ヨブ記講解53 - 悪者と神を敬わない者の結果(2-上)
説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記20:12~16
皆さん、前回は悪者と神を敬わない者の結果がどうなのか伝えました。聖書に出てくる悪い王たちと、韓国の歴史の中に登場する悪い人々の結末を例に挙げて説明しました。悪者と神を敬わない者は、一時的に名誉や富、栄華を得てもそれは結局なくなり虚しくなり、その結果は惨めなことがわかります。ですから皆さんはいくら金持ちで自慢している人でも、その行いが悪ければ少しも羨ましく思ったり、その道に行ってはいけないでしょう。
今日も悪者と神を敬わない者の結果という同じテーマでメッセージを伝えます。メッセージを聞いて、もしかして自分は悪者とか神を敬わない者ではないか顧みますように。そして信仰生活を正しくしている方でも、イエス・キリストにあって救いと永遠の命の道へ導かれ、祝福の道を歩むようにしてくださる神様にさらに感謝しますように。それで詩編16:11に、「あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしにあります。」という詩編の記者の告白のように、皆さんの心にいつも喜びと楽しみがあふれますよう、主の御名によって祈ります。
今日の本文でもツォファルはヨブを悪者と神を敬わない者だと決めつけて、そういう人の行為はどうなのかその結果はどうなのかについて、恐ろしい呪いの言葉で表現します。
ヨブ記20:12-14です。
「たとい悪が彼の口に甘く、彼がそれを舌の裏に隠しても、あるいは、彼がこれを惜しんで、捨てず、その口の中にとどめていても、彼の食べた物は、彼の腹の中で変わり、彼の中でコブラの毒となる。」(ヨブ20:12-14)
悪が彼の口に甘いとは、悪を行っていながらもそれが間違っていると悟れずに、正しいと思っていることです。こういう人々は過ちを犯した後も、少しも恥ずかしいと思わないで、かえって笑いながら平気な顔でいるのです。舌の裏に隠してそれを惜しんで捨てないとは、いつでも悪を使うように隠しておくということをいいます。悪を甘く感じるから捨てないで口の中にとどめているのです。皆さんはどうでしょうか?もしかして悪を行うのが甘く感じられるのではありませんか?いいえ私は悪を憎んでいます。悪は悪いものですと自分ではそのように思っているかもしれませんが、実は悪を甘く思っているかもしれません。悪を憎んでいる人は心の中に悪を持っていないでしょう。捨てるでしょう。自分は口先では悪を憎んでいると言っても、実際にはそうでない場合があります。
皆さん、悪をどのように甘く感じていますか?例えば何かのことでイライラすることがありますね。祈る時、礼拝でメッセージを聞いている時はイライラを捨てなければと思いますが、実際日常生活ではそれを捨てないでただ隠しておいて、そして何か苛立ったりするとすぐ、イライラしたりするのです。本当に悪を憎んでいるなら既に捨てたでしょう。でも捨てないでそのまま持っているからなのです。そして自分が何か意見を言ったのに、相手がそれに反対するからかっとなったりするのです。それも悪をそのまま持っていることでしょう。捨てないで惜しんでいるのです。だから悪を憎んでいる姿ではないのです。
こういう日常生活での自分の姿はどうなのか顧みますように。私たちはそのような自分を顧みなければならないのに。でも自分もよくやっていると思いながら、自己弁明をしているのではないか、このメッセージを聞きながら考えてみてほしいです。ああ、私は悪を憎んでいるのではなくて悪を甘く感じている、だから惜しんで捨てようとしないのだと、このメッセージを聞きながら悟らなければならないのです。頭で知識としては悪を憎むべきだと思っていても、いざと誰かにちょっと言われたり、また自分があまり気に入らないことをされたりすると、すぐかっとなったりいらいらしたりするのですね。
