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ヨブ記講解52 - 悪者と神を敬わない者の結果(1-上)

9月14日
読了時間: 17分

説教:イ・スジン牧師

本文:ヨブ記20:4~5

皆さん、前回にヨブは自分の苦しみがあまりにもひどいと言いながら、神様と友達を恨んでいました。そしてもうすぐ自分は死ぬけれど、神様の前に立つ、その時は他の人の目を通してではなく、自分の目で見ることができると言いました。しかしすぐその時のことを考えたら不安になって、切羽詰まって息苦しいほどだと、自分の心境を言っています。これは今、ヨブが神様の前に反抗して恨んでいる姿が後ろめたいからです。それでも少し良心がある姿です。過去神様を恐れていた姿とは違って、今ヨブは自分の言うことも行っていることも完全でないことを感じながら、神様の前に堂々と立てないのです。​


聖書では私たちが救われたからといって、皆主を見るのではなく、資格を備えてこそ見られると言っています。ヘブル12:14「すべての人との平和を追い求め、また聖められることを追い求めなさい。聖くなければ、だれも主を見ることができません。」と、その資格について正確に書いてあります。救われて天国に行ったとしても、この地上で人間耕作を受けているとき、全ての人との平和を追い求め、聖められることを追い求めていなかったのなら、主を見ることはできないのです。すべての人の中には自分を苦しめる人、自分の悪口を言う人、自分に悪を行う人も全部含められています。あの人は私と気が合っている、私に良くしてくれていると思う人だけではなく、自分と全然気が合わないし、自分が苦手だと思っている人とも平和を追い求めなければなりません。そして、そういう人が自分に悪を行っても、悪をもって報いるのではなく、善をもって愛をもって行ってこそ、それが全ての人との平和を追い求めることで、聖められてこそ主を見ることができます。​


私たちはこのような御言葉を知っています。そして天国は場所が分かれていて、より優れた天国があることも知っています。一度天国に行ったら、その場所は変わらないことも知っています。しかしヨブはそういう真理を知らなかったから、自分は死んだら神様を自分の目で見ることができると言いました。しかしその時のことを考えたら、不安になりました。でも私たちは、正確な真理のみ言葉を知っています。どこを目指していくべきかも知っています。皆さんはそうではありませんか。しかし試練にあったり苦しみに遭うとき、信仰で完全に勝利できずにつらいと思いながら、早く天国に行けたらいいと思ったりします。​


今ヨブは自分の苦しみを言いながら、もうすぐ自分は死ぬけれど神様を見るだろうと言った意図を、皆さんはわかるでしょう。激しい試練にあっている人が、もう天国に行きたい、この苦しい地上にもういたくないと、思ったりするのではありませんか。ヨブもそうでした。今自分が置かれていることがあまりにも苦しいから、死にたいと思ったし、この体ではもうすぐ死ぬと思ったのです。皆さんももしかして試練にあって苦しいからといって、もう何もかも嫌だと思ったり、早く天国へ行ったら良いと思うことがありますか?しかし天国には一度行ったら、もう一度報いを積む機会もないし、より優れた天国を攻めることもできません。全てがそれで終わりです。ですからこの地上で与えられたこの時間、試練にあって耕作を受けていても、その過程をうまく経て、御心にかなう姿に変えられるために努力しなければなりません。​


だから今与えられている時間が、さらに変えられるチャンスなのです。しかし辛いからといって、もうこういう機会早く終わったらいいと思って、それを逃してしまったら、より優れた天国にはいけないのです。そして行けなくてもいいと思うこと、それは信仰ではないのです。自分の中の悪が発見されて人間関係で悩んだり、辛い思いをしたからといって、心が折れて早く天国に行ったらと思うなら、さらに変えられて報いを積む機会を逃すのです。だから私たちは与えられている時間を、神様の真の子供になるために、聖められるために努力して、チャンスを握っていかなければなりません。


