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ヨブ記講解56 - 忍耐深くあられる神様(下)

9月14日
読了時間: 16分

説教:イ・スジン牧師

本文:ヨブ記21:16~18


今日三つの分野について伝えます。もしかして自分に当たる分野はないのか顧みますように。​


第一、なぜ悪者が生きながらえてうまくいくのかと、疑問を抱いて腹を立てる場合です。

神様は、こんな風に考えることが、自分に悪があるということだと悟らなければならないと言われます。詩編37:1「悪を行う者に対して腹を立てるな。不正を行う者に対してねたみを起こすな。」とあります。ところで自分の心の中に悪があるから、悪者がうまくいくのを見ると妬み、彼が滅びて不幸になることを望むのです。その人を妬んでいるのです。その人がうまくいくのが嫌なのです。しかしそれを認めないのです。悪者は裁かれなければならないと言うのです。しかし裁きをするのは神様のなさることです。自分が人をああだこうだと裁いてはいけないのです。また愛は悪いことを思わないのです。​


もし悪者が呪われてうまくいかないのを望んでいるなら、それは愛のない姿で、反対に憎んでいるということです。イエス様はすべての人を愛してくださり、悪い人でも憎まなかったのです。そして、悪い人に手向かってはいけないと言われました。敵をも愛して、あなた方を迫害するもののために祈りなさいと、教えてくださいました。このような主の善と愛に似ていかなければならないのに、そうしないで、悪い人が滅びて裁かれるのを望んでいるなら、いけないでしょう。そういう心を持って、どうしてより優れた天国に行けるでしょうか?



私は悪者に対してそんなふうに考えていないから、私とは関係ないと思いますか?悪い人に対してはそう思わなくても、一緒に働いている同僚に、あの人が自分と意見が合わないとき、その人は何でいつも私のことを反対するのかと思ったり、そしてあの人がしていることはよくないのに、なぜ認められているのかと、心の中で不満を抱いたり、つぶやいたりしているのでありませんか?そしてある人は、あの人はなんで私にこんな風にするのか?牧者の心ならあんな風にはしないだろうにと思いますか?自分を指摘する人に対して、そんな風に思う人はいるかもしれません。しかしそれは言い訳ではありませんか?自分が正しいあの人は正しくない、こんなふうに思うのではありませんか?そしてあの人は欠けているところも多いのに、なぜ会長に選ばれたのだろうとか、なぜ教会で用いられているのかとか、心の中でもし疑問を抱いていたり不満を持っているならば、それも正しくないでしょう。だからこういうメッセージを聞きながら自分自身を顧みて、自分に代入してみてください。


自分より教会で認められて褒められている人を見て、あの人はそんな資格はないのにとか、あの人はこういうちょっと良くないところがあるのにとか思いますか?明白な悪い人でもないのに、どうしてその人を裁いているのでしょうか?神様は明白な悪を行う人に対しても、腹を立てるなといわれました。妬みを起こすなといわれました。しかしそうでもないのに、ああだこうだと心の中で妬んだり裁いたりするのでしょうか。​


第二です。悪者の子供と子孫が栄える理由は何だろうと思うときです。


ここでも悪者は当然刑罰を受けるべきではないかという心があるからです。悪者どもを罪に定めて、彼らが罪の代価を受けてほしいと思うのです。これも善ではありません。人を裁くこと、罪に定めることは悪です。人を裁くことを人がしてはいけません。神様にその権限があります。私たちは神様の御言葉を守る側で、その御言葉をもって人を裁く権限はないのです。ただこれは善なのか悪なのか、真理なのか真理と反対なのか、見て正確に知っていることはいいのですが、そうではなくてある人に対して、あの人は悪いのに正しくないのにとか、こういう欠けているところがたくさんあるのにとか思うことは、人を裁くことです。


そしてあの人は、こんなに悪いことをしたから滅びるだろうとか思うのでしょうか?それは罪に定めることでしょう。どれほど高ぶっているでしょうか。人が神のようになっているのです。このように罪に定めることは、本当に大きい悪です。もちろん私たちは、何が正しいか正しくないか、真理かそうでないかを、正確に見分ける必要はあります。しかし、真理をもって人をさばいてはいけないのです。自分自身が善を選び、真理を選んで御言葉を守っていけばいいのです。人間耕作を受けて信仰生活をするとき、人の実を見て、その人が真理の人なのかそうでないかを見分けることは必要ですが、その人を裁いたり罪に定めてはいけないのです。


第三です。悪者に神様の呪いが臨むどころか、平安に豊かに生きている姿を見ると何か腑に落ちないとか、理不尽だと思うことはありませんか?


