ヨブ記講解53 - 悪者と神を敬わない者の結果(2-下)
説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記20:17~21
次にヨブ記20:17-18です。
「彼は川を見ることがない。すなわち、蜜と凝乳の流れる川を見ることがない。彼は骨折って得たものを取り戻しても、それをのみこめない。商いで得た富によっても楽しめない。」(ヨブ20:17-18)
ここで蜜と凝乳の流れる川を見ることがないとあります。これはヨブが豊かさと土地と家族など良いものを全部失った。それをもう見ることはできないと言っています。また骨を折って得たものを取り戻しても、それをのみこめないとあります。これは頑張って手に入れたものは、もう味わうことができないという意味です。そして商いで得た富によっても、楽しめないとありますが、これはヨブが正当な方法で得たものでも自由に使うことができない。全てが消えてしまうという意味です。
ツォファルはヨブになぜこのようにひどいことを言っているのでしょうか?現実だけを見るとヨブはどん底に落ちているからです。家族も親戚もみんな離れてしまいました。ヨブ自身も病気によって悲惨な状況になっています。だから友達がヨブを見るとヨブがまた健康になると考えるでしょうか?又は周りの人が助けて立ち直ると思いますか?もうヨブはどんな方法でも回復が不可能に見えたから、決めつけて言っているのです。
皆さん、ひょっとして皆さんの中で、今自分の境遇がヨブのようにどん底に落ちていて、到底立ち直る力がないと思っている方がいますか?しかしそれは信仰ではありません。肉の思いです。信仰とは自分の能力を信じるのではなくて、全知全能なる神様を信じることです。神様の力は人の限界を超えます。神様は人の思いとは異なる方法で導いていかれます。無から有を想像なさる神様、全能なる神様が介入してくだされば一瞬でも癒されます。現実を見ればどん底に落ちているように見えても、神様が働いてくだされば一瞬でも回復して、以前より祝福されることがあります。
大礼拝の時も聞いたでしょう。この地上が七年艱難によって破壊されて全てが荒れ果ててしまいました。それであちこちで悪臭がして、また土地も全部汚染してしまい、何かを植えても育たないでしょう。空も海もすべてが汚染されていて真っ暗でしょう。最近もいろいろ災害がありますね。大きい雹が降ったり、地震とか津波とか大雨とかいろんな被害があります。七年艱難の時にはそれは全部起こるし、また戦争によっても世界が全部破壊されるのです。しかしその艱難が終わって千年王国が始まるために、主が言葉によってすべてを回復させるのです。神様の力はこういうものなのです。言葉で天地万物を作る神様だから、そのような荒れ果てた地球全体を回復させて、美しく新しくしてくださるのです。だから人の力で限界を決めるのではなくて、全知全能なる神様を信じて神様により頼むなら、そして信じて真理を行っていくなら、神様は再創造の御業によって、私たちを新しくして下さることがおできになるのです。人の心もつくり変えてくださる方なのです。
多くの皆さんが実際体験してこられたではありませんか。万民の歴史を見てみると今までずっと信仰の歴史でした。本当にどん底に落ちたようなこともあったでしょう。病気になって死だけを待っていた人もいたでしょう。しかし自分自身を顧みて悔い改めて立ち返って、神様の前に出てきて涙で悔い改めて神様にすがり、真理を行って光の中を歩んでいれば、神様はその試練の過程が終わったら全てを回復してくださり、さらに祝福してくださるのです。それで公義を満たすならば神様が介入してくださって、癒されたり祝福されたり答えを受けたりするのです。皆さんはこういう証をたくさん聞いたでしょう。また皆さん自身が体験したでしょう。
余命宣告を受けた重い病気でも、神の力が込められたハンカチによって祈りを受けて、癒された方々がたくさんいるでしょう。それで今は忠実な働き人になっています。また家族の中でいろいろな問題で離婚寸前だったり、子供がぐれたりすることもあったのですが、聖めの福音を聞いて自分を顧みて悔い改めて自分のせいにして、謙遜になって家族に仕えたら幸せな家庭に変わったという証もたくさんありますね。このように神様に喜ばれていけば、神様は一瞬ででも祝福してくださることができるし、どんな問題でも解決することができます。現代の科学や医学で治療できない病気でも、罪の壁を探して見つけて悔い改めて立ち返るなら、神様は完全に癒して下さいます。ですからどんな絶望的な境遇におかれても、神様の力を信じてより頼んでください。続く本文を見るとツォファルは、ヨブが何故このような惨めな結果がきたのか、その理由を説明しています。
ヨブ記20:19です。
「彼が寄るべのない者を踏みにじって見捨て、自分で建てなかった家をかすめたからだ。」
