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ヨブ記講解54 - 悪者と神を敬わない者の結果(3-下)

9月14日
読了時間: 16分

説教:イ・スジン牧師

本文:ヨブ記20:25~29


ヨブ記20:25です。


「彼がそれを引き抜くと、それは彼の背中から出る。きらめく矢じりが腹から出て、恐れが彼を襲う」(ヨブ20:25)


矢が人の体に刺さるとその苦しみと痛みは言葉で表現できないほど大きいでしょう。しかも鋭い矢じりが体の臓器を刺した状況なら、その苦しみはどうでしょうか。何としてでもその矢じりを引き抜いて治療してこそ痛みが治まるでしょう。ところで本文を読むと、きらめく矢じりが腹から出て恐れが彼を襲うと言っています。この聖句はただ文字づらだけで解釈すれば理解が難しいので、例えをあげて説明しましょう。例えばある人が詐欺にあって怒りに勝てなくて相手を殺したとしましょう。彼が人を殺すまではそれだけ感情的になってひどい苦しみと痛みがあったでしょう。詐欺にあって自分が大きい損をして、その相手を恨んで怒りに耐えられなかったのです。​


相手はうまいことを言って、このくらい投資をすれば利子を後で何倍もして返すからと言っていました。しかし最初は利子をちゃんと返していたのですが、後でもっと大きい金額を投資するように言うのです。それで自分が持っているお金だけではなくて、家族にもお金を借りてあちこちから借りてきてそれを投資したとしましょう。しかし結局それが詐欺だったのです。それで、自分は自分の財産も全部失ってしまい、周りの人まで損をするようにしたとしましょう。自分の家を担保に入れて銀行からお金を借りたかもしれませんね。それなのに詐欺に遭ってしまって、それを返せなくなってしまったとすれば、もう住む家もなくなって、家族もどれほど苦しむでしょうか。しかし自分に詐欺をした人はうまくいっているのです。それを聞いたときどれほど苦しいでしょうか、どれほど腹が立つでしょうか。​


自分はこのように破滅してしまったのに、自分を苦しめた人、自分を騙した人はなぜうまくいっているのかと思って、その人を殺したくなるのです。だからもう自分のその苦しみ、痛み、悩みに耐えられないのです。それは矢が体に刺さっている苦しみに例えられます。矢が体に刺さっているとどれほど痛いでしょうか。また炎症が起こったり臓器が傷ついたりするでしょう。詐欺に遭った時の心の苦しみが、それと似ているのです。しかしその人を憎んでいただけではなくて、その苦しみを忘れて、腹いせにその人のところに行って殺してしまったのです。その人のところに行って、私はこんなに大きい金額を損をしたから返してほしいと言ったり、私はこんなに今住む家もないし家族も苦労していると言いながら責任を取れと言うかもしれません。​


しかし相手は自分をあざわらったりそして無視したり、いい家で、良い車に乗って、うまく贅沢に暮らしているとしましょう。それでその時、その人を殺してしまいました。殺した時は気づかなかったのですが、人が死んでいる姿を見たら、私は罪を犯してしまったと恐れが押し寄せてきますね。そして恐れて恐怖が押し寄せてきて、後悔するようになります。これが本文で言う、恐れが襲うということです。ヨブ、矢を引き抜いた後には、あなたにそのような苦しみが伴うだろう。恐れが押し寄せてくるだろうと言っているのです。ツォファルはこのように、ヨブを苦しめるために、脅迫に近い表現をしています。決して言ってはいけない呪いの言葉で友達を苦しめているのです。どれほど悪い姿でしょうか?私たちはこのように悪い言葉で相手を苦しめる過ちを犯してはいけません。



ところでここでもう一つ調べてみる分野があります。神様を信じる人が罪を犯した時の苦しみについてです。皆さんが罪を犯したとしましょう。先ほど言った殺人のように大きい罪でなくても、自分を苦しめて害を与えた人に復讐したいと思ったり、憎んだりしているとしましょう。自分の悪口を言っていた人について知ったならばどう思いますか?その人のところに行って一言言ってやりたいし問い詰めたいのですね。それで実際言ってやって言い争って憎くなりました。真理を知っているみなさんならこれも罪だと罪の意識を感じるようになるでしょう。先ほど言ったように、矢に刺さったならばそれを引き抜いて治療すれば良いのですが、そうしないで自分の心にある罪によって、肉の思いを巡らしていろいろ悪いことをするのです。それでそうした後はどうなりますか?


