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ヨブ記講解59 - 神の御名をみだりに唱えてはいけない。(上)

9月15日
読了時間: 20分

説教:イ・スジン牧師

本文:ヨブ記22:1~2


愛する皆さん、前回まで、ヨブ記21章を調べてみました。20章でヨブの友達は、ヨブあなたは悪者で神を敬わない者だから神様に懲らしめられるのだと、裁いて罪に定めていました。すると21章で、ヨブはそれに反論していました。私が見るには、悪い人がうまくいって栄えている。だからあなた方の言うことは正しくないと主張しました。そしてヨブは、悪人でも善人でも富む者でも貧しいものでも、結局死ねば一握りの土に帰ってしまうから、両方とも同じだから、神様は不当な方だと言いながら、友達の話に対して反対の意見を言いました。​


悪人でも善人でもその終わりが同じなら、どうして正しい生き方をしようとするのでしょうか?どうして悪を行わないために犠牲して愛する、そのような善の道を歩もうとするでしょうか?このようにヨブは間違ったことを言っているのです。20章と21章を読んでみれば、友達とヨブが互いに主張している内容が、正しくないことがわかります。悪人と善人はその結果が違います。ヨブが言っていることは正しくないのです。上辺だけを見れば、善人でも悪人でも死んだら墓に納められて土に帰るから、同じように見えるけれどその魂はどうでしょうか?​


天国と地獄という天と地の違いの結果を刈り取るようになります。またこの地上で生きている間も、神様の公義があるので、悪人はその悪に応じて報いを受け、善人はその善に応じて平和と祝福を受けます。ですから私たちは、目の前の利益を追い求め悪を行わないだけでなく、いつどこででも不利益になるようなことでも、善と真理を選ぶ神の子供とならなければなりません。時には、それを完全にできない時もあります。自分が善を選んで、人のために犠牲になって譲ったら、損をするように思う時がありますか?そうでなければ、善を追っていこうとしたら、自分を低くしていったら、人に蔑まれるような思いはありませんか?損だと思ったことはありませんか?​


そうではありません。もちろん自分が献身して犠牲になって譲ることがありますが、でもそれが正しい道、善の道なのです。神様を愛して御言葉を守るためにそのように行うことは、神様を愛する人には難しいことでもないし、自分を低くして、人との平和を追い求めた方が、感謝で、喜びで、心が穏やかで、それで神様は結局高くしてくださり、褒められるのです。その過程で人に誤解されたり、苦しめられることがあっても、神様がすべてをご覧になって報いてくださるから、虚しいことはないし無駄なこともありません。ですから私たちは善と悪、義と不義の違いを正確に知って、目の前の利益のために悪を選ぶ愚かな人になってはいけないでしょう。神様は全てを見ておられ知っておられ、私たちの行いに応じて報いてくださる方です。


今日から始まる22章ではヨブの友達の中でテマン人エリファズがもう一度登場します。エリファズは肉の人だから、彼の言葉の中には真理と反対の言葉がたくさんあります。ですから今日のメッセージを聞きながら、何が真実で何が偽りなのか正確に見分けて、神様の御心を悟りますように。聖霊に導かれ、自分自身を発見して変えられて、命を得る時間になりますよう主の御名によって祈ります。​


皆さんはこのような潔めの福音を聞いていて、自分の心の中に深くある悪を発見するメッセージを聞いているから、どれほど幸いでしょうか。だから感謝しているでしょう。自分自身を発見するから、これを捨てなければと思って祈るでしょう。しかし、それが毎週同じようなメッセージを聞いているのだとか思ってはいけません。毎回メッセージを聞いても、同じテーマのメッセージを聞いても、聞くたびにその中から新しい悟りがあって、それで祈りながら毎日変えられていくのならば命となるのです。​


