ヨブ記講解62 - 立ち返るなら赦しと祝福(上)
説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記22:18~21
愛する皆さん、前回はエリファズが、かつて自分が聞いた昔の信仰の人々の出来事をたとえに挙げて、ヨブを悟らせていました。エリファズは神様の御心がわからない肉の人だったので、悪人の結果は、ただ滅びるものだと言いました。しかし神様は、悪人だからといって全て見捨てるのではありません。繰り返し赦して待ってくださり忍耐深くあられ、立ち返る機会をくださる方です。ヨブ記はまだ肉の人であるヨブとその友達の話を記録したものなので、ヨブ記を読むときは、これが神様の御心に合っているのかそうでないか、真理に合っているのかそうでないかを、正確に見分けなければなりません。また口に出す言葉は真理でも、その中に込められている心はどうなのかも見抜かなければなりません。今日もメッセージを聞いて聖霊の働きによって、神様の御心を悟る皆さんになりますように。
前回ヨブ記22:18節前半節まで調べてみました。今日は後半節から説明します。18節後半節でエリファズは、「だが、悪者のはかり事は私と何の関係もない。」と言っています。ここで悪者とはヨブを指しています。私は善人だから、あなたのような悪人のはかり事とは関係ないと言っています。ヨブ記21:16で、ヨブが友達に「悪者のはかり事は、私と何の関係もない。」といった言葉を、エリファズがそのまま引用しているのです。これまでヨブは自分が正しい、友達は悪いと言いながらいろいろな言葉で教えようとして、例えを挙げて攻撃しました。それでエリファズも反撃するために、自分も何か言葉でヨブを言いまかそうとして頭を絞っているのです。
人々が言い争うとき相手が話をしている間、心の中では言い返す言葉を探しながら、何としてでも言葉尻を捉えようとしますね。皆さんも人と話すときそういう姿があるなら、直さなければなりません。相手が話をしていることをよく聞かなければなりません。そしてその話を聞いて認めて自分を顧みようとしなければなりません。そうしないで、相手が話をしている間相手の話は聞かないで、心の中で言い返す言葉を探しているならどうなるでしょうか?言い争いが終わらないのです。それが夫婦の間でそうすることもあるかもしれないし、親子の間でもそういうことがあるでしょう。ですから自分が家族とどういうふうに話をしているのか顧みますように。
世でも家庭の中でいろんな問題があって、それについて家族の中でどんなふうに話しているのかを顧みるようにと、アドバイスする場合があります。相手が言っているその言葉を聞いてあげることが大切だと言っています。しかしほとんどの人はそうしないで、素直に相手の話に耳を傾けるよりは、自分が言いたいことをずっと考えているのですね。それで相手の話は真剣に聞かないで、自分が言いたいことを強く言ったりするのです。でもそうしてはいけません。まずは相手の話をちゃんと聞いて、相手が何を言いたいのか、その相手の言葉を肯定してあげることが必要です。そして相手が何を話したいのかをまず受け入れる姿勢が必要なのです。その後自分の意見を言ってもいいのではありませんか?世でもそのようにアドバイスをすることがあります。このように相手の話を聞く姿勢というものが大切なのです。そして相手が何かを話し始めたのに、すぐそれは違うとか途中で止めたりしてはいけないのですね。そうすると喧嘩になってしまいます。私たちもそのような姿勢が必要です。心の中で相手に仕える心、相手を認めてそして聞いてあげようとする姿、また低くなる心が必要です。
真理の御言葉を聞いて、このように自分の心が変えられれば、相手に対する視線も変わるでしょう。だから話をするとき、相手の言っていることが何か間違っているところはないのか、それを探そうとしたり、言葉尻を捉えようとしたりしているならば、それは良くない姿でしょう。そうすると平和を作ることができないのです。直すべきところだと思います。ですから私たちは相手が何か話をするとき、負けたくないと思ったり、自分が正しいことを貫こうとばかりしてはいけないのです。自分なりに何か巧みな言葉を準備して、相手を言いまかそうとするならば、言い争いは終わらないのです。