例えば悪い人々は人をだましたり、色々悪い知恵を使ってうまくいっているようですが、自分は御言葉に従おうとして、嘘をつかないで正道を歩んでいたら、かえって損をするようなのです。神様が生きておられるなら、御言葉に従うために頑張っている私が祝福を受けるべきなのに、なぜ悪い人がうまくいくのかと疑問を抱いたり、失望したりがっかりしたり不満を抱いたりするのです。神様の前につぶやいたりするのです。もしこういう姿があるなら、自分も悪者と同じ悪があることを、悟らなければなりません。神様は相手を悪いと裁く前に、自分の中には悪がないのか、チェックしてみるようにと望んでおられます。


皆さん、悪い人がうまくいけばどうですか?ここにも神様の摂理と御心があると思います。悪者がうまくいくからといって、どうして憎んだり妬んだりするのでしょうか?神様の御心があります。もし悪いからといってその人を憎んでいるなら、自分の中にも悪があるのです。この悪を捨ててこそ、神様に喜ばれる霊の愛が望みます。私はこのように考えたことがあります。以前のことです。私の心が狭かったとき、私についてあれこれ噂話をしたとか、陰口を叩いたという話を聞くときがありました。するとその人が嫌だとか嫌いと思ったことはありませんが、ちょっとがっかりしたり失望したりすることがありました。そして私はそうではないと、言い訳をしたくなることがありました。ちょっと悔しいなと思ったこともありました。もちろん以前のことです。


しかし私は、最近の教会の試練の時、心の中で全然そういう姿がないのです。本当に心が穏やかで平安なのです。私についてあれこれの噂話があったようですけれども、それについて言い訳したいと思ったこともありません。そしてその人に対して、何か不満を抱いたこともありません。ただ、神様の前で祈りました。そして、一瞬ちょっと悲しいなと思ったこともあったのですが、それも神様の前に悔い改めました。そして、相手のために祈りました。そして、私が以前、似たような状況に置かれたときは、そうではなかったのに、今はこのように、神様くださる平安があると思って感謝でした。心が平安で幸せなのです。そして私のことを悪く言っている人は、どれほど信仰生活がつらいだろうかと思ったら、哀れむようになるのです。私の心は穏やかなのです。霊の愛が心の中に満たされると、心はこのようにだんだん広くなって、神様がくださる平安と安らぎ喜びがあるのです。神様はこのようになるように望んでおられます。


皆さんにもいろんな霊的な攻撃があるかもしれませんが、そういう時皆さんの心を守りますように。私はそうじゃないのに、悔しいとか理不尽だとか思って、行って問い詰めようと思ったり、行って言い訳をしようと思ったりする姿はないのか、顧みますように。でなければ落ち込んでしまったり、失望してしまったりして、神様の前で祈る力もない、そういう姿はなかったでしょうか?でも本当に信仰がある人ならば、心に平安がいつもあって、喜びが溢れているから、神様も喜ばれ、そのような子供を祝福してくださるのです。でもそうではなくて、本当に辛くてその人が嫌で、そして、心の中でその人への憎しみがあったり、不満があったりしてはいけないのです。だから自分の心の中にある、こういう悪や憎しみを発見して捨てますように。霊の愛が臨めば、相手がうまくいくのを望みます。


そして彼らの立場を理解して、憐れむのです。イエス様も弟子たちも昔の信仰の人々もそうでした。モーセは、神様が罪を犯したイスラエルの民を滅ぼそうとされた時、自分の命を引き換えにして民を救ってくださいと祈りました。民はモーセに何度も立ち向かいました。何度もモーセを殺そうとしました。そして神様の前にとんでもない罪を犯しました。エジプトから神様が救いの道に導こうと連れ出したのに、彼らは荒野でモーセに立ち向かって、エジプトに帰った方がいいとか(と)言いながら、モーセを殺そうとしたのです。それでもモーセは、神様の前で命をかけて祈って、彼らを救ってくださいと求めました。皆さんもこういう心でなければならないのです。新しいエルサレムに行くにはこういう心でなければならないのです。そのために自分を顧みて悔い改めて立ち返らなければならないのです。


使徒パウロはローマ9:3に「もしできることなら、私の同胞、肉による同国人のために、この私がキリストから引き離されて、のろわれた者となることさえ願いたいのです。」と言いました。ステパノ執事は、何の罪もないのに石打ちにされて死にかけていながらも、恨むのではなくてひざまずいて、「この罪を彼らに負わせないでください。」と祈りました。私たちもこのような全き愛を慕って所有していきましょう。そうすると神様が備えられた美しい新しいエルサレムに入れるでしょう。この地上でもあふれる祝福を受けられると信じます。


