ヨブ記講解58 - 悪人と善人の結末(上)
説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記21:25~28
前回はヨブが神様を誤解して、神様は悪を行った当事者をすぐ懲らしめないで、その子どもたちを懲らしめる方だから不当だと言っていました。また悪人が自分の滅びを自分の目で見るようにして、神様の御怒りの杯を飲むようにして、全能者がこんなに恐ろしい方だと悟らせるべきだと言いながら、神様を責めて問い詰める姿を見ました。しかし肉的な考えではそうすべきだと思うでしょうが、自分の心に善があるなら、ヨブのようにこんなふうには言えないでしょう。神様は愛です。一人も滅びることを望まないし、全ての人が救われるのを望んでおられます。それで一人でも多くの人が悔い改めて立ち返るように、一日が千年のように忍耐深く待っておられます。
しかし、人がこういう神様の心がわからないから、悪い神様だと判断してさばくのです。ヨブはこのように神様を誤解していました。また、ヨブは神様を信じないで真理の中に留まっていないのに、栄える人がいると言いながら、神様の治めが間違っていると言いたかったのです。今日の本文でもヨブは自分の考え、自分の思い込みで、神様を誤解して裁いています。本文ヨブ記21:25-26です。
ある者は苦悩のうちに死に、何の幸いも味わうことがない。彼らは共にちりに伏し、うじが彼らをおおう。(ヨブ記21:25-26)
ヨブは、この地上で富と祝福を味わえなかった人々は、死ぬ時も苦しみを受けるだけで、幸いがないと言っています。前回、お金もあって長生きしてこそ、平安で祝福だと言ったことと同じ内容です。これはヨブが祝福の基準を、富と栄華、健康、長生き、世での成功など、肉的なものだと思っているからです。しかしこういう祝福はいつでも失うことがあるし、永遠なものではないから、真の祝福と言えません。神様を信じる人は、霊的な祝福、つまり魂に幸いを得ていることが一番大きい祝福です。
皆さん、貧しい人ラザロと金持ちのたとえを覚えているでしょう。この地上で貧しいとか病気にかかったかもしれませんが、神様を信じて御言葉に従って天国に行く人がいます。しかし反対に、この地上では金持ちで贅沢に暮らして、楽しんで地獄に行く人、二人を比べるなら、皆さんはどちらを選ぶでしょうか?前者を選ぶというでしょう。ところで実際、この地上での生き方はどんなふうにしていますか?天国とか地獄、後の世のことを忘れてしまい、目に見えるもの、手で触るものを追い求めているのではありませんか?世でお金を稼ぐことや、富を得ること、健康とか長生きなどを追い求めているのではありませんか?ヨブの目線がそうなのです。世で健康で富を得た人が、祝福された人だと思い込んでいるのです。貧しいとか病気にかかった人は不幸だと言っています。しかし霊的な祝福はそうではないのです。
神様を信じているか信じていないか、天国に行くのか行かないかが大切なのです。天国を望み、神様を信じて御言葉に従っているなら、この地上でも祝福されるのです。これが皆さんの生き方において基準にしているでしょうか?でなければ、天国に行きたい、地獄には行きたくないと口では言っているのですが、つかの間のこの地上で、目で見える祝福、手で触れるもののために生きているのではありませんか?魂に幸いを得ていると、すべてのことに幸いを得、健康である祝福を受けます。また、永遠の天国では、栄光と報いを受けます。これが大切です。この地上で健康とか富があるとかではなくて、御言葉通りに生きて、魂に幸いを得る祝福が本当の祝福なのです。それを慕うべきです。神様を愛さないで、目に見える肉の祝福を求めてはいけないのです。富と名誉、権力のような肉的な祝福は、霊的な祝福を追い求める人にとっては、神様が加えてくださるものです。
マタイ6:33に「だから、神の国とその義をまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」とあります。ヨブは、彼らは共にちりに伏し、うじが彼らを覆うと言っています。これも、神様は不当だという表現であり、神様を教えようとしているのです。つまり、自分が見てみたら、善人でも悪人でも、金持ちでも貧しい人でも、結局は皆が死んで塵に戻り、うじが覆うから皆同じだ。だから神様は正しくないと言っているのです。皆さん、善人でも悪人でも、同じだというこの話はあっていますか?全くあっていませんね。
