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ヨブ記講解61 - 赦しの神様(上)

9月15日
読了時間: 14分

説教:イ・スジン牧師

本文:ヨブ記22:15~16


前回はエリファズがヨブに言っている言葉を聞きながら、霊の信仰と肉の信仰について説明しました。ヨブの友達は神様を見つけた体験がないし、霊の信仰がなかったので、神様を遠くにおられる方だと思いました。しかし、霊の信仰のある人は、神様はいつもそばにおられる方だと信じているから、全てのことで神様に頼り、答えと祝福を受けるのです。​


聖書を読むと霊の信仰を褒められた人々が出てきます。代表的な例でマタイ8章に出てくる百人隊長があげられます。ある日、ローマの百人隊長の一人がイエス様にしもべの中風を治してくださいとお願いしました。イエス様は行って治してあげようと言われました。しかし彼は「主よ。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は私にはありません。ただ、おことばを下さい。そうすれば、私のしもべの病は治ります。」と信仰の告白をしました。イエス様が行って按手してくださらなくても、ここでいやされなさいとお言葉をくだされば、治るというのです。これはイエス様には時間空間を超える力があること、何でも知っておられ、何でもおできになる方だと信じるからです。イエス様は彼に、「私はイスラエルのうちの誰にもこのような信仰を見たことがありません。」とほめてくださいました。そしてあなたの信じた通りになるようにと言われたら、ちょうどその時そのしもべはいやされました。​


このように真実な信仰、霊の信仰を持っていれば、神様は喜ばれ答えと祝福をくださいます。悪はどんな悪でも避けて、真心と全き信仰を持つようになると、求めれば何でも答えを受けるし、神様はいつ何が必要なのかを知って、前もって備えてくださいます。今日のメッセージを聞いて、自分を発見するだけではなく、変化の実を結び、信仰が成長する皆さんになりますように。本文を読むとエリファズは、自分が聞いた昔の人々の出来事を例えにして、ヨブを悟らせようとしています。皆さんもメッセージを聞きながら、聖書に書いてある出来事を思い出してみてください


ヨブ記22:15-16です。


あなたは悪人が歩いたあの昔からの道を守っていこうとするのか。彼らは時がまだ来ないうちに取り去られ、彼らの土台は流れに押し流された。(ヨブ記22:15-16)


エリファズはヨブに、あなたは悪人が歩いたあの昔からの道を守っていこうとするのかと言っています。ここで悪人が歩いた道とは何でしょうか?自分の利益によって、神様に仕えていたのに移り変わってしまう人の行いです。悪人は、ああしたりこうしたりして移り変わる姿がありますね。神様の御業を目で見て聞いたのに、自分の利益に合わせて、自分の利益を求めていくのです。例えばエジブトから出たイスラルの民は、神様の驚くべき力の業を見た時は感謝していたのですが、自分の考えや利益に合わなければ、すぐ呟いて嘆いてモーセに立ち向かいました。彼らは別れた葦の海の中を歩いて渡り、追いかけて来たエジプトの軍隊から解放された時、どれほど喜びましたか。女性たちはタンバリンを手にして踊りました。民全体が賛美を捧げました。しかしこれはしばらくだったのです。その後民は少しだけ苦しみにあっても、呟いて嘆いてモーセを殺そうともしました。神の力の技を数え切れないほど見たのに、モーセが山に十戒を受けるために行った間、民は子牛の形で偶像を造って拝んで、神様の御怒りをかいました。エリファズはヨブの姿がこのような人々と同じだと例えて言っているのです。


なぜならヨブは、以前神様を恐れて神様に仕えている人だったのですが、今は神様を悪い方、公義を曲げる方だと言いながら、呟いているからです。だからヨブあなたは一時神様に仕えていたけれど、今は神様に対して呟いて不平を言っていて、悪人の道を歩いているのではないかと言っているのです。これはヨブの信仰が肉の信仰であることを物語っています。ヨブは神様について、知識としては聞いて知っていて仕えていたのですが、神様を見つけた体験がなかったので、試練がやってきたら、信仰の現住所が明らかにされました。教会の試練の時、私たちもそうだったのではありませんか?自分の信仰がどのくらいあったのか、霊の信仰だったのか、肉の信仰だったのかが発見されたのです。自分を顧みて発見することはいいのですが、他の人を見て、ああだこうだとさばいてはいけないでしょう。