ヨブ記20章が始まりました。


ヨブの友達ツォファルは心焦っていると言っていました。これはヨブが感じている不安とは違う意味でした。ヨブを指摘している自分の姿を客観的に見てみたら、自分にも資格がないことを感じて、良心の呵責を感じている言葉でした。しかしそれなら自分を低くして、それ以上ヨブを指摘しないで自分が変えられればいいのに、ツォファルはそうしませんでした。自分の欠けているところを発見したのに、それを隠したいから、言い訳をして、もっとヨブを叱責していたのです。このようにヨブと言い争いをしながら、心焦っているツォファルの姿を見ながら、人が心を守らないで焦ってしまうとどんな結果をもたらすのかが分かりました。


誰かに指摘されたり忠告されたとき、言い訳を探していると焦ってしまい、結局逆切れしてしまうこともあります。指摘されたり忠告されたりして、言い訳をしたくなる、又焦ってしまうことがあります。そして皆さんも日常生活でどんな時焦るのか、又言い訳をしようとするのかを顧みますように。自分の過ちを隠そうとして言い訳をして、また人になすりつけようとする人もいるでしょう。そして自分に置かれている環境とかが辛くて、それで心が焦ってしまうこともあるし、いろいろ皆さんの心の中でどんな感情が動いているのかを、日常生活で発見することがあると思います。そのような心を治めていなければ感情的になってしまい、人とぶつかったり言い争うこともあるのです。だからまず人のせいにする前に自分を顧みて、自分の負の感情を捨てるために努力しなければなりません。そうでなければ相手と平和を作ることもできないし、聖霊の声が聞けないから、信仰が発展できないのです。


反対に人の忠告を受け入れて悔改めて立ち返るなら、真理の心に早く変えられることができます。箴言25:28です。「自分の心を制することができない人は、城壁のない打ちこわされた町のようだ。」とあります。城壁のない打ちこわされた街とは、街が破壊されて何も残っているものがないという意味です。人が焦って心を制することができなければ、悪い言葉を口にして憤ったり争ったりします。それで結果的に家庭が破綻することもあるし、周りの人が離れてしまうこともあって、苦しくて悲しいことが起きるのです。ですから私たちはまめに心を真理に変えて、どんな状況に置かれても、善と愛をもって行わなければなりません。皆さんはなぜ自分は心の中で不安があるのか?なぜ焦りがあるのかを顧みますように。それは心の中に悪があるから、また負の感情から出てくることです。ある人は指摘されたらそんな風になる場合もあります。そして人に一言でも言われたらそれが嫌で言い訳をしたくなってしまうのです。


しかしある人は指摘されたとしても、落ち着いて自分を顧みながら、じっくり考えるようになります。しかしそうしないで、すぐ焦ってしまう人がいます。それで顔も表情もこわばったり、また、自分を指摘した人に対して不満を抱いて、感情的になってしまうこともあります。そうやって、自分の心とか感情をコントロールできない人がいるのです。それは自分中心的な人で、自分を守ろうとするからそうなのです。このような人は霊的にも、自分を発見して変えられるのが難しいでしょう。ですからヨブとこのツォファルの姿を見て、自分を発見しますように。


そして目上の人ならば、相手を指摘して自分なりにアドバイスをしたのに、相手がそれを聞き入れてくれなければ、その時心焦ってしまう場合があります。それでもっと強く言ったりすることがあります。すると互いに感情的に対立するようになったり、後では言い争ったりすることもあります。もちろん真理を知っている人は後で後悔するけれども、そういう姿があるなら、自分の中に悪があることを悟りますように。それで自分の心を制することが必要であるということです。前回聞いた内容を、皆さんもう一度顧みて、自分の日常生活の中でもそういう姿はないのか、いろんな場面を思い浮かべて自分を顧みますように。それで自分を発見しますように。それで今は心を守り、心を制する知恵のある皆さんになれますように。それでいつも平安と幸せだけがありますように。


