ヨブ記講解60 - 肉の信仰と霊の信仰(上)
説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記22:6~9
愛する皆さん、元老牧師先生は1989年このメッセージを伝えるとき、こう言われました。ヨブ記は神様が人の心を続けて解剖してくださる御言葉なので、祈りの量が少なくてはメッセージを伝えることはできないと。ヨブ記は元老牧師先生が多くの祈りを積んで聖霊に満たされて動かされて解き明かされたので、皆さんはこのメッセージを聞きながら、まるで個人相談を受けているようだと表現する方がいます。メッセージを聞いて自分を発見する恵みが臨むからです。人は自分の心にどんな悪があるのかよくわからない場合があります。特に高ぶりのように、本性の中の深いところに根をおろしている隠されている罪の性質は、自分では発見できない時があります。しかし、人々の心を探り、思いを調べる神様は、人の心に潜んでいる罪の性質でも全部知っておられます。それで御言葉を通して深い悪まで発見するようにして、完全に聖められるように導いてくださるのです。
人の力では発見することも捨てることも難しい罪の性質も、鋭い両刃の剣のような御言葉で、聖霊の力によって刺し通してくだされば、罪を捨てることができます。今日もメッセージを聞いて自分を発見して悟る恵みが臨み、変えられて命を得る皆さんになりますように。私たちの心の深くに潜んでいる罪悪が、ヨブのように厳しく練られて発見される場合もあります。そのような厳しい試練の過程が必要な時もあります。それがなければ悟ることができないこともありますが、ヨブ記講解というメッセージを聞きながら、このようなメッセージを聞いて、ヨブとヨブの友達の例を聞きながら、例えを聞きながら、自分を発見することができるのです。
そしてこのメッセージを聞きながら、自分の日常生活に適用することもできますね。家族の中での人間関係、会社の中での人間関係、教会の聖徒の間での人間関係を、このメッセージを聞きながら代入してみれば、自分の深いところに潜んでいる悪を発見することができると思います。そして自分では気づけなかったところも、メッセージを聞きながら詳しく解剖しているから、悟ることができるでしょう。ですから、メッセージを聞いて、自分のことだと思って、心開いて聞けば、聖霊が悟らせてくださいます。問題は、同じようにメッセージを聞いていても、御言葉を受け入れる姿勢が違うのです。ある人がメッセージを聞いて、だから昨日私はあの人と言い争っていたのだ。本当に悪で罪なのだと悟ります。しかし、同じように言い争っていた人なのに、メッセージを聞きながら、自分のことだと思わないで、他の人のことだと思い、その人が悟らなければと思うのです。
それなら、自分のことは悟れないから損ではありませんか。私たちはこれまで多くのメッセージを聞きました。命の御言葉を聞きました。悪を発見して変えられる機会はいくらでもありました。しかし自分を低くしないで、御言葉に従わなかったからまだ変えられていないのではありませんか?ですからこれからはメッセージを聞いて、自分のことだと受け止めて、そのために変えられるために、御言葉を握って祈りながら、さらに変えられていきますように。すると、聖霊が思い起こさせてくださいます。これが神様の恵みです。この時間も御霊によって悟りながらメッセージを聞きますように。
前回5節でエリファズは、ヨブに、あなたの悪は大きい、不義が果てしないと、罪に定めていました。今日6節からは、なぜそうなのかを、いろんな例を挙げて説明しています。ヨブがなぜ悪いのか、ヨブの悪が果てしないと、自分が言ったことの根拠を、その理由を説明していくのです。
ヨブ記22:6です。
あなたは理由もないのに、あなたの兄弟から質を取り、裸の者から着物をはぎ取り、(ヨブ記22:6)
質を取るとは、質として財物を受け取ること、質物として財物を扱うことです。理由もないのに、ヨブが兄弟から質を取っていたというのです。他の人の財産を不当に担保に入れさせたり、保証人として立たせたと言っているのです。そして裸の者から着物を剥ぎ取るとは、貧しい人のすべてのものを奪うことを言います。貧しい人に少し残っているものまで全部奪ってしまい、辱めることです。エリファズはヨブがこのように悪い人だと言っているのです。相手を思い込みで決めつけていけば誤解が積まれて、さらにひどく罵倒するようになるのです。