神様はどう言われましたか?負ける者が勝つ者だ。仕える者が偉くなると言われました。私たちは他人を自分より優れた者と思い、悪に負けるのではなく、善をもって悪に打ち勝つ者とならなければなりません。ヨブは自分が正しい、友達は正しくないと言っていましたが、今はエリファズがヨブは正しくない、悪い人だと言いながら、自分はヨブとは関係ないと言っています。あなたは悪者だから、あなたのはかり事は私とは関係ないと、つまり自分は善人だ、自分は正しいと言っているのです。私たちはヨブと友達がこのようにずっと言い争っている姿を見ながら、自分とは関係ないと思わないで、真実と偽り、善と悪、真理と真理と反対のものを正確に見分けて、自分を発見して変えられなければならないでしょう
続くヨブ記22:19-20です。
正しい者は見て喜び、罪のない者は彼らをあざけって言う。「まことに、私たちに立ち向かった者は滅ぼされ、彼らの残した者は火が焼け尽くした。(ヨブ記22:19-20)
これはエリファズがヨブに教えようと悟らせようとしている言葉です。前回説明した前の説と繋いで説明します。悪人がうまくいかない時、失敗した時、正しい者はその姿を見て喜ぶと言っています。また罪のない者は彼らをあざけっていると言っているのです。悪人が滅びた姿を見て、このように正しい者が喜ぶでしょうか?罪のない者があざけるでしょうか?これが真理に合っていることでしょうか?そうではありませんね。正しい者は、悪人が滅びる姿を見て喜ぶはずがありません。罪のない者が、敵が滅びたからといってあざけるはずがないからです。エリファズは肉の人です。また自分の心が悪いから、このように真理に合わないことを言っています。正しいものはこうだ、罪のないものはこうするとか、自分なりに言っているのですが、それは合わないのです。真理を引用しているようでも、全然合わないことを言っているのです。神様の心が分からないからです。
皆さんもこういうことがあるのでありませんか?色眼鏡で見てみると全てがその色に染まっているように見えますね。だから自分の心に悪があれば、周りの人も悪い方に見てしまうのです。エリファズも肉の人だし心に悪があるから、このように真理に合わないことを言っているのです。正しい者がどうして悪人が滅びる姿を見て喜ぶでしょうか。罪のない人がどうして敵が滅びる姿を見てあざけるでしょうか。私たちは正確に真理を知っていなければなりません。エリファズは自分なりに知っている真理を引用しているようでも、間違っているのです。皆さんもこういう姿はあるのではないか顧みますように。真理をもってアドバイスをするつもりでも、それを間違って引用する場合があります。ある人は一生懸命献金している人を見ながら、自分の暮らしのためにも貯蓄しなければとアドバイスする人がいます。もちろんそれもあっているのですが、しかし私たちは神様の国のために捧げることを優先しなければならないでしょう。だから真理を持って話しているようでもそうでない場合があるから、私たちは正確に見分けなければならないのです。
エリファズはこのように真理に合わないことを言っています。もちろんヨブも同じです。肉の人だから真理に合わない言葉を言ってきたのですが、でもヨブはその良心が正しいから、その言葉の中には良い面もありました。例えばヨブは試練にあって自分のすべて、つまり子供も財産も全部失われたのですが、それでも口では罪を犯さないで感謝していました。ヨブ記1:21-22です。
「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」と言いました。その時までヨブは神に愚痴をこぼさなかったのです。そして足の裏から頭の頂まで悪性の腫物ができてみすぼらしい姿で、灰の中に座って土器のかけらで身を掻いていたら、ヨブの妻はヨブ記2:9で 「それでもなお、あなたは自分の誠実を堅く保つのですか。神をのろって死になさい。」と言いました。この時もヨブはどう言いましたか?「あなたは愚かの女が言うようなことを言っている。私たちは幸いを神から受けるのだから、わざわいをも受けなければならないではないか。」と言っていました。
この時もヨブは真理を正確に知っていたのではないから、彼が言っていることが正しいのではありません。聖書のどこにも、神様から幸いを受けたなら災いも受けなければならないという御言葉は、ありません。ただヨブは真理をよく知らなくても、良心が正しい人だから、命に関わる病気になっても、自分の唇を守っていたのです。もちろんその後時間が経って絶望的な状況が続いたら、ヨブの心に深く潜んでいた悪が明らかになって現れていたのですが、それは神様が彼を練って完全にしてくださる過程でした。だからヨブとエリファズの違いを見分けなければなりません。二人とも肉の人で真理に合わないことを言っていても、その心は違うのです。