(ヨブ20:19)
つまり悪者がすべて失って滅びる理由は、彼が貧しい者を踏みにじって見捨て、人の家をかすめたからだと言っています。歴史を見てみれば権力者たちが、貧しい人々を顧みないでかえって虐げることがありました。これは神様がご覧になるときとても悪いことでした。しかしヨブはそのように悪者ではなかったのです。貧しい人々を助けて、弱っている人を力づける人でした。それで神様も潔白で正しいと認めてくださった人なのに、今ツォファルは悪意を持って、でっち上げてヨブを罵っているのです。友達としてヨブを慰めるどころか、だんだんもっと苦しめているのです。友達がこのようにヨブを指摘して、ヨブを攻め立てているのですが、前ヨブがよくやっていたこと善行を、悪意を持ってでっち上げて、ヨブを罵る姿があったでしょう。悪意を持っていればこのように悪くなるのです。悪い言葉が口から出てくるのです。皆さんも自分にそういう姿はないのか、顧みますように。
何か自分が見て気に入らない人がいるなら、その人がよくやったこともあるのに、それは言わないで、その人がミスをしたこととか、ちょっと欠けているところがあるなら、それを他の人に言ったりするのです。実際その人にも良い面があるのに、それを見ようとはしないのです。それなら自分の中にどれほど悪があるのか悟らなければなりません。悪意とは相手にとって害のあることを理解した上で行動することです。他人や物事に対して抱く悪い感情です。このような悪い感情はどれほど愚かで無価値なもので、また大きい罪を生んで相手を苦しめることなのか、私たちは覚えていなければなりません。負の感情を持っていると口の言葉も悪く出てくるし、だから心から悪そのものを捨てなければなりません。負の感情とはネガティブな感情のことですね。
皆さんの理解を助けるために感情について説明します。普通、感情といえば、何かの現象や物事に対して心の中で感じる気持ちを言います。喜怒哀楽、つまり喜びと怒り、悲しみと楽しさをはじめ、恐れとか不安など、すべての感じがこれに含まれます。人はこの地上で生きている間このように多様な感情を体験しながら、人間耕作を受けていきます。ところで私たちが捨てるべき感情は負の感情です。良い感情ではなくて良くない感情です。こういう感情のため気を悪くしたり腹を立てたり恨んだりするのです。心にあるイライラとか不満とか、いろんな真理と反対のものが感じと共に湧いてくるのです。つまりいろんな感情の中でも、良くない負の感情を指しているのです。これを捨てなければならないということです。
こういう負の感情、良くない感情があるのですね。これを私たちは捨ててまた制御しなければなりません。こういうものは私たちに害を与えて、かえって敵である悪魔がサタンが喜ぶのです。人との関係でも感情的になってしまうと、いろんな罪を犯すこともあります。このような負の感情は、真理に外れていてそのため争いが起こるから、必ず捨てなければなりません。ヨブの友達も最初はヨブを慰めに来たのですが、ヨブと激しく言い争っていたら感情的になってしまい、言ってはいけないことまで口にしています。
続く、ヨブ記20:20-21です。
「彼の腹は足ることを知らないので、欲しがっているものを何一つ、彼はのがさない。彼のむさぼりからのがれる物は一つもない。だから、彼の繁栄は続かない。」(ヨブ20:20-21)
ここで彼とは悪者を指していて、ツォファルはヨブのことを言っています。人の心に欲が入ると満足を知らず、続けて欲がはらんで罪が熟していきます。ヤコブ1:15に「欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。」とあるように、物質や名誉、権力を貪ると自制することができず、不義な方法を使って罪を犯していきます。信仰の種が芽生えるとだんだん育って、山を移すような大きい信仰にもなりますが、欲がはらんで熟すると罪を生むのです。
例えば物欲があれば、詐欺をしたり計略を企んだりして、正道から外れた行為が出てきます。またある人は名誉権力のために手段を問わないのです。自分が欲しいものを得るために多くの人を犠牲にしたり、血を流すことまでためらわないこともあります。ツォファルはヨブをこのように悪者、欲深い人だと誤解して非難して罵っているのです。これはヨブを人の目で見ているからです。しかし霊的に見てみれば、ヨブが悪者だから貪りが多くて自分の財産や家族を失ったのではありません。神様がヨブの心をご覧になり、より良い器にしてさらに祝福を受けるようにするために、このような試練にあうようにされたのです。