ところでエリファズが初めからヨブをこのように激しく非難したのではありません。ヨブ記4:3-4でエリファズはこう言っています。「見よ。あなたは多くの人を訓戒し、弱った手を力づけた。あなたのことばはつまずく者を起こし、くずおれるひざをしっかり立たせた。」とヨブを褒めています。エリファズがヨブにこのように褒めていました。そしてヨブを慰めに来て、ヨブの惨めな姿を見ながらとても心を痛めていました。そして、ヨブが前、どんなに良い人だったのかを言っているのです。それなのに、言い争っていたら、だんだん感情的になって、今はどう言っていますか?ヨブ、あなたは悪い人だ、人を苦しめて害を与える人だと非難しています。前とは言っていることが違いますね。
続くヨブ記22:7です。
疲れている者に水も飲ませず、飢えている者に食物を拒んだからだ。(ヨブ記22:7)
ヨブがそうしたと言っているのです。もし熱い砂漠で水を飲むことができないなら、食べるものがなくて何日も飢えているなら、どれほど苦しいでしょうか?ところでエリファズはヨブがそのように渇いているものに水を与えなかったし、飢えているものに食べ物を与えなかったと言っているのです。飢えている人に食べ物をあげなければ、その命の光が消えるように放置するものだから、どれほど残忍なことでしょうか?エリファズは、ヨブがそのように悪い人だと言っています。あなたは極めて残忍な人だ。人としての価値もないと、このように厳しく言っているのです。
続くヨブ記22:8-9です。
土地を持っている有力者のように、そこに住む有名人のように、あなたはやもめを素手で去らせ、みなしごの腕を折った。(ヨブ記22:8-9)
もし周りの人で誰かが突然金持ちになって、贅沢に暮らしているのを見ると、あの人はどうしてあんなに湯水のように金を浪費しているのか?あのお金を正々堂々と稼いだものなのかとか思う人がいます。同じようにエリファズは、過去にヨブがとても富豪な者だったのですが、エリファズはそれを悪く言っているのです。やもめを素手で捨てて去らせ、みなしごの腕を折ったと言います。やもめやみなしごのように気の毒な人に施しをしなかったし、迫害していたというのです。エリファズは、ヨブにあなたは権力もあったし、土地もあって尊敬されていたのに、どうしてあんなに薄情に残忍なことをしたのかと非難しているのです。皆さん、私たちはヨブがこのような悪い人でもないし、徳を高めていた人だとわかっています。多くの人を助けました。善を行っていました。それなのに、何故エリファズは、このようにヨブを悪く言っているのでしょうか?それは、前からヨブを妬んでいたその心が今、口を通して出てきたのです。
世の人々はお金のある人がもっとケチだとかひどいとか言いながら、権力者とか金持ちの人格をけなすことを言う人もいます。しかし私たちは、他の人が権力を持っていることやお金を持っていることについて、ああだこうだと言う必要がありません。彼らの心は神様だけがご存知だからです。周りの誰かがうまくいくとき、それをねたんだりして、その人の陰口を言ったりすることは悪いことでしょう。しかしそう言っている人は、自分の心に妬みがあるとはわからないのです。その人がうまくいくのを見て、いやあの人にはこういうところもあるのにとか、なぜあんなふうにお金を使うのかとか思っているのですが、その裏には実はその人への妬みとかがあるのです。羨ましいからそんなふうに表現する場合もあるのです。そして親に恵まれたから、いい環境に恵まれたから、自分には何の能力もないのに、そんなふうに贅沢しているとか、あれこれ言う人もいますね。その根本には妬みがあるのです。皆さんにはこういう姿はなかったのか、顧みますように。
そして世の人が話をしているとか、ニュースを見たりするときは、真理を基準にして自分を照らしてみて正確に見分けなければなりません。ですから人のことを非難したり悪く言う、そのようなニュースとか記事を読みながら、皆さんも一緒になって非難したり悪く言うのではなくて、自分を顧みて神様の前で自分は正しく行っているのか集中して、悪を捨てようとしなければなりません。このように妬みとかが原因で、人がうまくいくとき、その人についてあれこれ悪く言うことがあってはいけません。ある人について非難するときとか陰口を言うとき、実際その人が悪いことをしたとしても、自分が言っていることが事実だとしても、神様はどう言われましたか?人を裁いて罪に定めてはいけないと言われました。だから神様の御言葉に聞き従わなければなりません。神様の他には、人は誰でも自分が正しいと言える資格はありません。罪を犯したアダムの子孫はみんな原罪を持って生まれました。それに罪の支配者である敵である悪魔・サタンに属して罪を犯しています。
