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ヨブ記講解50 - 肉の人と御霊の人(上)

9月13日
読了時間: 18分

説教:イ・スジン牧師

本文:ヨブ記19:17~19


愛する皆さん、前回は肉と霊の価値について伝えました。肉は変わってしまい本物ではないので肉の信仰を霊の信仰に変えなければなりません。肉の愛を捨てて霊の愛を所有しなければならないと言いました。肉の信仰は形式的な信仰生活はできます。礼拝に出席したり祈ったり奉仕をすることはできます。しかし神様が望んでおられる霊の信仰は心の割礼をすることです。しかし肉の信仰のままならば心の割礼はしないで、ただうわべだけで熱心なだけで、口では神様愛していますと言いますが、それは本物の信仰ではありません。神様は私たちを愛してくださるから、そのような肉の信仰のままではいけないから、試練に遭うようにして信仰が成長するように霊の信仰を持つようにしてくださるのです。そして試練に遭うのは自分の心にある悪や罪が原因の場合が多いです。​


自分の利益を求めて自分の欲や私心によって試練に遭った時それを神様のせいにしたり、守ってくださらなかったことについて不満を持ってはいけません。自分が肉の信仰のままで心の割礼をしていないから、そのような苦しみにあうようになるのです。自分ではちゃんとしていたと錯覚していたのです。本当に神様を信じる人ならば、そういう時も自分を顧みて神様により頼むでしょう。そして自分の肉の信仰を反省して悔い改めて、霊の信仰に変えていかなければなりません。そのために神様はヨブを練ってくださっているのです。そして肉の愛は価値がないことをも悟れます。皆さんもこの世を生きていると人との間で人間関係で、肉の愛のためつらい思いをしたりすることもあります。しかし私たちは神様を知っていて霊の愛の価値を知っているから、肉の愛を捨てて霊の愛を所有していきましょう。霊の愛は変わらないし美しくて本当に価値があります。しかし肉の愛は自分の利益に合わなければ変わってしまう、朽ちてしまう価値のない愛です。​


ヨブが前、裕福だった時、多くの人に希望を与えて助けましたが、いざ試練に会うと、皆がヨブから離れてしまいました。兄弟も背を向けて、親戚もヨブを見捨てました。親しい友も彼を忘れました。しもべたちさえヨブを他国人のようにみなしました。これは肉の愛だったからです。今日もヨブの境遇を調べながら肉の無価値を悟る時間になります。皆さんがヨブと同じ目にあったと思って、ヨブの身になってメッセージを聞いてみますように。ヨブのような境遇に置かれたなら私はどうしただろうか、厳しい試練に勝つことができただろうか、誰かが指摘すると喜んで受け止めることができるのか、文句とか言わないで喜んで感謝できるのかなどを考えながら聞いてみれば、更に恵みを受けるでしょう。又、私もヨブのようにしたかもしれない。もっとひどかったかもしれないと思うなら、今から変化の始りです。そして悟った悪と肉の属性があるなら、それを捨てるために熱く祈って、その罪と悪を憎むようになると、速やかに捨てることができます。​


しかしメッセージを聞いて、頭ではそうなんだと、悟ったとしても、肉の愛は変わるものだ、霊の愛を所有しなければと考えるだけでは実際変えられません。肉の愛を持って近づいてくる異性や人に慰められたいし、それがいいと感じるからです。そして自分の中に肉の愛があればしてもらいたいと思いそうでなければ不満を抱いて、見返りがなければ辛くなったりします。人の中にある肉を求める属性があります。そして肉の愛を求める姿もあります。人に慰められたいと思ったり人を頼りにしたりするそういう肉の姿を速やかに捨てなければなりません。自分の心や考え、日常生活で自分が感じることなどを、一つ一つ顧みなければなりません。そしてヨブのメッセージを聞きながら、ヨブの姿から自分を発見してみますように。


ヨブは今自分が置かれている環境について不満を言っていますが、私たちは肉の愛がどれほど虚しいものなのかをそれを通して悟ることができます。ですから自分に適応しますように。肉の愛はこんなに虚しいものなんだ。束の間のものなんだ。だから人に頼るのではなく、全知全能なる神様にだけより頼もうと強く思わなければならないでしょう。そして人にしてもらいたいと思うのではなくて、自分から進んで仕えればいいのではありませんか。そうしないで、ただヨブはこんなふうに試練の時、神様のせいにして、人のせいにして、こんな思いをしていたんだと考えて終わってはいけません。ヨブの姿から自分を発見して、真理のみ言葉で自分を照らして変えられなければなりません。私もヨブのような姿はないのか?心に深く潜んでいるそのような悪はないのかを徹底的に悔い改めなければなりません。


