ヨブ記講解51 - 心あせってはならない(下)
説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記19:28~20:3
ヨブ記19:28です。
「もし、あなたがたが、事の原因を私のうちに見つけて、『彼をどのようにして追いつめようか』と言うなら、」(ヨブ19:28)
この中には二重の意味が込められています。本文でヨブはもしあなたがたがという表現を使って仮定して説明しています。そしてことの原因を私のうちに見つけて、彼をどのようにして追い詰めようかというならと言っています。ここであなたがたとは友達を指しているようですが、実は神様を指しています。今友達はどうすればヨブを追い詰めようかと互いに話をしながら、ヨブを負かすために続けて言葉で追いやっています。これまでヨブの友達は、ヨブが味わっている苦しみの原因はヨブにあると言い張っていました。ヨブがこんなに試練にあっている理由は、ヨブの悪にあると主張していました。しかしヨブはその話を聞かなかったのです。神様が自分を打ったからこのことの原因は神様にあると言いながら反問していました。
つまり、ヨブの友達はすべての過ちをヨブに原因があると責めていて、ヨブは神様に原因があると責めています。本文でヨブは、どうすれば自分の訴えや主張を通すことができようかと思いながら、神様が自分に負けてくださればいいのにと思いながら、すべてを神様のせいにしていました。だから神様のせいだと言いたいのですが、直接に表現するならまた友達が攻撃してくるはずだから、このように間接的に言っているのです。いくら言っても友達が聞かないから、ヨブは焦っていました。それで今はもしあなたがたがと言いながら仮定して、遠回しに主張しているのです。
ヨブには知識があってまた賢い人だったので、巧妙に攻撃を避けながら、神様と友達両方を責め立てているのです。ヨブは自分の過ちによってもたらされた結果を人のせいにして、憶測と思い込みで決めつけているのです。神様と友達を一緒に責めているのです。しかし私たちは自分の不幸を人のせいにしてはいけません。憶測もいけません。また自分が置かれている苦しみによって、相手が苦しまないようにしなければなりません。自分が責任を負えばよいことを人まで巻き込むことは、卑怯な心で悪賢い心です。自分の苦しみを神様と友達のせいにしたヨブは今、友達に向かってこのように言います。
ヨブ記19-29です。
「あなたがたは剣を恐れよ。その剣は刑罰の憤りだから。これによって、あなたがたはさばきのあることを知るだろう。」(ヨブ19:29)
その剣は刑罰の憤りだから。これは真理です。人々は自分が被害を受けたり、自分の思い通りにならない時に憤ります。その憤りが爆発すれば争いになって、暴行や殺人まで起きます。ところでヨブが友達にその剣は刑罰の憤りだからと言っていることは、友達を脅していて極端(的)なことを言っているのです。つまりあなたがたが憤って私を苦しめたから、それに対する代価として、刑罰と裁きがあると言っているのです。ヨブが言った通り憤りは災いをもたらして、何の利益もありません。また神様は善で悪であれ裁かれる方です。今ヨブはこのような真理の法則を使って友達を脅しているのです。
しかし私たちは、相手が自分に憤って非難して恥ずかしめても、その人を脅してはいけません。イエス様はどうなさいましたか?何の罪もないのに鞭打たれて茨の冠をかぶられて十字架につけられて苦しみを受けながらも、「父よ。彼らを赦してください。彼らが何をしているのか自分ではわからないのです。」と神様に愛の祈りを捧げました。またステパノ執事は福音を伝えていて、悪い人々に石打ちされて死にかけていながらも、「主よ。この罪を彼らに負わせないでください。」と祈りました。このように真理の人は相手が悪いことをするとき、悪をもって報いるのではなくて、赦してかえってその人のために愛の祈りをするのです。