しかしメッセージを聞いて、毎週聞いて、それが1年、2年、3年経っているのに、頭の知識ではその内容を覚えていても、自分の心を変えていなければ、何の役にも立たないでしょう。ですから皆さん今日のメッセージを聞いて、エリファズのような姿はないのか、神様の前で高ぶっている姿はないのか、人を裁いて罪に定めている姿はないのか顧みて、自分を発見しますように。本文を読むとエリファズがもう一度口を開いて言います。ヨブ記22:1-2です。


テマン人エリファズが答えて言った。人は神の役に立つことができようか。賢い人さえ、ただ自分自身の役に立つだけだ。(ヨブ記 22:1-2)


エリファズはヨブを慰めに来た三人の友達の中で、一番に話をした人です。三人の中で心が一番悪い方に属する人です。人には、肉の人と御霊の人がいます。肉の人とは、アダムが罪を犯した後、霊が死んで魂に支配されている人です。魂に支配されているからといって、自分の考えに従って生きるだけではなくて、その魂にサタンが働きかけているのですから、サタンに操られているという意味です。サタンに操られていてはいけません。肉の人になってはいけません。また肉の人は聖霊を受けた神の子供でも、まだ肉の属性とか罪と悪を完全に捨てていない人の場合も、当てはまります。


世の人だけではなく、神様を信じると言っている神の子供たちも、まだ御霊の歩みに入っていない場合、肉の人なのです。自分の心の中に、真理と反対のものが残っているでしょう。悪魔サタンが魂を通して、その心にある悪を刺激するのです。神の子供ならば、霊である神様に似て、心を霊に変えなければならないのに、聖霊に満たされなければならないのに、そうできないから、まだ肉の属性とか罪と悪を完全に捨てていないから、悪魔サタンの仕業を受けるようになります。それで教会に通っていても、肉の人に留まっている人がいます。


これと反対に、御霊の人とは、広い意味で言えば、神の御霊、聖霊を受けて永遠の命を得た神のすべての子供を言います。ところで、神様が本当に望んでおられるのは御霊の人です。つまり、朽ちて変わってしまう肉の属性、罪と悪を心から完全に捨てた人です。聖められて、初めの人、最初の人アダムが持っていた霊の心を回復して、善と愛と真理で心を満たした人をいいます。神様は霊です。ですからその子供たちも神様のご性質に似ていかなければなりません。神様の御言葉は霊であり真理です。それを学び霊の世界を体験し真理にとどまっていると、御霊によって霊を生んでいき御霊の人に変えられていきます。御霊の歩みに深く入れば、神様の御言葉に込められている御心を理解できるし、その通りに行います。


しかしエリファズは肉の人です。神様の心を知らないのに、神の御名をみだりに唱えているのです。私たちは、神様の心が何か明らかに知って、それに完全に従う人が、神様の御心について述べることができるということを覚えておきましょう。自分は神様の御心通りに行っていて、その実が現れている人、神様が認めてくださる人でこそ、神様の御心はこれだと、人に教えることもできるのです。神様の御心はこれですと言える人は、自分が神様の子供として正しく生きていなければならないし、神様の御心に従っていなければならないのです。そういう人が、真理を持って人を教えることもできるのです。しかし神様の御心も知らないし、自分が行くべき道も知らないし、自分の問題も解決できない人は、これは神様の御心だと、あなたは間違っていると言ったりするならば、それは神の御名をみだりに唱えるような結果をもたらすのです。


今日神様を信じるという人々の中でも、自分の考えによって神様の御心だと思い込み、人を裁いて決めつける場合がよくあります。これまでヨブとヨブの友達は、時には神様の御言葉を引用したり、時には神様の御名を借りて、私が正しいあなたは間違っていると言い争いながら、互いを裁いて罪に定めていました。本文でエリファズは、人は神の役に立つことができようか。賢い人さえただ自分自身の役に立つだけだと言いながら、神様の御心をよく知っているかのように言っています。そしてエリファズはためらわずに、神様の御心はこうだと言いながら、結論を出しています。これはこれまでヨブが、神様の前で自分の正当性を主張しながら、自分は正しいと強調してきたから、エリファズはそのヨブの話が気に入らなくて、皮肉を言っているのです。つまりヨブはいくら賢くても、神様の何の役に立たないということです。