続くヨブ記21:-17-18です。


幾たび、悪者のともしびが消え、わざわいが彼らの上に下り、神が怒って彼らに滅びを分け与えることか。彼らは、風の前のわらのようではないか。つむじ風に吹き去らされるもみがらのようではないか。」(ヨブ21:17-18)


16節までは悪者がうまくいくことを言っていましたが、ここでは悪者のともしびが消えと言っています。反対のことを言っています。悪者のともしびが消えるとは、彼らの職場、事業の場が滅びて、家庭が破壊されて、苦しみ、呪われ、病気によって苦しむこと、今のヨブのようになる状態を言っています。風の前のわらのようだとあります。わらとは、稲や麦の茎を干したものを言っています。わらよりもずっと軽いもみがらにつむじ風が吹きつけるなら、どうなるでしょうか。つむじ風が吹くなら跡形もなく消えてしまうでしょう。ここでわらとかもみ殻は悪者に例えています。風は神様が働く災いを言っていて、つむじ風はそれより大きい呪いを言っています。いくら強い人でも神様の権威の前では弱い存在です。ところでヨブは、神様が悪者をわらやもみがらのように弱くさせた事例が、どのくらいあったのかと聞いています。悪者が風の前のわらのように、つむじ風に吹きされるもみがらのようになることが、幾たびあるのかと言っています。つまりそういうことはあまりなかったと言っているのです。


ヨブは既に先祖から神様の働きについて聞きました。神様はいくら悪者でも、すぐ懲らしめたのではなくて忍耐深くあられ、待ってくださることがよくありました。これをヨブは例えを通して説明しているのです。友達に私が聞いたことによれば、悪者に災いが臨み、神の御怒りが臨んだ場合はあまりなかった。だから悪者が上手くいって生きながらえて、彼らの友達も成功するのではないかと言っているのです。皆さんそれではどうしてヨブが言う通りに、悪者がそんなふうにうまくいくように見えるのでしょうか?今日のメッセージのタイトルでありテーマです。


第二ペテロ3:8-9です。「しかし、愛する人たち。あなたがたは、この一事を見落としてはいけません。すなわち、主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。主はある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえってあなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」これが答えです。神様は悪者に対しても忍耐深くあられるのです。それは一人も滅びることを望まず、すべての人が救われるのを望んでおられるからです。神様の大きい愛と摂理を悟らなければなりません。


エジプトのパロ王も、神様は一回で滅ぼしたのではありません。耐え忍びまた耐え忍び待ってくださいました。十回も神様が生きておられることと、全能であることを見せて、悔い改めるための機会をくださったのですが、最後まで悪を行ってイスラルの民を追いかけて行き、結局は死んだのです。サウル王がダビデを殺そうと全土を追いかけていたとき、ダビデの方で二回もサウル王を殺せる機会があったのですが、ダビデは殺さなかったのです。それがサウル王にとっては、悔い改めることができる機会だったのに、その機会を逃してしまい、結局は惨めな死を迎えました。


これと反対に機会が与えられた時、悔い改めて神様に憐みを受けた場合があります。ヒゼキヤ王の息子マナセです。異邦人のアッシリアに仕えて、偶像を受け入れて、霊的にひどく堕落して神様に立ち向かいました。それでアッシリアの侵入によってバビロンに捕虜として捕まえられてしまいました。するとマナセは神様の前に徹底的に悔い改めて、神様が憐れんで下さり、国に戻ってくることができました。神様は忍耐深くあられる方です。その間悪者が悪を行って、だんだんひどい悪を行うかもしれませんが、それでも神様は機会を下さり、また待ってくださるのです。そしてこのように悔い改めて立ち返る人もいます。しかし立ち返らないで続けて悪を積んでしまい、滅びに向かうこともあります。神様はそれでも悔い改めてほしいと思い、忍耐深くあられるのです。


そしてニネベの民はどうでしたか。悪によって裁かれる状況になったのですが、神様はヨナを使わして裁きを宣言するようにして、彼らに悔い改めの機会を下さいました。ヨナの警告を聞いた王と民が断食して悔い改めたら、神様は憐れんでくださり、裁きを思いを直しました。神様はそういう方なのですが、ヨナは神様の深い愛を悟れなかったのです。ニネベに行って裁きを伝えなさいと言われた時、ヨナは神様の御声に聞き従わなかったのです。それで後で悔い改めて行ったのですが、行って裁きを宣言したら、王と民が悔い改めて断食して神様にすがったのです。それで神様はそれを許してくださいました。


しかしヨナはそれが嫌だったのです。なぜならヨナはその国が敵国だったし、自分たちを苦しめるアッシリアの都市だったからです。だから彼らがこのように許されて、神様が彼らを立ち滅ぼさないことについて不満を抱いていました。私が行ってもし裁きを宣言するなら、彼らは悔い改めるでしょう。だから私は行かなかったのですと、神様の前でつぶやいていました。それでも神様はご自分の愛をヨナが悟ってほしいと思っておられたのですが、でもヨナは神様のそのような深い愛を悟ることができませんでした。自分の敵国のニネベの民が滅びるのを望んでいたのです。そして神様が許して下さったら、それについて不満を抱きました。皆さんはそういう姿はありませんか?