皆さん私たちは全てのことにおいて霊的な見方が必要です。霊的に物事を見ることが必要です。つまり信仰の目、愛の目、善の目、憐れみの目で見るということです。全てのことにそのような霊的な見方を持っていなければなりません。信仰の目で、愛の目で、善の目で、憐れみの目で家族を見て同僚を見て、友達を見ていかなければならないのです。そのような霊的な見方を持つと、霊的に勝利できます。しかしヨブの友達のように、現実を見て肉の目で見るとヨブをさばいて罪に定めるのです。もうヨブはすでに滅びてしまった。潰れてしまった。回復できない。なぜならヨブが悪者だからだ。神を敬わない者だからだと裁いて罪で定めているのです。このような肉の目で人を見ることによって、罪を犯すようになるのです。
例えばある人が大きい罪を犯して神様の栄光を遮ったなら、皆さんはどんな目でその人を見るでしょうか?その人から顔を背けたり非難することまではいかなくても、心の中でさばいたりするなら、それは肉の目で見ているからです。イエス様は姦淫した女性に、何と言われましたか?姦淫の現場で捕まえられてきた人です。でもイエス様は「私もあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」と言われました。この女性を罪人扱いしないで、その人が立ち返るように力づけてくださいました。このように父なる神様の心は、既に地獄だと判決されて死に至るしかない人でも、何としてでも生きる道を探してほしいのです。
元老牧師先生もこういう神様の心を知っているので、聖徒の中で罪を犯して悔い改めに来た時、その人を罪に定めたことはありません。その人が立ち返るように機会を与え、力づけてくださいました。罪を犯していてどれほど辛かったのだろうかと理解してくださり、もう一度恵みを回復できるように慰めてくださいました。もちろん聖霊に働きかけられて、厳しく指摘する場合もありますが、それもその人を命に導くためでした。その人が徹底的に悔い改めて罪から立ち返って、二度と罪を犯さないようにするためでした。死に至る罪を犯した人でも何としてでも救われるよう、神様の前に切に祈り、その人が変えられるのを待って下さいました。これが霊的に人を見ることなのです。
私は、元老牧師先生の行いを見て、本当に感動しました。ある人が教会の財政を私的に使いました。宣教会とか集まりで会費がありますね。その会費を自分勝手に使ってしまったのです。それを元老牧師先生は聞いたようです。それでその人が悔い改めることがあったようです。その時元老牧師先生は、その人に施しをしてくださいました。なぜならその人が盗んだ金額をまた戻さなければならないのですね。そのためにはその人の給料ではちょっと負担だったみたいです。それで12ヶ月に分けて返すように約束したようです。元老牧師先生がその事情を知って、その人のために施しをしてくださったのです。だからある程度まとまったお金だったようですね。
このように霊的にも神様のものを盗んだ罪の壁を積んでしまったし、また実際生活でもそのため暮らしも厳しくなるから、元老牧師先生はその人のために、その人がもちろん心から悔い改めたから助けてくださったのです。私はその姿を見て本当に感動して、神様の善はこういうものなのだと思いました。罪を犯したから自分で責任を取れというのではなくて、何としてでも助けてあげようとする神様の心、その愛、またその通りに行う元老牧師先生の姿を見て、恵みを受けました。皆さんもこのような霊の愛を持って、周りの人に仕えているのでしょうか。でなければ、罪に定めているのではないか顧みますように。
他の例をあげましょう。ある人が病気にかかったり、事業で失敗したりするとき、皆さんはどんな目で見ていますか?その人の前後、事情も知らないまま、何か罪を犯したからあんな試練に会うのだろうとか、御言葉どおりに生きていないからだろうかと決めつけている姿はありませんか?それは肉的な見方です。そうなると陰口を叩いたり、相手を傷つけて悲しませたり、まかり間違えばつまずきを与えることもあります。神様は人のうわべではなくて心をご覧になります。例えば同じ盗みでもレ・ミゼラブルの小説のように飢えている家族のために盗む人もいますが、自分の私利私欲のために盗む人もいます。この時、世の法は二人を同じように盗みという罪に問うでしょうが、心をごらんになる神様はそれぞれに合う公義を適用してくださいます。
ヤコブ2:9です。「しかし、もし人をえこひいきするなら、あなたがたは罪を犯しており、律法によって違反者として責められます。」とあります。ですから私たちは目に見えるもので、ああだこうだとさばいたりしてはいけません。相手の心も知らないまま罪に定めることがあってはいけません。試練艱難にあっている聖徒を見ても、何としてでも信仰を植え付けて立ち直るように力づけなければならないのです。ヨブの友達はヨブを慰めるために来たのですが、肉の目でヨブを見たから、誤解してさばいてヨブを苦しめていたのです。本人たちは行っていないながら、先祖から聞いた真理を引用してヨブを教えようとしているのです。