皆さん、それでは人が神様の役に立てるでしょうか?立てないでしょうか?実は被造物に過ぎない人が、万物を創造して支配される神様、創造主の神様の役に立つという言葉を使う資格はありません。しかし、人が神様の前で役に立てないのではありません。その理由は何でしょうか?神様はご自分の形として人を形造られた方です。最初の人アダムを、愛と真心を尽くして土地のちりで形造った後、命の息を吹き込んで生きて動くようにされました。他の動物の中で、人間のように神様が命の息を吹き込んだ場合はありません。動物は死ねば土に帰り、それで終わりですが、神様の命の息を吹き込まれた人の霊と魂は、永遠不滅の存在なので消滅しないのです。これについて伝読者の書3:21に、「誰が知っているだろうか。人の子らの霊は上に上り、獣の霊は地の下に降りていくのを。」とあります。ここで人の子らの霊は上に上りとありますが、つまり消滅しないで死んだ後は、天国または地獄に行くという意味です。そして獣の霊は地の下に降りていくとありますが、これは死んだら消滅するという意味です。


私が海外に集会を導くために行った時のことです。その教会の担任牧師先生がおられて、その方は総会長でもありました。その方と面会をする時、なぜその話になったのかよくわかりませんが、このような話をしました。娘さんが飼っていた犬が死んだのですが、娘さんはその犬が天国に行くことを信じているという話をしていました。それでその方が質問をされて、私はそれについて答えをしたことがあります。実際はどうなりますかと質問されたとき、私はこの聖書箇所を例に挙げて説明をしました。人の子らと動物が行く道は違います。しかし天国に行ってみれば、神様はこの地上でのものと比べられない、とても可愛い動物のペットを神様がプレゼントしてくださいますと答えたことがあります。


このように聖書箇所を霊的に説かなければ、同じように聖書を読んでもわからないし、主のしもべでも正確にわからないのだということを考えたことがあります。皆さん、私たちはこのように霊の世界について、正確に教わっているということがどれほど感謝でしょうか。神様が命の息を吹き込んでくださった存在の人間、神様の霊が吹き込まれた人間と動物のその違いを、正確に知っていなければならないのです。神様が私たち人をどのくらい貴重に思っておられるのか、私たちの存在をどれほど喜ばれるのか、人間耕作の意味がどれほど大きいのかを深く考えてみますように。


神様の形として創造された人がなぜ神様の役に立つのかは、親子の関係を見てみれば理解できるでしょう。人が子供を産む理由は何でしょうか?愛を分かち合える子どもがいるというその自体が、喜びになるからです。親にとって子どもは、目に入れても痛くないほどだと表現するほど、とても大切で貴重な尊い存在です。だから子どものために犠牲して、苦労しながらお金を稼いで、愛する子どものために養って、良いものだけを与えようとします。そして子どもがいい子に成長して、親の心がわかって感謝するなら、互いに愛し愛されるからどれほど幸せでしょうか。


このように親にとって子どもは、存在そのものにより、存在そのものが喜びと幸せを与えるから、つまり役に立つのです。子どもを産んで育てるときは、多くの犠牲と献身が必要ですが、子どもを愛するから、親は自分を犠牲にして育てるのです。子どもがいることだけでも親には喜びになるのです。そして互いに理解し合って心を分かち合って、愛し愛される存在なら、関係ならどれほど親にとって喜びでしょうか。また役に立つでしょうか。しかし子供が親を愛さないで、反抗をしてトラブルを起こしたり親の心を痛めるなら、どれほど悲しいことでしょうか。神様も同じです。ご自分の子供が真の子供になるのを望んでおられます。私たちを愛してくださり、造ってくださって、それでその子供が神様の心をわかって仕えるようになると、どれほどうれしいでしょうか。


