ヨブ記講解55 - まことの安息を味わおう(上)
説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記21:1~3
愛する皆さん、前回まで3回にわたって悪者と神を敬わない者の結果がどれほど惨めなのか伝えました。代表的な例でユダヤ人のモルデカイを憎み、ユダヤ民族を皆殺しにしようとした悪いハマンの結末を伝えました。韓国の歴史を見ても世界の歴史を見ても、悪者が必ず公義の裁きを受けたのがわかります。伝道者の書12:14に、「神は、善であれ悪であれ、すべての隠れたことについて、すべてのわざをさばかれるからだ。」とあります。神様の御言葉は一点一画も間違いがなくその通りになります。ところでヨブの友達ツォファルがヨブを非難して呪っている内容は、彼が悪意を持って言っているだけで、ヨブには当たらない内容だと言いました。今、ヨブが味わっている苦しみはツォファルが考えているように、ヨブが悪いから受ける災いではありません。より大きい祝福を受けるように、神様が練ってくださることだからです。
ところで皆さん、このように神様が練ってくださるのは、誰もが受けるのではありません。人々は世を生きているといろんな試練にあったり、患難にあったりしています。しかしそれは自分の過ちや悪によるものです。罪の報いでもあるし、敵である悪魔サタンがもたらすことがあります。しかしヨブは特別な場合で、神様がより大きい祝福をくださるために、特別に練ってくださることです。ヨブには大きい悪とか罪があるからではないからです。でもヨブの友達は誤解してさばいて罪に定めているのですが、そういう友達の方が悪いと説明したでしょう。ヨブは結局祝福されました。
でも皆さんの中で、私もヨブのように試練にあっていると思っている方はいないと思います。ヨブのような心でしょうか?ヨブは心も良いし大きい器だったから、神様はこのように厳しく練ってくださったのですが、皆さんはどうでしょう?自分の心にある悪を、潜んでいる罪を自分では発見することができないから、神様がそのように試練にあうようにしてくださったのですが、結局は徹底的に悔い改めて、金のように出てくることを神様は知っておられたから、このようにヨブが激しい試練にあうようにされたのです。
聖書を読んでみると神様が試練を与えることはないとあります。自分が自分の悪のため受けるのがほとんどです。ヨブの場合は特別なケースでした。ヨブが完全な人になるようにするための試練でした。しかしこのような摂理を知らなかったツォファルは、ヨブが悪者だから、神を敬わない者だから、その栄光は続かないし、ものすごい災いにあうようになったのだと責めているのです。このように妥当性のない呪いの言葉によって、ヨブはとても心がつらくなり苦しむしかありませんでした。まだヨブは完全に御霊に属する心ではなかったから、友達が自分を厳しく攻撃したりすると、それによって傷ついて苦しくてまた腹が立ったりしたのですね。それで悔しいと思って訴えていました。神様がヨブの友達にそうさせたのではないでしょう。ヨブの友達にも悪があったから、ヨブを慰めるつもりで来たのですが、言い争ってしまい激しく責めたり呪ったりしました。そしてヨブはそのため苦しんでいたのですが、それは今ヨブがまだ完全でないからです。
人は生きていていろんな試練や患難を自分から招くことがよくあります。周りの人が自分を苦しめたり、嫌味を言ったり意地悪をしたりしていることがあるのですが、私たちクリスチャンはそのような肉の人のそうした行いによって、心が苦しくなる理由はありません。自分の信仰を守って善を行えばいいのです。人にあれこれ言われたりすることがあるかもしれないのですが、正しい助言を自分の心が狭くて受け入れないのは自分のせいでしょう。しかし自分では何の過ちもないのに理由もなく自分をいじめる人がいるとしても、そのため傷つく必要がないのです。
人の心ってこういうものなのだと思ってそれは気にしないで、自分は正しい道を歩んでいけばいいのです。すると心の中の安息は奪われることはないでしょう。しかしそうできないから、苦しくなったり辛くなったりするのです。これから伝える21章ではヨブが反論し始めます。今日のメッセージを聞いて神様の心を悟り、全てのことを真理で明らかに見分ける力を受けますように。又、悟った御言葉をもって従順の実を結び、神様の愛に包まれ真の安息を味わいますように。