ヨブは今、霊の世界、霊のことを言っているのではなくて、目に見える肉の世界のことを言っています。聖書には主を信じた人が死んだ時、死んだと言わないで眠ったと表現します。私たちの霊は永遠に死なない不滅の存在だからです。主が空中に降臨される時は、主を信じて死んだ人々の霊と魂は主と共に空中に降りてきて、この時死んで葬られた自分の体は、復活の体に変えられて、自分の霊と魂と結合するようになります。その人の体は既に死んで、土に帰ったし形もなくなったようですが、神様の力によってその体が甦るのです。それで復活の体に変えられるのです。それで自分の霊と魂が空中に降りてきますね。自分の霊と魂と体が結合するようになって、永遠に生きるようになります。
誰がでしょうか?主を受け入れて、既に死んだ人。そうやって主と共に七年の婚宴に預かるようになりますね。救われて死んだ人は、天国に行って、待機場所にいるでしょう。新しいルサレムに行く人は、新しいエルサレムのある場所にいるでしょう。そういう方々は、霊と魂がありますね。主が空中に降臨されるとき、自分の体が変えられて復活の体になるのです。それで主と共に七年の婚宴に預って、千年王国が終わった後、白い御座の大審判があります。その後は美しい天国に入って永遠に主と共に生きるのです。誰がでしょうか?主を信じた人々、救われた人々のことです。
しかし神様を信じない人は違います。地獄に落ちて、いつまでも苦しみを受けるようになります。上辺だけを見ると、善人でも悪人でも死んだら墓に入れられて、土に帰るから同じように見えます。世の人はそんな風に考えるでしょう。しかし、そうではありません。その霊と魂は、天国と地獄という別れ道に立って、永遠の時間、後の世では、永遠の命と永遠の刑罰という、大きな違いがあるのです。ですから私たちはクリスチャンの中で、また教会の聖徒の中で誰かが亡くなると、その時は別れを惜しんだり悲しんだりするのですが、でも天国に行くから、そこで会って永遠に生きることを思うその望みがあるのです。
人は生まれたら誰でも死を迎えるようになりますが、私たちは永遠の天国を望まなければなりません。この地上で束の間の間、富を得たり健康を得たりするために頑張るのではなくて、永遠に生きる後の世でどんなふうに生きるか、そのために、この人間耕作を受けているその時間を、どんなふうに生きるべきかを考えなければなりません。死んだ後の後の世をいつも考えなければなりません。死んだら全てが終わりでもないし、死んだら平安になるのでもありません。人間耕作の機会があるこの時に、より神様の前で正しく生きて、報いを積んで、天国で栄光と祝福を受ける皆さんになりますように。そのような希望を持ってこの地上で生きていかなければなりません。
ところが、ヨブにはこういう霊的な知識がないから、自分の思い込みの中で神様を決めつけて、責めて教えようとしていました。ヤコブ4-11に「あなたが、もし律法をさばくなら、律法を守るものではなくて、さばく者です。」とあります。ヨブは律法を守るものになるべきなのに、裁くものになってしまい、神様を裁いていました。皆さんヨブはなぜこのように神様を誤解したのでしょうか?ヨブの心そのものは正しく潔白だったのですが、神様の御言葉を正確に知らなかったからです。これは今日も同じです。ほとんどの人は生まれて育ちながら、神様の御言葉を学んだのではありません。世でいろんなメディアと学校で学んだ知識を持って、自分というものを作りました。人によって価値判断基準が違うのです。それに世の支配者は敵である悪魔、サタンです。ですから、神様がご覧になると、人の価値判断が正しくないことがどれほど多いでしょうか。これを覚えていてください。
自分というものを作っておいたのですが、自分が正しいと思うことや、自分の考え方が真理に照らしてみれば、合わないことがたくさんあるのです。主を受け入れて、10年20年30年信仰生活をしたとしても、どのくらい神様の御言葉通りに生きてきたのかが大切です。自分の利益を求めて、自分の気分によって、誰かにちょっと言われたらすぐイライラしたり腹を立てたりした、そういう肉の姿がたくさんあるなら、自分は正しいと言えないでしょう。でも自分は正しいと主張するから、人と対立したり争ったりして、悩んだり苦しんだりするのです。そのように神様の前で、隔ての壁を作っているのに知らないのです。ですから私達は、自分が正しいと主張することは、無益だということを悟らなければなりません。しかし人はほとんどが自分は正しいと主張するから言い争うのです。ただ神様の御言葉である真理が基準になって、それに照らすとき正確に見分けることができます。ヨブと友達も神様がご覧になる時は、両方とも正しくないのですが、たまに自分が正しいと言い争っていました。ヨブは裁く者になって神様を決めつけて、続く本文を見るとまた友達を裁いています。ヨブ記21:27-28です。
ああ、私はあなたがたの計画を知っている。私をそこなおうとするたくらみを。あなた方は言う。「権門の家はどこにあるか。悪者の住んだ天幕はどこにあるか」と。(ヨブ記21:27-28)
