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ヨブ記講解61 - 赦しの神様(下)

9月15日
読了時間: 14分

説教:イ・スジン牧師

本文:ヨブ記22:16~18


皆さん前回、肉の信仰と霊の信仰についてメッセージを伝えました。今日もその続きの内容を伝えています。霊の信仰のためには行いが必要であること、又、信仰が成長するためには試練という過程が必要だと説明しました。皆さんも自分自身を顧みて下さい。幸せな時、平安な時、答えを受けている時は、神様についてどう思いますか?神様、愛しています。父なる神様、感謝しますと言います。しかしことがうまくいかなくて、何もかもうまくいかなくて失敗したり苦しみにあったりすれば、すぐ喜びと感謝を失ってしまいますか?落ち込んでしまいますか?そういう時自分を顧みながら、神様の愛と憐れみを信じて、神様にもっとすがって祈って求めていかなければなりません。そうすると神様がそれを信仰とみなしてくださるのです。しかしそうではなくて、前は神様を愛していますと言っていたのに、試練にあったら神様は自分を愛してくださらないようだと思ったり、神様を遠く感じたりするならば、それはエリファズのような姿で悪人の歩いた道でしょう。​


それではエリファズが16節で、「彼らは時がまだ来ないうちに取り去られ、彼らの土台は流れに押し流された。」といった意味は何でしょうか?それは歴史を見てみると、悪人は時が来ないうちに取り去られ、彼らの土台が流れに押し流された。その悪人の道を歩く人も同じような結果を迎えるという意味です。聖書を読むと悪人が水に水葬されたり、地の中に落とされたことがあります。出エジプト14章を見ると、エジプトから出たイスラエルの民を追いかけていたパロの軍隊は、分けられた海に追いついて入ったのですが、その中で溺れて死にました。モーセが葦の海を分けて、民はその海の中の乾いた地を歩いて渡っていました。それでそれを見たバロの軍隊も海の中に追いついて入ったのですが、彼らはその中で死んでしまったのです。​


また民数記16章を読むとエジプトから出て行く途中、モーセのいとこ、コラが約250人を誘ってモーセに立ち向かうことがありました。コラと一緒にモーセに立ち向かったダタンとアビラムは、イスラエルがカナンの地に入れなかったことをモーセのせいにしました。それでモーセが神様の前にひれ伏したら、神様がご自分で問題を解決してくださいました。地面が割れて、コラとダタンとアビラムとその家族が、生きながら黄泉に下ってしまいました。そして同調した250人は、神様の火で焼き尽くされました。エリファズはこのような昔の出来事を考えてみたら、このように悪人の結果は、時がまだ来ないうちに取り去られ、彼らの土台は流れに押し流されたと表現するのです。ヨブも同じだと思っているのです。ヨブも悪人だから、子どもも財産も全部失って何の希望もない者になったと決めつけています。​


しかしエリファズのこの考えは真理にあっていません。悪人の結果は、ただ滅ぼされるのではありません。神様は悪人であっても、ただ断ち滅ぼす方ではありません。罪の重さによって、裁きの基準を違うように適用されるからです。例えばアブラムに創世紀15:16「そして、四代目の者たちが、ここに戻ってくる。それはエモリ人の咎が、その時にまでに満ちることはないからである。」と言われました。当時カナンの地に住んでいたエモリ人の咎が、まだ満ちていなかった時は、彼らを滅ぼしておられませんでした。しかし四代目の者たちがそこに戻ってくる時は、彼らの罪は裁かれるほどになっているはずなのです。だからその時に入るようにと言われました。このように神様は、悪人だからといって直ちにさばきをなさるのではなく、正確な公義に従ってなさるのです。​


だからといって神様が、彼らの悪が満ちるのを待っておられたのではありません。なんとしてでも、彼らが罪と悪から立ち返って救われるように望んでおられたから、前もって教えて機会を下さる愛の神様でした。四代目の時、彼らがその地に入るということをアブラムに教えてくださったのですが、その間エモリ人に立ち返る機会をくださったのです。これが神様の愛であり、忍耐深くおられる姿なのです。彼らはもう悪が満ちるはずだから、滅ぼすためにその時を待っていたのではありません。何としてでも彼らが立ち返って救われるのを望んでおられました。このような愛の神様、赦しの神様を誤解してはいけません。​


