ヨブ記講解57 - ヨブの思い込み(上)
説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記21:19~20
愛する皆さん。前回はヨブが友達の話、すなわちあなたは悪者だから神を敬わないものだから、このように呪われて滅びているのだと言っていることを、反論しようとしていました。ヨブは、悪者たちもうまくいって栄えているのではないか、神様の働きはこうすることもああすることもある。あなた方が言ったように、今試練に会っているからといって、私は悪者であるわけではない、自分はそうではないと主張していました。自分の正当性を主張するために、こう表現していましたが、私たちは悪者に対しても忍耐深くあられる神様の愛を悟ることができました。
しかし神様の愛とは違って、悪者に対して失敗してほしい、裁かれてほしいと思うクリスチャンがいます。それを罪だと思わないのです。あの人はひどく悪いことをしたから、神様の御言葉に、悪者は裁かれるとあるからと言いながら、自分が人を裁いて罪に定めたり憎んだりするのです。それを正当化するのです。あの人は悪い人だから、試練にあって滅びることは当然だと思ったり、もし悪い人が栄えるように見えるなら、それが嫌で腹を立てることはなかったのか顧みましょうと言いました。こういう思いは悪です。悪者がうまくいくようだから、それを妬む心があるし、不幸で欲しいと思う憎しみがあるのです。またあの人は悪者だから当然、刑罰を受けるべきなのに、なぜうまくいっているのかと思うことは、その人を罪に定めることであり、自分が神様のように裁く人になっているのです。
また自分と人を比べて、私はあの人より信仰があるのに、なぜ私はうまくいかないのか、なぜ私はまだ貧しいのか、悪い人はなぜ裕福になっているのかと思って気を落としたり、神様に対して不満を抱いたりするなら、どれほど悪い心でしょうか。このような悪があるから問題が解決されないし、癒されないし、栄えることはないのです。ヨブと友達の話を通して、私達は自分の悪い考えと心を発見しなければなりません。そしてこれからは、悟ったことで終わるのではなくて、心を割礼し、悪者でも哀れみ、よくしてあげる、善の段階まではいる幸いな皆さんになりますように。今日もメッセージを聞くとき、神様の深い善と愛を悟りますように。そして神様の心に似た良い子供になりますよう、主の御名によって祈ります。
ヨブ記21:19です。
神はそのような者の子らのために、彼のわざわいをたくわえておられるのか。彼自身が報いを受けて思い知らなければならない。(ヨブ21:19)
これはヨブが神様を責めて教えていることです。前も言ったように、ヨブ記はヨブと友達の対話を記したものだから、真理と、真理と反対のものが混ざっていることを、念頭に置かなければなりません。彼らの話の中で、どれが真理で、どれが真理と反対のものなのかを、よく見分けなければなりません。もしヨブ記から真理でない内容を引用して、間違って使うなら大きい間違いになります。
ヨブ記を読んでみれば、ヨブがいろいろ神様の御言葉を引用したりしているのですが、間違って使う場合もあります。神様は与え神様はまた取るとか、このように引用しています。でも神様は苦しみを与える方ではありません。それで試練にあって苦しみにあっているなら、それは神様がくださったものだと思ってはいけないのです。でもヨブはそれを誤解してしまいましたね。神様は自分に与えて、また取り上げる方だというふうに誤解していました。また不満にも思っていました。神様は祝福する方で私たちが幸せになるのを望んでおられる方で、私たちを呪ったり私たちを苦しめる方ではないのです。人の悪によって悪魔サタンがもたらすのです。
神様はそのサタンの訴えを聞き入れてくださり、またそれによって試練にあって悔い改めてほしいから、そのようにしてくださる場合はありますが、でもヨブはそれを知らなかったのですね。だから自分が災いにあっていることは、神様が勝手にそのように自分を苦しめているのだと思いました。このようにヨブが自分の思い込みで間違って決めつけていたから、問題が解決されなかったのです。ヨブ記の中にはこのように真理と反対の内容があるから、皆さんはそれが合っているかどうなのかを、真理に照らしてよく見分けなければなりません。彼らが言っていることが正しいように見えてもそうでない場合もあるのです。だから神様のことを誤解してはいけないのです。
