ヨブ記講解57 - ヨブの思い込み(下)
説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記21:21~24
ヨブ記21:21です。
彼の日の数が短く定められているのに、自分の後の家のことに何の望みがあろうか。(ヨブ21:21)
彼の日の数が短く定められているとは、人は永遠に生きることができないし、結局は歳月が流れれば、死ぬようになるということを意味します。つまり悪者の行いをすぐ懲らしめないで、彼が死んだ後でやっとその家や子らを懲らしめても、何の役に立つのかという意味です。悪を行った張本人はそれを悟れないから、何の役にも立たないということです。ヨブは神様が悪者をすぐ懲らしめて、神様が生きておられることと、神様が恐ろしい方であることを悟らせるべきだと言っているのです。
これは一見見ればあっているようで、そうしてこそこうだと思うかもしれません。だから真理を知らない人は、ひどく悪を行っている人を見ると、神様はなぜあんな人を放っておかれるのか?すぐ懲らしめなければと思うかもしれません。しかし悪者たちをすぐ懲らしめるからといって、悪者が減るでしょうか?そうではありません。力づくで抑えるなら、もっと反発するようになったり、もっと悪を発するようになることもあります。さらに問題が大きくなる場合もあります。悪い人を指摘したり責めたりするならどうなるでしょう?目上の人だから、すぐにはそれに反発しないかもしれません。しかし結局は反発してしまい、もっと悪を行ってしまうこともあります。だから人をむやみに指摘してはいけません。
相手のために、もちろんその人が変えられる機会を与えるために、アドバイスをすることはいいのですが、でも時間が必要です。自分の正義感によって、相手の事情を考えないで、そのように厳しく指摘してしまい、相手つまずかせてしまう場合もあります。力づくでいくら抑えたとしても、懲らしめたとしても、結果が良くない場合があります。懲らしめるよりは、広い心で愛をもって受け入れて、その人の為に、許して理解してあげて、愛を持って導く、善と愛の方法がもっと良いのです。元老牧師先生は、教会を離れて裏切ってしまった人でも、いつでも帰って来るように、いつも待っていると言われます。そしてこれまで万民の歴史の中でそういうことはいつもあったと、許してはまた許して、受け入れてはまた受け入れてきたと、変わらない愛です。それは主の心であり神様の心でしょう。私たちもそのような善の心に似ていかなければならないのです。
そういう恵みを私たちがいただいたではありませんか?自分がそんな恵みを受けたのに、なぜ人には、そんな善と愛を持って対することができないでしょうか?なぜ自分を苦しめる人は、懲らしめられるべきだと思うのでしょうか?そして厳しく指摘して、その人を教えようとするのでしょうか?そうではなくて、善と愛をもって行ってこそ、闇が退いて、光が臨むのです。だから私たちは悪者を見ながら、腹を立てたり懲らしめてほしいと思ってはいけません。すべてをご存知の神様が一番良い時に働いてくださることを信じて、自分が復讐しようとしてはいけないし、悪に手向かってはいけません。
続く本文を読むとヨブ記21:22です。
彼は神に知識を教えようとするのか。高い所におられる方がさばきを下すのだ。(ヨブ21:22)
高いところにおられる方が裁きを下すとありますが、ここで高いところにおられる方とは、神様を指しています。この言葉の中には、神様が自分勝手に思い通りに人々を裁いているという意味が込められています。神様は忍耐深くあられ、善であり悪であれ正確な公義によって裁く神ですが、ヨブは何故こんな風に言っているのでしょうか?今ヨブは神様に対して不平不満がたくさんあるから、神様の前で皮肉を言っているのです。ところで自分のように潔白な者を、神様が不当に苦しめていると言うならば、友達がまた激しくせめて、激しく反発して攻撃してくるでしょう。だからヨブは今ストレートに言わないで、例えを挙げて説明しています。
以前ヨブは高いところにいる人でした。ヨブは物質も知識もたくさんあったし、また周りの人々から愛されて尊敬される地位にいました。ヨブは自分で自分を考えてみても、自分は正しいし潔白で罪から離れていました。それなのに自分のような人を、神様がこのように苦しめて滅ぼそうとしているから、どれほど悔しいでしょうか。だから彼は、神に知識を教えようとするのかと言っています。つまり誰が神様を悟らせることができるのか?神様の前で誰が進言できるのか?と言っているのです。