ヨブは友達の計画を知っている。彼らが何を企んでいるのか知っていると言います。しかしそれはヨブの思い込みでした。人の心や考えは神様お一人だけ正確に知っておられます。人の思いと心はよく変わるからです。良い思いをしていても、すぐ悪い思いに変わったり、こうしようと、決めたのに自分の利益に従ってすぐ移り変わってしまうのが人の心です。これが肉の人の特徴です。ですから私たちはああしたりこうしたりして、決めたことを守らないで、二心のあるそういう移り変わる姿を捨ててこそ、心が霊に変えられます。しかし、変えられる前は、移り変わる姿がたくさんあるでしょう。自分を見てみればそうではありませんか?自分が何か決心したのに、守れなかったことはたくさんありますね。移り変わる姿を発見して、それを捨ててこそ、心が霊に変えられます。
これからはこうしようとか、明日からは祈ろう、聖書も読もう、夏のキャンプで恵みを受けたから、毎日祈ろうと決心しました。ヨブ記講解を聞きながら、言い争うことはやめようと思いました。もう子供にイライラしないで、静かな声で話そうと決心したのに、それを守れない時どれほどもどかしいでしょうか。自分でも自分を見るともどかしいですね。話をしていて、もし不平不満を言ったとしましょう。ある人と話をしながら、何か不満をぶつけたり、人の陰口を言ったりしました。それなら、後で後悔しますね。そんなことは言わなきゃよかったのにとか、そして、私は普段あんまりそんなふうに悪く思っていなかったのに、なぜ口にしたのだろう、と思うこともあるでしょう。それは自分の考えと自分の口を守れない肉の姿です
このように移り変わる自分の姿を見ながら、もどかしそうに思う時があるでしょう。そのように他の人もそうだと理解するなら、言い争うことも裁くこともなくなるでしょう。皆さん、自分は移り変わる姿を全部捨てたから、今移り変わっている人を見ると、理解できませんか?そうでないでしょう。自分がそれをしている過程があったから、他の人も理解してあげることができるのではありませんか。自分なりに頑張ろうとして、自分なりに決心したのに、その心を守れなかったのだろうと、理解してあげることができるでしょう。そうしないで、あの人はなんで自分の約束したことを守れないのかと非難する前に理解しましょう。
自分は何か問題にぶつかって落ち込んでいた時は、慰められたいし、理解してもらいたいと思うのに、他の人がそんな風に見えたら、あの人はまたかとこのように思うことはありませんか?ヨブの友達のように相手の心の事情もわからないまま、その人の口の言葉だけ聞いてさばいたり、陰口を言ったりしたことはありませんか?人の口の言葉だけを聞いて、その人を決めつけることがあってはいけません。それは心に悪があるからです。その人が口にしたことを聞いたと思っても、その人の心の中ではどんな思いがあるのかわからないのです。人は移り変わる属性を持っているからです。恵みに満たされている時は、恵みに満たされて、霊的なことを言っているのですが、ちょっと落ち込んでいる時は、否定的なことをしたりするのではありませんか?その時の姿を見て、その人をむやみにさばいてはいけないのです。
ただ、ちょっと霊的に今、悩みがあるそうだ、落ち込んでいるようだと理解してあげればいいでしょう。そうではなくて、あの人は悪いとか、正しくないとか、その人と会って話したくないとか、このように悪く思ってはいけないのです。その人の口の言葉だけで、その人を決めつけてはいけないのです。その口の言葉だけを見て、その人が悪いとか信仰がないとか、このようにさばいてはいけないのです。その人の心は神様だけがご存知です。
それなら、真理と反対のことを言ったり、信仰のないことを言ったりしている人がいるなら、どうすればいいでしょうか?必要だったら、報告することはあっても、自分がその人をさばいて、その人は悪いとか、信仰がないから、そのような人に使命を与えてはいけないとか、自分の意見を言ってはいけないのです。正確に報告する、必要によって報告することはあるけれども、でも愛を持って、その人を理解しようとしなければならないのです。自分の思い込みとか自分の考え方が混ざって、その人についてさばいてはいけないのです。日常生活でそういう姿がよくあると思います。でなければ、その人の表情を見てその人をさばいたりしてはいけないのです。失礼なことになることもあるのです。
