ヨブ記講解59 - 神の御名をみだりに唱えてはいけない。(下)
説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記22:3~5
続くヨブ記22:3でもエリファズは神の御名をみだりに唱える姿があります。
あなたが正しくても、それは全能者に何の喜びであろうか。あなたの道が潔白であっても、それが何の益になろう。(ヨブ記22:3)
ヨブ、あなたが正しいと言っても、それが神様に何の喜びになるだろう、何の益になるだろうと言っています。これは真理とは正反対のことです。神様は、第一ペテロ1:16に「私が聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない。」と言われました。また、マタイの福音書5:48では、「だから、あなた方は、天の父が完全のように完全でありなさい。」と言われました。すべての子どもたちが神様の聖で完全な心に似てほしいと思われるのです。それに聞きたがって、私たちが聖なるものになって完全なものになるなら、神様はどれほど喜ばれるでしょうか。
そして私たちが行いも完全であれば、神様に喜ばれ、それは神様の益になるのです。理解を助けるために、もう一度親子の関係について話をしましょう。もし皆さんの子どもがいい子で健康に成長するなら、親の立場では喜ぶでしょう。それに子どもが成功して、多くの人に褒められて社会にも寄与するなら、親にもその栄光が返るでしょう。反対に子どもがぐれて、トラブルを起こして問題を起こすなら、どれほど親は心痛むでしょうか。また、子供が罪を犯して、社会に大きい被害を与えるなら、その親まで非難されますね。同じように、神の子供が神様の前で完全でなくて罪を犯すなら、世の人々に嘲られるようになって非難されます。それは、神様の栄光を遮ることであり、教会と主のしもべや同じクリスチャンに、恥をかかせることです。
このように罪を犯して悪を行う人をご覧になると、神様は本当に悲しみ苦しまれます。創世記6:5-6に、「主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。それで主は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。」とあります。世界中に罪と悪がはびこっているとき、神様がどれほどその心を痛められたのかがわかります。神様は子供である私たちを愛しておられるので、私たちが罪と悪に落ちたらこの様に嘆いて、心を痛められるのです。しかし悪が増大していた世でも、ノアはどうでしたか?正しい人で、その時代にあっても全き人だったので、神様は喜ばれ共に歩んでくださいました。そして洪水の裁きから彼と家族を救うために、箱舟を造るようになさいました。このようにノアは神様の喜びになって、神様のご計画、人間耕作のために益となった人であることがわかります。
正しい人として神様の喜びになった他の例で、アブラハムが挙げられます。創世紀18:17に「主はこう考えられた。私がしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか。」とあります。アブラハムは神の友と呼ばれる程で、神様の前で全き人でした。それで神様は、奥義も彼に教えて下さり、信仰の父であり、祝福の名になる祝福を下さいました。このように正しい人になれば、神様に栄光を捧げるから、神様にも益となり、そういう人はこの地上で祝福を受けるだけでなく、天国でも神様の御座の近くに行くので、自分にとっても大きい益となるのです。しかし、こういう真理を知らないエリファズは、神様の御心に逆らうことを言っていきます。ヨブ記22:4-5です。
あなたとともに、さばきの座に、入って行かれ、あなたを責められるのは、あなたが神を恐れているためか。いや、それはあなたの悪が大きくて、あなたの不義が果てしないからではないか。(ヨブ記22:4-5)
エリファズは、ヨブあなたが神を恐れているため、神様があなたを責めて裁いておられるのかと質問しながら、嘲笑っています。これまでヨブが、神様は悪い人はうまくいくようにして、自分のように正しい人は苦しめていると主張していたから、エリファズはそのようなヨブを嘲笑っているのです。皮肉を言っているのです。あなたが言った通りにあなたが神を恐れているなら、褒められるべきなのになぜ責められているのか?あなたが悪いから災いが臨んだのではないか?と言っているのです。皆さんエリファズが言っていることがあっていますか?
