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ヨブ記講解51 - 心あせってはならない(上)

9月13日
読了時間: 16分

説教:イ・スジン牧師

本文:ヨブ記19:23~27


皆さん前回はヨブが自分の苦しみを神様のせいにしながら、友達にも自分を憐れんで欲しいと願っている姿を見ました。しかし、こういう場合人間的な慰めは何の役にも立たないので、真理で悟して相手の魂が幸いを得るようにしなければなりません。ヨブは自分が痩せ衰えている理由も神様のせいにして友達のせいにしていますが、自分で自分を削っているのです。もしヨブの心が正しくて綿毛のように柔和で友達の話を受け入れたなら、やつれるはずがなかったでしょう。しかし相手の話を受け入れない人も問題ですが、彼に続けて指摘して苦しめている人も正しくないと伝えました。​


ところで大切なのはこのようなメッセージを聞いて、自分自身を発見して変えられなければならないということです。元老牧師先生はヨブ記講解を伝えながら、これはとても大切だと何度も言われました。私たちがメッセージを聞いて自分を発見して悪と真理と反対のものを捨てるほど魂に幸いを得て、そう魂に幸いを得ているように、衣、食、住を初めいろんな祝福を受けるからです。​


ですから皆さん自分自身について、皆さんもよく知っていると思うかもしれませんが、実はそうでないのです。私の名前はこれです、私の身長はこのくらいで私の性格はこうですと自分自身についてよく知っていると思うかもしれませんが、聖めの福音を聞いて自分を顧みてみるとそう言えないでしょう。自分の中に真理と反対のものがたくさんあるし、それが深く潜んでいるからそれを発見できない人もいて、またあってもそれを認めないから自分自身についてよくわからないのです。自分の心の中に憤りがあって憎しみがあることを知っているなら、本当に知っているならそれを捨てるはずでしょう。でも実は分かっていないから捨てようとしないのです。​


皆さんの顔に何か誰かがいたずらでペンで書いたとしましょう。そうでなければ、何か汚れがついているとしましょう。それを見たなら洗うでしょう。でも知らないから、気づかないから洗わないし、ふかないのではありませんか?私たちも同じです。自分の中に本当の自分があるのに憤っている自分があるのにそれを認めないのです。私はそんな憤る人ではないと思って蓋をして置くから問題なのです。しかしヨブ記講解を通して自分自身を見つめ直すようになって、発見するようになるのです。ヨブの姿からヨブの友達の姿から、自分を発見するようになるのです。日常生活で自分が思ったことを考えたことを自分の口にした言葉を、このヨブの言葉とか友達の言葉を通して聖霊が思い起こさせてくださるのです。それで霊的に悟るようになるし、自分を発見するようになるから祝福なのですね。だから私たちは真理のみ言葉を聞いて罪と悪を捨てていくと、魂に幸いを得るようになって、すると神様も祝福してくださることができるのです。​


マタイの福音書6:33「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」とあります。「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。」とあります。だから私たちは教会のために主のしのべのために働き人のためにまず第一に祈らなければならないのです。神の国のために祈りまたその義のためにも祈らなければなりません。つまり神様のように私たちも神様に似ていくために正しくなるために祈るのです。神様が人間耕作をなさる理由がありますね。まことの子供を得るためでしょう。つまり聖められた子供、罪を捨てた子供、聖い子供を望んでおられるから、そのような子供になるために祈るのです。


第3ヨハネ1:2「愛する者よ。あなたがたましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康であるように祈ります。」とあります。私達が霊肉ともに祝福される為には、魂に幸いを得ていなければなりません。ですから、今日メッサージを聞くとき、自分を発見して変えられて、魂に幸いを得ていて、すべての点で幸いを得、健康でありますよう、主の御名によって祈ります。

前回に続いてヨブは今日も神様の前に恨んでいます。ヨブ記19:23-24です。


「ああ、今、できれば、私のことばが書き留められればよいのに。ああ書き物に刻まれればよいのに。鉄の筆と鉛とによって、いつまでも岩に刻みつけられたい。」(ヨブ19:23-24)


ヨブは今自分が言っていることと、今自分が受けている試練この苦しみを書き物に書き止めたいと、いつまでも岩に刻みつけたいと言っています。今の自分の痛みと悔しさが記されて、ずっと誰かが覚えてほしいと思っています。皆さんもそう思うときありませんか?本当に悔しい目にあって苦しいとき辛いとき、誰かがそれをわかってほしいですね。自分の味方をしてほしいですね。人は自分を愛します。だから自分が何か辛い思いをすると周りの人に言うのです。聞いてほしいと思うのです。わかってほしいと慰めてほしいと思うのです。


