ヨブ記講解60 - 肉の信仰と霊の信仰(下)
説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記22:10~14
続くエリファズはヨブ記22:10の中でこう言います。
それでわながあなたを取り巻き、恐れが、にわかにあなたを脅かす。(ヨブ記22:10)
罠が取り巻くとは、人々といろいろなことで関係がもつれているということです。エリファズはヨブが大きな悪を行ったから、人々と関係が悪くなったし恐れがあると言っているのです。今ヨブは実は大きな悪を行ったのでもないでしょう。また人々と関係がもつれていたのでもありません。それなのにエリファズは、このように表現しているのです。ヨブがこのように苦しみを受けている姿を見て、友達はヨブに何とかアドバイスをしてあげたのに、ヨブが受け入れないで言い争うようになったから、だんだん腹が立って、ヨブについてこのように悪く厳しく言っているのです。感情的になってしまうのです。だからこんなふうに言っているのです。
悪を行って悪いことをしたから、人との関係、人間関係でもつれてしまうのだというのです。私たちはまず自分を低くして、仕えて犠牲にして善を行っていけば、神様はその関係も回復してくださるでしょう。エリファズは、ヨブが悪を行う姿を自分で見たのでもないし、思い込みで憶測でこんなふうに言っています。ところで罠があなたを取り巻いたとか、恐れがにわかに脅かすとか、具体的に表現していますが、エリファズは自分がそういう経験があるからです。あることについて体験をしたことがある人は、その感じをリアルに話せるでしょう。つまりエリファズも、過去自分が悪を行って、罠に巻き込まれたり恐れを感じたことがあるから、ヨブもそうだろうと思って決めつけて、このように皮肉を言っているのです。またエリファズは今もそのような悪を持っているから、自分の憶測でヨブを罪に定めて攻め立てているのです。このように人を裁く人は、自分にも裁かれるような悪があるということを悟らなければなりません。
皆さん色眼鏡をかけて見るとどうなりますか?赤の眼鏡ならば、すべてが赤く見えますね。だから、自分の中にこういう悪があるから、相手もそうだろうと思うのです。よく嘘をついている人ならば、周りの人もみんな嘘をついているだろうと思うでしょう。でも、心が純粋で嘘をついたことがない人は、相手が嘘をついても嘘だと思わないのです。同じように、自分の中に悪があって人を裁く人だから、相手にも悪があって人を裁いているだろうと思うのです。エリファズがそうでした。こういう人は神様に対しても憶測でさばいたりするのです。決めつけてしまって恐ろしい神様だと思うのです。
ヤコブ1:13に「だれでも誘惑に会ったとき、神によって誘惑された、と言ってはいけません。神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれを誘惑なさることもありません。」とあります。神様は光そのものであり傷もしみもない聖なる方だから、敵である悪魔サタンが神様を訴えることも、試すこともできません。そして神様は、ご自分で人を誘惑される方ではありません。ヤコブ1:14-15に、「人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。」とあります。神様は人を誘惑したり試練に会わせるのではなくて、人が自分の欲に引かれて、おびき寄せられて闇にとどまっているから、敵である悪魔サタンに誘惑されて苦しみに会うのです。
こういうとある人は、「なぜ神様がアブラハムにはイサクを捧げなさいという試みを与えたのですか?」と聞くかもしれません。しかしこれは敵である悪魔サタンがもたらす試練とは全然違うケースです。敵である悪魔がもたらす試練は、人を苦しめて死に引いていこうとするのです。しかし神様が練ってくださる場合は、愛する子供に大きい祝福を与えるためにテストされることです。そしてその人がそのテストに通れなかったとしても、それによって苦しみを受けるのではなくて、神様が避ける道を開いてくださるのです。このような神様の心を知らない人は、神様を誤解して、人を裁いてしまうのです。今、エリファズがそのようにしているのです。