そして神様は同じような罪でも、人それぞれの心によって、公義を違うように適用されます。例えばお金を盗んだ2人の人がいるとしましょう。一人は、友達の手術の費用を用意するためにでした。しかしもう一人は自分の欲を満たすために盗みました。この時、人を助けるために罪を犯した人には、憐みの公義が適用されます。だからといって、良い意図ならば罪を犯しても良いという意味ではありません。人が罪を犯した時、神様はその行いだけを見るのではなく、心をごらんになって公義をもって裁かれるという意味です。そしてある人が悪い言葉を口にした時、人々はただその言葉だけを見てその人を評価して判断することがあります。しかし神様は、その人が本当に悪い意図から言ったことなのか、他の意図があったことなのかを知っておられます。口の言葉は悪くても、その心の中では立ち返ろうとする心があるかもしれないし、義憤を覚えていたかもしれません。だからうわべでは同じような罪を犯したとしても、その心によって、ある人は試練に遭い、ある人はそうではないのです。


続く本文を読むと読む22:17です。


彼らは神に向かって言った。「私たちから離れよ。全能者が私たちに何ができようか」と。(ヨブ記22:17)


もし人が神様に私たちから離れよ。全能者が私たちに何ができようかと言うなら、その人には信仰そのものがないということでしょう。神様に仕える人でもないし、恐れてもいません。これもエジプトから出たイスラエルの民の例えを通してわかります。神様はモーセを立てて、イスラエルの民に命と救いの道を教えてくださり、驚くべき神様の御業を見せてくださったのに、彼らは心で信じられませんでした。先に言ったように、神様が驚くべき力を見せてくださった時は、民は喜んで踊って感謝しました。しかし苦しみにあって自分の利益にならない時は、すぐ呟いて嘆いて呪ったり悪を行いました。それでエリファズはヨブに、あなたもそのような悪人の道を歩いていると言っているのです。ところが続くエリファズの言葉を聞いてみれば全然辻褄が合わないのです。


ヨブ記22:18です。


しかし、神は彼らの家を良い物で満たされた。だが、悪者のはかりごとは私と何の関係もない。(ヨブ記22:18)


エリファズは、以前彼らは取り去られる、流れに押し流される、滅ぼされると言っていました。そして、ヨブも悪人の道を歩いているから、このように苦しみにあっているのだと言っていました。しかし今、神は彼らの家を良い物で満たされた。つまり悪人の家を祝福されたというふうに言っています。以前言っていたことと矛盾しているのではありませんか?だから皆さんはエリファズがどんな意図でこう言っているのか理解してください。神は彼らの家を良い物で満たされたという言葉は真理にあっていません。神様は善を愛しておられ悪を憎まれる方です。悪を行う人に良いもので満たす方ではありません。またエリファズもこういう意味で言ったのではありません。


ここで私たちは、日常生活で私たちの言葉の習慣を、顧みるべき必要があります。話をするとき単語の使い方を間違えて、相手に誤解を持たせるようにする場合があります。心とは違って、適切ではない表現を使って、誤解を生むのです。しかし適切な表現を使ったのに、相手の気分によって、良い言葉も悪い意図として受け取る場合もあります。そして相手に知識が欠けていて、その意味が理解できない場合もあるし、同じ言葉でも地域によって違う意味として使われるから、コミュニケーションが難しい場合もあります。ですから私たちは、口にする一言も気をつけて、相手の立場を考慮して慎重に知恵をもってしなければなりません。


普段自分が使っている単語とか表現が難しいなら、もっと分かりやすく説明した方がいいでしょう。そういう人が実は実力がある人です。自分にいくら知識がたくさんあっても、聞いてる人が理解できなくて誤解してしまうなら、役に立たないでしょう。今エリファズも自分が言いたいことをうまく表現できていないのです。私たちは真理に基づいて、また聖霊によって何か言葉を口にすれば安全でしょう。悪い言葉を口にしないでしょう。聖霊に導かれて言えばいいのです。本文でエリファズは自分の意図とは違う表現を使っているから、彼の言葉を見て誤解することもあります。