ツォファルが今ヨブを見ていると、ヨブは悪を捨てるべきなのに悪を惜しんで捨てないで、舌の裏に隠しているのです。ここでツォファルは、ヨブが神様を恨んでいるその言葉が悪だと表現しています。友達がヨブをこれまで責めてまた指摘してきたのですが、ヨブがつぶやきをやめないでずっと神様を恨んでいるから、だからあなたは悪を捨てず、その悪を口の中にとどめていると表現しているのです。実は友達の方がヨブよりも悪いです。でも自分の過ちは少しも発見できず、ヨブだけ攻めているのです。もちろん真理で照らしてみればヨブも間違いがありますね。もしヨブが御霊の人ならば、友達に右の頬を打たれるようなことがあっても左を向けるでしょう。また神様の前に問い詰めたり恨んだりするはずがありません。
しかしヨブは肉の人の中で、それでも潔白で正しい人だったのですが、まだ御霊の人ではなかったのです。だから自分の行動が悪いと思わないで、正しいと思うのです。だから本人は当然神様に問い詰めるべきものがあり、言うべきことがあると思っているのです。でも神様の方から見てみると、ヨブは悪いと言われることもあるでしょう。真理に照らしてみればヨブは悪いです。しかし同じ肉の人である友達の立場から見ると、自分たちより勝っているヨブを悪いと非難することはいけないのです。皆さん自分より正しい人、自分より良い人を、どうして悪いと言えるでしょうか?もちろんその人にも欠けているところがあるかもしれませんが、自分はその人を指摘する資格がないでしょう。
ツォファルもそうでした。ツォファルもヨブを今指摘していることは悪いなと、良心の呵責を感じたのですが、でも言い訳をしようとしてさらにヨブを責めようとしたのです。ヨブの友達はだからヨブより悪かったのです。ヨブはそれが悪だと思わないでしていたのですが、ヨブの友達は本当に悪を甘く思って、舌の裏に隠して行っていたのです。さっきツォファルは「私の侮辱となる訓誡を聞いて、私の悟りの霊が私に応えさせる。」と言っていましたが、これは自己弁明に過ぎませんでした。ツォファルはヨブの話を聞きながら良心の呵責を感じたのに、言い訳をしようとしたから焦ってしまい、苛立ったのです。このように責められたとき言い訳をする人は、自分は正しいと主張しています。でも、その口からはみっともない愚かな言葉が出てくるのです。自分で過ちに気づいたならば、黙って静かにしている方が知恵のある人でしょう。
しかし大切なのは皆さん、これをヨブの友達だけの問題だと思うのではなくて、聖霊が照らしてくださるとき、自分を顧みて発見しなければなりません。私たちの周りでも自分が考えていることが真理だと思うけれど、その口の言葉が悪となって相手の欠点や過ちを指摘する場合があります。本人はそれが正しいと思うから、必要な時はその言葉を使って相手を指摘しているのです。これを私たちも直さなければなりません。自分の口の言葉が、本当に必要な言葉なのか考えてみなければなりません。これは相手のために言っていることだ。相手に良かろうと思って、その人を悟らせるために言っていることだと思うかもしれませんが、それが悪になる場合もあります。
親子の間でも夫婦の間でも友達の間でもそうです。自分が相手のためと思っていろいろ話しても、相手はそれを聞きたがらないし受け入れない場合があります。するとこの人はイライラしますね。あの人のために自分なりに考えてあれこれアドバイスをしているのに、なぜ聞かないのかと思うかもしれません。しかし実際自分の口の言葉は心の中にある悪から出てくる言葉かもしれません。そういう姿があるなら、顧みて早く直さなければならないでしょう。そうすると言い争いになってしまうこともあります。ですから自分の普段の口の言葉はどうなのか、顧みますように。相手の為を思ってと自分なりにそう思って行っているかもしれませんが、でも平和が壊れるならばそれは、神様ご覧になる時正しい言葉ではなかったことがわかります。自分なりに相手の間違っているところを正すために、相手に益を与えるためにと思うかもしれません。しかしその口の言葉が悪になってしまう場合があるのです。