前回、ヨブ記20:3でツォファルは私の悟りの霊が私に応えさせると言いました。自分を賢いと錯覚していました。続く本文を読むとツォファルがなぜそのように考えているのかがわかります。皆さん、前回聞いた内容を思い出して、続けて今日の本文を読みながら、自分を顧みますように。ツォファルはヨブに対して自分が言っていたことと、指摘していた姿を考えてみながら少し良心の呵責を感じていたのです。それで心の隅では恥ずかしいなと思いながらも、しかしそれを隠したいから、言い訳をしながらもっとヨブを叱責するようになるのです。それで心焦っていました。そしてそうしながらも自分なりに正しい答えをしていると思って、賢いと錯覚していました。人を指摘して、また自分はそういう資格がないと思いながら、後ろめたさを感じていながらも人をまた指摘して、自分は賢いと思うのでしょうか。真理で悟ってみればそれは正しくない姿でしょう。しかしツォファルはそうでなかったのです。自分の姿を悟っていませんでした。間違っていたでしょう。なぜそんなふうに考えていたのか。今日の本文を読んでみましょう。


ヨブ記20:4-5です。


「あなたはこのことを知っているはずだ。昔から、地の上に人が置かれてから、悪者の喜びは短く、神を敬わない者の楽しみはつかのまだ。」(ヨブ20:4-5)


この地上で人が生きていた人間耕作の中で、昔からのことを見てみると、悪者と神を敬わない者はこのように、その喜びも楽しみも束の間だと言っているのです。ヨブには知識があるからツォファルもヨブにあなたはこのことを知っているはずだと言っています。そして悪者の喜びは短く神を敬わない者の楽しみは束の間だと、このようにヨブに言っているのです。つまりヨブあなたの喜びも楽しみも、もう跡形もなくなって消えてしまった。だからあなたは悪い人で、神をうやまわない人だと言っています。このようにツォファルはヨブを悪者扱いしています。自分なりに図星をついたと思うから自分を賢いと感じているのです。ヨブにこのようにアドバイスをしながら、自分なりに考えて図星をついたと思うのです。今までの人の歴史や昔からのことを見てみると、悪者の喜びは短く神を敬わない者の楽しみはつかの間だと言いながら、ヨブあなたがそうだと言っているのです。ヨブあなたもこのように前は盛んでいたけれども、今は滅びたからあなたは悪者だと言っています。


直接ストレートに言うのではなくて、このように遠回しに言っていながら、自分なりに賢いと思っているのです。それで自分に悟りがあると思っているのです。ここで神を敬わない者は、性分と行いが正しくない人を指しています。聖書のイスラエルの歴史だけではなく、韓国の歴史や最近の政治社会を見ても、悪者と神を敬わない者の名誉は束の間であることがわかります。ツォファルはイスラエルの歴史に登場する人々の業績と悪者の最後について聞いて知っているから、このように言い切っていました。それでは悪い者と神を敬わない者の結果は実際どうだったのか、聖書の中からいくつか例を探してみます。


悪い者と神を敬わない者の結果について、今週また来週続けて伝えますけれども、今ツォファルはヨブを悪者扱いにしていますが、実はヨブはそんな悪い人ではなかったでしょう。でも悪者と神を敬わない者がどんな結果になったのかを私たちは悟って、決してそんな人になってはいけないことを悟りましょう。聖書の中でこのように悪者と神を敬わない者の最後はどうだったのか、いくつか例を挙げて説明します。皆さんはこのメッセージを聞きながら、彼らは本当に悪い人だったのだだと思って終わってはいけません。自分にもそういう悪の属性があるのではないのか顧みて、心から悪を憎まなければならないのです。これから説明する何人かの例がありますが、彼らの悪はとてもひどかったのです。しかしその姿から、自分を発見しなければならないのです。自分にもそういう悪があるかもしれないのです。それで自分を発見することが、礼拝を捧げてメッセージを聞く理由でしょう。だからメッセージを聞いて恵みを受けたならば、自分に代入して自分にある悪を捨てるために努力しなければなりません。


まずエジプトの王パロの場合です。イスラエルの民がエジプトで奴隷生活をしていたとき、モーセはイスラエルの民をカナンの地に導きなさいという神様の命令を受けて、パロのどころに行きました。しかしパロは奴隷として使っていたイスラエルの民を行かせたくなかったのです。神様はこのようなパロを屈服させるために、モ-セを通して十の災いを下しました。ナイル川の水が血に変わり、エジプト全土にカエルとぶよ、アブの群れが満ちて、腫物と疫病、雹、いなご、暗闇の災いが臨みました。その度にパロ王は災いをまぬがれるために、イスラエルの民を行かせると約束したけれど、災いがやんだら、すぐ約束を破って虐げました。このパロと自分の心の悪を比べてみてください。パロは本当にああしたりこうしたりして変わってしまう悪い心なのだ、頑な人なのだと思って終わってはいけません。自分にもそういう属性があるのではないか探してみなければなりません。