それではエリファズが「神は悪人の家を良い物で満たされた。」という意味は何でしょうか?エリファズの意図はこうです。悪人が神様に立ち向かって呟いても、神様は時には許して答えてくださったと言っているのです。また、悪人が神様はどこにおられるのか、私たちのために何ができますかと問い詰めると、彼らの前にあれこれの御業と力を見せてくださったという意味です。エリファズは先祖たちから、イスラエルの民がエジプトから出た歴史を聞いて知っていました。神様は悪いパロ王も悔い改めて立ち返るように多くの機会をくださいました。パロが神様の命令に逆らったら、最初はエジプトの全域の川が血に変わって水が飲めなくなってしまって、エジプト人の家にカエルが入るようになりました。このような災いが臨んだら、パロ王はモーセにお願いして神様に祈ってほしいと言って、それで災いが止むとまた心は変わってしまうのです。


モーセが祈ったら神様が答えてくださって災いが止まりました。神の人はこのように祝福権もあり呪い権もあるのです。そしてそれをなさる方は神様です。その神様の命令を受けて行う神の人に、祝福権も呪い権もあるのです。神様の御業を引き下ろす神の人が祈る時、祝福も呪いも望むのです。しかしパロは災いが臨んだらしばらく立ち返るようだったのですが、災いが止まったらまた神様に立ち向かって、もっと大きい災いが臨みます。それでパロ王の長男も死んで、民と家畜のすべての初子が死ぬ災いが臨みました。このように神様はエジプトを一気に滅ぼしたのではありません。続けて神様の力を見せてくださって、10回も立ち返る機会をくださいました。しかしパロは最後まで悪を行い、滅ぼされてしまったのです。このように悪い人でもすぐ滅ぼすのではなく、機会をくださる神様をエリファズは、神は彼らの家を良い物で満たされたと表現したのです。


また神様は、エジプトから出たイスラエルの民が、神様を侮る時も答えをくださる時がありました。その理由は何でしょうか?神様の御業を見てでも、彼らの頑なな心が変わって、神様が生きておられることを信じるようにするためでした。このようなことを誤解してはいけません。私たちが神様の前でつぶやいて神様に立ち向かっても、神様はいつも憐れんでくださると思ってはいけません。エジプトから出たイスラルの民はまだ子供のような信仰でした。だから神様は大目に見てくださったことがありました。それで彼らが悟るように、神様を信じるように、多くの御業を見せてくださいました。しかし彼らが多くを体験して神様を信じるべきなのに、神様につぶやいて信仰を見せない時は、その時もただ赦し憐れんでくださったのではありません。このように神様の愛と公義について、正確に知っていなければなりません。


神様は愛の神様だから、ただ赦すと思ってはいけません。イスラエルの民が金の子牛を造った時、神様は彼らを滅ぼしてモーセによって大きい国を造ると言われました。しかしモーセが民の代わりに切に赦しを求めたら、神様は思い直して赦してくださいました。これは特別なケースです。民を見たのではなく、モーセの切なる祈りを聞いてくださったのです。モーセの愛があって祈りがあったから、民が許されたのです。神様の心を動かす祈りや行いがあれば、神様も思い直してくださることがあるのです。だからといって神様が心変わりしたのではありません。神様は何かをすると決めておかれても、ある時は公義によって許してくださる場合もあります。他の例で第一列王記21章です。アハブ王が偶像に仕え悪を行ったら、神様はエリヤを遣わせて災いを予言されました。アハブ王はそれを聞いて、自分の外套を裂き身に荒布をまとい、断食しながらへりくだって神様の前に憐れみを求めます。そうしたら神様は赦してくださり、彼の子の時代に災いを下すと言われました。


そうするとアハブ王の息子は父の過ちによって、不当に災いに遭うという意味でしょうか?それならば神様を公義の神様だと言えないでしょう。これも誤解してはいけません。神様は、アハブの息子が父のアハブよりもっと悪を行うことをすでに知っておられたから、それに応じる報いを言われたのです。そして今アハブが本当にへり下って悔い改めているから、憐れんでくださったのです。だからどうすれば赦されるのか憐れまれるのか、その公義による基準があるのです。皆さん神様が定めておかれたことならば、人がそれを変えることはできません。しかし許されないような悪を行って神様が懲らしめを下そうと定めても、アハブ王のように心から許しを求めてへりくだって悔い改めるなら、赦してくださることもあります。