これまで調べてみたヨブ記19章で、ヨブは変わらずに自分が受けている苦しみと災いは、神様が何の理由もなく下したものだと言いながら、神様を恨んでいました。また自分を責め立てる友達に向かっても間違っていると言いながら、あなた方の憤りは結局刑罰と裁きをもたらすものだと言いながら脅していました。このようなヨブの話を聞いていた友達は、またどんな反応を見せるでしょうか。これからヨブ記20章ではもう一度ヨブの友達ツォファルが登場します。ツォファルはヨブ11章であなたが罪と悪を捨てるなら神様の前に大胆に立って恐れないだろうと忠告した人です。その後ツォファルはヨブと友達が言い争っていることを聞いていて、もう一度口を開きました。
ヨブ記20:1-2です。
「そこでナアマ人ツォファルは答えて言った。それで、いらだつ思いが私に答えを促し、そのため、私は心あせる。」(ヨブ20:1-2)
ヨブは前、私の内なる思いはわたしの内で絶え入るばかりだと言っていました。つまり自分が死んだ後、神様の前に立つ状況を考えてみたら、息苦しくなるほど不安だからそう表現したのです。これまでヨブは不満を言いながら、神様の前に恨んでいて責めていたから、こういう姿で神様の前に立つのを考えると、不安と後ろめたさを感じていました。ところでここでツォファルはいらだつ思いが私に答えを促し、私は心焦ると言っています。これまでツォファルは2人の友達と一緒に激しくヨブを非難していましたが、実は彼は人を責めるような資格がある人ではありませんでした。友達と一緒に激しくヨブを非難していたでしょう。ヨブと互いに言い争っていました。そして今までヨブの反論を聞いていてまた友達の反論も聞いていながら、自分は人を責めるような資格があるのではないと、心の中ではうすうす感じていたのです。例えば自分は人を愛していないながら、相手になんでそんなに愛が足りないのかと指摘するなら、恥ずかしいことでしょう。しかしこの様に言っておいて恥ずかしいと思わない人がいるかと思えば、それでも少し良心もあって、呵責を感じる人もいます。
ツォファルは友達と一緒にヨブを激しく責め立てて追い詰めて呪ったことについて、実はそれは恥ずかしいことだと心の一方では感じていたのです。人は自分が言ったことについて責任を負えない場合がよくあります。そして自分は行っていないのに、人には教えて指摘する場合もあります。例えば下着を取ろうとする者には上着もやりなさい。右の頬を打たれたら左の頬も向けなさい。敵を愛しなさいと真理を教えていながら、自分はその通りに行っていないのです。実際人に施すべき状況ではためらうし、敵でもない人を憎んだり、感情的になって対立したりします。
こういう場合、少しでも良心がある人なら普段自分が言っていることが正しくないと、感じることがあるでしょう。この時、黙って自分を顧みながら反省すれば良いのに、そうしないで言い訳をしようとするから、心は焦るようになるのです。だから相手に何か誤ちがあって、自分が知っている真理を持ってアドバイスをしたのですが、話をしていたら自分もその御言葉を行っていないことに気がつくのです。それなら黙って自分を顧みて反省すればいいのですね。でもそうしないで、かえって言い訳をしようとするから心焦るのです。良心が少しあって、心の呵責、良心の呵責を感じたものの、それで反省するのではなくて、必死に言い訳しようとして、何か理由付けるものはないかを探すのです。いや私もそんな姿があるけれどでも、今は私が正しいことを言わなければと思うのです。ツォファルが今そんな心なのです。
ツォファルはこれまでのヨブとの言い争いの中で自分が言ったことが心の中では正しくないな、恥ずかしいことだなと少し良心の呵責を感じながらもでも、何とかして自分が正しいことを通そうとして貫こうとして言い訳しようとするから、かえって苛立って心焦っているのです。ツォファルは友達と一緒にヨブを非難している自分が正しくない、悪いと確かに少し良心があって呵責を感じていたけれども、そこで自分を変えて反省したのではないのです。かえってもっとヨブを非難して自分の心の正しくないというところを隠そうとしているのです。続く本文を見ましょう。その理由は具体的に書いてあります。
ヨブ記20:3です。