心がすっきりするのではなくて、良心の過酌を感じたり、後悔したりするのです。それで心が苦しくなりますね。悪を行ったから。感情的になって悪を行ったのですが、その後は平安があるのではなくて、不安があるし、神様の前にも大胆に出ていくことができないし、苦しみと恐れが襲うのです。人との関係だけではなく心の中で罪を犯した時とか、肉の行いをした時とか、姦淫を犯した時もそうでしょう。神様の前に申し訳なくて恥ずかしくなるでしょう。人に誘惑されて死にいたる罪を犯したならどうでしょう。神様の前に責められるのではないかと恐れますね。そして大きな悪を行ったなら、何か災いがやってくるのではないかと心配して不安になって、後悔するようになります。


皆さんこのように罪を犯した後に苦しみながら後悔するよりは、罪を捨てて後悔するようなことをしない方が、知恵ある生き方ではありませんか。イエス・キリストの心に似て聖められるまでは、忍耐と労苦が伴いますが、完全に悪を捨てた後、聖い心で感じる平安と喜びは、言葉で表現できないでしょう。私たちは人間関係の中でどうなのか顧みましょう。家族との間で会社の同僚との間で教会の働き人の間でどうでしょう?自分と気が合わない人、自分と考えが合わない人との間でギクシャクしたり気まずくなったりすることはありませんか?それでその人に何か厳しく強く言ってやりたいと思いますか?それで実際に言ったならばどうでしょう。心がすっきりしますか?胸がすっとしますか?そうでないでしょう。反対です。


神様の前で申し訳なくて、真理を知っているからそれも悪なんだと思って、とがめを感じるようになります。それで聖霊に満たされなくなってしまうこともあります。だから私たちは、悪を行ったり罪を犯すことを絶対してはいけないのです。その為には罪と悪を捨てなければならないのです。人を裁いたり罪に定めたりして、後で祈りながら後悔して悔改めたとしましょう。しかしその後、その根本になる罪の性質を捨てなければ、また人を裁いて罪に定めるようになるのです。また人の陰口を叩いたりして、悪いと思って後でそれを後悔して反省したとしましょう。しかしその自分の中にその罪の根の根がそのまま残っているならば、また出てくることがあります。ですから私たちは心の中に罪と悪があるということを自分が認めて、そしてそれをただぎゅっと押さえつけておくのではなくて、完全に捨てて取り除かなければならないのです。


罪とか悪を犯した後、私たちは悔い改めますね。それで涙で祈ったりします。しかしまた人に何か悔しい目にあったり悪いことを言われたり、嫌味を言われたりするとまたムッとしたり、カッとなって、その人を憎らしいと思ったりすることはありませんか?でも私たちは真理を聞いているから、真理に照らして自分を顧みて変えられる機会があります。それで悪を完全に捨てたら心が聖くなるから、平安と喜びが臨みます。そうすると、この地上でも祝福され天国でも栄光を受けます。ですから私たちはこのような望みを持ってさらに聖められていきましょう。


続くヨブ記20:26です。


すべてのやみが彼の宝として隠され、人が吹きおこしたのではない火が彼を焼き尽くし、彼の天幕に生き残っているものをもそこなってしまう。(ヨブ10:26)