人を造られた神様の心も同じです。親は生まれてくる赤ちゃんのために、部屋とか服とか必要な物を全部用意しておきます。同じように神様も、6日間で天地万物を造ってくださり、人が生きていける環境を美しく造ってくださいました。地球の大きさも、太陽との距離も、月との距離も正確にしておいて、空気と水と木と花など、人が何不自由なく生きていくのに適した環境を造ってくださいました。このように心を込めて用意した後、神様の形として人を創造されました。このような準備過程だけ見ても、神様が私たち人をどれほど愛しておられるのかを感じることができるでしょう。


愛する皆さん、父なる神様は私たちをこれほどまでに愛してくださった方です。私たちのために天地万物を造ってくださり、一人子イエスキリストを遣わせてくださったのです。神様が人の子らを愛してこのように世界を創造されただけではなく、その愛が自分のためであるということを強く感じますように。私のためです。私のために犠牲になった神様、お父様の愛を深く感じなければなりません。それで私たちも神様を愛して、神様に喜ばれる信仰生活にならなければなりません。神様を遠くいる方だと思うことや、大勢の人の中の一人であるわたしを、よくご存じではないと思ってはいけません。神様は私たち一人一人を全部知っておられ、一人一人の為に期待を持って造って下さった方です。だからその神様の思いに応えるために、努力しなければなりません。


では、神様が人間を創造された理由は何でしょうか?大きく二つを説明しましょう。今日大礼拝の時も聞いたように、結局はまことの子どもを得ることです。第一は、愛し愛されるまことの子どもを欲しいと思われたからです。それで神様はご自分の形に似せてアダムを形造り、美しいエデンの園においてアダムと共におられ、真理を教えて神様の愛を教えてくださいました。このようにエデンの園で神様に愛されたからといって、真の子供になるのではありません。人間耕作という過程が必要なのです。それでエデンの園に善悪の知識の木を置かれたのです。


そして闇の勢力も人間耕作のために道具として用いられるのです。ルシファーの裏切りがあって、悪い霊の勢力も形成されました。それも全て神様のご計画の中にありました。神様は全てをご存知で、もちろん神様も人間が堕落することを知っておられたのですが、それでも真の子供を得るために心を痛められることがあっても、期待を持って人間耕作をしておられるのです。だから私たちはその神様の心を知って、心から神様を愛し、祈り、賛美して礼拝すれば、神様は私たちの聖い生き方をご覧になり、喜ばれるのです。それで全く聖なるものとされた子供が出てくることを、神様は待っておられます。どれほど慰められ、どれほど喜ばれるでしょうか。


長い間、人間耕作の間、神様がどれほど悲しまれ心痛められたことがたくさんあったでしょうか。神様を信じると言いながらも、神様の御心に逆らってしまい、目の前の利益のために裏切ってしまい、世に目を向けてしまうそういうクリスチャンもたくさんいるのですが、私たちはそうしてはいけないでしょう。神様はそのような人もまた許して、また変えられる機会をくださっているのです。皆さん、子どもが生まれて成長するとき、ただ健康だけではありません。何か病気にかかったりすることもありますね。怪我をすることもあります。でもそのような過程があって、子どもがちゃんと成長するようになるのです。親もその子どもを見ながら、神様の愛を悟るようになるでしょう。神様は私たちを本当に愛しておられるお父様です。


もちろん人が罪を犯さないで、エノクのように聖い生き方だけをするならば、神様は喜ばれるでしょうが、しかし罪を犯したり、悪を行ったり、つまずいたりしてもまた立ち上がって、神様に悔い改めて立ち返って、神様により頼んで努力していく姿を見れば、神様も喜ばれ導いてくださるのです。力づけてくださるのです。このような神様の愛を悟り、なぜ私を造ってくださったのか、なぜ私のために世を創造してくださったのか、その神様の創造の理由、また人間耕作の理由を悟るなら、神様をどれほど愛するようになるでしょうか。それで私たちが神様の前で、まことの子供という実として捧げられるために、今の生き方を変えていきましょう。