「私の侮辱となる訓誡を聞いて、私の悟りの霊が私に答えさせる。」(ヨブ20:3)
ツォファルは友達と続けてヨブを責めたてた言葉が、結局は自分の顔に唾を吐く結果になることを薄々感じてはいました。自分で良心の呵責を感じていました。それは自分もヨブと同じように、自分が言っていることを実行はしていない人だと気づいていたからです。自分もヨブと変わらない人だと感じたから、私の侮辱となる訓戒を聞いたと言っているのです。でも私の悟りの霊が私に答えさせると言っています。これは正確にその意味を理解しなければなりません。言い訳しようとして心焦っている人が、どうして悟りの霊を得て賢い答えができるでしょうか?私にもちょっと私が言ったことは正しくなかったんだ、悪いところもあったんだと心の隅ではそう感じていたのですが、でもここではまた開き直って、私は悟りの霊が応えさせていると言っているのです。
正しい良心を持っている人なら自分の過ちについて指摘されたら、顧みて悔い改めるでしょう。そうして言い訳もしないでしょう。しかし、悪の多い人はとんでもない理由をつけて言い訳を示して、他の人に責任をなすりつけようと企んだりして悪知恵を働かせるのです。そして一生懸命工夫して絞り出した言葉を、自分なりには賢い答えだと思っているのです。例えば相手が一言言うと自分は二言三こと言い返して、相手がすぐに言い返せなくて困っているのを見ると、嬉しくなって、あぁ-すっとした、私は頭が良いと思うのです。これは真理で照らしてみればどれほど愚かで悪い姿でしょうか。
ツォファルもヨブの話に反論しながら自分なりに工夫して言い訳をして、自分なりにこれは賢い答えだと思っていましたが、神様の方ではどれほど恥ずかしいことでしょうか。神様は善をもって悪に打ち勝ちなさい、人を自分より優れている人だと思いなさい、と言われました。しかし相手を負かそうとしたがるなら、真理とかけ離れているでしょう。私達は信仰生活をするとき、必ずこれを心に留めて、変えられていかなければなりません。自分は行っていないのに、他の人に押し付けたり、行っていないからと指摘するなら、良心が少しでもある人は呵責を感じるでしょう。そういう時言い訳しようとするのではなくて、反省して立ち返る人が本当に賢い人なのです。もちろん教える使命を持っている人ならば、自分はまだみ言葉を全部行っていなくても真理を正しく教えなければならないでしょう。
例えば区域長が自分はある事情があって祈れなくても、区域のメンバーには祈らなければならないことを教えなければなりません。もし私も祈れないくせに誰に教えることができようかと思いながら、初めから教えないならばそれは使命を果たしていないということです。ある人を訪問して喜んで感謝してこそ問題が解決されますと言いながら、自分の心の中では私も喜べなかった感謝できなかったと感じますね。そういう時なら、相手に真理を教えないほうがいいでしょうか?そうではありません。それでも真理は教えて、相手が正しい道に行くように導かなければなりませんね。そして私も欠けているところが多いですけれども、一緒に頑張りましょうと、このように互いに励まし合えばいいし、実際自分も祈りながらもっと喜んで感謝するために努力すればいいのです。
しかしそうではなくて、私はもう行っていないから初めから教えまいと思ってはいけないのです。そういう使命がある人ならば、当然真理を教えなければならないし、その真理を自分に照らして自分も変えられなければならないですね。それで自分も努力しながら、また同時に正しい真理を教えて一緒に変えられればいいでしょう。だから教える使命があって人に教えることと、上からの目線で高ぶって人を指摘して教えようとすることとは違うのです。自分がへりくだって、自分が行っていない姿があっても、それでも使命があるから正しい真理を教えるなら、聖霊が働いて下さいます。しかしそうではなくて、悪をもって上から目線で教えようとするなら、それは聖霊が喜ばれないことでしょう。