ツォファルはヨブが富を貪って悪者のように貯めていたから、それについて報いとして闇が臨んだと言っています。どんな人と交わることもできないまま閉じ込められた状態、さまようしかないし、活動できない状態になると言っています。そして、それまで貯めたすべての財産もなくなってしまうと言っています。これはヨブを妬んでいたツォファルの心からこういう言葉が出てくるのです。もし妬んでいなかったなら、ヨブの財産についてこういう表現は使わないでしょう。「人が吹き起こしたのではない火が彼を焼き尽くし、彼の天幕に生き残っているものをもそこなってしまう。」と言っています。ヨブにやってきた災いは、人がもたらすものではなく、神様が御顔を背けられたからだと言っているのです。ヨブあなたは悪者だから神様に御顔を背けられ、サタンが働いて災いに遭ったのだ。だからあなたは神の懲らしめとして滅びるしかないのだと言っているのです。


続く本文を読むと神様が悪者の罪と悪をどのように明らかにされるのかについて言っています。


ヨブ記20:27です。


天は彼の罪をあらわし、地は彼に逆らって立つ。(ヨブ20:27)


ツォファルは神様がヨブの罪と悪を明らかにされるから、ヨブの前にある全ての道は絶えてしまうと言っています。ヨブ、天があなたを許さない、だから全てが虚しくなる、あなたの命は尽きる、あなたの道も絶えてしまう。あなたの人生のすべてはもうすべてが終わりになると言っているのです。これは神様の公義の法則についての説明でもあります。箴言15:3です。「主の御目はどこにでもあり、悪人と善人とを見張っている。」とあります。神様はどこにもおられ探っておられ必ずそのそれぞれの仕業に報いてくださいます。国の王や有名人でも同じです。歴史が裁くという言葉もありますが、人は悪い知恵と方法を使って自分の地位を高めて、それをしっかり固めたつもりでも歳月が経つと必ずその悪は明らかになるのです


聖書の例を挙げれば、そもそもゴモラの町の民はそうでした。罪と悪によって都市全体とともに滅びました。もともとソドムとゴモラは創世紀13:10に、主の園のようにエジプトの地のように、どこもよく潤っていたと言われるほど良い地でした。しかし罪に対する裁きによって、神様が硫黄と火を雨のように降らしたら、どんなものも育つことができない地になってしまい、荒れ果ててしまいました。第二ペテロ2:6に「ソドムとゴモラの町を破滅に定めて灰にし、以後の不敬虔な者へのみせしめとされました。」とあります。このように悪者はその当時だけではなく後代にも多くの人の非難の対象になるのです。


反対に韓国の朝鮮時代の世宗大王やイ・スンシン将軍のように、様々な業績によって後代まで尊敬され、記憶に残る人もいます。箴言13:9に「正しい者の光は輝き、悪者のともしびは消える。」とある通りです。そして民の心は天の心という言葉もありますが、神様は人の心を動かして悪者を明らかにしたり、国の法を変えていかれたりもします。権力者たちは何かのことを自分の権力で左右できると思いますが、ローマ13:1に「神によらない権威はなく」とあるように神様の権威の下にあるのです。


例えばピラト総督はイエス様を尋問するとき「私にはあなたを釈放する権威があり、また十字架につける権威があることを知らないのですか?」と言って、総督という自分の権力を持って左右していると思いましたが、イエス様は「もしそれが上から与えられているのでなかったら、あなたには私に対して何の権威もありません。」と言われました。すべての権威は神様に属しているもので、いくらローマから派遣された総督でも神様の権威の下にあるということです。つまり人の死と生は神様にかかっているので、いくら人が大きい権力を振るっていても、神様がこれを止められるならば止まるしかないのです。神様のお許しがなければ雀一羽も地に落ちることはないのです。ですから本文に天は彼の罪をあらわしという言葉は神様の公義の裁きについての言葉です。