本文を読むと、ヨブがツォファルの話を聞いて反論して言います。ヨブ記21:1-2です。
ヨブは答えて言った。あなたがたは、私の言い分をよく聞け。これをあなたがたの私への慰めとしてくれ。(ヨブ21:1-2)
ヨブは自分を慰めるべき友達が続けて激しく責めて怒りをぶつけてくるから、彼らを落ち着かせようとしていました。友達が黙ってヨブの話を聞くことが、ヨブにとっては慰めになるということです。これまで友達がどれ程ヨブの言葉を無視したのか分かります。ではヨブはどんな心で言っているのでしょうか?ヨブ記21:3です。
まず、私が語るのを許してくれ。私が語って後、あなたはあざけってもよい。(ヨブ21:3)
ヨブは言い分をいくら言っても説明しても、友達が受け入れないでだんだん激しく攻撃してくるから、友達が自分をあざけっていると思い苦しんでいました。ヨブは大きい試練患難の中に落ちていただけでなく、友達のものすごい非難の言葉を続けて聞いていたら、心がズタズタになっていくようでした。だから神様は聖書のあちこちで言い争ってはいけないと言われるのです。相手が文句をつけてくるとき善の知恵を持って、相手がそれ以上言えないようにすることができないなら、いっそ自分の方から黙ってその場を避けた方が知恵です。
またいくら良いことでも良い助言でも、相手が聞き入れないときは言わない方がいい時もあります。イエス様も真理を受けないでかえってそれを悪用しようとする人については、こう言われました。マタイ7:6です。「聖なるものを犬に与えてはいけません。また豚の前に、真珠を投げてはなりません。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたを引き裂くでしょうから。」とあります。皆さんは自分なりに良かれと思って、良いものを相手に与えようとしたのですが、相手はそれを受け入れないでかえって皆さんを苦しめて、その助言、良いことを踏みにじってしまうことがあるからです。そういう場合は言い争う必要はないのです。しかしヨブと友達はずっと言い争っていて、少しも譲らないのです。譲らないでずっと言い争っていて自分が正しいと言い張っていたのです。それは相手を苦しめることで相手に辛い思いをさせることです。このように互いに対立して相手を攻撃して傷つけているのです。神様はそのように言い争ってはいけないと言われています。
だから言い争うようになることがあるならば、自分の方からまず語るのをやめてじっくり考えてから、善の知恵を与えられて言えばいいでしょう。また性格の違いがあって互いにぶつかる場合もありますね。余裕もない短気なせっかちな人もいると思います。そういう場合は話をするときも互いに噛み合わないでしょう。じっくり考えてゆっくり話をする人がいるのですが、せっかちな人はそれを待つことができなくて、途中で割り込んだりするのです。そういう場合は相手の性格も考えて、そして相手を落ち着かせながら、相手を理解しながら、相手が理解できるように、また説得できるように落ち着いて話したほうがいいでしょう。しかし互いに落ち着きがなくてイライラしたりカッとなって攻撃したりするから、言い争うようになるのです。
相手の話をじっくり聞いて落ち着いて答えると言い争うことはないでしょう。だからまず相手の話を聞いて、相手の性格もある程度考え、そして自分の言うべきこともちゃんと言いながら相手の立場も理解する。こういう余裕のある姿勢が必要です。しかし相手を無視したり、話したくないと避けたりすることも良くないでしょう。自分はあの人とあまり話したくないのに、相手が話しかけてくるから面倒だとか思ってもいけないのです。善の知恵が必要なのです。日常生活の中で自分の性格のために、もしかして誤解されることがないのか顧みることも良いでしょう。そして落ち着いて説明できればいいのですが、いくら説明しても相手が聞き入れないときは、そのときは語るのをやめて、あとで雰囲気が良いときにまた話をすればいいと思います。譲ってあげればいいのではありませんか。すると互いに心に平安を保つことができるでしょう。