聖書を通して答えを探してみましょう。ヘブル12:5-8です。「そして、あなたがたに向かって子どもに対するように語られたこの勧めを忘れています。『わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。』訓戒と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。もしあなたがたが、だれでも受ける懲らしめを受けていないとすれば、私生児であって、ほんとうの子ではないのです。」とあります。
エリファズが言っていることを聞いたとき、皆さんはそれを正しいか正しくないか、正確に見分けることができるでしょうか?罪を犯した人はその罪に応じて報いを受け、災いに遭う。もちろんそれもあっています。しかし神は愛する子供を懲らしめてくださるのです。これを知っていなければなりません。神様は人を憎んで懲らしめる。その人が罪を犯しているから災いに遭うようにされる。これだけを知っていてはいけません。
例えばAという人とBという人が神様の御言葉通りに行っていないとしましょう。ところで、神様はAという人は懲らしめて、Bという人は懲らしめていないなら、どちらが神様に愛されているのでしょうか?懲らしめを受けたAでしょう。人との間でも、他人同士ならば、責めたり非難すれば、仲違いすることがありますが、親子の間ではそうではありません。子どもが親を信頼しているなら、親に叱られたら、親の愛を感じるようになります。また、親の立場では、自分が産んだ子どもを本当に愛しているなら、子どもがぐれたりするときは、訓戒しても正しい道に導こうとするでしょう。同じように神様も愛する子どもを懲らしめてくださるのです。ですから聖徒が過ちをしたとき、神様の懲らしめが臨んだなら、神様が愛してくださるということを悟りますように。もし過ちを犯したのに懲らしめがないならどうでしょう?もっと大きい罪を犯していくこともあるでしょう。ますます悪魔に操られて死の道に行くしかないのです。神様は、愛する子供が死の道に向かうように放っておくことはできません。だから懲らしめを受けていないとすれば、私生児であって本当の子ではないのですと言われるのです。
私たちが神様を恐れているなら、悪を憎み御言葉通りに生きることで、人の本分を果たすでしょう。反対に神様を恐れていないなら、悪を行い罪を犯すようになります。ところで、神様を恐れているけれど、まだ完全でないときは、真理と反対のことをしたりもします。このとき、神様が愛の懲らしめをくださるのです。ですから、エリファズがヨブに、あなたは神様を恐れていないから責められているのだと、言っているその言葉はあっているけれど、それは霊的な意味を知らずに言っていることです。エリファズは神様がヨブを愛しておられないから、ヨブを責めて裁いておられるという意味で言っているからです。私たちは神様が私たちを愛しておられるから、私たちが真理から外れたら、懲らしめもして叱ることもあるということを覚えていますように。
次にエリファズはヨブに、いやそれはあなたの悪が大きくて、あなたの不義が果てしないからではないかと言っています。ひどいことを言っています。エリファズは、ヨブの罪と悪があまりにも大きくて果てしないと、罪に定めています。ヨブは潔白で正しいと神様に認められていたのに、聖書はこのように人をさばいて罪に定める人を、自分が神のように高くなって裁くものになっていると表現します。律法学者やパリサイ人が、姦淫した女性を連れてイエス様の前に来た時、イエス様はあなた方のうちで罪のないものが、最初に彼女に石を投げなさいと言われました。すると良心の過酌を感じた人々は、一人二人その場を去っていきました。イエス様はその女性に、「私もあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」と言われました。このようにイエス様は許してくださったのです。
しかし今日は、自分の目で見たのでもないし、よく知らないのに、人を裁いて罪に定める人がどれほどたくさんいますか。たとえ人が罪を犯していることを自分の目で見たとしても、その人のために祈り、その人が真理に従うように導くべきでしょう。しかし、人の過ちを人に伝えて、その人が滅びに行くのを望むなら、どうして神様を信じる人だと言えるでしょうか。ヨブ記講解で、よく挙げられる聖句がヤコブ4:11-12です。「兄弟たち。互いに悪口を言い合ってはいけません。自分の兄弟の悪口を言い、自分の兄弟をさばく者は、律法の悪口を言い、律法をさばいているのです。あなたが、もし律法をさばくなら、律法を守る者ではなくて、さばく者です。律法を定め、さばきを行う方は、ただひとりであり、その方は救うことも滅ぼすこともできます。隣人をさばくあなたは、いったい何者ですか。」とあります。
ヨブと友達の話を聞いてみれば、互いに裁いて罪に定めていることがたくさんあるから、それを通して、私たちは自分自身を発見して変えられるように神様が望んでおられるのです。今、エリファズは自分が律法を裁く者になって、自分の悪が果てしないからヨブに向かって、あなたの悪は果てしないと罪に定めているのです。私たちは、律法を定め裁く方は、神様お一人だけであることを心に留めて、むやみに人を裁いたり、自分が裁判官になったりすることはあってはいけません。そのため試練患難にあっているのに自分はそれを悟っていないならば、どれほどもどかしいことでしょうか。