それでは本文に「地は彼に逆らって立つ」とはどういう意味でしょうか?地は人の基本的な生活の場所として誰でも地に種を蒔いて汗を流して誠実に働けば、それなりの実を刈取ります。地は、人が生きている間、豊かに生産して、祝福を与えるものなのですが、悪者の祝福は全部消えてしまうということです。創世記27章を読むとイサクは息子のヤコブに長子の祝福を祈るときこう言いました。ヤコブとヤコブの母がイサクを騙して、ヤコブは次男だったのですが、長男の祝福を受けるようにしました。それでイサクはその祝福の祈りをしていました。その内容を見てみると神がお前に天の露と地の肥沃、豊かな穀物と新しい葡萄酒をお与えになるようにと祝福をしました。


人の心もこうですが、愛の豊かな神様の心は子どもたちに豊かに祝福してあげたいと思っておられます。ところが万物の霊長であるアダムが呪われたら彼に属しているこの地上の万物も一緒に呪われてしまいました。アダムが罪を犯す前は自ら豊かに結ばれた果物を取って食べればよかったのですが、罪を犯した後は地が呪われて茨とアザミを出して、汗を流して労苦してこそ食物を得ました。このように人の罪によって地は呪われて、貧しさの苦しみもその時から始まりました。


ところが神様は私たちが御言葉にとどまって完全な十分の一献金を捧げれば、マラキ書3:11-12に「わたしはあなたがたのために、いなごをしかって、あなたがたの土地の産物を滅ぼさないようにし、畑のぶどうの木が不作とならないようにする。すべての国民は、あなたがたをしあわせ者と言うようになる。」と言われました。このように神様の御言葉に聞き従うなら豊かになるのです。同じ地でも正しい人は祝福を受けて、その土地の産物を豊かに得るようになるのです。大雨の時もその木の実が落ちないのです。又、収穫が多いのです。しかし悪い人の場合は自然災害が起きると守られなくて木から実が落ちてしまったりまた病虫害にあったりするのです。世の中ではこのようにいろんな自然災害によって苦しんでいるのです。


それはアダムが罪を犯したから地が呪われたからなのです。しかし正しいものはその中でも神様の御手によって守られるのです。ツォファルは今悪者が受ける苦しみ、悪者が呪われた地のため苦しむことについて言っているのです。あなたがいくら労苦してもあなたは地の産物を得ることはできない。あなたの祝福は無駄になると言っているのです。ツォファルはヨブが悪者だからそうなるとこのように決めつけて呪っているのです。ヨブには正しいものに臨む祝福は関係ない。完全に滅びてしまうと言っているのです。そしてツォファルは結論をつけてこう言います。


ヨブ記20:28-29です。


彼の家の作物はさらわれ、御怒りの日に消えうせる。これが悪者の、神からの分け前、神によって定められた彼の相続財産である。(ヨブ20:28-29)


彼の家の作物はさらわれ御怒りの火に消え失せるとは、神様の御怒りによって全ての財産が、洪水に流されるように消えてしまうという意味です。そしてこういう災いはヨブが悪者だから、神様によって定められたものを受けるのだと言っているのです。ツォファルはヨブを悪者だと決めつけて罪に定めて、神様の定められた懲らしめを受けるべきだと言っています。もしこの言葉があっているなら、ヨブは滅びるしかなかったでしょう。しかし結末を見れば、ヨブは悔い改めて立ち返ってさらに祝福されました。今ヨブが苦しみを受けているのは、神様がヨブを愛しておられるから、更に大きな祝福を下さる為に練っておられるのです。だからツォファルの主張はあっていません。愛する子ども達に更に良い道があるならば、お仕置きをしてでも教えて訓戒する親の心のように、ヨブの試練は神様の愛の表現でした。しかし、この言葉を皆さんが誤解してはいけません。


神様が人の運命をあらかじめ定めておかれたとか、勝手に変えてしまうんだと思ってはいけません。先ほど世の権力者でも神様の権威の下にあり神様が人類の歴史と人生の生死禍福を司ると言ったのですが、神様が全てをあらかじめ決めておいて導いていくと思うクリスチャンもいます。しかし世のことがらについてこのように行えばこういう祝福が臨み、このように行えばそのようになると神様が定めた原理があるだけです。霊の世界の法則があるのです。しかし神様は人の心や選択を無理やり変える方ではありません。なぜなら人には自由意志があるからです。全知全能の神様は救いの枠を定めておかれ、祝福と呪いの法則も定めておかれ、それに従って司られる方です。枠は決まっているのですが、個人の選択やことの方法、過程などまで全部決めておいたのではないのです。