もし、心に悪がなく善だけあるなら、人のちりを見ようとしないでしょう。しかも裁いたり罪に定めることはできません。ヨブはエリファズが言ったように、悪くて神様に呪われたのではないのです。ところで実際に悪い人は、いろんな罠に取り巻かれたり恐れに脅かされるしかありません。善であれ悪であれ、それぞれの人が行った通りに蒔いた通りに刈り取るからです。この地上でもその実を刈り取るだけでなく、ヨハネ5:29に「善を行った者は、よみがえっていのちを受け、悪を行った者は、よみがえってさばきを受けるのです。」とあるように、後の世で永遠の命に入るか永遠の刑罰に入るのかが違うのです。
続く本文ヨブ記22:11です。
あるいは、やみがあって、あなたは見ることもできず、みなぎる水があなたをおおう。
(ヨブ記22:11)
ここで闇とは、心の中にある闇を言います。一寸先も見えない絶望的な状態、希望もないし、将来もない状態です。ヨブの友達は、今のヨブを見たら、希望もないし将来も期待できない状態だから、このように表現しました。そしてみなぎる水があなたを覆うと言っています。これは大水が氾濫して家屋と農作物を荒らすように、ヨブも子どもと財産、健康まで荒らされてしまい、これからも続く苦しみを受けるだろうと言っているのです。ヨブが大きい悪を行ったから、このように厳しい災いにあうのは当然だとエリファズは言っているのです。これが罪に定めることですね。皆さん、ある人が今、試練にあっているからといって、あの人は罪を犯したから、悪を行ったから試練にあっていると、むやみに罪に定めてはいけません。エリファズは自分の考えに合わないからといって、ヨブをこのように激しく追い立てているのです。私たちは自分の悪のため人を非難して裁いたり、相手につまずきを与えることは絶対あってはいけません。
続くヨブ記22:12です。
神は天の高きにおられるではないか。見よ、星の頂を。それは何と高いことか。
(ヨブ記22:12)
これはエリファズが、神様の偉大な姿を表現するのではありません。エリファズにとって、神様はただ伝えて聞いた知識による想像の中の存在の神でした。だから神様は天の高きに遠く星の向こうにおられると表現しているのです。エリファズは神様を見つけた体験もないし、心から仕える人でもなかったのがわかります。今日のメッセージのタイトルは「霊の信仰、肉の信仰」ですが、エリファズは肉の信仰だったことがわかります。皆さんはどんな信仰を持っているのか、顧みますように。神様に対してどんなふうに考えているのかです。エリファズは神様を心から信じるのではなくて、ただ知識として知っているだけでした。
私たちにもそういう姿があるかもしれません。教会には通っていてメッセージも聞いているのですが、それが心で信じられないのです。そしていろんな人の証を聞いているのですが、それが信じられないのです。家族に強いられて礼拝はしているけれど、頭では聞いて知っているけれど、心の中でそれを受け入れないし、信じられない人もいます。中高生の皆さん、若者の皆さん、もしかしてそういう信仰の状態ならば、神様を見つける体験はできないでしょう。
ところがヨブの場合はエリファズとは違います。神様を信じて仕えていたし、誠実に生贄も捧げる人でした。しかし神様を見つける体験はなかったので、神様が出会ってくださるために、試練という過程が必要だったのです。それを通して、肉の信仰が霊の信仰に変わるように神様はしてくださったのです。神様の愛でした。同じようにヨブもヨブの友達も、肉の信仰を持っていると言えるでしょう。でも、違うのです。ヨブの場合は、それでも神様を信じて仕えて、生贄も捧げていました。しかし、エリファズやヨブの友達は、神様について頭では知っていたけれど、信じてはいなかったし、仕えてもいなかったのです。神様を恐れてもいなかったのです。でもヨブは神様を信じていたし、恐れていました。先祖から聞いた神様を恐れていて、そして生贄を捧げていました。厳密に言えば肉の信仰ですが、霊の信仰に近い信仰だったのです。