こういうことが信仰生活の中でたくさんあるのです。人は自分の考えは正しいと思っているからです。そして人の噂話を聞くのが好きでおしゃべりが好きな人もたくさんいるからです。誰かの話を聞いて真理を持って見分けようとしないで、ただ聞いたその話を鵜吞みにしたり、自分が見たことで思い込んで人のことを決めつけたりする人もいます。ニュースとかマスコミで聞いたことを鵜呑みにする人もいますね。皆さんは真理を基準にしてください。皆さんは真理を聞いて真理を話しているのか、真理を見ているのか顧みますように。それが真理でないならば、聞く価値もないでしょう。どうして人の噂話が好きでしょうか?もちろんそうすれば孤立するかもしれません。しかし真理と反対のことをいつも言っている人と近くにいて、よく話をするよりはましではありませんか。
エリファズのようにヨブの話している姿を見て、腹を立てたり、イライラしたりして、ヨブを激しく攻撃して責めて、罪に定めている姿は、どれほど悪い姿でしょうか。皆さん、罪に定めるということは、罪を犯した人に対して、あなたは罪人だと裁くことは、人がすることではありません。神様お一人だけが裁く権限を持っておられます。私たちは罪を犯している人を見たときどうすべきでしょうか。私は罪を犯してはいけないと、反面教師として教訓とすればいいのですが、あの人が悪い、あの人は罪を犯したと、裁いて罪に定めることは悪なのです。イエス様は、姦淫した女性に何と言われましたか?あなた方のうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさいと言われました。また、私もあなたの罪に定めないと言われました。
皆さんもそのような心でなければならないでしょう。私たちはみんな罪人でした。神様の恵みによって許された人です。だから人の罪を裁くような人ではないのです。そういう権限はないし、でもそれを忘れてしまい、その恵みを忘れてしまい、人を裁いて罪に定めているならば、それが神様との間で罪の壁になってしまうし、そのために答えを受けることもできないし、病気も癒されないこともあります。ですからヨブ記講解を聞きながら、何度も同じようなことを神様は警戒しておられるから、それを心に必ず刻みますように。それで自分が人の悪口を言っているならば、それは律法の悪口を言っているのだ。人を裁いていることは律法を裁いていることだ。神様のように自分がなっていることだ。高ぶっていることだということをいつも覚えていますように。それで暗いところは少しもない、光そのものであり傷もしみもない神様だけが裁く方であることをいつも覚えていますように。
結論です。十戒の中で第三の戒めで、「あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。主は、御名をみだりに唱えるものを、罰せずにはおかない。」とあります。神の御名をみだりに唱えるということは、聖なる神様の御名を正しく使わないで、不敬虔にまた虚しいことのために使うことを言います。例えば自分の考えなのに神様の御言葉のように言ったり、自分の意図によって行動しているのに神様に働きかけられたと言ったり、神様の御名をもって偽りの誓いをしたり、冗談を言ったりすることです。また普段の対話の中でエリファズのように神様の御言葉を間違って引用して神の御名をみだりに唱えることがあるのではないか顧みますように。
御言葉は神様です。本当に神様を信じて愛しているなら、決してそんなことがあってはいけません。私たちが何よりも神様の御言葉を大切に思うとき、神様に愛されるのです。第一サムエル2:30に、「わたしはわたしを尊ぶ者を尊ぶ。わたしをさげすむ者は軽んじられる。」とあります。私たちが神様を心から尊んでいるならば、当然御言葉を愛するでしょう。神の御名をみだりに唱えるようなことはしないでしょう。すべてのことで神様を恐れかしこみ行うでしょう。ですから皆さんが神様を尊ぶことで神様も皆さんを尊んでくださり、皆さんのすべての言葉と行いを祝福してくださるよう主の御名によって祈ります。聞いたメッセージを覚えながら祈りましょう。
父なる神様、今日はヨブの友達エリファズが、ヨブをさばいて罪に定めて、激しく責めている姿を見ました。これは、エリファズの心に悪があるからです。神様の御心も知らないのに、自分は知っているかのように、神様の御名をみだりに唱えている姿でした。私たちはそういう姿がないのか、自分を顧みるようにしてください。人を裁いて罪に定めることが、どれほど大きい悪なのか罪なのかを正確に悟って、これからは光の中を歩んでいって、善と愛と真理を行うようにしてください。過去そういう過ちと罪があったならば、罪の壁を壊して、私たちの祈りが速やかに答えを受けるようにしてください。感謝してイエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