自分なりに善良に生きていると思っている人もいますが、真理に照らしてみれば皆が罪人です。
親から受け継いだ原罪があるし、生きていながら自分で犯した罪があります。ローマ3:10に、「それは、次のように書いてある通りです。『義人はいないひとりもいない。』」このように神様の御言葉に照らしてみると、罪のない人は誰もいません。また生まれてから今まで、ただ真理であるイエス・キリストにだけ教えを受けた人は、誰もいません。ですから誰もイエス・キリストの尊い血の恵みがなければ義と認められないし、人を裁く資格はないのです。エリファズにとんでもない非難を受けたヨブは、とても悔しかったでしょう。ヨブはエリファズが言ったように、悪いことをしたこともないし思ったこともありません。反対に貧しい人に施しをしたし、弱っている人を助け、力づけました。このようにとんでもないことを言われているから、ヨブはどんなに苦しかったでしょうか。
ここで私たちは、エリファズの真理、つまり悪い心と思い、それによる行いについて深く考えてみましょう。自分にはそういう姿がないのか顧みますように。以前エリファズがヨブを褒めていたことをもう一度見てみましょうか。ヨブ記4:3-4です。「見よ。あなたは多くの人を訓戒し、弱った手を力づけた。あなたのことばはつまずくものを起こし、くずおれるひざをしっかり立たせた。」とあります。エリファズがヨブのことをこのように評価しているのです。ヨブはこのように良いことを行っていたと褒めていました。これを聞いてみれば、以前ヨブは多くの人々に関わっていたことがわかります。このようにいろんな人に会っていると、同じことを見てもそれぞれ考えが全然違う人々がいますね。ヨブに会った人々も正しい考え方を持っていた人もいますが、そうではない人もいたと思います。
ヨブの善の行いを見ても、人はそれぞれ違うことを考えるのです。それを良いと思う人もいますが、そうではなくて、それを悪く思ったり、疑問を抱いたりして、自分の思い込みで誤解したりすることもあります。人はそれぞれ自分の考えがあって、自分が正しいと思っているから、人がしていることを見ながらあれこれ考えるのですね。それでヨブは多くの人に関わっていて、多くの人に会っていました。ヨブに助けを求めてくる人もいたし、知識を求めてくる人もいたし、ヨブに徳があったから、また多くの人が集まってきて近くにいたでしょう。それでヨブに対する評価もそれぞれ違ったと思います。
ほとんどはヨブを良い人だと思っていたでしょう。そうでない場合もありました。だからヨブに関する噂には良い噂もあったのですが、悪い噂もありました。人間の社会ではいつもこうなのです。皆さんは、正しいことをしたのに誤解されたり、とんでもない噂が立ったりすることもあるかもしれません。それは人の社会ではよくあることです。ヨブもそうだったのです。ですから皆さんはこの世で生きていきながら、こういうことも全部理解して、広い心で受け入れれば良いと思います。
そうではなくて、ちょっと何か言われたらすぐ腹を立てたり、そうでなければ落ち込んでしまったりすることがあってはよくないでしょう。大きい木があって枝がたくさんあると、その枝が風に当たったら音がするでしょう。それは当たり前のことです。だから多くの人が集まっているところでは、いろいろなことが起こるのです。みんなが同じではないのです。自分なりには善を行っているつもりで、その人のためにしたことなのに、誤解されたり悪く言われたりすることがあるかもしれません。だからといって落ち込んでしまったり、悔しく思ったり、その人に対して非難したりする必要はないのです。人はみんな人に悪く言われることは嫌でしょう。しかし大きい器、広い心を持っていると、それも全部受け入れるのです。もしかして悪く言われたとしても、非難されたとしても、指摘されたとしてもそれを受け入れて、自分を顧みながら、もし自分に非難されるようなところがないのに誤解されたなら、その人を悪く思うのではなくて、黙々と神様の前に祈りながら行くのです。