私たちが言う信仰の量りで言うなら、信仰の三段階の岩の上は過ぎた状態だったでしょう。だから、ヨブとヨブの友達とでは、信仰の量りは全然違うのですね。何を見ればわかりますか?ヨブの行いを見ればわかります。神様を恐れて潔白に行っていたし、正しい行いをしていました。このようなヨブと友達と比べてみれば、友達にはこういう行いはなかったのです。だから違うのですね。信仰の4段階には入れなかったとしても、神様を信じて御言葉通りに行おうとしていたのです。皆さんにもこのような信仰の量りにいる方がいるでしょう。ヨブのその姿をこのように信仰の量りでも説明できるでしょう。まだ御霊の歩みには入っていなくても、肉の信仰ではありますが、でも霊の信仰に近いのですね。神様は、肉的な生贄はお受けになりません。ヨブが試練に会っている時、彼の心彼の口から出てくる話を聞いてみれば、ヨブの生贄は、肉的な生贄だったのがわかります。もどかしいことですね。
ヨブ記3:25-26に「私の最も恐れたものが、私を襲い、私のおびえたものが、私の身にふりかかったからだ。私には安らぎもなく、休みもなく、いこいもなく、心はかき乱されている。」とあります。これはヨブが神様に生贄を捧げなければ、もしかして呪われるのではないかという恐れを持って、仕えていたことがわかります。ヨブが神様を正しく知って霊的に仕えていたなら、こういうふうにも言わなかったでしょう。これは今日も同じです。もし神様を信じると言っていながら、試練がやってきた時、恐れたり喜びと感謝を失ってしまうなら、それは肉の信仰を持っているか、子供のような信仰に過ぎないということです。しかし神様を正しく知っていて霊的に仕えている人は、恐れないで愛す心で、御言葉に従うようになります。また、試練患難にあっても、神様の愛を心から信じているから、恐れたり、喜びとか平安を失うことはないのです。
第1ヨハネ4:18に、「愛には恐れがありません。全き愛は恐れを占め出します。」とあります。第1ヨハネ3:21-22には、「愛する者たち、もし自分の心に責められなければ、大胆に神の御前に出ることができ、また求めるものは何でも神からいただくことができます。なぜなら、私たちが神の命令を守り、神に喜ばれることを行っているからです。」とあります。このような人々は、当然神様がお受けになる霊的な生贄、つまり日々の中でいつも神様を認めて、その御心通りに生きる生き方をするから、神様は祝福して応えてくださいます。神様はヨブともこういう愛の関係になってほしいと思ったから練ってくださったのです。それで彼が神様を見つけるようにしてくださったのです。それを通してヨブが霊の信仰を持つようにされたのです。
これを皆さんにもよく適用してください。教会の試練の過程が必要だったということを、心から告白して感謝しますように。私たちは牧者とともに信仰生活をして、驚くべき神の力の技を見ました。それで、神様が生きておられることは、当然信じていました。疑うことができない、多くの証拠があるからです。疑おうとしてもできないのです。人にはできない神の力が目の前で現れるから。だから、神様が生きておられることは疑いません。だから自分に信仰があると思っていますか?そうです。それも信仰です。でもそれは基礎的な信仰に過ぎないのです。それが霊の信仰ではないのです。見て信じる信仰だから。霊の信仰は神様を愛して御言葉に従う行いがあってこそ、霊の信仰に成長するのです。
このような行いがないまま、1年、2年、5年、10年、信仰生活をしているならどうでしょう。10年間、神の力ある業は現れていて、それを見ているから自分は信じていると思うけれど、実際、試練や患難にあうと、神様への信仰、信頼が揺らいでしまうのです。落ち込んでしまったり、不満を抱いたり、失望したり、心が変わったりするのです。それは、霊の信仰ではなく肉の信仰だったということを、証明しているのです。だから教会の試練の時も、そのような試練を通して自分の信仰がどうなのかをチェックすることができたと思います。ヨブの完全でない姿があって、神様はヨブが体験する霊の信仰を持ってほしいと思われたから、練ってくださったでしょう。私たちにも同じです。私たちが変わらない霊の信仰を持つようにしてくださるために、こういう試練の過程も必要なのです。