しかしエリファズは今ヨブを見て、ヨブには肉の信仰があったと、このように責めて決めつけてさばいているのです。ヨブは悪人が歩いた道を同じように歩いていると責めているのです。しかしそれはヨブのうわべだけを見て裁いているだけです。ヨブの心の底は分からないのです。ヨブは自分は違うと言っていました。そして神様の御目にも、エリファズが裁いてはいるけれど、ヨブの信仰は肉の信仰だったのです。だからこういう試練にあって、自分自身の姿を発見するようになるのです。だから試練は必要なのです。皆さんも信仰生活をしてきた、自分の道を顧みてください。聖霊に満たされていた時は、信仰の岩の上に立って御霊の歩みに近づいているようだったのに、試練にあってみたら、そうでなかったのを悟ったのではありませんか。ああ私の信仰はこれしかなかったのかと思うようになったでしょう。


それは祝福です。自分を顧みて自分が低くなって、神様の前で感謝しながら、自分の欠けているところを満たしていきながら、信仰が成長するためにもっと努力するようになったから、希望を持つようになったから、感謝のことでしょう。しかしエリファズのように、人のことを責めたりさばいてはいけません。あの人は信仰の岩の上に立ったと言われたけれど、実際教会の試練の時見てみたら、教会を離れてしまったじゃないかと思って、裁いたり罪に定めてはいけないのです。他の人のことで気になって、あれこれ決めつけたり、そのため悩んだりするのではなくて、自分を顧みて神様の御心はどこにあるのか、どうすれば信仰が成長するようにできるのかと、思えばいいでしょう。そして、人は自分が目で見ているところだけではなくいろんな面があるし、その心は神様だけが知っておられます。ですから私たちは、むやみに人をさばいてはいけません。私たちはヨブのように、肉の信仰ではないのか、また悪人が歩いた道を歩んだのではないか、顧みますように。


皆さんは神様が生きておられることを信じていますか?心で仕えていますか?ほとんどは、「そうです。」と答えるでしょうが、過去の姿はどうでしょう?初めに伝道されて、御言葉を聞いて聖書を読んで、神の力の業、証を聞いたでしょうが、その時すぐそれが信じられて、神様を愛することができたでしょうか?そうではなかったでしょう。ただ聞いて頭では知っているけれど、自分が体験したことがないから、それほど心が熱くなかったでしょう。もちろん初心の者の中で聖霊に満たされて、神様を愛していると告白する人もいますが、時間が経ってみれば、その愛が冷めてしまう場合がよくあります。答えを受けて祝福されている時は神様が素晴らし方で喜んで感謝しますが、試練にあったら信仰生活が辛く思うようになって、きついと感じるようになります。ですから試練を通して神様を見つける体験が必要なのです。


今なぜ初心者の時を振り返ってみましょうと言っているのでしょうか?ヨブにはまだ神様を直接見つけた体験がないから、今このように欠けたところが見えているのです。私たちにもそういう過程があったのではありませんか?神の力が現れている教会に通っていて、いろんな証を聞いてみても、自分にそういう体験がない時は、試練の時移り変わってしまう姿もあるでしょう。ヨブのような姿もあるでしょう。そして初めの愛で熱くなって初心の者の時、聖霊に満たされているとしても、それが完全な姿ではない場合がよくあります。ただ心が熱くて熱心になるだけではなく、心の割礼をして信仰が成長しなければならないのです。そういう過程が必要なのです。イエス・キリストを救い主として受け入れて、天国と地獄を知って神様を信じているならば、初心の者は信仰を持つようになりますね。そして恵みを受けていきます。それで祈れば神様が答えてくださるからどれほど嬉しいでしょうか。それで自分には立派な信仰があるように錯覚する場合もあります。