今ヨブがそうです。こんなに病気で苦しいし、自分が悔しい目にあっているから、それを書き記して、ずっと人が覚えてほしいと思います。今どれほど辛いし悔しいのか苦しいのかを表現しているのです。ここで鉄の筆とはペンのように先が尖っている筆とか彫刻刀を言っています。鉛は金属の一種ですね。ヨブは自分のこのような悔しい状況を本で書くならば、もしかして消されたり破れるかもしれないから、固い石に刻みつけてずっと保存したいと思います。それだけ今、自分が受けている苦しみと痛みが重いし、恨みが大きいことを表現しています。


皆さん周りで悔しい目にあっている人の中で、これと似た表現をする人を見たことありますか?そうでなければひょっとして皆さんが神様を信じる前、誰が私のこの悔しい思いをわかってくれるだろうか、私の悔しい思いをどこに記せばいいのか、悔しくて死にそうだと言ったことはありませんか?クリスチャンの中でも、神様は私の悔しい思いを知っていると言いながら、自分の潔白を明かすために必死になる場合があります。しかしこれはそれだけ心に悪があるということを物語っています。信仰が欠けているからなのです。韓国のことわざの中に、かたきは水に刻み、恵みは岩に刻めという言葉があります。人との関係で自分が損したことや悔しいことは流れる水のように忘れても、反対に恵みを受けたことは変わらずに覚えていなさいという意味です。しかし人はこれを反対にしますね。誰かが自分を苦しめて自分に悪を行ったならそれは絶対忘れませ。ん。そして受けた恵みはすぐ忘れてしまうのです。しかし世の人もどちらが正しいか分かっているから、こういうことわざがあるのです。自分が損をしたことや悔しいことは流れる水のように流してしまい、しかし受けた恵みは、変わらずに心に留めておきなさいと言っています。それが正しいのです。世の人もどちらが義なのか善なのか知っているのですが、私たちはどうすべきでしょうか?


これは真理である神様の御言葉とも通じあっています。神様はどのようにしなさいと言われましたか?詩編37:5-6です。「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。主はあなたの義を光のように、あなたのさばきを真昼のように輝かされる。」とあります。ローマ12:19には「自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。」とあります。ルカ6:35には「ただ自分の敵を愛しなさい。彼らによくしてやりなさい。」とあります。このような真理のみ言葉に従う人は、不当な目にあっても心の平和を思い失いません。生きておられる神様の前に真実で大胆だから、誰のせいにもしないで静まって神様に頼るだけです。すべてのことを知っておられる神様が答えて下さり解決して下さることを信じるから、焦ることもないし静まって待っているのです。神様の前に罪を犯さないで光の中を歩んでいるから、霊の信仰が与えられて、人を恨むこともなく平安でいられるのです。


今日のメッセージのタイトルと反対ですね。心焦ったり、憤ったりするのではなくて、心に平安があるのです。悔しくてたまらないと不安に思って心焦るのではなくて、それで感情的になってしまい人のせいにするのではなくて、すべてを神様に委ねる人は心が穏やかです。そのためには神様との間で罪の壁があってはいけないでしょう。神様は罪の壁がない人の祈りを聞いてくださり助けてくださるのです。しかし罪を犯していて罪の壁があるならば祈っても答えを受けられないのです。だからまずは罪の壁を壊さなければなりません。そして自分の知恵とか自分の能力で解決しようとしてもできないのです。


だからまずは罪を犯さないことが大切なのです。そして自分の心の悪によって感情的になったり憤ったりイライラしてストレスを受けていたから痩せてしまうし、消化不良になってしまったり眠れなくなるのです。不安になるのです。しかし神様にゆだねて神様を信頼する人は罪の壁を作らないから神様が全てを栄えるようにしてくださるのです。このように生きておられる神様に全面的に信頼するとき、まるで光が闇の中を照らすと全ての真相が明らかになるように、結局彼の正しさが明らかになって必ず勝利して栄光を得るようになります。ですから私たちは神様の御言葉通りに許して我慢して待ちながら、神様に委ねて頼らなければなりません。すると神様が全てを働かせて益としてくださるのです。だから自分の無念も書き記す必要もないのです。


続く本文でヨブはヨブ記19:25-26です。


「私は知っている。私を贖う方は生きておられ、後の日に、ちりの上に立たれることを。私の皮がこのようにはぎとられて後、私は、私の肉から神を見る」(ヨブ19:25-26)