そうしないでただ真理を聞いているだけで、心を変えていなければどうなるでしょうか?御霊も悲しまれるでしょう。自分も苦しいでしょう。だから自分の中にある肉の愛を早く捨てましょう。そして自分の利益を求める姿も早くやめましょう。自分の中に肉の愛があれば、相手にも自分がやった分をしてもらいたいと思い、それがなければ虚しいと思ったりします。それは悪でしょう。だから肉の愛を捨てて、霊の愛を所有しなければなりません。日常生活でそういう姿があって、人のことで傷ついたりまた辛くなったりすると、その時相手のせいにするのではなくて、自分の中に肉の愛があるんだと思って悟って変えなければなりません。移り変わって朽ちてしまう肉の無益さと醜さを悟って、肉の愛を求める自分の姿を顧みて、変えられるために切に祈らなければなりません。


肉の属性が動き出すときすぐ悟って、自分の思いと心を変えて納めるべきです。人にしてもらいたいと思ったり不満を抱いたとき、すぐ悟ってこれをやめなければと思って、ただ人に与えて仕えなければとそのように変えていかなければなりません。自分が人にしてあげた分、してもらいたいと思うことがあってはいけません。そして、してもらえなければ相手にすることも、このヨブ記メッセージを聞きながらこれが肉の愛なんだと悟るでしょう。そして変えられるために祈っていけば、神様が恵みをくださって実際変わることができるのです。そして、主の愛と神様の愛と真理で心を満たしていけば、霊の愛を行う御霊の人に変えられるのです。今日、ヨブの姿を通して、自分の中にある肉の属性を発見して、変えられる恵みの時間になりますように。


ヨブ記講解がもう50回目です。皆さんがメッセージを聞き始めた時と今と比べてみてください。どのくらい変えられたのか、ただ知識としてヨブ記講解を聞いて、肉の知識を持っているのではなくてそれが霊の知識になって、心が実際変えられているのか行いが変えられているのかを、顧みますように。うわべだけの信仰生活をしてはいけません。メッセージを聞くときは恵みを受けたと思っても、実際自分のものにはなっていないのです。すると試練が終わらないし続くしかないのです。


ヨブ記19:17です。


私の息は私の妻にいやがられ、私の身内の者らにきらわれる。(ヨブ19:17)


私の息は私の妻にいやがられとは、妻がヨブがそばにいることをいやがるという意味です。ヨブではなくて妻の方から拒むのです。一番身近な妻が夫をいやがるなら他人はどうでしょう?そして身内の者らとは家族のことだけを言うのではなくて、いつもそばにいて一緒に心を分かち合った人々を言っています。私の身内の者らにきらわれるとはヨブが試練に合うと妻だけではなく、心を分かち合っていた人々まで背を向けてしまったということです。このように自分の利益に合わなければ変わってしまうのが肉の愛です。ですから私たちはこのような肉の愛を捨てて、心を霊に変えて霊の愛を所有しましょう。まわりの人がもしかして人間関係のことで、肉の愛のため悩んでいたりする姿があるでしょうか?肉の愛を求める姿は愚かではありませんか。自分を愛してくれる人は変わらないと思いますか?それが肉の愛なら変わってしまうのです。世の中で変わらない愛があるでしょうか?肉の愛は変わってしまいます。


自分の家族のために命までかける人がいるにはいるけれども、私たちは霊の愛を追い求めなければなりません。すべての人を愛さなければならないのです。そのような人になるためには、心を霊に変えなければなりません。自分の心からまず変えていかなければならないのです。自分から変わらなければなりません。まわりの人にしてもらいたいと思ってはいけません。このような霊的な原理を知っていながらも、肉の愛を求めて辛い思いをする人もいます。どれほど愚かな姿でしょうか。ヨブが今なぜ試練に遭っているのかを考えてみましょう。続く本文を読むとヨブがどれほどひどい目にあっているのかがわかります。


ヨブ記19:18-19です。


小僧っ子までが私をさげすみ、私が起き上がると、私に言い逆らう。私の親しい仲間はみな、私を忌みきらい、私の愛した人々も私にそむいた。(ヨブ19:18-19)