自分が何か困難な目にあっていたり問題があれば、神様これさえ解決してくださるなら神様の前に頑張りますとか、これさえ解決してくださるな、後でこれこれしますと約束しておいて、後でまたそれを破ってしまうのです。教会に通っている人が、犯してはならない悪を犯したりするのです。それで聖霊が呻いてそうしてはいけないと言っても、それを無視してしまい悪を犯してしまうのです。それで病気になったりまた事故にあったりするでしょう。それで神様の前に出てきてすがって悔い改めて、それで神様がそれを解決してくださると喜んで感謝して、ある程度教会で忠実に仕えていたのに、また心が変わってしまい離れてしまう人もいるのです。


罪と悪のため自分が苦しみにあったことをまた忘れてしまって、また世に目を向けてしまうのです。それでいろんな問題にぶつかるとまた神様の前に出てきて、悔改めて、助けてくださいと求めるのです。自分の力では解決できないから、牧者のところに来て代わりに祈りをお願いして、執り成しの祈りを受けて問題が解決されました。平安になりました。しかし時間がたったらまた心が変わってしまうのです。このように繰り返されるのです。これがパロの姿と同じではありませんか?パロもこのように悪賢い心があって、自分の利益に合わせてしょっちゅう変わってしまう姿があったでしょう。そういう人はパロと同じような心なのです。


自分の利益に合わせて神様の御業を見ても無視してしまい、自分の利益を求めていくのです。悪を行ってしまうのです。善を選ぶことができないのです。それがパロの心も同じだったのです。頑なな心でした。そういう属性が自分の中にもあるのです。それでパロ王はどんな結果になったのか、とても惨めな結果だったでしょう。それを悟らなければなりません。パロ王はこのようにしょっちゅう移り変わってしまいました。それで結局エジプトの全土の初子が死ぬ災いが臨みました。パロの長男も死んでしまいました。そうしたらやっとイスラエルの民を行かせました。今は神様の前にへり下って、それでイスラエルの民を行かせると言いました。そしてイスラエルの神こそ真の神だと、今までの災いを見て、神様の御手の技を見て悟ったでしょう。


そして自分が神様の前にどれほど悪賢かったのか、そしてどれほど移り変わっていたのか、頑なだったのかを悟ったら良かったのに。しかし、そう心から悟ってはいなかったのです。それでも自分が正しいと思うのです。試練にあって自分が苦しみにあっても、人のせいにして神様のせいにするのです。しかしまた心が変わってしまうでしょう。それでイスラエルの民を生かせた後、また軍隊を送ってイスラエルの民を追っていくのです。この時神の力によって葦の海が分かれて、イスラエルの民は海の中の乾いた地を歩いて渡りました。どれほど驚くべき御業が現れたでしょうか。そして後ろから追ってきたバロの軍隊はどうでしたか?イスラエルの民がみんな海を渡った後、その海は元に戻ってしまい、追いかけてきた軍隊は海の中でそのまま死んだのです。こうやってパロは、驚くべき神の力を何度も自分の目で見たのに、頑な心が変わらなかったので、自分の長男を失って、全土が大変な目にあって、軍隊が全滅する大きい災いにあってしまいました。このように悪い人はその悪を行って偽りと悪をおこなってしまい、このような惨めな結末を迎えたのです。