本文でエリファズは、自分の悪から真理を歪曲して、ヨブを教えようとしているのです。皆さんそれではエリファズが、正しいものは悪人が滅びるのを見て喜び、罪のない者は彼らをあざけって言うと言っていましたが、それを真理に変えてみればどうなるでしょうか?正しい者は悪人が滅びるのを見て喜ばないし、罪のない者は彼らをあざけって言わないと言えばいいでしょう。正しい心を持っている人は、悪人が滅びの道に行くのを見たならば、そのために祈るでしょう。悲しむでしょう。相手が悪人でも自分を苦しめた人でも、その人が何としてでも悔い改めて立ち返り、変えられるように望む心です。相手が自分を誤解して妬んだりして自分をいじめても、その人が何としてでも変えられるように立ち返るように祈る心です。第1コリント13:6にある通りですね。愛は不正を喜ばずに真理を喜ぶのです。正しい者の心には善があります。善は神様の属性ですね。だから信仰のない世の人でも良心が正しい人は、悪い人を見てただ裁いたり罪で定めるのではなくて、理解しようとして赦そうとするのです。もし悪い人が遠く消えてしまえばいいとか、その人が滅びるのを望む心があるならば、自分の心も悪いという証拠でしょう。
それで本文でエリファズが、正しいものは悪人が滅びるのを見て喜び、罪のないものは彼らをあざけって言うと言ったのは、自分の悪い心をそのまま表している言葉です。エリファズは悪いものが滅びることを願い、その財産まで焼き尽くされてしまうことを、悪い者が懲らしめを受けて滅びるのを望んでいたのです。しかし罪のない人の心はそうでないのです。決してそんなふうに願いません。心の中に悪のない人は、罪自体は憎むのですが、罪を犯した人を憎みません。正しい人の心は、悪人が何か悪い結果になることを望みません。何としてでも悪人でも立ち返るように、変えられるように望みそのために祈ります。イエス様はそうでした。ご自分を十字架につけて殺そうとする人のために、父よ、彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか自分で分からないのですと、赦しの祈りを捧げました。
そして初代教会の殉教者ステパノの執事は、不当に石打ちにされて死にかけていた時も、主よこの罪を彼らに負わせないでくださいと、愛の祈りを捧げました。そして使徒パウロはどうしましたか?自分を罪に定めて迫害していた人々を憎んでいたのではありません。かえって彼らのためなら、この私がキリストから引き離されて呪われたものとなることさえ願いたいのですと、彼らの救いのために祈り、命を尽くして愛しました。箴言24:17に「あなたの敵が倒れるとき、喜んではならない。彼がつまづくとき、あなたは心から楽しんではならない。」とあり詩編37:1には「悪を行う者に対して腹を立てるな。不正を行う者に対して妬みを起こすな。」とあります。それなのに悪い人がうまくいかない姿を見ていい気味だと思ったり、反対に彼がうまくいく時に妬むなら、自分は悪い人だと悟らなければなりません。
では、神様は悪い人に対してどうのようにするようにと教えてくださいましたか?ローマ12:20です。「もしあなたの敵が飢えたなら彼に食べさせなさい、渇いたなら飲ませなさい、そうすることによってあなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。」とあります。こういう御言葉に聞き従う行いが、神様を信じる人が当然すべきことです。マタイ5:44に「しかし私はあなた方に言います。自分の敵を愛し迫害するもののために祈りなさい。」とイエス様は言われました。続くマタイ5:45に「それでこそ天におられるあなた方の父の子供になれるのです。」とあります。ですからもしかして周りに悪を行う人がいたり、自分を迫害する人がいるならば、その人のために祈り主の愛を行うことによって、神様の前で真の子供だと認められる皆さんになりますように。