友達が絶えず非難してあざけっているから、ヨブはとても辛かったのです。それで今私にも話す機会をくれと言っているのです。私の話が全部終わってからあざけってもいいからと言っています。ヨブはいくら自分の言い分を言っても、友達はずっといろいろ激しく攻撃してくることを知っているから、私が語った後はあざけってもよいからと言っています。今ヨブがこう言っていることは、これまで友達がヨブに話す機会をくれなかったわけでもないでしょう。ヨブもいろいろ自分の言い分を言って語っていました。しかし友達がヨブを責めて、またひどい呪いの言葉まで言っていたのです。だからヨブはこのように言っているのですが、でもヨブも反論しながら激しく言い争っていました。両方ともお互い様なのです。皆さんは第三者の立場から見れば分かりますね。ちょっと譲ればいいのに相手の話を聞けばいいのにと思いますが、自分が実際その言い争う立場になればそのように客観的に見ることができないのです。
今、ヨブとヨブの友達がそうなのです。そして、皆さんの姿でもあります。第三者の立場から見た方がよいでしょう。ヨブとヨブの友達が言い争っているのを見て、そうしてはいけないのにと思っている方は、自分はそうしているのではないか、日常生活で自分が話をしている姿を思い浮かべてみてください。家族との会話で自分はどのようにしているのか考えてみますように。以前のことも思い出してみてください。ああその時それ以上話さなかった方がよかったのに。それ以上自分が正しいと主張しなかったらよかったのに。そうできなかったから喧嘩になってしまったと、その時のことを振り返って、次はそうしない方がいいと思って、次にそういう状況に置かれたら、黙って相手の話を聞くことができるでしょう。そのためにはまず、自分の心にある悪を捨てなければならないでしょう。すると言い争いにはならないし、平和を作ることができるでしょう。
皆さんももしかして言い争ったり、イライラしたりしている姿があるならば、このメッセージを聞いて頭の中で、ああそうしたらいけないと思うだけで終わってはいけません。実際そうできるために練習しなければなりません。そして自分が前話をしていた場面を一つ一つ分析してみてください。相手がこう話したとき私はこんな風に話していた。でもこれからもし似たような状況に置かれたら、相手がこんなふうに話しても私はこう話そうと、前もって自分が言うべきことをセリフのように用意しておくのです。ごめんなさいとまず言ったほうがいい。そしてああそうでしたかと相手の立場になってこのように分かってあげる。そういう態度で話そうと、このように一つ一つ次に来る同じような状況で、自分がどんなふうに話すのかを、用意しておいたほうがいいでしょう。
ところで、これまでヨブとヨブの友達の話を考えてみれば、試練にあっているヨブだけではなくて友達も辛い思いをしていました。悩ましかったのです。今ヨブは自分が試練にあっているから苦しいですね。辛いです。そして友達があなたは悪い、あなたは正しくないと、このように、友達が責めているからヨブは本当につらかったのです。でもヨブの友達も同じように心苦しかったのです。なぜなら友達は神様を知っていると思っていたのですが、心の中で真の安息がなかったからです。神様は全ての人との平和を追い求め、聖められることを追い求めなさい。敵をも愛しなさい。いつも喜んでいなさい、絶えず祈りなさい。全てのことについて感謝しなさい。悪はどんな悪でも避けなさいと言われました。しかしこのような御言葉通りに従っていないから、友達も心の中で平安がないのです。もし御言葉通りに従っていたならば、喜びと平安がいつもあったでしょう。
今ヨブは友達のアドバイスを聞きながら、それを拒否するのですね。聞かないで自分の立場だけを主張するから、心の中でイライラしたり腹が立ったりするのです。相手が自分の話を聞いてくれないから、受け入れないから、心の中の安息がなくなってしまうのです。真理で照らしてみれば愚かな姿ですね。相手を理解して相手の心が安らかになるようにしなればならないのに、そうできないのです。ヨブもヨブの友達も同じです。だから心苦しいのです。愛する皆さん、皆さんはどうでしょうか?御言葉通りに行っていて、真の安息を味わっていますか?そうでなければもしかして信仰生活が辛いきついと感じられますか?