このように悪なのに自分は知らずに自分は正しいと思って、相手を指摘する場合があります。しかし心に悪がぎっしりあって、意図的に悪意を持って相手を指摘する場合もあります。相手を思って自分なりに良かろうと思って話をしたのに、相手が受け入れることができなくて、それで平和が壊れる場合もありますね。すると黙ってその人のために祈りながら、自分も自分を顧みてじっくり考えてみればいいと思います。でもそうではなくて、本当に意図的に悪意を持ってあれこれ攻撃的なことを言う場合もあります。嫌味を言ったりするのですね。嫌がらせをしたりする場合もあります。そういう人がいるならどれほど神様の前にもっと悪い姿でしょうか。指摘される人は、この時相手が怖いと思って言い返さないでいるだけなのに、黙っているだけなのに、ある人はそれを相手が納得したと勘違いする場合もあります。
目上の人が強く言ったりすると、目下の人は言い返すことはできないでただ聞いている場合がありますね。でもその話が本当に正しいことではない場合があります。そして自分が言っていることは正しいと錯覚するのです。だからいくら自分はあれこれ言っても相手は変わらないのです。皆さんの中でもそういうことがあるかもしれません。会議をする時や人間関係の中でもそうだと思います。ある人はいつも自分の意見を強く言ったり、主張したりします。すると周りの人は困りますね。あの人は少し静かにして欲しいと思うのです。でも本人は正しいと思って、これは必要だから言わなければと思うのです。それは教会の中でだけではなくて、家族に対しても同じです。子どもに対しても同じです。でも本人は気づかないのです。ただ自分は正しいと思って、そして自分が言っていることを相手も納得してくれていると思うのです。でもどれほど愚かな姿でしょうか。
相手は何も言えないで、それでも心の中でみんな困っているし聞きたがらないのに、それに気づいていなくてずっと言っていること、そういうことがあってはいけないでしょう。そういう人はあまり周りの人に歓迎されないでしょう。どれほどもどかしいことでしょうか。教会の働き人がそうなら、神の国の働きのためにも損になる場合もあります。平和が壊れてしまうことがあります。私たちはいくら正しい言葉でも、愛でなければ相手を変えることはできないということを覚えておきましょう。
いたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともない、主の心でアドバイスをしたなら、相手も感謝して受け入れるでしょう。変えられるでしょう。
しかし愛ではなくて悪意を持って何かを言って悟らせようとしたならば、相手が不満を抱いて落ち込んでしまう場合もあります。悪意とか負の感情の混ざったこの言葉は何の恵みにもならないし、相手の意欲をうばったりつまずきを与える場合もあります。ヨブの友達がそうでした。ヨブの友達は悪意を持って感情的になってヨブを指摘する表現がだんだん激しくなります。これまでもヨブに向かって悪いと指摘してきたのですが、次の本文を読むととんでもない例えを挙げて罵っています。
14節です。「彼の食べたものは彼の腹の中で変わり、」つまり口の中にとどめている悪が腹の中で変わってコブラの毒となると表現しているのです。どれ程恐ろしい表現でしょうか。ここで腹の中と言っていますが、これは心の中を意味しています。ツォファルは霊肉、魂とか心について霊的には知らなくても、このように腹の中と表現しています。ツォファルはヨブの心の中が悪できっしりだから、舌の裏に隠していた悪が食べ物となって、腹の中でコブラの毒となると、自分なりに例えているのです。舌の裏に隠していた悪、そしてそれが腹の中でコブラの毒となる、このように言っているのです。つまりヨブの心に悪がきっしりあるから、そこから悪い言葉が出てくるのだと言っています。口の悪い言葉が心の中に入って、心そのものがコブラの毒のようになると言っているのです。どれほど恐ろしい言葉でしょうか。