皆さん、このような御言葉を聞いて恵みを受けますね。神様は私にこういう善を行うように望んでおられるのだと、ただ頭で知っていることでは何の役にも立ちません。自分が実際に日常生活でどのようにしているのか、顧みなければなりません。家族の中で、家族の誰かが親戚とかが、また近所の人が皆さんを苦しめたり、迫害したりするならどうでしょう?その人がもし何か問題にあったり、うまくいかない姿を見たら、皆さんの心はどうでしょう?ひょっとしていい気味だと思ったり嬉しくなったりするならば、自分の中に悪があるということです。会社で同僚が自分より認められて自分より早く昇進した時どうでしょう?もしかして面白くないとか、妬んでそれが気に食わないとか、そんなふうな心ならば、私は真理を喜ぶ愛がないのだと悟らなければならないでしょう。だから私たちはいつも真理善の御言葉を基準にして、それに照らさなければなりません。周りで自分を苦しめる人がいないかもしれません。また自分を迫害していた人がうまくいかない場合がないかもしれません。しかしこういうメッセージを聞きながら、自分はこういう場合ならどうするのか顧みて自分の中に本当に愛があるのかチェックしなければならないのです。
新しいエルサレムに行くような人ならば、こういうところも一つ一つチェックして、完全にしていかなければならないでしょう。このようなメッセージを聞いて、いや私はそんなことはないと思って、自分のことではないと思ってしまうならば、メッセージを聞いても変えられないのです。悟ることもないのです。メッセージを聞いて自分を顧みて、それを握って祈らなければならないのですが、それができないのです。ですから私たちはこういう善についてメッセージを聞いたら、自分がそこまで神様が望んでおられる善を持っていなければ、本当に申し訳ないと思って、自分の日常生活、周りの人に対しての自分の態度とか心とかを顧みて、本当に細かいところまでチェックして、さらに完全なものになるために祈らなければならないのです。しかし同じようにメッセージを聞いていても、ある人はただ聞き流してしまう場合があります。しかし集中して聞けば聖霊が悟らせてくださいます。続く本文を見れば今までヨブを激しく批判していたエリファズの態度が突然変わります。
ヨブ記22:21です。
さあ、あなたは神と和らぎ平和を得よ。そうすればあなたに幸いが来よう。(ヨブ記22:21)
これまで本当に厳しい言葉で激しくヨブを攻撃していて、本当に辛辣に非難していたのですが、今は優しい言葉で勧めています。その理由は何でしょうか?エリファズはこの前の節でこう言いました。悪者のはかり事は私と関係がないと。つまりヨブは悪人で自分は正しいものだと言っているのです。だから自称正しいものの立場で、自分なりに優しい言葉でヨブにアドバイスをするのです。話をするとき皆さんもこういう姿ありませんか?人を指摘して厳しく強く言ったり、怒っているように声が大きくなったりする場合がありますが、ふとこうしてはいけない。私は真理を知っている人なのにと思いながら、声を小さくして落ち着いて、優しい言葉で言う場合がありますね。でも相手はそれを見てどう思うでしょうか。この人は、今自分がかっとなって厳しく言ったことを隠したいから、そんなふうに態度を変えるのですが、でも自分の心を欺いている姿ではありませんか?そして親が子どもにそんなふうにすることもあるかもしれません。あんたはなんであんなにダメなのとか、大きくなって何になるつもりなのとか、このように厳しく言っておいて、ちょっと言い過ぎたと思って、そうしてはダメだよ、愛しているからねと言うならば、子どもはその姿を見てどう思いますか?それを素直に受け入れるでしょうか?そうではないでしょう。
今エリファズがそんな風にヨブに対して言っているのです。ヨブを本当に厳しく攻め立てて非難して、悪人だとこのように厳しく言っていたのですが、ちょっとそれが言い過ぎたと思ったのか、今はこのように神様と和らぐようにとか、優しく自分なりに言っているつもりなのですが、それはお詫びだけでしょう。心の悪はそのままなのです。皆さんもそんな姿がないのか顧みますように。初めからそんな風に人を傷つけるようなことを言わないほうがいいでしょう。相手が聞いてどう考えるでしょうか?どう感じるでしょうか?自分の感情に負けて激しく指摘して、叱って非難しておいて、後でそれを何とかごまかそうとする姿があってはいけないでしょう。