でも、ヨブの友達の場合は、ヨブを正しく悟すのではなくて、感情的になって指摘して責めていました。ツォファルは自分がヨブを攻めていたことについて良心の呵責を感じたけれど、ヨブの話を聞いていたら苛立って言い訳をしようとして心焦っていたのです。こういう時は黙って反省すればいいのに、いろんな言葉で相手を攻撃しようとして状況を変えようとするのです。良心の呵責を感じて言い訳をする言葉を探して心が焦るのです。何とかしてこの場しのぎをしようとして言い逃れようとし、何とかして自分を指摘する相手の欠点や弱点を捕まえて言い返そうとするのです。そのためにいろいろ頭を絞るのです。
皆さんここで自分の姿を顧みますように。誰かに指摘されたとき心がせいて状況を逆転しようとするなら、ヨブの友達と変わらないでしょう。日常生活で隣人と話をするとき、主のしもべと話をするとき、目上の人に対して目下の人に対しても親子の間でも夫婦の間でも、皆さんにこういう姿があるなら立ち返って顧みますように。もし誰かが皆さんの過ちを指摘してアドバイスをするとき、受け入れて悔い改めて立ち返るならすぐ真理の心に変えられるでしょう。私たち普段どのようにしているのか顧みられますように。
誰かに指摘されたとき相手の欠けているところが思い浮かんで、それに反論したりする姿はありませんか?私を無視しているんだとか、自分もやっていないのに私にやりなさいというのかと、不満を抱いたりするのでしょうか?それなら言い争うようになるのではありませんか?だから小さい子どもが自分に指摘したりアドバイスをしてくれても、良い方に思って受け入れなければならないのです。そうではなくて、あなたがちゃんとやっているのでもないのにと思うならば、ヨブとヨブの友達と同じ心なのです。だからそうするのではなくて、指摘されても謙遜な心で、まずは受け入れなければなりません。
でもすぐ言い訳をする人がいますね。何とかして言い訳をしようと言い逃れようとする人がいるのです。だから自分は指摘されたとき、自分を必死に守ろうとしているのか、自分の過ちを認めないで隠そうとしているのか、でなければ素直に受け入れてへり下って自分の罪を告白して変えられようとしているのか、顧みますように。そして指摘してくれる相手に対して、顔には出さなくても心の中で不満を抱いたり嫌になったり憎らしいと思ったりする姿があるなら、それを悔い改めなければならないでしょう。指摘されたら、まず感謝して喜ばなければならないでしょう。
しかし必死に言い訳をしようとして過ちを認めないで隠そうとするから、一生懸命頭を絞って他の人のせいにするのです。これは自分を愛する心、自分の利益を求める心、悪があるからなのです。それを捨てないからなのですね。だから長い間信仰生活をしていても、信仰の成長がないのです。変えられるために自分なりに祈ってもいて、いろんな奉仕もしています。そして熱い時もあります。そして人々に褒められる時もありますね。でもある時は指摘される時もあります。指摘されたらすぐ顔色が変わって言い訳をしようとして、自分の過ちを隠そうとするならそれ以上発展がないのです。だからなぜ私は祈ってはいるけれど信仰が成長していないのかと思う方はこういう姿を顧みますように。
使徒の働き7:51-60を読むと、ステパの執事が殉教する場面で、悪い人々が指摘されたら苛立って心焦ってより多くの悪をより大きい悪をさらけ出す姿があります。ステパノ執事は神様を信じると言いながら心の割礼をしていない人々に対して、「頑なで心と耳とに割礼を受けていない人たち、あなたがたは、父祖達と同様に、いつも聖霊に逆らっているのです。」と指摘しました。すると人々はこれを聞いてはらわたが煮えかえる思いで、ステパノに向かって歯ぎしりをしました。そしてステパノが聖霊に満たされて、「見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます。」と言ったら、彼らは大声で叫びながら、耳を覆い一斉にステパノに殺到して石で打ち殺してしまいました。