しかし予定論を主張する人々は神様が既に全てを決めておかれたから、救われることも既に定められていると主張します。それで一度救われた人は最後まで救いは変わらないと言っています。しかし私たちはそうではありません。予知予定の神様を信じます。予知予定とは神様はそれぞれの人がどんな風に選んでどんな結果になるか知っておられますが、だからといって神様がそうなるように決めておかれたのではないという意味です。結果は人の自由意志によっていくらでも変わることがあります。神様はその結果までも知っておられ全てを計画して成し遂げられるということです。


例えば神様はアブラムがいつどこで、どんな心を持って生まれるのかを知っておられたから、それに合わせて彼を信仰の父にしてイスラエルを導くための計画を立てておかれたのです。神様は律法を通して救いの枠を定めておかれただけなので、その救いの枠に入るのか入らないのかは人の自由意志によるものであるということを悟ってください。例えば神様がキム執事は罪を犯して地獄に行きなさい。イ執事は罪を犯さないで天国に行きなさいと、このように決めておかれたのではなく、このような選択がそれぞれにかかっているということです。もし神様が各人の運命を予定しておいたならば、裁くことはできないでしょう。裁きの必要はないでしょう。それでは神様は悪者と正しいものをどんなふうに治められるでしょうか?これについては次の時間から始まる21章で説明しましょう


結論です。


皆さん今日まで3時間にわたって悪者と神を敬わない者の結果について伝えました。箴言24:19-20に「悪を行う者に対して腹を立てるな。悪者に対してねたみを起こすな。悪い者には良い終わりがなく、悪者のともしびは消えるから。」とあります。これは悪者の結末は破滅ですが、反対に正しい者の栄光は永遠にあるという意味です。つまり悪者が今味わっている繁栄は虚しいもので一時的だけで、それを知っているならば、その悪者の成功や自慢を羨ましいと思う必要はないという意味です。今、ヨブ記講解で悪者と神を敬わない者の結果について伝えていますが、これを心に必ず刻みますように。


裕福な人がいて悪者がいますがその人の成功をうらやましく思う必要はないのです。正しい者がいてその人が貧しいなら、もちろん豊かになればいいのですが、それでも正しいものを選んだ方がいいのです。それが神様が望んでおられる真理の人なのです。詩編37:8に「怒ることをやめ憤りを捨てよ。腹を立てるな。それはただ悪への道だ。」とあるように、悪者に対して腹を立てたりするとそれは悪だから、そうすることは決してあってはならないと強調しておられます。


誰か悪い人に対して腹を立てたり悪を思ったりすることは、自分に霊的に害を与えることです。悪者が積んだものは必ず崩れます。ですから、私たちは悪者がうまくいっていることを羨ましく思う必要もないのです。ですから、悪を行う者に対して腹を立てる必要はないし、暗い世の中で私たちはただ善と真理を追い求めて、宝石のように光を放っていきましょう。正しいものになりましょう。それで神様にとって慰めと喜びになる皆さんになりますように。


聞いたメッセージを思い出して一緒に祈りましょう。父なる神様今日も悪者と神を敬わない者の結果はどうなのか調べてみました。今は悪者がうまくいっているように見えても必ず神様の裁きがあり、そしてこの地上でも後の世でも惨めな結果を迎えるしかありません。それを悟るようにしてください。それで私たちは悪者を、神を敬わない者を羨ましいと思ったり、その道を行くのではなく、善を追い求めて正しい道に行くようにしてください。悪を行う人はどれほど心苦しいのかを悟って、悪はどんな悪でも避けるようにしてください。感謝してイエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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