エリファズが今どんなふうに言っているのか顧みましょう。エリファズが言っている言葉そのものは合っているからです。神様と和らげば平和を得るのですね。それなら私たちが神様との間で平和をつくるためには、どうすべきでしょうか?まずは、罪の問題を解決しなければなりません。コロサイ1:20です。「その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、御子のために和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。」とあります。イエス様がなだめの備え物になってくださり、神様と私たちの間を和解させてくださいました 。ですから誰でもイエス・キリストを受け入れれば罪が許されて神の子供とされ、平安を得て幸いを得るようになります。
では皆さんはすでにイエス・キリストを受け入れましたね。信仰生活をしています。では神様との間で平和をつくっていて祝福されていますか?本当に神様との間で平和がつくられているならば、罪の問題が解決されていなければなりません。イエス・キリストによって罪が許されたのですが、その後それ以上罪を犯さなかったのでしょうか?心の中にある罪の性質を捨てたのでしょうか?それをチェックしてみてください。罪の問題が解決されてこそ、神様との間で本当の平安が臨むのです。イエス様の恵みによって罪を許されたとしても、その後、御言葉通りに光の中を歩んでいなければ、闇の中で留まっているならば、それは神様との間でまだ罪の問題が解決されていないのです。
私たちはイエス・キリストの尊い血によって、神様との間で和解させられたのですが、ではイエス様がこの地上に来られる前の旧約時代の人々は、どんなふうに神様との平和をつくれたでしょうか?罪の問題を解決するために、動物を屠って生贄を捧げました。しかしこういう方法は一時的だけで、また罪を犯してその心に相変わらずに罪があるから、完全に平和をつくることはできませんでした。しかし本当に神様を恐れかしこみ愛する人々も、旧約時代にいましたね。例えばエノクとかアブラハムのように神様を愛して恐れかしこみ、神様の御言葉通りに生きている人々は、生贄を捧げることだけでなく、神様の御言葉を守り行うことによって、神様との間で平和を作り祝福されていたのです。ですから私たちは神様の御言葉を行うこと、神様の御言葉に留まっていることが、神様との平和を保つ方法になるのです。そうするとき平安と祝福が臨むのです。エリファズはヨブにあなたは神と和らぎ平和を得よと勧めていました。しかしヨブはこれを受け入れることができませんでした。なぜならエリファズが言っている言葉そのものは真理かもしれないけれど、エリファズの心には真理がなかったし、悪だけあったからです。
皆さん神様は御言葉であり真実そのものなので、偽りではなく真実があるところで働いてくださいます。人がいくら神様の御言葉を引用して相手を悟らせようとしても、本人が真理を行っていなければ聖霊は働いてくださらないし、だから相手はその言葉を受け入れないのです。第一ヨハネ1:6に「もし私たちが神と交わりがあると言っていながら、しかもやみ闇の中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであって、真理を行ってはいません。」とあります。真理を行っていない人が神様、主を愛していますと言っても、その言葉は偽りなのです。だからそういう人が真理の言葉を引用していても、聖霊は働いてくださらないのです。かえって偽りの父である敵である悪魔サタンが訴えるようになるのです。真理を語っている人が、行いでは真理を行っていないのです。このように言っている言葉とその行いが違いますね。だから敵である悪魔サタンは神様の前で、その偽りについて訴えるのです。私たちが自分も真理にとどまって行いながら教えてこそ、聖霊が働いて相手が感動するのです。
特にご両親の皆さん、気をつけてください。自分が子供の前でどのくらい手本になっているのか、顧みますように。子供がぐれている、子供が親の言っていることを聞かないからといって腹を立てるのではなくて、自分自身が御言葉通りに生きているのか、自分自身が手本となって行いながら、子供を教えたのか、自分を顧みられますように。それでまず自分が変えられて、そして子供にも正しいこと、真理を、愛を持って教えなければならないのですね。そして子供の姿を見て、かっとなって何か一言言いたくなった時も、まずは自分を顧みて、自分は今本当に子どもへの愛を持って、子どものために言おうとしているのか考えてみますように。そのように真理にとどまっていながら自分が手本になっていれば、子どももその親の姿を見ながらだんだん変えられるでしょう。ところがエリファズは自分は行っていないのに、自称正しいものになってヨブを忠告しているのです。