本文でヨブは神様について、悪い人の罪と悪を本人に報いるのではなく蓄えておいて、何の過ちもないその子らに報いる悪い神様だと言っています。ヨブはこう意見を出しています。神様は悪者自身に報いを受けるようにして、その本人が思い知るようにするべきだと言っています。ヨブは神様を誤解しているだけではなくて、さらに自分が裁くものになってしまい、神様を教えようとしているのです。神様は全ての人が救われるのを望んでおられ、悔い改めることを待っておられ、忍耐深くあられる方です。しかし悪い人がそれ以上取り返しのつかない限界点に立ってしまったときは、報いが臨みますが、それを本人に臨むだけでその子らに報いるのではないのです。
それならヨブはなぜ、このように間違ったことを言っているのでしょうか?出エジプト記20:4以下を読むと、偶像に使える罪に対する報いが三代、四代まで及ぶとあります。ヨブは先祖からこのような御言葉を聞いて知っていたから、これを引用していました。しかし私たちはこれを誤解してはいけません。神様は愛と公義を持って働いてくださる方です。親が偶像に仕えたとか、神様の前に何か大きい悪を行ったとしても、その子供が神様の御言葉に留まっているなら災いは臨みません。本人が御言葉通りに生きていないから、偶像に仕えていた親や先祖の罪が三代、四代まで臨むのであって、本人が主を受け入れて真理にとどまっているなら、正しい神様が守って下さるのです。
エゼキエル18:20に「罪を犯した者は、その者が死に、子は父の咎について負い目がなく、父も子の咎について負い目がない。正しい者の義はその者に帰し、悪者の悪はその者に帰する。」とあります。神様の御言葉はこうなのです。出エジプト記では、偶像に仕える人の報いが三、四4代にまで及ぼすとあったのに、なぜここでは、子は父の咎について負い目がない。父もその子の咎について負い目がないと、なぜ御言葉が違うのかと誤解してはいけません。しかしこれまで説明を聞いた皆さんならわかるでしょう。本人が神様を受け入れないで、神様を信じていないならば、親の罪と悪が受け継がれるようになるのです。また偶像に仕えていた親の罪の影響を受けるようになるのです。神様に立ち向かったその罪と親の悪が、その子供が同じように光の中を歩んでいなければ臨むのです。しかし子供が神様を信じて御言葉通りに生きているなら、親のそのような悪い影響は臨まないのです。このような霊的な原理をよく悟っていなければなりません。すると神様を誤解することもないし、問題の原因も把握できるのです。
例えば親が悪い人ですが、その息子は心の良い人で真理にとどまっているならどうでしょう。すると神様は親の罪をその正しい息子に報いるようにするでしょうか?そうではありません。神様は公義で正しい方です。ところで、もし父親が悪を積んでいって悔い改めないで死んで、その息子も父と同じように悪を行っているならどうでしょう。悪い息子が父親の罪の報いまで受けるようになって、父親が受けるべき罵りも彼に帰するのです。父親の悪を見て学び成長したから、周りの人々から非難されるようになるのです。このように父親が悪に悪を積んでいけば、その息子、子孫にも影響及ぼすしかありません。親から受け継いだ悪に、又本人も悪を積んでいくからその罪に対して報いが臨むのです。ですから自分が罪を犯したなら、これが子供に影響がいかないように、速やかに悔い改めて立ち返らなければなりません。
親の罪が子供に報いとして臨むことだけでなく、先ほども言ったのですが、親が罪と悪の中で生きているなら、子どももその親の姿を見て真似をしてそれを学ぶのです。子どもは親の鏡だとも言いますね。万民の子どもはどうでしょう?親が祈って賛美して礼拝する姿をいつも見ていました。それを学びました。しかし親が信仰生活を正しくしていなければどうでしょう?子どもたちが幼稚園に行ったり学校に行って、汚い言葉を学んだり、また世の歌を学んだり、世の友達とぐれたりする姿もあるのです。親が聖霊に満たされて恵みに満たされていれば、家族も子どもたちもその影響を受けて幸せなのですが、そうでなくて悪を行ったりすれば、家庭の平和が壊れたりするのです。だから親の皆さんは今、自分の子供、小さい子供がいるならば、どんな影響がいくのか顧みられますように。