それでは神様の心が移り変わったり、前に言われたことが偽りだったりするでしょうか?そうではありません。私たちもここで神様の大いなる愛を感じなければなりません。エゼキエル18:23です。「わたしは悪者の死を喜ぶだろうか。―神である主の御告げー彼がその態度を悔い改めて、生きることを喜ばないだろうか。」とあります。神様は慈しみ深い方です。神様は悪人だからといって皆滅ぼすのではありません。時には赦してくださり、忍耐して我慢して摂理のうちに導いていかれるのです。このように一日が千年のように、千年が一日のように忍耐深くおられるのは、一人も滅ぼすことなく皆が救われるのを望んでおられるからです。これが神様の心です。


それなのにこういう愛を誤解してエリファズのように、神は悪人の家を良い物で満たされたと表現してはいけないのです。悪人でも待って機会を与えてくださるのですが、それは悪人を祝福してくださるということではありません。先ほどにも言ったように、神様が悪人にも恵みをくださるのは、彼らが悔い改めて立ち返るような機会を下さるためです。しかしエジプトのパロのように何度も機会を下さっても、最後まで立ち返らなければ、滅びという実を自分で刈り取るしかありません。モーセが代わりに祈って民が許されたのですが、しかし結局彼らが最後まで心の割礼をしないで神様に不従順の罪を犯したら、荒野で死んだ人もたくさんいたでしょう。私たちも同じです。良い牧者を立ててくださり新しいエルサレムに導いてくださっているのですが、自分がそれに聞き従わないで心の割礼をしなければ、より優れた天国にはいけないのです。


これまでヨブがいろんな例えを挙げて友達を指摘したら、エリファズも例えを挙げてヨブを攻撃しています。しかし彼の表現は適切でなかったし、意味もあっていません。もしエリファズがヨブを友達として愛していたならば、神様は悪いものにも恵みをくださる方だ、正しいあなたには恵みをくださるのは当然ではないかと表現するでしょう。しかしエリファズはヨブを悪者と罪に定めています。だから歴史を見てみたら神様は悪者にも良いものをもくださる方だから、悪いあなたにも恵みをくださることがある。だから呟かないで神様に赦しを求めなさい。しかしあなたはあまりにも悪いから、こんなに苦しみを受けているのだというふうに言っているのです。ここで私たちはエリファズが言っていることよりは、神様がこれを通して私たちに悟ってほしいと望んでおられることを悟らなければなりません。傷んだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともない主の心、悪人でも立ち返る可能性があるなら滅ぼさないで生きる道、命の道を開こうとする神様の心を悟らなければなりません。私たちもそのような赦しと愛の心を所有して、神様に喜ばれなければならないでしょう。18節の後半節は次の時間に伝えることにしましょう。


今日は霊の信仰肉の信仰について説明しました。そして赦しの神様、愛の神様、憐れみの神様、機会を下さる神様について調べてみました。大切なのは神様が、私たちもそのような神様の心に似ていくように望んでおられるということです。全く聖なるものとされて新しいエルサレムに入る人は、神様のこのような美しい心に似ていなければなりません。私は人を憎んでいません。争っていませんと思いますか。それで聖められた心ならば三天層に入ります。しかしその上の段階があります。神様のように罪人でも悪人でもその人を憐れんで赦して、その人のために犠牲になって忍耐をもって待ってあげる愛が必要なのです。神様がこのヨブ記講解を通して、私たちに悟ってほしいと思っておられることもそうです。そして牧者を立ててくださり、私たちにこのような心を持つようにと教えてくださいました。だから私たちは、神様がただ許して愛してくださる方だと思うのではなくて、自分も人を赦さなければならないのです。聞いたメッセージを思い出して祈りましょう


父なる神様、私たちは神様の愛と恵みを受けています。しかし試練の時でこそ自分の心がどうなのか、信仰がどうなのか発見することができます。しかしそれも神様の愛で祝福です。こういう試練の時発見された自分の姿を変えていかなければならないのです。神様の善と愛の心に似ていくようにしてください。私たちに機会を下さり愛してくださる神様の愛を私たちも実践できるように してくださり、神様に頼って神様の愛を信じていくようにしてください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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