自分の敵で自分を苦しめる人、害を与える人を、もし神様が許して下さるなら、それについて神様の愛を悟って喜ぶ姿でしょうか?そうでなければ理解できなくて、なぜあのような人が成功するのか、うまくいくのかと疑問を抱いたり、なぜ神様は彼らを懲らしめないのかと思うことはなかったでしょうか?それならヨナと同じこと、同じ心でしょう。そういう姿があるなら自分を顧みて悟って悔い改めましょう。神様は悪者でも、悔い改めて欲しいと望んでおられるから、忍耐深くあられ、機会を下さり待って下さる方です。悪者たちが悪をおこなうたびに、神様がすぐ懲らしめられるなら、この世で生き残る人はいるでしょうか?


ローマ3:10に「義人はいない。ひとりもいない。」とあります。神様が耐深くあられないので、罪の代価としてすぐ報いてしまうなら、誰が生き残るでしょうか?しかし神様の忍耐深さと赦しと憐みよって私達は救われて、新しいエルサレムを望むようになりました。これを忘れてはいけません。ですから神様はなぜ悪者を呪わないのかと考えたならば、そう考えたこと自体が悪です。だから完全に捨てましょう。ヨブは今自分を悪いと罪に定めている友達の話を覆すためにいろいろ自分なりに知恵を使って説明しています。しかしこれは霊的には知恵ではなかったのです。


神様の御言葉にはマタイ7:6に「聖なるものを犬に与えてはいけません。また豚の前に真珠を投げてはなりません。それを足で踏みにじり、向き直って、あなた方を引き裂くでしょうから。」とあります。ヨブは相変わらず、友達に立ち向かって言い争っていました。だから知恵がないのです。ですから心が聖められ、善をもって悪に打ち勝つことが、本当の知恵であり神様の心です。第一コリント1:25に「なぜなら神の愚かさは人よりも賢く」とあります。ヤコブ3:17に「しかし上からの知恵は第一に純真であり」とあります。


しかしヨブはこのような真理を知らなかったから、自分の知恵を持って友達に対立して言いまかそうとしました。ヨブと友達は互いに虚しい言い争いをしながら、互いに自分の悪を明らかにして、まことの友達ではなかったことが明らかになっています。親しく見えたとしても、利害関係が絡まったり誤解したり言い争ったりすると、本当の姿が現れます。こういう時自分を発見して変えられることができるから、これも神様の愛です。続く聖句を読むとヨブの口からとんでもない言葉が出てきます。それについては次の時間に調べてみましょう


結論です。


愛する皆さん。神様が大きい愛と憐れみを持って忍耐深くあられ、私たちに恵みをくださる理由は、神様に似たまことの子供を得るためです。詩編130:3に「主よ。あなたがもし、不義に目を留められるなら、主よ、だれが御前に立ちえましょうと。」あります。神様が憐れんでくださらないで公義だけで裁くなら、その前に立つ人は誰もいません。しかし神様は公義によっては、到底許すこともできず理解もできない人でも、許して理解してくださいました。神様は私たちもこのような憐れみの心を持つように、望んでおられます。霊的な憐れみは人としては到底理解できない人も、真理にあって理解できる心です。また人としては到底許せない人でも、真理にあって許せる心です。神様はこのような憐れみの心を持って忍耐深くあられ、私たちを待ってくださいます。ルカ6:36に「あなたがたの天の父があわれみ深いようにあなた方もあわれみ深くしなさい。」とあるように私たちも神様に似たあわれみの心を所有して、神様が望んでおられるまことの子供になりますよう、主の御名によって祈ります。


聞いたメッセージを思い出して一緒に祈りましょう。


父なる神様、今日、ヨブは自分の立場、自分の言い分を語るために、悪者はうまくいく、成功すると言っていました。私たちは悪者がうまくいくのが嫌だと思ったり、腹を立てたり疑問を抱いたりする姿はなかったでしょうか?それが嫌で妬みを起こすことはありませんか?自分の心にあるそういう悪を、速やかに捨てていくようにしてください。そして神様が主が忍耐深くあられ憐れんでくださるように、私たちも憐れみの心を所有するようにしてください。御言葉を聞いて自分の姿を顧みて立ち返るようにしてください。イエスキリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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