子供たちに問題が起こって、それによって親が悔い改めるように、神様が働いてくださる場合もあります。しかし親が悔い改めないで立ち返らないで、ことさらに罪を犯しているならば、子どもにも悪い影響がいくのです。真理にあって生まれて成長して、天国を知って神様を愛する、そういう子どもに育てなければなりません。だから救われるのですね。でもある時から、親が信仰生活を正しくしなければ、子どもたちも信仰を失うこともあります。それならどれほどもどかしいことでしょうか。いくら良いものを食べさせて良い服を着させても、子供は霊的に真理ににあって成長できないなら、天国を望まなければ、どれ程可哀そうでしょうか。だから親は正しい信仰生活を、子どもの前で見せなければなりません。普通、人に試練患難や苦しみがやってくるのは、真理と反対のことをしているから、敵である悪魔サタンが神様の前で訴えるからです。
神様はエバを誘惑して、善悪の知識の木を取って食べるようにした蛇に、お前は一生腹這いで歩き、ちりを食べなければならないと言われました。ここでちりとは、霊的に土地のちりで造られた人を意味しています。私たちのことです。蛇は霊的に敵である悪魔サタンのことです。ですから私たちが御言葉の中に生きていなければ、敵である悪魔サタンが、神様の前に訴えるようになって、神様はそれを聞き入れてくださるから、試練患難が臨むのです。私は主を受け入れた神様の子供だから、もう敵である悪魔サタンの妨げを受けないなら良いでしょう。しかし天国に行く前は、自分の中に真理と反対のものがあって罪を犯すならば、敵である悪魔サタンに訴えられるのです。それでちりで造られた人だから、そういう影響を受けるのです。光の中を歩んでいるならば守られるのですが、そうではなくて闇の中にいるから守られなくて、苦しみにあうようになるのです。敵である悪魔サタンの餌食になってしまい、その罪があるから神様の前で訴えられるのです。
世の人は敵である悪魔サタンの支配下にいるのですが、クリスチャンだとしても光の中を歩んでいなければ、サタンに操られることがあります。このように試練患難にあったらどうでしょう。その過程を通して、自分の過ちを悟って悔い改め立ち返るならば、良い結果になるでしょう。ヨブの場合も、サタンがヨブを訴えたら神様はそれを聞き入れてくださいました。ヨブは行いだけを見れば、正しくて潔白で欠けているところはなかったのですが、でも本性の中の悪がありました。それで神様はヨブが試練にあって、その本性の中の悪まで明らかにされて、それを徹底的に引き抜いて、完全な御霊の人になってさらに大きい祝福を受けるようにされました。
ところで、試練にあっていながらも悟れない人もいますが、罪を悟って知っていながらも、自分の悪のため相変わらず罪を犯していく人もいます。試練にあったら、真理の御言葉を聞いたことがあるから、悟って悔い改めるならば祝福です。悔い改めて、悪はどんな悪でも避けていくならばそれは祝福です。霊肉ともに祝福です。しかし試練にあって、なぜその試練が来たのか原因もわからないまま、神様が自分を苦しめていると言いながら、そのまま何もしていなければ、ただ不満ばかり文句ばかり言っているなら何も解決できないのです。そして自分の罪のためだと知っていながらも、相変わらず罪を犯す人もいるのです。こういう人の場合は罪が積まれて神様が許すことができない限界線に至ってしまうと、報いが臨むのです。
私たちが罪を犯したり真理と反対のものを行っていれば、神様に守られないのです。御使いも離れてしまうのです。だからいろんな問題が起こるのです。今そういうことを言っているのではありません。ことさらに罪を犯していく人、それで悔い改めない人が限界線にまで至ったら、恐ろしい報いが臨むということです。災いが臨むのです。例えば、創世紀15:16を見ると、神様はアブラハムに、「そして、四代目の者たちが、ここに戻って来る。それはエモリ人の咎が、そのときまでに満ちることはないからである。」と言われました。神様はアブラハムに、その子孫がカナンの地を征服すると約束されましたが、そのためにはその地の住民を追い出さなければなりません。そうしてこそイスラエルの民がその地に入って住むことができますね。