その信仰はまだ完全な信仰ではありません。試練にあったり苦しみにあってみてこそ、そういう信仰が本物なのかがチェックできるのです。変わらない信仰を持つためには、心を割礼して心にある悪を捨てなければなりません。そして神様への愛が移り変わってはいけないのです。試練の時も苦しみにあっても、愛の神様良いものをくださる神様を、変わらずに信じて感謝して喜ぶ時、それが真の信仰と言えるのです。そのために試練という過程は必要なのです。試練にあって問題にぶつかった時、信仰が足りないなら、また神様を見つける体験がないなら、揺らいだりします。それでもその前聞いて見た神の力があり、御言葉がありますね。それを思い出して、何としてでも神様に頼って、そして前聞いたメッセージを思い出して、その通りに行おうと努力しながら、祈りながら行っていけば神様が問題を解決してくださるでしょう。


主のしもべに相談して、それでそれを聞き入れて、自分なりに聞き従おうとして行って祈ってみます。そしたら神様が問題を解決してくださるのです。これが体験ですね。だからただ聞いて知っている神様ではなくて、自分が直接見つけた神様を体験するのです。人は周りの人がいろんな証をしても、それを聞く時はそうなのだ、神様は全知全能な方なのだとして認めているつもりでも、いざとなるとそうでない場合があります。病気が癒された人の証を聞けば、私もそうできるだろうと思います。しかし実際自分が病気になったら、神様に頼るよりは、薬を飲むこと病院に行くことが先になってしまう場合もあります。


例えば風邪をひいた時、前だったらすぐ薬を飲むでしょうが、聞いたメッセージがあるし証を聞いたことがあるから、私も今回神様に祈って癒される体験をしたいと思って、自分なりにチャレンジをしてみました。それで神様に祈って信仰で薬を飲んでなかったら、次の日、朝見たらすっかり治っているのです。そういう時感動しますね。まあ本当に神様は生きておられるのですよねと。大きい病気、重い病気、癌が癒された証はたくさん聞いたのですが、このように小さい風邪が癒されたことを自分で体験した時感動して、神様は生きておられますねと悟るようになります。だからそういう試練患難苦しみに遭う過程が必要なのです。ただ平安に信仰生活をしているだけでは自分に体験がないから、神様への信仰も成長できないのです。


だからこういう試練を通してさらに神様を信じるようになり、体験を通して神様の愛も感じるようになります。それで自分で体験して、神様の愛と恵みを肌で感じるようになって悟るようになるから、霊の信仰が持てるのです。それで信仰が成長するのです。神様を見つける体験が大切なのです。そうやっていけば、次にはそのくらいの試練にあったら心が揺らいだりしませんね。前だったらちょっとすぐ落ち込んでしまったり、そうでなければ、ちょっと文句を言ったり心が変わってしまったりしたのですが、体験してみて、自分が信仰で勝利したことがあるなら、それはだんだんなくなるのです。それで試練を通して信仰が成長していくのです。そのように成長していけば、試練の前でもつまずくことがない、大きい信仰も所有できるようになります。これは1回2回試練の過程を体験したことでできるものではありません。段階があってその次の段階があり、このようにだんだん試練も大きくなって、それを乗り越えていけば信仰も成長するのです。


信仰生活に熱心で、ある程度信仰が成長した人も同じです。ことがうまくいって平安な時はいつも喜んでいなさい、絶えず祈りなさい、全てのことについて感謝しなさいという御言葉を、自分が守っていると思います。しかしある時から事がうまくいかないし、問題が起こったりすれば肉の思いを巡らしたりもします。その時喜びなさい、祈りなさい、感謝しなさいという言葉が自分の中になかったということを発見するようになります。私の信仰は霊の信仰ではなかったのだ。足りなかったのだと思います。それでなぜ自分が試練に合うようになったのかを悟るようになります。このような過程を通して、悪を捨てて御言葉通りに行うとき、霊の信仰は成長するし、神様を見つける体験を通して、神様への愛もだんだん深まるのです。