次はアハブ王と王妃のイゼベルの例を挙げられます。イスラエルの歴史では悪い王として選ばれるアハブは、民が神様から背を向けるようにしました。異邦の神々に仕えていながらも、全く良心の過酌も感じていませんでした。偶像のバアルに仕える異邦人のイゼベルを王妃に迎えました。イゼベルはアハブ王と結婚しながら、偶像のバアルとアシェラをイスラルに持ち込んで来て、王はもちろん臣下と民も偶像崇拝に染まるようにしました。これによって北イスラルは神様の裁きが臨み、3年半の間、日照りが続いて、異邦の国から侵略を受けて大きい苦しみに遭いました。預言者エリヤが天から火を引き下ろして、長い日照りの中で雨を降らせるなど驚くべき奇跡で、真の神であるイスラエルの神を見せたのに、イゼベルは悔い改めないで、エリヤを殺そうとしました。それだけではなく、計略をめぐらして、罪のない民ナボテを殺して彼の葡萄畑を奪うなど、色々な悪巧みと計略で悪を積んでいきました。このように、あらゆる悪行を重ねていた彼らの結末はどうでしたか。


アハブ王はアラムとの戦いで、一人の兵士が射た矢に偶然に当たって死んで、その血を犬たちが舐めるみじめな終わりを迎えました。戦いで、互いに攻撃したりしているでしょう。それで矢を射たりするでしょう。その時実際矢に当たって死ぬ場合もあるし、それで勇敢に戦って死ぬならば皆に褒めたたえられるでしょうが、アハブ王はそうではありませんでした。勇敢に戦ったのでもないし、隠れようとしたのですが、偶然矢に当たって死んでしまいました。そしてその遺体の血を犬どもがなめていました。それでは王妃のイゼベルはどうだったでしょうか?その死はとても惨めでした。平凡に安らかに死んだのではありません。権力とか富のある人が死んだら葬儀も立派にすることもありますが、イゼベルはそうではありませんでした。殺されて、その死体を犬が食べてしまいました。そして残りを探してみたら、頭蓋骨と両手両方の手首しか残っていませんでした。このように惨めな最後だったのです。悪者の最後はそうなるのです。


次にモーセの時代のコラとその仲間が例に挙げられます。コラはレビ族で、聖殿に仕える身分と務めをくださった神様に感謝しないで、アロンの子孫にだけ大祭司の務めを受け継がれるのに不満を抱きました。モーセに立ち向かいました。エジプトから出て、モーセが民を導いていました。イスラエルの民は乳と蜜の流れるカナンの地に入ることを目標としていました。エジプトから出た時はどれを喜んでいたでしょうか。前は奴隷生活をしていたのにそこから解放されたでしょう。そして戦いもなく神様の力によって災いによって、このようにエジプトから脱出できました。それで時間がたってみたらまだカナンの地に入れないで、荒野で生活をしているのです。そしてその民の中で不満を抱いている人がいました。モーセに立ち向かう人もいました。コラはレビ部族でした。神の宮に仕える働きをしていました。大切な務めなのにそれを感謝しないで、神様に立ち向かいました。それでコラは自分だけではなくて、ルベンの子孫であるダタンとアブラムとオンと共謀して、名のある者たち250人とともにモーセに立ち向かったのです。


それで神様の裁きが臨みました。彼らの下の地面が割れ、彼らに属する者は生きながら黄泉に下りました。また彼らと同調した250人は、主のところから出てきた火に焼き尽くされました。このように恐ろしい裁きが臨みました。なぜでしょうか?モーセに立ち向かったことは、モーセという人に立ち向かったのではなく、モーセを立てて神の力をもって支えてくださる神様に反逆したことと同じだったからです。神様がモーセを立てて支えてくださっているのに、モーセに立ち向かったから、それは神様に立ち向かったことになりました。このように悪者の最後は全て惨めでした。


だから悪者の喜びは短く、神を敬わない者の楽しみは束の間だというツォファルの話は正しいです。しかしこれはヨブにあたることではありません。ツォファルはヨブがそのように悪者だと、神を敬わない者だと思っていたから、自分の言葉は合っていると賢いと思っていました。しかしそうではありませんでした。これは彼の心の悪から出てきた肉の思いだけでした。神様の御目には合わなかったのです。彼が言っている言葉はあっていても、なぜそのように言っているのか。ツォファルの心の中には悪意があったし、ヨブを悪者扱いしていたからでしょう。しかしヨブは悪者でもないし、神を敬わない者でもないし、彼の心は友達よりずっといい正しい心だったからです。

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