ヨブの行いもそうでした。ヨブに対する噂が良い噂もあったのですが、そうではない場合もありました。ヨブが何かをしたのですが、それは良いことだったのに、人に伝えられて聞いた人は、自分の思い込みの中で、悪く思ったりすることもあるのかもしれません。貧しい人に施したと聞いたならば、よくやったと思う人もいますが、そうではなくて、人に見せるためや、自分のお金があることを誇示するためにそんなことをするのだと、このようにひねくれた心で、悪く見る人もいるのではありませんか。そして自分にお金が余っていることを自慢するのかとか思う人もいるし、でも人に施しをすること、そのことはいいことではありませんか。そんなふうに悪く見たり悪く思う人がいるのですが、世の人の中にはよくあることです。ヨブの周りにもそういう人がいたでしょう。
エリファズは以前ヨブに関する良い噂を聞いて、また自分が見ていたヨブの良いところを覚えていたから、それでヨブを慰めようとしました。悔い改めればまた回復できるからとか、自分なりに慰めようとしました。しかしヨブはそれを聞き入れないで、ヨブと言い争っていたら感情的になってしまい、以前聞いていたヨブに関する良くない噂を思い出して、ヨブを罪に定めているのです。このように前はヨブを褒めていたのに、後には反対にさばいて非難する理由を、私たちは知らなければなりません。自分はそうではないのか顧みてください。日常生活でこういう姿はありませんか?人との間で、その人との関係が良いか良くないかによって、その人に対する評価は違うのではありませんか?自分にとって利益になる場合は喜ぶ。でも利益にならなければ嫌がることが肉の人です。
自分を褒めてくれて自分に良くしてくれる人に対しては、自分もその人を褒めたり味方をするのですね。でもその人との間でひびが入ったり、何かその人が自分に思ったよりしてくれないとか、不満があったりすると、その人を非難したりするのです。前は褒めていたのに、このように変わってしまうのです。このように人は自分の利益を求めるものなのです。そして周りの人に聞いていたその人についての良くない噂を思い出して、それをまた人に伝えたりするのです。前は、その人との関係が良かった時は、その人についての良くない話を聞いても、いやそんな人ではない、その人は良い人だとかばってあげました。褒めてあげました。しかしその人との関係が悪くなってしまうと、前聞いていた悪い話を思い出して、そんな人だったのかと失望したと言いながら、他の人に陰口を言ったりするのです。このように移り変わる人は肉の人です。自分の利益によって変わってしまうのです。
マルコ11:9-10を読むと、イエス様がエルサレムに入場されるとき、ユダヤ人たちはホサナと叫びながら歓迎しました。これまでイエス様が行われる驚くべき業を見て、イスラエルの救い主だと思ったからです。しかし数日経った後、彼らはイエス様を十字架につけろと叫ぶ人に変わってしまいました。このような移り変わることは神様が嫌われる肉の心です。そして移り変わるその理由は、心が悪賢いからです。自分の利益・物欲・権力・名誉欲があるからです。小さくは約束の時間を破ることもあるし、大きくは恵みを裏切ることまであるのです。ですから皆さんはこのような移り変わることや悪賢さを完全に捨てて、どんな状況に置かれても変わらない霊の心を所有しますように。
エリファズは最初ヨブを褒めていたのですが、今は反対にヨブを責めているのです。なぜそうなのか理由を説明しました。ああ、エリファズは肉の人でその心が悪かったのだと思って、終わってはいけません。皆さんは自分に適用してみなければなりません。自分は会社で同僚との間でどうだったのか、上司との間でどうだったのか、学校で友達との間でどうだったのか、顧みなければなりません。会社で同僚と仲が良かった時は、互いに助け合って、また周りの人が良くない話をしてもかばってあげたりしたのですが、その人が自分に何か害を与えたならば、変わってしまうのではありませんか?そのように態度が変わる姿は自分にはなかったのか顧みて、もしあるなら悔い改めて捨てましょう。
このような悪をそのまま持っていては、より優れた天国にはいけないのです。自分と気が合う人は、褒めたり愛し合って仲が良かったのに、でも仲違いしてしまうと、互いに非難して悪口を言う場合があります。でもそれは世の人の姿でしょう。信仰のある皆さんにこういう姿があってはいけないのではありませんか。新しいエルサレムに行くためにはそういう姿があってはいけないでしょう。だから毎週このようにヨブとヨブの友達の関係で、心にある悪について詳しく説明しているのです。毎回同じことを言われていると思ってはいけません。毎回メッセージを聞くたびに自分の気づいていなかったところとか、忘れていたところを思い出して、自分を発見して変えられていかなければなりません。(つづく)