ヨブは自分が持っている悔しさを間接的に訴えています。自分のひねくれた心を神様の前で直接にぶちまけることができなくても、遠回しに表現しているのです。相変わらず自分が正しいと正当性を主張しているのです。友達に私が見るには神様は、悪者がうまくいくようにしてくださる。だから私は悪者だからこんなふうに滅びたのではない。私は潔白なのに神様が不当に私を苦しめたのだ。神様は、悪者が悪を行えばすぐ懲らしめるべきなのに、あなた方は懲らしめを受けないでうまくいっているのではないか。だから神様は正しくないと言っているのです。
続く本文でも同じです。ヨブ記21:23-24です。
ある者は元気盛りの時に、全く平穏のうちに死ぬだろう。彼のからだは脂肪で満ち、その骨の髄は潤っている。(ヨブ21:23-24)
つまりある人は死ぬ時になるまで、健康で心配悩みもなく裕福に暮らしているという意味です。そして彼の体は脂肪で満ち、その骨の髄は潤っているとありますが、これは、その人の職場、事業の場がうまくいって成功して、豊かになることを言っています。神様を信じないで真理にとどまっていないのに、うまくいくように見える人を指して言っているのです。反対にある人は、死ぬ時まで苦しみを受けて、祝福を受けていないように見える人もいます。皆さん、前回も似たようなケースを例に挙げて、自分の心を顧みるようにと伝えました。悪者なのにその人はうまくいっているようで、正しい人は苦しみを受けているようで不公平だと思いますか?今ヨブが話していることを聞いてみたら、皆さんも同じように考えている人はいませんか?
ヨブは私の心をよく代弁してくれている。私は神様をちゃんと信じて、善良に生きていようとしてもいろいろ問題が起こっているのに、誰々は詐欺をして悪い方法を使っても、事業がうまくいっている。これは不当ではないか。ヨブは私が言いたいことを言っているのだと思いますか?しかしヨブが言っていることは、本当に間違っていて全然合っていません。豊かだからといって幸せでしょうか?貧しいからといって不幸でもないのです。かえって、財産がたくさんあると家庭の平和が壊れてしまい、兄弟の間で親子の間で喧嘩して、結局みんな滅びることもあります。
金庫の中にお金や宝石を入れておいても、盗まれるのではないかと不安です。また大きい金力を握ったとしてもそれを乱用して監獄に入れられたりします。人の欲は終わりがないから、いくらお金を貯めても、それが満足を与えるのではありません。たとえこの地上で裕福に暮らして贅沢をしたとしても、永遠の天国を得ることができないなら、何の役に立つでしょうか?お金がなくて苦しみを受ける人もいますが、お金がなくても幸せに生きている人もいます。皆さんの中には、教会を離れて悪を行った人が成功しているようで、何故だろうと思う人がいますか?しかしそういう人に関心を持つ必要もないし、そのような人がうまくいくからといって、それを妬む理由もありません。
そして本当にその人は成功しているのでしょうか?世の人々はどうでしょう。自分が持っているものを自慢したがりますね。素晴らしい所に行って、良いものを食べて、良いものを見て、いろいろ楽しんでいた後、人に見せようとするのです。しかし、それが本当の幸せでしょうか?そして実際幸せに過ごしたとしても、それを人の前で自慢しない人もいます。そして自分は豊かに生きているということを、わざと見せかけている人もいます。しかしその心の中には、本当の満足も平安も喜びもないなら、どれほど虚しいでしょうか。だからそのうわべだけ見て疑問を抱いたり、羨ましく思ったりする必要はないのです。悪者なのにその人がうまくいっているならば、その方が恐ろしいのです。
なぜなら神様は愛する子供は懲らしめる方だからです。懲らしめがないなら、私生児かもしれません。だからそういう人が成功している姿を見て、あれこれ疑問を抱くことはないのです。「悪者が栄えているのを見て腹を立てるな」と聖書にもありますね。この地上で、自分が手に入れた物質やお金は、真の幸せをくれるものではありません。天国への希望がある人は、お金がなくても喜んで感謝することができます。イエス様はルカの福音書17:21で「『そら、ここにある』とか『あそこにある』とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなた方のただ中にあるのです。」と言われました。
神の子供には、涙、悲しみ、苦しみ、死のない幸せな天国が備えられています。そして天国で生きる永遠の時間に比べれば、この地上で生きる時間は束の間です。だから今の暮らしがもし厳しくても、全然関係ないのです。心に天国を望んでいる人は、信仰と希望があるから幸せで喜びがあります。永遠に生きる自分の天国の家は、今どんなふうに建てられているのだろうと、心の中で描きながら、花婿なる主と父なる神様と、一緒に幸せに生きる日を望みながら、希望が溢れています。元老牧師先生はこのメッセージを伝えるとき、一つ証をしてくださいました。