イエス様はマタイ11:28-30でこういわれました。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、私の荷は軽いからです。」人の子らは世で自分の思い通りに生きようとすると、疲れて重荷を負っているような辛い思いをします。しかし、神様のところに抱かれるなら、主はすべてのくびきを代わりに負ってくださるから、つまり罪の代価を代わりに払ってくださるから、救ってくださって、真の安息を得るようになります。神様は子どもたちが天国に行くまで、この地上で生きている間も、霊の糧を供給してくださり、神様の恵みのうちにとどまるようにしてくださいます。
ところでなぜ多くの聖徒が神様を信じると言いながら真の安らぎを得ることができないでしょうか?信仰生活を辛いと思うでしょうか?それは真理である神様の御心に従わないからです。ガラテヤ5:16-18に「私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです。しかし、御霊によって導かれるなら、あなたがたは律法の下にはいません。」と言います。
神様は主を受け入れた子供たちの心に聖霊を賜物としてくださいますが、聖霊を受ければ死んでいた霊が生き返ります。聖霊は罪と義と裁きについて悟らせてくださり、罪と不法を捨てて義を行うように助けてくださいます。また天国に生きる信仰と希望を下さり、幸せに信仰生活ができるように導いてくださいます。ですから誰でも聖霊によって歩むなら聖霊が喜ばれるから心に平安が臨み嬉しくなります。ところが私たちが御霊に従おうとするときこれを妨げるものがあります。それは肉の願うことです。肉の願うことは御霊に逆らうものです。肉の欲・目の欲・暮らし向きの自慢を追ってあらゆる罪と不義と不法を行おうとすることです。このように肉に従っていけば御霊がうめかれるので御霊に満たされることができなくなり心が苦しくなります。
しかし私たちが御霊によって歩み真理に従うなら、つらいことがなくなります。誰かが自分に唾を吐いても、御霊によって歩み許して愛して受け入れるなら、心の中で戦いがないのです。だから心に真の安らぎを得るのです。更にこの聖めの福音を聞いて真理を知っているマンミンの皆さんならどうでしょう。真理の知識が心の中にありますね。また御霊が悟らせてくださいます。だから誰かが自分を苦しめても御霊によって従って行うことができるのです。でも問題は自分というものがあり肉というものがあるからです。肉が願うことに従ってしまうのです。それで肉の思いを巡らしてしまいます。それで腹が立ったり、イライラしたり、その人が憎らしく思ったりするのです。でも御霊によって歩もうとするならば、真理によって自分の心を治めることができます。それで心が平安になるのです。
しかしそうしないで御霊に従わないで肉の願うことに従っていくならば、その人のところに行って一言言ってやりたいと思うのですね。それで実際行って問い詰めたらどうでしょう?すっきりしますか?そうではありませんね。心の中で平安がなくなります。その人のところに一言言ってあげたらその時は胸がすっとしたかもしれません。しかし聖霊は喜ばれないのです。神様がくださる平安はないのです。だから神様を信じている人は御言葉に従って御霊に従うとき、心に真の安息が臨むのです。
皆さんも、もやもやするところがありますか?聖霊に満たされていませんか?心の中で喜びがありませんか?それは御霊に従っていないからです。真理に従っていないからです。だから心の中で平安がなくなってなんか不安になったり心苦しくなったりするのです。食事をした後ちょっとお腹の具合が悪くなった時どう思いますか?ある人はもしかして大きい病気ではないかと不安になります。それは普段からみ言葉通りに生きていないからです。皆さんがこのような辛い信仰生活をしているならどれ程苦しいでしょうか。私は良い環境ではないからと思ったり、家族が助けてくれないから色々大変だと思うのではなくて、皆さん自身が御言葉に従って御霊によって歩むなら、そういう悩みはなくなるのです。心に平安が臨むのです。