ところで神様はイスラエルの民のために、今住んでいる住民をただ追い出したのではありません。彼らが裁きを受けて、追い出されるほどの罪と悪が満ちたときに、追い出されるようにされました。神様は選民イスラエルのために、そのイスラエルの民にカナンの地を与えるために、今住んでいる異邦人を、神様の力でただ滅ぼしたのではありません。そういう神様ではありません。公義があります。彼らの悪が満ちる、彼らの咎が満ちる時まで、忍耐深くあられ待ってくださいました。その後、彼らの罪によって裁かれるようにされました。すべての懲らしめと裁きは、神様の公義によるものです。
しかしこのような公儀を知らないヨブは続く本文でも、自分の思い込みで神様を誤解して責めていて教えようとしています。ヨブは神様が悪を行った人を、すぐ裁いて懲らしめるべきなのに、そうしないで彼の災いを蓄えておられる、そして後でその過ちのない子等を懲らしめるのかと言っていました。
そして本文ヨブ記21:20ではこう言っています。
「彼の目が自分の滅びを見、彼が全能者の憤りを飲まなければならない。」(ヨブ21:20)
悪者は当然懲らしめを受けて、自分の滅びを自分の目で見るように、神様がそうなさるべきだと言っています。神様が全能ならば、その悪い人、本人が懲らしめを受けるように、災いを受けるようにすべきだと言っています。だから全能者の神様はこんなに恐ろしい方だと、思い知らせるべきだと言っています。これは友達に言っていることです。つまりあなた方は悪いのに、今何の問題もないから不公平じゃないのか。あなた方のように悪いものは神様がすぐに懲らしめて、思い知らせるべきだという意味で言っているのです。皆さん今ヨブの心はどうでしょう?
人の中には、もし悪者が懲らしめを受けて不幸になるなら、それを見ていい気味と思ったり、胸がすっとする人もいるでしょう。今ヨブの心がこうなのです。それは自分の中に悪があるからです。心の悪がなければ、悪者でもその人が失敗して、滅びて懲らしめられることを喜べません。神様は一人でも滅びに至るのを望んでおられません。だからひとりでも多くのひとが悔い改めるのを望み、千年が一日のように、一日が千年のように待っておられます。このような神様の心と愛を知らなかったヨブは、自分の悪と思い込みで神様を裁いて、悪い神様に定めています。もしかして皆さんにはこういう心はないのか顧みてください。それで発見されたなら変えられましょう。神様が望んでおられる善と愛を所有しましょう。
先週に続いて今日も聞いているのですが、ヨブの話を聞きながら自分の心を照らしてみなければなりません。顧みなければなりません。なぜあんな悪い人がうまくいっているのか、そのような悪い人はすぐ懲らしめられるべきではないかとか、その悪い人が今失敗したという話を聞いたら、当然だと思うそういう姿はありませんでしたか?今はそう思っていないとしても、前そういうことがあったならば、その自分の心にある悪を本当に徹底的に全部捨てているのか顧みければなりません。神様の愛と反対の憎しみや妬みがあったということを悟ったならば、それで終わってはいけません。その根本の罪の性質、悪を捨てなければならないのです。
神様の国を妨げて、教会で問題を起こして聖徒を苦しめた人が、今なぜ裁かれていないのか?なぜうまくいっているのか?と疑問を抱いたこと、ああこれも神様の前で悪だったのですね。申し訳ありませんと、毎日自分を顧みながら、そういう悪を捨てようと努力しなければならないのです。そして周りでも、もしか自分をいじめている人や、自分に嫌味を言う人がいますか?その人に対してどう思っていますか?嫌だとか苦手とか会いたくないと思ったり、不満を抱く姿はありませんか?本当にその人を理解して愛することができるでしょうか?ヨブ記講解を聞きながら、ヨブはそうだった。ヨブの友達はそうだった。こうしなければならないと唯聞いているだけではありませんか?自分自身に適応しなければならないのです。