コブラは怖くて恐ろしいもので噛まれたら死をもたらす存在です。霊的にコブラとは敵である悪魔サタンを意味しています。そしてコブラの毒とは死を意味します。コブラだけでも怖いでしょう。恐ろしい存在です。ここではコブラの毒となると言っています。このようにとてもひどい悪だと強く責めているのです。つまり彼の食べたものは彼の中でコブラの毒となるとは、ヨブの心にそれだけひどい悪がたくさんあるということを言っているのです。人にコブラのようだと言うならそれは悪口になるでしょうが、コブラの毒と言うからこれは、悪者の中でも極めて悪いものだと呪っている言葉でしょう。だからこう言われているヨブはどれほど腹が立つでしょうか。
続く言葉も同じです。愛する皆さん、もしかして皆さんの家庭の中で、また日常の中で口の言葉がこのように激しくなる場合はありませんか?私たちは今ヨブ記についてメッセージを聞いていて、ヨブが友達に対してどんなふうに反論しているのか。神様に対してどんなふうに呟いているのか。そしてそれに対してヨブの友達はまたどんなふうに責めて罵っているのか。互いに言い争っているのを、私たちはヨブ記講解を通して聞いているのですが、ヨブの言葉も友達の言葉もだんだん激しく悪くなっています。
私たちの日常生活でもそういうことがあるのです。素直に相手の話を聞いて受け入れて、それで話し合ったらいいのですが、そうではなくて、何か言われたらすぐかっとなって気を悪くしたり、それ以上聞こうとしなかったり、でなければ相手の何か欠けているところとか欠点とかを指摘したり、一言を言ってやるとか、そして後で会ったら、これはこうだと言ってやるとか、自分が反論するためにあれこれ考えたりすることがあるかもしれません。それでその言葉がだんだん激しくなるのです。そして言い争うになってだんだん話が長くなってしまうのです。そして相手を攻撃したり傷つけたり、また相手が辛くなるような、聞きたがらないような嫌味を言ったりすることもあるし、呪いの言葉、罵りの言葉を口にする場合もあります。
夫婦喧嘩をするときもそういうことがありますね。相手のことを指摘していて、その相手の親とか兄弟のことまで悪く言ったりするのです。今ヨブとヨブの友達がそんな風に言い合っているのです。それでだんだん感情的になって激しい言葉を口にしているのです。皆さんも家族の中でまたは会社の同僚との間で、友達との間でそういう姿がないのか顧みますように。その為平和がこわれたり、互いに仲たがいすることがあるなら、それはサタンの仕業なのです。だから心の中にあるそういう悪を速やかに発見して捨てなければならないのです。そしてヨブの友達がヨブにどんなふうに攻撃しているのか、この聖書を読みながら自分自身を顧みながら、心の中にあるそういう悪を速やかに捨てましょう。そして相手が自分を傷つける言葉を言って攻撃してきても、でも自分は悪く反応したりかっとなったりしないで、それを聞いて心が乱れたりすることはなく穏やかな心でいればいいでしょう。
ヨブ記20:15-16です。
「彼は富をのみ込んでも、またこれを吐き出す。神がこれを彼の腹から追い払われる。彼はコブラの毒を吸い、まむしの舌が彼を殺す。」(ヨブ20:15-16)
これは悪を撒いた人の報いについてです。富をのみ込んでもまたこれを吐き出す。神がこれを彼の腹から追い払われる。悪い方法で富を増やしても、神様が取り上げられるという意味です。言葉そのものは正しいけれど、これはツォファルが神様の御心を知って言いったのではなくて、先祖から聞いた言葉を悪意を持って、引用しているだけなのです。神様は蒔けばその刈り取りもするようにされるし、行った通りに報いてくださいます。詩編18:26です。「きよい者には、きよく、曲がった者には、ねじ曲げる方」とあり、ガラテヤ6:7に「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。」とあります。このように人が善をまけば善を刈取り、反対に悪をまけば悪を刈取るようになります。当然でしょう。