自分の姿がみじめでみすぼらしいから、子供たちもさげすんで言い逆らっていると言います。家が滅びてしまい全身は皮膚病にかかっていて、ヨブの言葉と行動も前と違うから、小さい子供も彼を無視しています。また親しい友達もヨブを嫌っているし、彼を愛した人々は今は敵のようになっています。ここで愛した人々とは、友達とか妻、又は親戚や隣人も当てはまるでしょう。


ヨブは絶えず呟いて嘆いて相手の話を聞かないで言い争っているから、周りの人々も彼をうっとうしいと思うようになって、相手にしたくないのです。私たちの周りにもこのような場合があります。


例えばAという人が前は多くの人を助ける位置にいたのですが、ある日滅びてしまいました。そしたら普段彼に助けてもらった人々が来て、こうすればいいああすればいいとアドバイスをします。この時Aは前彼らを助けてあげたことだけを思って、偉そうに何を言っているのか、私に指示するのか、私はお前たちより何でも優れているのに、昔受けた恩を忘れたのかと思って、彼らのアドバイスを無視して聞かないのです。するとアドバイスをした人々は怒って、失敗者の癖に高ぶっているのかと言いながら敵意を抱くようになって背いてしまう場合があります。仲違いになってしまいます。


しかしこの時、相手が自分のアドバイスを受け入れなくても、以前自分が受けた恵みを最後まで忘れてはいけないでしょうが、ほとんどの人の心はそうではありません。自分は良かれと思って相手にアドバイスをしたのに、相手が無視して聞かないとしましょう。そして前は私が助けたのにと言っても、それを聞いて気を悪くしたりするのではなくて、前受けた恵みを忘れないで、何としてでもその人のために助けようとしなければならないでしょう。そのような人を神様が喜ばれるでしょう。クリスチャンならなおさらでしょう。ルツが道理を尽くした善について聞きました。だから恵みを受けた人に対しては変わらずに道理を尽くさなければなりません。そういう人を神様は覚えて祝福してくださいます。


ヨブの友達とか親戚、隣人はヨブにそうではなかったのです。ヨブに背いてしまったのです。友達もヨブの為に助言をしていたつもりですが、聞かないからヨブを責め立てて不満を抱いてもっと強く激しく反論しているのです。しかし彼らに対するヨブの姿も正しくありません。自分の身の上を訴えようとするのではなく、自分が相手より優れているという思いも捨てて忠告を聞き入れるべきですが、かえって高ぶって言い争うから相手はさらに彼をさげすんでいるのです。遠ざけるのです。私たちは試練に会うと自分を低くして現実を認めて、指摘と忠告を素直に受け入れて感謝して、自分を顧みて立ち返ってこそ神様に祝福されます。


聖書を見ると預言者が王を指摘するとき、言い訳をしたときはさらに大きい懲らしめが臨みました。反対の場合、それを受け入れて悔い改めれば祝福されました。指摘されたとき、それを受け入れないで高ぶっていた人は退けられました。代表的な例としてサウル王が挙げられます。第一サムエル記15章を読むとサウル王は自分の誤ちが指摘されたとき、それを認めないで言い訳をしていました。神様はアマレクを打ってそのすべてのものを聖絶せよ、容赦してはならない、男も女も子供も乳飲み子も牛も羊もラクダもロバも殺せと命じられました。ところがサウル王はアマレクの王を殺さないで生け捕りにしてきました。そして肥えた良いものは惜しんで殺さないで、つまらない値打ちのないものだけを聖絶しました。それでサムエルが神様の前に聞き従わなかったことを責めたらサウル王は言い訳をします。そして民のせいにしていました。


第一サムエル記15:20-21です。サウルはサムエルに答えた。「私は主の御声に聞き従いました。主は私に授けられた使命の道を進めました。私はアマレク人の王アガクを連れてきて、アマレクを聖絶しました。」と言っています。今サムエルが来て、なぜ神の御声に従わなかったのかと指摘していました。しかしサウル王は自分は聞き従ったと言っています。命令された通りにしていると言っています。預言者に指摘されたのに、このようにそうじゃないと言っているのです。例えば神様が十を命令されたときその中で七、八ぐらいはしたから、私は従いましたという人もいますが、それは完全に従ったと言えないでしょう。ただサウル王は聞き従わない罪を犯しました。それなのに自分は神様の御声に聞き従ったと言っているのです。