ヨブは、友達に憐れんでほしいと言いながら、自分がこんなに苦しい、こんなに悔しいめにあっている、これを書き記したいと言っています。そしてここでは、自分が神様について知っているかのように言っているのです。高ぶっている姿です。ヨブはここで私は知っていると言っていますが、これは本当に知っているのではないのです。自分が聞いている知識ではこうだと、正確でない真理でないことを知っているのです。そうではなくてヨブが神様について正確に知っているならば、今のように神様を恨んだりはしないでしょう。ヨブは自分の思い込みの中で、神様について知っているふりをするだけなのです。私たちは信仰生活をするとき、確かな信仰と不確かな信仰では大きい違いがあることを悟りますように。霊の信仰と肉の信仰の違いです。


確かな信仰、霊の信仰を持っている人は神の子供とされた後、確信があるから天国への希望があり、どんな状況でも喜び感謝して祈りながら御言葉に従います。確かな信仰があるからです。目の前にいろんな苦しみがあっても神様に委ねて、だから喜んで感謝することができるのです。しかし反対に不確かな信仰、肉の信仰を持っている人は確信がないから、神様の御言葉を聞いても疑うようになって完全に信じられないから御言葉に従わないし、世と友となって罪を犯すのです。神様の御言葉には喜びなさい、感謝しなさい、愛しなさい、許しなさいとあるのに、それは自分にとっては不利益になるようだから従えないのです。不確かな信仰だからです。


だから現実の中で苦しみにあったら神様の御言葉はどこかに行ってしまうし、自分の考えで何かをしようとするのです。そして不満を抱いたり、神様の前に問い詰めたり、呟いたりするのです。それで段々神様から離れて、罪を犯してしまい、世に向かってしまうのです。このような人は信じると思っていたのに、また疑ってしまうのです。移り変わってしまうのです。


平安な時、恵みに満たされていた時は信じると言っていたのに、現実に問題が起こって試練がやってくるとまた疑ってしまうのです。熱心も冷めてしまうし、ふた心があるのです。だから祈りにも応えられないし祝福されないのです。ヤコブ1:6-8です。「ただし少しも疑わずに信じて願いなさい。疑う人は風に吹かれて揺れ動く海の大波のようです。そういう人は主から何かをいただけると思ってはなりません。そういうのは二心のある人でその歩む道のすべてに安定のかけた人です。」とあります。ですから私たちは疑う心や運に任せる心を捨てて、ただ霊の信仰を所有して神様の前に求めなければなりません。


すると神様は私たちの心の願いを叶えてくださるのです。本文にヨブは骨と皮だけ残っている状態だったので、私の皮がこのように剥ぎ取られてのち、私は私の肉から神を見ると言っています。つまり自分が死んだ後には神様を見ると言っています。これも不確かな信仰の中でただ聞いて知っていることを言っているだけです。こういう言葉は神様を信じない世の人もいくらでも言えます。例えば普段神様を探してもいなかった人が、自分が善良に生きたから天国がもしあるなら私も行けると言います。このように言う人がたまにいますね。自分なりに正しく生きたから、天国がもしあるなら私も天国に行けると言っています。それは天国を信じているからそういうのではありません。


そして真理を知っているからそういうのでもありません。自分が正しいと主張しているだけなのです。これは信仰の告白でもないし、自分の言い訳にすぎません。本当に信仰のある人ならばいつも目を覚ましていて御言葉に従って、天国を望みながらまた来られる主を待っているでしょう。全き信仰には行いが伴います。行いのない信仰は死んでいる(も)のです。本当に信仰のある人は、一生懸命心を割礼して主に似るために励み、天国で受ける報いを望みながら忠実に仕えます。そうすると確かな信仰が与えられます。しかしヨブはそうではなかったのです。今自分は神様の前に恨んで神様のせいにしていて悪い神様のように言っていながら、自分が死んだ後、神様を見るだろうと言っています。それは自分にそういう確信があるから言っているのではないのです。ただ自分が聞いて知っている知識的な信仰で言っているのです。


続くヨブ記19:27です。


「この方を私は自分自身で見る。私の目がこれを見る。ほかの者の目ではない。私の内なる思いは私のうちで絶え入るばかりだ。」(ヨブ19:27)


つまり自分が死んだ後、神様の前に立つようになることを言っているのです。この地上での人生が終わった後、自分の目で神様を見るだろうと言っています。これまで神様について聞いて知っていたし、自分なりに金銀を捧げたから、神様を直に見ることができるだろうと思っています。しかし実際ヨブは神様の前に立つならどう言うでしょうか?なぜ私にこんな苦しみを与えましたかと問い詰めるつもりでしょう。でもこういう姿勢と心で本当に神様の前に大胆に出ていくことができるでしょうか?これまで神様を悪い神様だと非難して恨んでいたのに。前は神様の前に金銀をちゃんと捧げて神様を恐れていたとしても、今は神様を恨んで悪い神様と非難しているのに。こんな姿でどうして神様の前に大胆に立てるでしょうか?


