておられました。私たちはそのような心でなければならないのです。自分の意見がいくら正しくても、それによって相手との関係で平和が壊れるなら、神様の前では正しいと認められないのです。自分が見て正しいことだけで、神様がご覧になるときは正しくないからです。最近は地球村と言うほど地球上の全ての地域がつながっているのですが、個々の知識や教養が違って、国によって風習が違って価値観も違います。だから自分の基準でこれが正しい、私の方が、教養があるとは言えないのです。例えば相手に学識がなくて、使っている単語とか表現が足りないなら、だからといってその人を無視してはいけないでしょう。その人の立場で理解して仕えなければなりません。神様は私たちの学歴とか目に見える才能を評価するのではなく、心をご覧になります。だから人のうわべとか学識とかを見て、あの人は私より欠けていると思ってはいけないのです。神様の御目では相手の方が評価されることもあります。ピリピ2:3に「へり下って互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。」とあるように、全ての人に仕えて平和を追い求める皆さんになりますように。
結論です。今日はヨブが考えている不正と欺き、また潔白と、神様がご覧になる時のものとは、あまりにも異なるということが分かりました。ですから私たちも自分が正しいと言い張って、神様の義に従えない姿を悟らなければなりません。例えば到底許せない人がいますか?未だに嫌いで理解できない人がいて会いたくないと思いますか?そうでなければ、相手の過ちをずっと根に持っていて、心の中で罪に定めていることはありませんか?マタイ18章を読むと、イエス様は借りのある人のたとえをあげてくださいました。あるしもべが自分の王に大きい借りがありました。その人は返済することができなくてひれ伏してお願いしました。その人をかわいそうに思った王が全部免除してくれました。しかしこのしもべは、自分に借りのある人に出会ったら、その人に借金を返せと言って牢に投げ入れてしまいました。その借金は、自分が王に免除してもらった金額に比べれば少ないものでした。それを知った王は怒ってそのしもべを呼び出して、借金を全部返すまで牢に入れるようにしました。
イエス様はこれを通して、私たちが人を赦すべき理由を悟らせてくださいました。マタイ18:35で「あなた方もそれぞれ、心から兄弟を赦さないなら、天の私の父も、あなたがたに、このようになさるのです。」と言われました。神様が私たちを憐れんでくださらなかったなら、罪を赦してくださらなかったなら、私たちは地獄に落ちているでしょう。しかしイエス・キリストの愛によって、信仰によって値なしに赦されて救われたから、私たちも人を赦して憐れむべきです。これが、神様が正しいと見てくださることです。でも私たちは、人を赦すことについて自分の義によって限界を決めている姿はありませんか?ですから私たちも愛で律法を満たされた主を見習って、まことの義人になってまことの愛を行わなければなりません。
ヨハネ14:21に「私の戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。わたしを愛する人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身を彼に現わします。」と言われました。ですから神様を愛して全ての戒めを完全に守り行い、まことの義人になって祝福されますように。聞いたメッセージを思い出して祈りましょう。父なる神様、今日もヨブは自分の義を言い張っていました。彼が口にしている言葉を見れば正しくないのに、自分は正しいと言っていました。私たちは自分もヨブのような姿はないのか顧みるようにしてください。言葉と考えていること、また心の中で思っていることまでも、もしかして自分はヨブのような姿はないのか顧みますように。あの人は悪い、ひどいと思うのではなくて、その人のために祈り、愛する、主の善を見習うようにしてください。それで神様に認められる義となりますように。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