そしてアマレク人の王アガクを連れてきてアマレクを聖絶しました。しかし民はギルガルで、あなたの神、主に金を捧げるために聖絶すべきものの最上のものとして、分捕りものの中から羊と牛を取ってきたのですと言いました。そして民の前で自分の面目を立ててほしいとサムエルに言いました。自分の過ちを認める人なら神様の場合に徹底的に悔い改めるのはもちろん、人の前でも許しを求めて謙遜になるでしょう。しかしサウル王は自分の過ちを認めるどころか言い訳ばかりしていました。結局神様はこのように立ち返らないで罪を犯すサウル王を退けられました。


次に北イスラエルのアハブ王の例があります。当時北イスラエルでは王妃イゼベルが持ってきた偶像バアルによって全国に偶像礼拝が蔓延していました。偶像礼拝は神様が厳しく禁じて、とても嫌われる罪です。神様はエリアを通してイスラエルに数年間雨が降らないことを予言するようにしました。しかしアハブ王は悔い改めるどころかエリヤを憎むようになります。神様のお言葉を伝えたエリヤなのに、そしてアハブの罪によって国にこのような災いが臨むと神様の預言を伝えたのに、悪い人肉の人はそれを受入れないで、それを告げる人を憎むのです。皆さんはそうでないのか考えますように。誰かが指摘をするときそれを聞き入れて感謝していたのでしょうか?でなければ偉そうに私を指摘するのかと聞きたがらないのならば、神様の前で悪い姿でしょう。その結果は滅びに向かうのです。


アハブ王と王妃は雨が降らないのは自分たちのせいで、偶像礼拝のせいなのに自分の過ちだと思わないでエリヤのせいだと言います。エリヤが呪いの言葉を告げたからだと言いながらエリヤを殺そうとしました。悔い改めない人悪い人はこのように言い訳をしながら、理由をつけて他の人のせいにして自分は顧みません。エリヤが指摘してくれたとき、その時でも立ち返ったならよかったのに。神の人に立ち向かったから、結局アハブはもちろんその子孫まで、惨めな結末を迎えてしまいました。


次に南ユダのアサ王はどうでしたか?アサ王は一時神様を恐れて国から異なる祭壇ともろもろの高きところを取り除き、偶像礼拝をやめさせました。神様のおきてと戒めを民が守るように命じました。母親が偶像礼拝をしたら太后のくらいから退けました。民が偶像礼拝に染まらないようにするためでした。しかし歳月が流れるとアサ王は心が変わってしまい、神様を恐れないでだんだん人に頼るようになりました。北イスラエルの王が南ユダに攻め上ってきたら、アラムの王に助けを求めました。前もこのように戦争の時神様に頼って勝利したことがあるのに、今は隣の国の王に助けを求めました。そのことで予見者ハナニに責められましたが、アサ王は彼を獄やに入れて、民を虐げました。このように神様に背いたアサ王は治世39年に足が病気にかかり、主を求めないで医者を求めてしまいました。それで結局2年後、癒されずに死にました。信仰の行いがなかったし、神様に求めなかったから、全能なる神様も何もしてくださることができなかったのです。


これとは反対に預言者に責められた時、感謝して低くなって受けた人は神様に祝福されたことがわかります。ダビデ王がそうでした。ダビデ王は目の情欲のためウリアの妻バテシバを自分の妻にしました。彼女が身ごもったらそれを隠蔽するために、彼女の夫のウリアを戦いの場から呼び戻して、家に寄って行きなさいと言いました。自分が罪を犯して相手が身ごもったら、その夫を戦いの場から呼び戻したのです。国と王のために今戦っている人を呼び戻して隠蔽するために、ウリアを彼女がいる家に入りなさいと言いました。しかし正しいウリアは戦いの中なのに自分だけ家に入って休むことはできないと断りました。それで家に行かなかったのです。ダビデは思い通りにならないと、このように忠実な部下のウリアを戦いの前に立たせて死なせました。


神様は預言者ナタンを使わせてダビデの罪を指摘されました。第二サムエル記12:9です。「それなのに、どうしてあなたは主の言葉をさげすみ、わたしの目の前に悪を行ったのか。」と責められました。このため大きい試練と報いが伴うことも言われました。するとダビデは言い訳をしないで、直ぐ低くなって徹底的に悔い改めました。このような心からの悔い改めをご覧になって第二サムエル記12:13で「主もまたあなたの罪を見逃してくださった。あなたは死なない。」と言われました。徹底的に心から悔い改めたから神様もその罪を見逃してくださって今すぐ死ぬことはない。と言われました。こういう姦淫の罪は救われないかもしれないのですが、徹底的に悔い改めたから許してくださいました。しかしそれで終わったのではありません。