だから実はヨブは心の中でも不安でたまらなかったのです。だから私の内なる思いは私の内で絶え入るばかりだとこのように言っているのです。皆さん、この礼拝が終わった後、又来週にもシリーズが続くのですが、次の週の本文を前もって読んで来て下されば良いと思います。それでこの表現はどういう意味なんだろう、この単語はどんなことなんだろうと思いながら、自分の考えでは理解できない、疑問に思うこともあるでしょう。その次、実際礼拝のときメッセージを聞きながら、正確な意味を悟ってああなるほどと思うと、とても礼拝が面白く楽しいでしょう。メッセージを聞くのが楽しいと思います。今日の本文もそうですね。なぜヨブがこのように言っているのか?聖書を読むときはよくわからなかったでしょうが、今日のメッセージを聞いてみれば、その意味を深くまで悟ると思います。だから毎週シリーズだから次の週の本文も前もって読んでくれば良いと思います。


ヨブは自分の以前の姿と今の姿があまりにもその違いが大きいから、やがて神様の前に立った時を考えてみれば、息苦しくなるほど不安だったのです。絶え入るとは息が絶えて死ぬ、気を失うという意味です。ヘブライ語の言語の意味では、枯渇してなくなるという意味です。耐え入るばかりだとは、つまりすぐに息苦しくなるほど不安で死にそうだという意味です。切羽詰まっている気持ちを表現しているのです。


今日、信仰があるという人々の中でも、このような不安を持っている場合があります。罪と義と裁きについて聞いて知っているけれども、相変わらず自分は真理の中で生きていないし、花嫁の備えを怠けているから不安です。マタイの福音書25章の十人の娘のたとえで、愚かな五人の娘のようです。油の用意をしておかなかったから、花婿が来られたとき、切羽詰まって不安になりますね。灯し火は持っていたけれども油を用意していなかったから、突然花婿が来られると聞いたらどれほどびっくりして、切羽詰まって不安になるでしょうか。そして賢い五人の娘のところに行って油を分けてくれと言います。どれほど愚かな姿でしょうか。もう用意する時間がないのです。それで結局は婚礼の宴会に参加できなかったのです。


霊の信仰を持っていない人はこのような不安を抱えているのです。御言葉を聞いて知ってはいるけれど、御言葉通りに生きていないから、聖霊様が悲しまれるし、またうめいてくださるからいつも心が苦しいし不安なのです。教会に来て礼拝を捧げるときは、悔い改めてこうしてはいけないと思っても、日常に戻ったらまた世の人と変わらない生き方をしていて、ずっと不安ならどれほどつらいでしょうか?しかし花嫁の備えをちゃんとして主を迎える準備を終えた人は、慕う心で主を待ちます。だからどれほど幸せでしょうか。今日も明日も主を待つその時間が神様の前にどれほど報いになるでしょうか?天国への希望が溢れていて天に報いを積んでいるのです。だから花婿が来られると聞かされたらどれほど嬉しいでしょうか?大胆に主の前に出ていくことができるでしょう。どうしよう、まだ用意ができてないのにと不安に思うこともないでしょう。


皆さんもし明日主が来られると言うならどうでしょう。皆さんの心はどうでしょう。主イエスよ、早く来てくださいと大胆に言えるでしょうか?出なければ、いやちょっと待ってください。まだ新しいエルサレムにまだ行けないのにと思いますか?でも信仰のある人は今まだ欠けているところがあってもそれでも、喜んで主を受けれるでしょう。でも信仰生活をちゃんとしていない人は、明日主が来られるというその言葉を否定したいのですね。それが嘘であったらと思うのではありませんか。でも信仰が少しでもある人は、今からでも悔い改めて立ち返って正しく生きようとするでしょう。そのように切羽詰まって、不安になったりして息苦しくなるようなことがあってはならないでしょう。皆さんの今の信仰生活をチェックして下さいますように。一足は世の中に、一足は教会に、このように二股をかけているならば、救いの確信がないから息苦しくなるのです。


講壇からはいつも罪を捨てなさい、真理の御言葉通りに生きなさいと教えていて、天国と地獄を伝えています。そしてこの教会ではこの御言葉が確かなものであることを現わす神の力があるではありませんか。だからそれは事実だと知っているから完全に世に落ちることはないけれど、教会と世に二股をかけているのです。世をまだ捨てていない立場ではどれほど不安でしょうか。このような不安を捨てて真の平安と自由を得たいと思うならば、速やかに罪を捨てて世を愛する生き方から立ち返ればいいのです。皆さんは天国への希望を持ってさらに御言葉にとどまっていて、上から与えられる喜びと感謝また聖霊に満たされて信仰生活をしますように。だから不安に思うのではなくて、いつも幸せと喜びが溢れていて、主を待つそのような生き方になりますようお願いします。

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