悪い人々はステパノに指摘されるのが聞きたくなくて、耳を覆いました。焦りと怒りに勝てなくて、この様に大きい悪を行ってしまいました。みなさんはどうでしょう?指摘されたとき心焦って苛立って言い訳をしようとして、自分の過ちを隠そうとしたことはありませんか?聖書を見るとステパノ執事も神の力ある技を行っていました。そういう人が指摘したのに、悪い人々はそれを受け入れないでかえって憎んで殺そうとしたのです。心にある悪がこのように明らかになるのです。心に善がある人は善が現れるのですが、悪があるから結局悪が出てくるのです。だから皆さんも自分の心の中にどのように善があるのかを顧みますように。そして心に悪が多い人を刺激することも気をつけなければならないでしょう。
皆さん、聖めを慕っている人は過ちを指摘された時も、自分を顧みて悔い改めて立ち返ればいいのです。箴言15:28に「正しい者の心はどう答えるかを思い巡らす。悪者の口は悪を吐き出す。」とあります。どんな状況でも、感情に振り回されないで、落ち着いてじっくり考えてみなければなりません。こういう人は心焦ったり、言い訳したりするのではなくて、心の余裕をもって静かに話をするでしょう。それでも、相手が苛立って言い返してくるならば、それ以上話さないで、イエス様のように知恵をもってその場を離れたりして、言い争いがないようにしなければなりません。しかしそうしないで心焦ってしまうと、感情的になって平和を壊してしまいます。これは神様が喜ばれないのです。
結論です。
箴言16:32に「怒りをおそくする者は勇士にまさり、自分の心を治める者は町を攻め取る者にまさる。」とあります。箴言4:23に「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。」とあります。このように私たちがどんな状況でも、心を真理によって守ることはとても大切です。話をするとき心のコントロールができなくて焦ってしまうと、感情的になり、すると顔色が変わったり表情が怖かったり目つきが怖くなったりします。我慢できず悪態をついたり暴言を吐いたり、手を挙げる人もいます。これは神様がとても悲しまれることで、敵である悪魔サタンが喜ぶ姿です。こういう人は聖霊の声を聞くことができません。聖霊は泉のように静かで穏やかな心の中に聞かせてくださるのです。だから心焦りや苛立ちがあるときは、聖霊の声を聞くことはできません。
では聖霊の声を聞くためにはどうすべきでしょうか?まず心を真理に変えなければなりません。神様は光であり善と愛真理そのものだから、神様の御霊である聖霊も真理の心を通して働くことができます。だから聖霊の声を聞くためには、次の二つの作業が同時に行わなければなりません。第一は、聖霊の声を聞けないようにして、サタンのしわざを受け入れる真理と反対の思い、肉の思いを打ち砕くことです。そして第二は聖霊の声を聞けるように、心を真理に満たすことです。いくらたくさんの時間祈って、み言葉を知識的にたくさん知っていても、肉の思いが多ければ聖霊の声を聞けません。だから皆さんは、心に真理を満たして、肉の思いを打ち砕いて一瞬一瞬正確に聖霊の声を聞いて、いつも栄える道に導かれますよう、主の御名によって祈ります。
聞いたメッセージを思いながら一緒に祈りましょう。父なる神様、今日はヨブが自分についてどのように訴えていたのか、そしてどのように恨んでいたのか、神様についてどんなふうに考えていたのか分かりました。そして神様の前に立つとき、自分が今までしたことがあるから、不安で切羽詰まっているそういう気持ちもありました。私たちはどうしているのか顧みますように。私達は自分の心に悪があって救いの確信がなくて、それで不安になったり心苦しくなったりする姿がないのか顧みますように。そしてヨブの友達ツォファルの姿を見ました。良心の呵責を感じたものも、自分を認めてへり下るのではなくて、必死に言い訳をしようとして、それで苛立って心焦ってしまう姿もありました。そして自分の過ちを認めないで隠そうとしていて、人のせいにする姿もありました。それを通して私たちも自分自身を顧みるようにしてください。それでへり下って変えられるようにしてください。感謝します。イエスキリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