その後ダビデは罪による報いとして大きい試練に合わなければならなかったのです。悔改めた後もその罪による報いが、試練と苦しみとしてやってきたのです。息子のアブシャロムの反逆が起こりました。それでダビデは逃れていくようになりました。このため多くの悲しみも経験しました。ところでこのような試練を受けている時もダビデはどうしましたか?罪が指摘された時もすぐ悔い改めて謙遜に許しを求めて悔い改めました。そして神様もそれを見て許してくださったのですが、その罪による報いを払わなければ、代価を払わなければならなかったのです。王だったのですが息子が反逆を起こして王座から追い出されるようになりました。また辱しめを受けました。このような試練にあったときダビデは誰のせいにもしないで、徹底的に自分を低くして感謝していきました。


これが心から悔い改めた人の姿です。神様が許してくださったのになぜこういう試練が来たのかと嘆くのではなくて、自分のせいにして感謝したのです。そして逃げていく途中、民のシムイという人がダビデ王と家来に向かって石を投げながら呪いました。そしたら家来が彼を殺すと言いました。今ダビデ王が追われていても周りに家来もいて一行がいたのですが、シムイがダビデを呪っているから彼を殺すと言いました。しかしダビデ王はどう言いましたか?彼がその人を殺すようにしておいたのではありません。もし自分が今不当な目にあっていると思って悔しいと思ったり怒っているなら、彼がそう呪うと気にさわるでしょう。しかしダビデはそうではありませんでした。


第二サムエル記16:10です。「彼が呪うのは『主が彼にダビデを呪え』と言われたからだ。放っておきなさい。」と言いました。そして12節「たぶん主は私の心をご覧になり、主はきょうの彼の呪いに変えて私に幸せを報えてくださるだろう。」と言って、全てを神様のみ手に委ねました。それならシムイは今タビデが試練にあっているとき彼を呪ったのですが、それによってタビデの心がもっと変えられたとしても、道具としてよく用いられたからよかったでしょうか?そうではないでしょう。そんなことがあってはいけないでしょう。どれほど悪い姿でしょうか。ダビデはそういうシムイにも神様が主がそうなさったのだと言いながら、この呪いに変えて幸せを神様が報いてくださると信仰の告白をしました。ヨブとは全然違う姿でしょう。ヨブは友達の指摘を受け入れないで言い争って友達を咎めました。また神様が自分を苦しめていると神様のせいにしました。しかしダビデは厳しい試練にあっても低くなって感謝したら、すべての罪が許されて更に深い善と愛を持つことができました。神様はダビデの心を知っておられたから、私の心に叶う人だと誉めて神様の御心をなし遂げられました。


ダビデが試練にあっている時の姿を見てみると、神の人の姿は違いますね。そしてダビデが試練にあったら家来と民の中で二つの部類に分かれました。ダビデにつく人がいてアブシャロムにつく人もいました。ダビデを裏切ってしまいダビデを呪う人がいました。しかしダビデについていてダビデを助ける人がいました。神様はどちらの味方になってくださいましたか?ダビデの味方になって、ダビデを裏切った人々はその結末が惨めでした。ダビデを助けた人々は栄えました。ですから私たちは全てのことにおいて善を選び神様の真理に従わなければなりません。すべてのことにおいて自分の欠けているところを認めて指摘されたら、謙遜な心で受けて感謝すれば神様が恵みをくださり変えられるように導いてくださいます。


サウル王とかアハブ王、アサ王、ダビデ王を比べてみるとその心遣いや器が全然違うのがわかります。私たちは誰かに指摘されて忠告を言われても、素直に自分の欠けているところと過ちを認めなければなりません。指摘する人が目上の人の時はもちろん、同僚や目下の人でも感謝して間違っているところを直そうと努力しなければなりません。あの人が私を憎んで指摘していると思っては、発展することはできません。忠告して指摘してくれる人のおかげで、自分の欠けているところを発見して変えられることに感謝しなければなりません。ですからいつも謙遜な心で他の人の助言に耳を傾けて自分を発見して、昨日よりは今日、今日よりは明日がもっと発展していきますように。

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