しかし私たちは自分がよくやっていると錯覚していました。霊の信仰を持っていると思っていました。なぜなら全体的な雰囲気はそうだったでしょう。牧者の空間の中で守られていたし、少し努力すれば神様が恵みを注いでくださって、聖霊に満たされて恵みに満たされて、世のものに目を向けないで天国に向かって、夢中になって走っていたからです。そして御言葉を聞きながら、祈りながら、自分の中の悪を発見して捨てようとするその過程がとても楽しかったのです。でもその信仰が本当に自分の信仰だったのかというと、そうではなかったのです。牧者の空間の中で、牧者が積んでくださった公義の上、それに支えられていたのです。
ヨブのケースとは違いますね。ヨブは本当に厳しい試練にあって、本当にどん底で神様を見つけたのですが、私たちは本当に大きい恵みを受けたのです。牧者はそれを代わりにしてくださったからです。私たちは、自分が本当に数えきれない日々に祈って断食しながら神様に切にすがって、それでいただいた信仰ではなかったのです。牧者はそれを代わりにしてくださって、私たちはその恩恵を受けていたのですね。ヨブのように厳しい試練が必要だったのですが、牧者はそれを代わりにしてくださったのです。だから私たちは、頭では自分が信じている霊の信仰があると思っていたのです。今の時代のクリスチャンを見てみるとどうでしょう。頭では神様を信じていると思います。教会にも通っています。でも霊の信仰がない場合はよくあります。私たちはどうでしょう。神様の前で、神様とどのくらい親しい関係だったのか考えてみますように。
元老牧師先生が公義を満たしてくださって、また数え切れない大きい神の力が目の前で現れているから、信じてはいたのです。でもそれは自分のものにはなっていなかったのではありませんか?あまりにも大きい恵みを、祝福を、自分はあまり苦労しなくてもいただけたから。それに本当に切に感謝していたのかとすれば、そうではなかったかもしれません。最近の子どもたちは、貧しさを経験したことがありませんね。貧しい人はいるかもしれませんが、でも昔のように本当に食べるものは全然ない、そういうことは経験したことがないと思います。私たちの時代でもおやつとかもなかったのですね。でも最近の子どもたちは、いくらでも食べられるのではありませんか。だからそういう子どもたちに、子どもたちが前の貧しかった時の話をすれば、聞いて頭ではそうだったのだと思うかもしれませんが、でも理解できないし、本当にそれをそのまま感じることもできないのです。親がご飯、食事を大事にしなさいとか、残してはいけないよと言いながら、いくら言っても子供には自分が体験したことがないからわからないのです。
今日大礼拝の時も、エデンの園に住んでいたアダムのことを聞いたでしょう。そのような死を、悲しみとか苦しみを経験したことがないから、幸せも知らなかったし、神様の愛も知らなかったし、わからなかったのですね。私たちも牧者とともにいたときは、牧者の空間の中で本当に守られていたのです。それで自分がある程度変えられたと、錯覚していたかもしれません。しかし教会の試練の時、実際自分の信仰の現住所を発見したと思います。神様は生きておられます。私たちの目に見えなくても、神様はどこにもおられる方です。そして神様は愛です。自分には感じられないかもしれませんが、神様の愛はどういうものなのかを、このヨブ記講解を聞きながらも悟りますように。自分が霊の信仰ではなくて、肉の信仰を持っていたのだと、このように自分を認めて、自分を発見していけば変えられるでしょう。
エリファズとヨブの信仰の違い、そしてヨブの場合は、行為的に見るところでは、神様を恐れていて潔白で正しかったのですが、それは本物ではなかった、し完全になるためには、そういう試練の過程が必要だったということも理解してください。しかしヨブの友達は神様に仕えていたのでもないし、神様を見つけたこともないから、神様を遠く感じていました。それで本文でエリファズが言っているように、神様は天の高いところにおられる方、星の頂におられる方だと遠く感じていました。漠然と想像の中で存在する方のように感じていました。それで神は天の高きにおられるとか言っていたのです。その後エリファズはこう言いました。ヨブ記22:13-14です。
あなたは言う。「神に何が分かろうか。黒雲を通してさばくことができようか。濃い雲が神をおおっているので、神は見ることができない。神は天の回りを歩き回るだけだ」と。(ヨブ記22:13-14)