第2、神様が人を創造されたのは、栄光をお受けになるためです。イザヤ43:7に、「私の名で呼ばれるすべての者は、私の栄光のために、わたしがこれを創造し、これを形造り、これを造った。」とあります。私たちがエノクのように、神様の心にそっくりの正しい美しい心になるなら、神様はどれほど喜ばれるでしょうか。ゼパニア3:17にあるように、喜びをもって私たちを楽しみ、その愛によって安らぎを与え、高らかに歌って喜ばれるでしょう。私たちを創造されて耕作なさった生き甲斐を感じるでしょう。また全く聖なるものとされた実として捧げられるなら、神様に栄光を捧げるでしょう。神の国にどれほど大きい益になるでしょうか。


だから聖徒なら神の国を建て上げるために自分を犠牲にするのです。心と思いを尽くして、時間と自分の物質も神様のために捧げて、神の国を建て上げるのです。だからどれ程役に立つのでしょうか。このように神様がなぜ人間を創造されたのか、その目的を知っているなら、エリファズのように人は神様の役に立たないとは言えないのです。神の形として創造された人間が、神様に喜びと誇りになれるし、愛の対象になって、彼らを通して神様が栄光をお受けになるからです。神様にとって利益にならないということは、言い換えれば損するという意味なのですが、神様はどうして損するようなことをされるでしょうか。


次にエリファズは賢い人さえ、ただ自分自身の役に立つだけだと言っています。人の知恵が神様の何の役にも立てない。自分自身の役に立つだけだと言っています。これは人の知恵、肉の知恵と神様の知恵 、霊の知恵を区分できないからです。知恵には神様がくださる霊的な知恵と、世からつまり悪魔が与える肉的な知恵があります。まず悪魔が与える知恵については、ヤコブ3:13-16にあります。「あなた方のうちで、知恵のある、賢い人は誰でしょうか。その人は、その知恵にふさわしい柔和な行いを、良い生き方によって示しなさい。しかし、もしあなた方の心の中に、苦いねたみと敵対心があるならば、誇ってはいけません。真理に逆らって偽ることになります。そのような知恵は、上から来たものではなく、地に属し、肉に属し、悪霊に属するものです。ねたみや敵対心のあるところには、秩序の乱れや、あらゆる邪悪な行いがあるからです。」


ですから自分の欲を満たすために何かをはかるならこれは肉的な知恵なのです。エデンの園に住んでいたエバが狡猾なヘビの話を聞いて、善悪の知識の木の実を取って食べたのは、神様からではなくて悪魔から来た知恵を受け入れたからです。ここでサタン悪魔から来た知恵だと言います。人が何か行いとして悪を行う前に、まだ心の中で思いの中で悪を巡らしますね。悪いことを計画したりするのです。それはサタンの働きです。そして実際にそれを行って、悪を行って罪になるならば、それは悪魔の働きなのです。悪魔の仕業になるのです。それで悪を行ったから罪になるのです。人を騙すことをただ考えているならば、それはサタンの働きですが、実際人を騙したならば、それは悪魔の仕業になるのです。


神の国と義のために生きることは、上から来る知恵に属していますが、地に属し肉に属し真理と反対のことを行うなら、それはサタン悪魔から来た肉的な知恵です。例えば事業をしている人の場合、神様がくださる上からの知恵を受けるべきなのに、肉的な人の知恵を働かせるから正道から離れるのです。私心、欲に従って法を犯すことがあり、自分だけではなく、まわりの人も苦しめる結果をもたらします。ですから、第一コリント3:18に、「誰も自分を欺いてはいけません。もし、あなたがたの中で、自分は今の世の知者だと思う者がいたら、知者になるためには愚かになりなさい。」とあります。人が持っている知識と考えの限界の中で、ものごとや人を見ると、自分も神様の前で罪を犯して、祝福と答えがふさがれるだけではなく、他の人も困らせたり、つらい思いをさせるのです。ですから自分の知恵を愚かなものと思って真理に従って行うとき、神様が喜ばれ答えと祝福を受ける霊的な知恵を下さいます。