韓国の歴史や世界の歴史を見ても、悪を行った人は結局惨めな結末を迎えます。これが世のことわりで神様の摂理で霊の世界の法則です。人は自分の利益を求めて悪い道に行った時、今直ぐは人が騙されるし、全てがうまくいくようでもそれは束の間です。神様は生きておられるので、悪は結局滅びてしまうのです。この報いがこの地上で終わるのではなくて、悪を行ったその報いはこの世で終わるのではなくて、後の世では永遠の地獄の火の中で苦しみを受けなければならないのです。ある人は悪を行って神を敬わないものなのに、その裁きや懲らしめがすぐ臨まない場合もあります。するとその方が恐ろしいです。この地上で悔い改める機会がないから。でも懲らしめがあって報いがあって、それによって悔い改めて立ち返るならば、それは幸いでしょう。しかしそうしても立ち返らなければ、後の世では地獄に行くしかないのです。
ヨハネ5:29です。「善を行った者は、よみがえっていのちを受け、悪を行った者は、よみがえってさばきを受けるのです。」とあります。私たちは悪を行ってはいけないでしょう。誰かが悪を行っても悪をもって悪に報いてはいけないのです。しかし悪を行う相手に対して善をもって報いるなら、その方が愚かでしょうか?そうではありません。神様がご覧になって、神様がさばいてくださるのです。悪を行っている人の方が不安です。またその人が病気になったりするともっと苦しいでしょう。悪の結果だからです。でも相手が悪を行っても、自分の心には平安があって、喜びがなくならないで、ただその人のために祈るなら神様が守ってくださるし、だからどれほど感謝でしょうか。その方が幸せなのです。だから私たちは善を行って真理を追い求めなければなりません。
しかし善を行わないで、不満を抱いて言い争ったりするなら、それは悪であり、その悪を行って神を敬わない者は、その結果は裁きなのです。滅びなのです。自分に気に入らない人がいるとして、その人に対して憎らしいと思ったり、そして自分の思い取りにならないからイライラしたりする姿はありませんか。そしてある人は世のものを貪って、それを手に入れるためにあれこれするのですが、でも後の世にそれを持っていけるでしょうか?でも知恵のある皆さんなら天国にあるものを上にあるものを求めるでしょう。
16節、「彼はコブラの毒を吸い、マムシの舌が彼を殺す。」とあります。さっき言ったようにコブラの毒はとても悪いことを、死を意味します。だからコブラの毒を吸うとはひどく悪を行うことです。またマムシの舌が彼を殺すとは、その悪行によって結局大きい害を受けて、死に至ることを言います。ツォファルはヨブがこのように悪者だから、このようなひどい苦しみと報いを受けるのだと言っています。しかし実際悪に対する報いを受ける人はヨブの友達でした。ヨブ記の結末を見れば、ヨブの3人の友達が神様の御怒りをかってヨブがとりなす祈りをしたら、神様がそれを聞いて彼らに悔い改めの機会をくださいました。今、ヨブはヨブが悪者だから試練にあっているのではなくて、神様が彼を完全にするために練っておられるのです。
しかしこれを知らなかったツォファルは、ヨブを悪者だ、神を敬わない者だとさばいて罪に定めて、その結果について言っているのです。どれほど愚かな姿でしょうか。神様の心を知らないからです。
ヨブの友達が、自分たちが神様のようになっていて、ヨブをさばいて罪に定めているのです。神様がご覧になって、どれほど悪いものだと言われるでしょうか。どっちが正しいのかどっちが本当に間違っているかそうでないか、神様がご覧になってこそ正しい裁きができるのです。人は人を裁いたり、罪に定める資格はないのです。人を裁くことは悪いことです。だから私たちはそのように人を裁く人の話に耳を傾ける必要もありません。ただ憐れんでその人のために祈らなければなりません。
しかしヨブの友達はヨブをこのように悪を持って裁いて罪に定めているのです。でもその結果はどうなのか私たちは知っているでしょう。そのような愚かな人になってはいけません。自分の心の中に悪があるのに、どうして他の人を悪いとか言えるでしょうか?神様がご覧になるとき自分はどうなのか、自分の中には真理と反対のものを悪がどのくらいあるのかいつも謙遜に顧みなければなりません。