ヨブが、神様は自分の苦しみを分からないと言っていたから、エリファズがそうでないと言っているのです。神様は星も創造された方だから、星よりも高い方ではないか。だから、上から下を全部見下ろしておられるのではないか。それなのにあなたは愚かなことに、神に何がわかろうか、見ることはできないとか言っているのか。神様についてあなたは誤解しているのだ。正しくないことを言っているのだと言っているのです。もしヨブが言ったように、神様がヨブのことをわからないとか、また裁きが正しくないならば、不能な神様になるでしょう。しかし神様はそうではありません。宇宙万物を創造して治める方であり、時空間を越えて何でも知っておられ、何でもできる方です。
だからといってエリファズが考えているように、神様は実際に星よりも高いところに行って、高い山の頂から下を見下ろすように万物を見ておれるのではありません。ヨブとヨブの友達は神様について霊的に知らなかったし、自分たちの思いの限界の中で、このように正しくない表現をしていました。今日も神様をよく知らない人々は、患難にあった時や天災事変が起きた時、神様はひどいとか、神様は薄情だとか言います。これは神様には愛がないという表現であり、神様は私たちの苦しみをわからないというふうに言っているのです。信仰がない初心の者や神様を知らない世の人々が言うことでしょう。信仰のある神の子供たちは、このように否定的なことを言ったり、神様を悲しませるようなことは決して言ってはいけません。祈りに答えがないからといって、神様がおられないのではありません。神様は薄情な方でもないし、私たちのことを分からないのでもありません。
自分に罪の壁があるかもしれないし、また答えの時ではないかもしれないし、より良いものを下さるためでもあるでしょう。神様の思いは私たちの思いと異なります。私たちよりも高いです。神様は霊でありどこにもおられる方です。心に抱くなら、時間と空間を超えてどんなところにも行くことができます。ですから神様は広い宇宙の隅々までも全部治めることができる方です。エレミヤ23:24に「人が隠れたところに身を隠したら、わたしは彼を見ることができないのか。―主の御告げー天にも地にも、わたしは満ちているではないか。―主の御告げー」とあります。神様の御目はどこででも悪人と善人を探っておられます。神様は天にも地にも満ちておられるので、造られたもので、神の前で隠れを仰せるものは何一つなく、神の目にはすべてが裸であり、さらけ出されています。
しかし、肉の信仰、知識的な信仰を持っている人は、エリファズのように、濃い雲が神を覆っているので、神は見ることができないと思っています。それで思いのまま罪を犯してもいいと思うのです。しかし神様は創造主であり、私たちが雲に覆われているからといって、私たちを見ることができないのではありません。私たちの一挙手一投足も心も思いも全部知っておられます。髪の毛一本も数えておられるし、子どもたちを炎の目で守ってくださる方です。そして全知全能である方で、神様の御心にかなう人には答えをくださいます。ですから霊の信仰を所有して、全知全能である神様を完全に信じて御心通りに行って、求めるものは何でも答えを受ける、幸いな信仰生活をしますように。聞いたメッセージを思い出して祈りましょう。
父なる神様、感謝いたします。今日、エリファズは自分の憶測で、ヨブを決めつけて、裁いて、非難しています。前はヨブを褒めていたのですが、このように言い争って、感情的になって、今はヨブに対して、妬みがあったのを表して、ヨブを非難して、罪に定めている姿を見ました。このような肉の人の姿が自分の姿ではないか、顧みられるようにしてください。そしてエリファズは、神様は天の高きにおられる、遠くおられる方だと言って、神様を遠く感じていました。私たちはそうではないのか顧みられるようにしてください。肉の信仰、知識的な信仰を持っていては、神様を信じていると言っていても、試練や患難にあったら喜びもなくなって感謝もなくなってしまいます。そのような移り変わる信仰ではなく、変わらない霊の信仰を持つようにしてください。感謝してイエス・キリストの御名によってお祈りいたしますアーメン