このような霊的な知恵を得るためにはどうすべきでしょうか。ヤコブ3:17-18に「しかし、上からの知恵は、第一に純真であり、次に平和、寛容、温順であり、また、あわれみと良い実とに満ち、えこひいきがなく、見せかけのないものです。義の実を結ばせる種は、平和をつくる人によって平和のうちに蒔かれます。」とあります。上からの知恵は第一に純真でありとあります。だから、まず第一に、真理に逆らうものは徹底的に捨てて、ただ、神様の御言葉に聞き従うほど、天からの知恵が与えられるということを覚えておきましょう。肉的なことも、肉の行いも全部捨てて、完全に聖められたら、すべての人と平和を作るようになり、義の実を豊かに結ぶだけではなく、天から知恵が与えられます。


このように、御霊の人になっていくほど、上からの知恵も受けることができるのです。また、神様から来た知恵は、善と義と真理を追い求め、天国への希望を持つようにします。マタイ福音書11:27に「すべてのものが、私の父から、私に渡されています。それで、父のほかには、子を知る者がなく、子と、子が父を知らせようと心に定めた人のほかは、だれも父を知るものがありません。」とあります。つまりイエス・キリストを受け入れて心に聖霊が来られ、真理を悟らせてくださり、神様についても深く知るようにしてくださるのです。このように、神様がくださった知恵でなければ、神様について知ることはできません。ところがエリファズは肉の人だから、肉的な知恵について自分なりに説明しています。


これまでエリファズはヨブが自分は正しいと言っているから、それが気に食わなかったのです。エリファズが見てみると、ヨブは今のようにみじめな境遇に置かれたのは、確かに罪があるからだと思ったからです。でもヨブは自分には何の過ちもない。自分は正しいのに神様が苦しめていると言っているから、エリファズはヨブを非難しているのです。皆さん、今エリファズはヨブを裁いて罪に定めています。そしてヨブが言っていることが気に食わないのです。でもそうではなくて、本当に相手が悪い場合があります。相手は本当に悪い人なのに、自分は正しいと主張しているなら皆さんはそれを聞く時どうでしょう?我慢できないですか?もう聞きたくないでしょうか?いやそうではないと言って反論したくなりますか?気に食わないでしょうか?非難したくなりますか?


それは自分の中に悪があるからです。そういう人でも、その人が正しくないことを言っていても、私たちが腹を立てる理由はないのです。だから、皆さんの心の中で、負の感情が動くのを敏感に感じなければなりません。皆さんは、世で、会社で仕事を一緒にしている同僚もいたり、学校でクラスメイトもいると思いますが、世の人はみんな自分の利益を求めますね。自慢話をしたり、本当に正しくないことを言ったりするかもしれません。それを見ているとき、皆さんは裁いたり、罪に定めている立場ではありませんか?そうしてはいけません。その人がいくら悪い人でも、その人がうまくいくのが嫌だったり妬んだりしてもいけないのです。私たちは御言葉を自分に照らさなければなりません。しかし相手に照らして、その人を裁いたり罪に定めたりして、実際その人に面と向かって言わなくても、心の中でもやもやしたり気に食わないと思ったりしている姿も、顧みましょう。


エリファズは今ヨブに対して、そんなふうに考えていました。エリファズが見ていると、ヨブは過ちがあり罪を犯したから懲らしめられているのに、ヨブはそうでないと言っているからエリファズはそれが嫌なのですね。聞きたくないし、それで自分の主張を強くするために、神様の御名を借りて言っているのです。皆さんもこういう姿がないのか顧みますように。あることについて、自分なりにこれは正しい、正しくないと自分の意見を言うのはいいのですが、でも神様はこう言われたとか、神様の御言葉にはこうあるのにと言いながら、神様の御名を借りて、このように自分の主張や正当性を強くしようとしている姿はないのか、顧みます様に。(つづく)

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