例えばステパノ執事は真理を伝えていて、悪い人々によって石打ちにされて死にかけていながらも、「主をこの罪を彼らに負わせないでください。」と祈りました。この時ステパノ執事の心に何か苦しみとか悩みとかあったでしょうか?皆さんがその立場になったと考えてみてください。周りの人々が皆さんを迫害して憤って石を投げています。それならステパノ執事はどうだったでしょう?余計なことを言ってこんなふうに殺されるのかとか後悔したでしょうか?そうではなかったでしょう。もちろん真理を受け入れない人々を思うと悲しむ心はあったと思います。でも彼らを恨んだり彼らのせいにしたのではありません。彼らのために祈ったのです。どれほど心の中に平安があったでしょうか。だから石打ちにされて死にかけていながらも、ステバノ執事の顔は平安で微笑んでいたでしょう。心に真理が満たされているから、命が危なくなっても平安を失わないのです。
ところで信仰生活をしながらそれが辛いなら、神様の掟に従わないからでしょう。心の中に憎しみがあるから苦しいのです。高ぶりがあるから辛いのです。心の重荷があるから平安と安らぎを得られないのです。ですから信仰生活をしているつもりなのに、心の中に平安がなくてきついとか辛いと思うなら、それだけ自分の中に真理と反対のものがたくさんあるということです。肉の思いを巡らして、自分の思い通りにしようとするから、大変なのです。ローマ8:6-7に、「肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。」とあります。悪はどんな悪でも避けて心を真理で満たすなら、肉の思いが入り込む隙がありません。主の心で満たされているから、真理の光だけが心にあるのです。こうやってイエス・キリストの心に似ていくなら、愛が溢れるから苦しくなることはありません。
例えば運動場でかけっこをするとき、胸に大きい石を抱えて走っている人と、何も持たずに走っている人がいるとしましょう。すると何も持たずに走っている人は軽く走れるでしょう。でも大きい石を抱えて走っている人は、汗を流しながら辛そうに走っているでしょう。私たちの心の中に大きい石のような固い悪い心があるから、信仰生活がつらいのです。ですから大きい石のような固くて悪い心を、真理の光で神様の御言葉である鋭い剣で打ち砕かなければなりません。悪はどんな悪でも避けて心を聖くして割礼しなければなりません。皆さんの心から妬み、そねみ、憎しみ、高ぶり、移り変わること、偽り、憤り、貪り、姦淫などを全部捨てたなら心に真の平安が望むでしょう。
誰かが自分を苦しめると思いますか?誰かが自分に嫌味を言って自分もその時かっとなって言い返したのでしょうか?それならその後どうでしょう?心の中で平安がなくなりますね。もやもやしますね。相手の方が悪かったけれど、私はその人よりはあまりきつい言葉ではなかったと思うかもしれません。世の人が見たときはそれを悪いとも思わないでしょう。当然のことだと言うでしょう。でも神様を信じる人は後で心は苦しいのです。言わなかったほうがよかったのにと思うのです。何故そんなふうに言ったのでしょうか?自分の中に石のような悪い心があるからです。それを取り除かなければならないのです。だから、そういう場合は相手のところに行って、先ほど言い過ぎたと思います。申し訳ないですと言えば、その時また喜びが臨むと思います。そうすると心の中にある石がなくなるのですね。それで平安が臨むのです。