7年間病気だったのですが、神様が癒してくださった後、力仕事をする時がありました。これも神様の摂理でした。病気は癒されたのですが、長い間寝ていたから、体は弱くなっていました。力仕事をしながら、体が健康になるようにしてくださったのです。そして同僚も良い人に会って守られたのですね。その時はとても貧しかったのです。一日に食べるお米を一食分とか、一枡分ぐらい買って、その日その日やっと食べていったそうです。すぐ隣がお米屋さんだったので朝まず食べる分を買って、そしてその日仕事をして帰ってくると、夜食べる分を買う。そして明日食べる分を、前もって買っておく余裕もなかったのです。このように貧しかったのです。
しかし神様が生きておられることを信じていたから、神様を見つけたから、いつも喜びが溢れていました。院長先生の口からはいつも賛美が流れていました。明日のことを心配しないで感謝していました。現実を見れば明日のことを心配しなければならないのに、そうしなかったのです。元老牧師先生が主の僕として召されて、教会を開拓する時は、まともな部屋もなかったし、店舗についている部屋を使っていました。暖房も入っていないそのような寒い部屋で、5人が一緒に暮らしていました。でも私も姉たちも貧しいとは思わなかったのです。毎日が幸せでした。
院長先生はまたもてなしをするのが好きで、区域のみなさんを家に呼んでごちそうして、また福音を伝えました。癒された証、神様について伝えました。そしてうちも厳しい貧しいのですが、周りに困っている人々に施しをして助けました。その時は物乞いの人々がよく道端にいたのですが、そういう人を見つけたらご飯を与えたり、またその人々が家の前で、冬の寒い日に寝ているのを見たら、布団を与えたりしました。このように施しをして助けました。このように貧しい中でもいつも喜んで感謝した理由は、救われた喜びと、神様がお父さんであり主が救い主であることを、信じる信仰があったからです。このように霊の信仰があるから、天国も完全に心に信じていました。だから束の間のこの世で、食べて飲んで豊かになることは重要ではなかったのです。より優れた天国に行くこと、天国に報いを積むのが大切でした。
この地上ではなくて、天国に望みを置いているから、どんな状況でも喜んで感謝して幸せだったのです。ですから苦しみは、誰かが与えるものではなく、自分で招くものであることを悟ってください。例えば皆さんに何か問題が起こったとしましょう。大変だと思って、心配して悩んで思い患っていると、だんだん問題が大きくなると思うようになって、肉の思いを巡らして悩んで消化不良になったりするのです。何でもないことでイライラしたり、誰かにちょっと言われたら感情を爆発させたりします。誰かが、そうさせたのですか?神様がそうさせたのですか?自分で招いたのです。何か問題を受けた時、自分がいくら心配しても思い患っても問題は解決できません。
詩篇50:15で、「苦難の日には私を呼び求めよ。わたしはあなたを助け出そう。あなたはわたしをあがめよう。」とあるし、ピリピ4:6には「何も思い患わないで、あらゆる場合に、感謝を持ってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。」とあります。神様に祈れば神様が全てをはたらかせて益としてくださるのに、この御言葉に従わないから肉の思いをめぐらして苦しみの沼に落ちていくのです。
ヨブがそうでした。ヨブの姿を見ながら皆さんは自分もそういう姿はなかったのか考えてみますように。以前は全てが神様の恵みで感謝だったのに、試練にあったら今まで自分が蒔いて献身したことがもったいなく感じられたり、他の人と比べて私は豊かでもないし、世を楽しむこともなかったんだと不幸だと思われますか?自分の考えと利益に合わなければ、全ては気に入らないですか?だんだん悪い方に落ち込んでしまうのです。こういう場合は黙って聖霊の助けを求めなければなりません。肉の思いが優勢になってはいけないのです。
ヨブと友達のことを反面教師にして、試練の沼から早く抜け出さなければなりません。次の時間もヨブは悪者と正しい者の結果について、自分の思い込みで決めつけて、神様を教えようとしていました。続いて次の時間に伝えます。ヨブは今友達の話に反発して反論しています。私は悪者ではないと言いながら、また神様が勝手に苦しめているのだと言っています。皆さんも自分の姿を顧みて、悔い改めて変えられます様に。