皆さん、信仰は平安な時与えられるものではありません。成長するものではありません。私たちの中にある悪を捨てる分、信仰も成長するのです。悪を捨てるためには試練が必要ですね。周りの人に憎まれたり誤解されたりすることがあるかもしれません。厳しい環境に置かれるかもしれません。その時自分が感謝しているのか、喜んでいるのか、祈っているのかがチェックできるのです。それで私には喜びがなかった、感謝できなかったというのを悟るようになります。それで感謝して喜ぶために、もっと努力するようになります。それで自分を発見します。私は事がうまくいくときは感謝していたのに、問題にあったらぶつかったら感謝できない人なのだ。私の信仰はこのくらいの段階なのだと、自分で分かるようになりますね。それで神様は喜びなさいと言われたのに、聞き従っていなかったのだと分かるようになります。うわべでは熱心に奉仕もしていて、いろいろ使命を果たしているけれど、心の中の割礼はしていなかったのです。それで試練にあったり、周りの人によっていろいろ誤解されたりして、自分の心が練られる時自分を発見するようになります。


その時落ち込んだり、また喜びがなくなったりするのではなくて、その時でこそもっと喜んで自分を発見したから、神様に感謝しながら自分の中にある悪を捨てていけばいいのです。その過程が信仰生活であり、それを通して信仰が成長するのです。ヨブもそうでした。平安な時は信仰も素晴らしく見えたし、行いでは潔白で正しかったし、神様も恐れていました。生贄もちゃんと捧げていました。しかし試練にあって苦しみにあったら、心の中に潜んでいた悪が表に現れるようになります。皆さん焚き木があっても火をつけなければ燃えませんね。同じように心にある悪は試練患難にあった時、それが表に現れるようになって発見することができるのです。それを捨てなければなりません。


皆さんにはこういうヨブのような試練がなくても、潔めの福音があるのではありませんか?神の力の技を目で見ているでしょう。だからこれほどの厳しい試練に合わなくても、変えられる環境に置かれているのです。命の御言葉を聞いて潔めの言葉を聞いているのですが、でもそれに聞き従わないでいるならば、何の役にも立たないでしょう。いつも喜んでいなさいという御言葉を聞いたとしても、試練にあっていろいろ自分の姿を見てみたら、全然喜びはないのです。悲しんで悩んで思い患っているのです。そういう自分、愚かな自分の姿を発見することが祝福です。だからそういう時でこそ、感謝しなければならないのです。それで自分を一つ一つ正確に見つめて悟ることができます。そういう人は速やかに変えられるでしょう。私にもこういう悪があるのだ、こういうところもあるんだ、こういう欠けているところ弱いところもあるんだと発見できます。


ところで、今日大礼拝の時も聞いたのですが、ある人はよくイライラして怒っているのですが、周りの人にそれについて言われました。でもその人は自分はやってないというのです。自分にイライラがあるということを認めないのです。そうしてはいけないでしょう。低くなって自分のそういう姿を認めて、変えられようと努力しなければなりません。そのために試練という過程が必要なのです。だから私たちは、試練の時は感謝しながら速やかに悪を捨てて、信仰がすくすく成長したらいいでしょう。ヨブは知識的な信仰だったのですが、それが霊の信仰になるようにと神様は練ってくださったのです。それで神様を見つけて体験して、神様に霊的に仕えるように導いてくださったのです。皆さん、霊の信仰には必ず行いが伴います。もし信仰があると言いながら、信仰がない人のように行っているなら、それは変えられる前のヨブの姿と同じでしょう。悪人の道を歩いているのです。


第一ヨハネ1:6-7です。「もし私たちが、神と交わりがあると言っていながら、しかもやみの中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであって、真理を行ってはいません。しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血は全ての罪から私たちをきよめます。」とあります。ですから、光である神様の御言葉通りに生きていなければ、神様を信じますと言っても、それは真実ではないし、肉の信仰に過ぎないのです。ですから私たちは平安な時は喜んでいたのに、試練にあったらすぐ移り変わる、行いのない悪人の道を歩むものではなくて、迫害を受けても信仰を守り、喜びと感謝を失わないで、変わらずに神様を愛する霊の信仰を持つ人の道を歩むべきでしょう。

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