善を行うということはこのように嬉しいことです。すると相手も申し訳ないと思うでしょう。相手がそう思わなくても、私の方からは謝って真理を行ったから、御霊が喜ばれるのです。だから自分の心も嬉しくなるのです。心の中から石のような固い悪い心はなくなるからですね。これが真理の人のすべき姿でこれが知恵なのです。皆さんはこうしていますか?そうでなければ肉の願うことに従ってしまったでしょうか?それで相手と言い争ってしまったり、問い詰めたりしたのでしょうか?その時なんか気が重くなって、なんか聖霊が喜ばれていないような気がしたのに、それを無視してまたその後悪を行ったりすると、だんだん心が鈍くなってしまい、ついには良心が麻痺してしまうことになります。これはどれほど恐ろしいことでしょうか。そういう人は自分が罪の重荷を負ってつらそうに信仰生活をしているのに、その重荷を下ろそうとしないのです。
皆さんはそのような愚かな姿になってはいけないでしょう。私たちは真理の御言葉、聖めの福音を聞いているから、真理を行ってこそ平安が臨みます。そして真理に逆らってしまうなら心は苦しくなることを知っています。だからその時聖霊の声を聞いて聞き従って祈って善を行って、悪と罪を捨てていけば、上からまことの平安が臨むようになり、心は幸せになるのです。またそのような状態で祈れば答えを受けるでしょう。もう一つ調べてみるところがあります。ある聖徒は信仰生活をしていくなか、いつも恵みを体験して祝福を受けているのに、ある人は試練患難や迫害によって苦しんだり、病気にかかったりします。教会の試練の時でもある聖徒は、ああ私、本当に幸せです。心が本当にうれしいです。どの時より信仰が優れていると思います。このような強い激しい波があっても、それによって私はもっと速やかに変えられますと告白する人がいました。
しかしある人は教会の試練の時、いろんな環境のせいにしたりして落ち込んでしまったり、熱心が冷めたりする人もいます。そしていろんな人についてあれこれさばいたり陰口を叩いたりする人もいます。いろんな噂話をしたりする人もいるのです。同じ教会の聖徒で同じように信仰生活をしているのに、なぜこういう違いがあるのでしょうか?ある聖徒は信仰生活を始めたばかりなのに、信仰がすぐ成長します。しかし数十年間信仰生活をしていても、信仰が全然成長しない人もいます。同じ希望のメッセージを聞いても御国に向かってゆっくり歩いている人もいれば、熱心に走っている人もいます。最初は走っていてある時から止まってしまう人もいるし、世に振り返ってしまう人もいます。同じ神様を信じているのになぜこういう違いがあるのでしょうか?それはどのくらい神様の御言葉に聞き従うか従わないかによって違います。それぞれの選択によるものです。神様は全ての人を愛しておられます。公義によってそれぞれの行いに応じて報えてくださる方です。
箴言8:17に「わたしを愛する者を、わたしは愛する。わたしを熱心に探す者は、わたしを見つける。」と言われました。私たちが神様を愛する時、つまり神様の御言葉通りに行う時、答えと祝福を受けます。神様愛していますと、口先だけで言うのではありません。神様の御言葉通りに行ってこそです。そうしてこそ、霊的に成長できます。このように、み言葉に従うか従わないかによって違うのです。同じ教会で同じメッセージを聞いていても、信仰の成長も答えを受けることも違うのです。ある人は一年中何の証しもないし、神様に栄光を捧げることが何もないならそれも問題でしょう。
また神様は、真理の御言葉を知っていながらもその通りに行っていない人に、もっと責任を厳しく問われるのです。知らないため行えなかった人がいて、また知っていながらも行っていない人がいるなら、どちらがもっと大きい責任を問われるでしょうか?ヤコブ4:17に「なすべき正しいことを知っていながら行わないなら、それはその人の罪です。」とあります。愛しなさいと言われたのに愛さないこと、仕えなさいと言われたのに仕えないこと、聞き従いなさいと言われたのに聞き従わないことが罪なのです。又、使命をはたさないことも感謝しないで喜ばないで祈らないことなど全部御言葉に逆らう罪なのです。ですから愛する皆さんは、神様の御言葉をただ知識として聞いて知っているだけではなく、必ず実行して真の平安を味わい、日増しに魂に幸いを得ているように全ての点で幸いを得、健康でありますように。