ツォファルはヨブに彼のむさぼりから逃れるものは一つもない。だから彼の繁栄は続かないと言っていました。つまり欲がはらむと最初はうまくいっているようだけど、間もなく全てが取り上げられてしまうし、なくなってしまうことを言っています。ヨブあなたは貪って食いつくすような人みたいに欲張っているから、あなたの繁栄は続かないのだと言っているのです。しかしこれはヨブの富とか成功を妬んでいたから、それが今現れているのです。ツォファルが御霊の人だったならば、ヨブがうまくいくとき一緒に喜んだはずなのに、肉の人だったから、結局は心の中に潜んでいたねたみが現れたのです。私たちはツォファルの言葉を通して、自分は簡単に人をさばいて罪に定めているのではないか悟りますように。また妬みによって相手をけなしたり苦しめたり憎んでいる姿はないのか、顧みますように。
結論です。愛する皆さん、ツォファルはヨブを悪者、神を敬わないものだと言いながら非難してその結果について、いろいろ恐ろしい呪いの言葉で表現しました。その意味を調べてみながら、人の負の悪い感情がどれほど恐ろしいものなのか分かりました。しかしこれをただヨブの友達の問題に思うのではなくて、自分に照らして自分を発見しなければなりません。負の感情があるため、気を悪くしたり腹を立てたり恨むことがあります。人々は怒る前にまず心の中で嫌な気持ちに、その嫌な気持ちがこみ上げてきますね。相手の言葉とか行動がその感情を刺激して、尺に触ったり不満を抱いたりするのです。その感情を収めることができなければ、腹を立てる行動に現れたり、争うようになったりします。ですから私たちは心にある悪を捨てなければなりません。そしてその負の感情を制御しなければなりません。
ただ抑えつけて我慢するのではなくて、嫌な気持ちになろうとするとき我慢して、その原因になる心の悪を捨てなければならないのです。心の中で嫌な気持ちになろうとしたとき、それをキャッチすることも実はいいことです。それをキャッチしてこそそれを治めることができるから。そしてその原因となる心の悪を発見することができるから。それも良いことでしょう。指摘された時、ひどいなと感じることもありますが、その時いやあの人は私が憎いからではなく、私の為に良かれと思って言ってくれるのだと、真理の思いに変えていけばよいでしょう。
するとその負の感情が制御できるのです。そのとき気にさわって怒ったりするのではなくて、ちょっと嫌な気持ちになろうとしたとき、すぐそれをやめて真理の善の考えに変えていくのです。そして自分の中にあるその原因となる悪を捨てるために、祈っていかなければならないのです。一瞬一瞬湧いてくる悪意とか嫌な気持ちなどをそのまま受け入れるのではなくて、真理と善の思いに変えていくのです。自分の中にそういう悪の性質があることを認めなければならないのです。そして憎しみとか誤解とか悲しみなど負の感情が、それ以上根を下ろさないようにしなければならないのです。もともとあったものは捨てて、そしてそれ以上受け入れてはいけないのです。真理と反対のものは受け入れてはいけないのです。
そして心にある悪はもちろんどんな悪でも避けて、続けて捨てていかなければならないのですね。祈りながら捨てていくのです。そうやって皆さんが聖霊によって祈りながら捨てていけばどうなりますか?前は悲しんだり不満に思ってイライラしていたことが、今は理解できて心が穏やかなのです。だから喜び感謝幸せだけがあるのです。誰かが自分を苦しめて悪口を言っても、そのために悩んだり辛く思ったりすることはありません。これが主にあって真理にあって味わう真の平安です。
ヨハネ16:33でイエス様は十字架を負う前、弟子たちにこう言われました。「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。私はすでに世に勝ったのです。」と、言われました。患難があっても平安を持つようにと言われているのです。信仰があるからでしょう。喜びと感謝が溢れることができるのです。弟子たちが主の御名を伝えていって患難にあっても、主にあって信仰で勝利すれば真の平安が臨むことを言っておられました。皆さんも、心の悪を捨てて、主に似て善をもって愛を行い、暗闇の世の中でも真の平安がいつもありますように。主の御名によって祈ります。
聞いたメッセージを思い出して祈りましょう。父なる神様、今日もヨブの友達ツォファルが言っている話を聞きながら、私たちの心の中に悪があってはいけない、そして負の感情を抱いてはいけないことを悟りました。そしてツォファルが言っていること悪者と神を敬わない者の結果は、その話をしていることはあっているけれども、それはヨブに当てはまることではありませんでした。私たちは自分自身を顧みて変えられるようにしてください。感謝してイエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