私に対しても同じです。私の表情はあまり変化がないのですが、皆さんが私を見るときの自分の心の状態とか、信仰生活の状態によって、先生は今あまり嬉しくないようだとか、先生は今ちょっと悩みがあるようだと思い込んでしまう、決めつけてしまう方もいるようですが、それも気をつけなければならないでしょう。ある方が、先生今日何か嬉しいことありましたかと言われますが、私は特にそういうことはないのです。後で話を聞いてみたら、私を見ている方が、自分なりに決めつけてしまうことがよくありました。すべてを良いことに考えたらいいでしょう。
ヨブの友達も最初は、ヨブが患難にあって苦しんでいるという話を聞いて、慰めに来ました。しかし時間が経つと、ヨブを慰めるのではなくて、ヨブをからかってあざけって呪いながら、ヨブの心を傷つけていました。ただヨブはあざける程度ではなくて、やりすぎていました。ヨブは、だから友達が自分を権門や悪者扱いしていて嘲っていると思いました。それであなた方の考えを知っている。
私を慰めるために来たのではなく、私を損なうために来たのだと、そして権門の家はどこにあるか、悪者の住んだ天幕はどこにあるかと、あなた方は私を嘲っているのではないかと言っています。
以前はヨブと親しかったし、ヨブの話を聞いて慰めに来た友達がヨブを苦しめる存在になったのはなぜでしょうか?友達が悪いせいもありますが、その悪を行うように刺激した張本人はヨブでした。ヨブの友達が、初めからヨブに悪く対したのではありません。ヨブは友達が悔い改めて立ち返りなさいと、アドバイスをしてくれる友達の話を聞き入れないで、反論して拒否していました。それで互いに自分が正しいと言っていたから、言い争うようになりました。もしヨブが真理を知っていたなら、友達がいろいろ悪い言葉を言っても、それに手向かわないで、善をもって悪に打ち勝ったでしょう。
「右の頬を打つようなものには左の頬を向けて、そして告訴して下着を取ろうとするものには上着もやって、一ミリオン行けと強いるようなものとは一緒に二ミリオン行く。」このような真理通り行ったなら、友達と仲違いすることはなかったでしょう。私たちはこういう御言葉を心に刻み、敵でも愛して良くしてあげて、善をもって悪に打ち勝つべきでしょう。相手が腹を立てて怒鳴って、言い争うからといって、自分も同じようにするなら、自分の顔につばきを吐くことになり、相手と変わらない悪人になるのです。悪に負けてしまうのです。
ローマ12:20-21に、「もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら、飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。」とあります。悪い人が悪を行っているからといって、同じように悪を行えば、悪に負けることです。でも善をもって行うなら、それが打ち勝つことになります。すると神様が働いてくださるでしょう。神様が働いて相手が悟るとか、その人の悪が明らかになるということがあるでしょう。でも自分が復讐しようとしてはいけないのです。
相手が自分を殴るからといって、自分も殴り返すのではなくて、殴られても善と愛をもって行うなら、それが霊的には勝利する人になります。こういう真理を頭だけで知っていてはいけません。実際皆さんの日常生活で職場でも家族の間でも、このように善を行わなければなりません。職場の同僚が自分に嫌味を言ったり、嫌がらせをするときどうしますか?それによって腹を立てたり気を悪くしたり、その人の陰口を言ったことはありませんか?では善をもって悪に打ち勝っていますか?勝利する人は善を最後まで行うことです。すると神様が働いてくださいます。それでついには平和を作るようになるのです。
マタイ5:11-12に「わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。喜びなさい、喜び、おどりなさい。天ではあなたがたの報いは大きいから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々はそのように迫害したのです。」とあります。故チョン・ミョンホ先生も、アフリカで宣教する時、迫害もたくさん受けました。誤解されることもよくありました。しかし元老牧師先生に教わった通りに、善だけを行いました。悪人に手向かわなかったのです。善をもって行ったら、結局は周りの人々が変えられました。それで今天国に行かれた時、どれほど尊敬され認められたのかが、明らかになったのではありませんか。善をもって行っていたら、神様が周りの人の心を動かしてくださり、神様が働いてくださって、全て働かせて益としてくださり、多くの実を結ぶようにされました。天国で報いはどれほど大きいでしょうか。これが、神様が望んでおられる善の行いであり、神様の方法なのです。ですからこの地上で不当に迫害を受けて苦しみを受けても、喜んで感謝しながら天国への望みを持って、信仰で勝利する皆さんになりますように。
