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ヨブ記講解49 - 肉と霊の価値(下)

9月13日
読了時間: 14分

説教:イ・スジン牧師

本文:ヨブ記19:12~16


続くヨブ記19:12です。


その軍勢は一つとなって進んで来、私に向かって彼らの道を築き上げ、私の天幕の回りに陣を敷く。(ヨブ9:12)


ここで軍勢とは実際の兵士たちを言うのではありません。ヨブの友達を意味しています。友達がヨブをどれほど苦しめたなら、軍隊と表現するでしょうか。友達がヨブを強い口調で咎めて、言い争っている姿をヨブは、軍勢が一つになって進んでくると例えていました。たとえば人々が非常に気が強い人を表現する時、誰々は虎のようだ、ライオンのようだと言うでしょう。そして私に向かって彼らの道を築き上げとあります。これはどういう意味でしょうか?築き上げるとは土や石などを積み上げて建造物を完成させることですが、これはいい意味で言っているのではありません。ヨブは友達を咎めるために、違う意味で今言っているのです。​


皆さんいつ友達が来て、ヨブのために道を築き上げましたか?そんなことはないでしょう。ここで軍勢が一つになって進んで来、彼らの道を築き上げるとは、友達がそれまでヨブにこれは間違っている、あれは悪いと言いながら、ヨブの話に言いがかりをつけて、自分たちの言葉が正しいと言い張ってきたことを意味します。つまり友達がヨブの行く道を妨げてヨブの話を聞かないで無視して、自分たちの言いたいことだけ言っていると言っているのです。友達がヨブを悪い人扱いして、ヨブの話を聞いてあげないで無視して、自分たちが言いたいことばかり言っていることを、彼らの道を築き上げたと表現しているのです。友達が自分を苦しめていたことを説明するためです。今自分がどんなに辛い思いをしているのかを訴えているのです。​


次に私の天幕の周りに陣を敷くというのは、友達がヨブを軍隊のように取り囲んで攻撃しているということを言っています。ところでこの全ては神様がヨブを敵と見なしているから、友達に命じてそうさせたからだと言っています。このようにヨブは友達の過ちを全部神様の責任だと言っているのです。本当に理解できないヨブの話ですが、皆さんはヨブの惨めで苦しい境遇を理解してください。そしてこのような姿が私たちにもたくさんあるのです。それを悟ればいいと思います。自分が失敗して過ちによって何か結果が良くない時、神様のせいにすることはありませんか?そして相手が自分を苦しめた時、その人よりは神様が何で私を守ってくれなかったとか、神様がどうして放っておかれたのかと、神様の責任だと言ったりする場合もあります。そして主のしもべが他の聖徒に自分の悪口を言ったかのように誤解してしまうこともあって、悪口を言った主のしもべを恨んだりする人もいますが、事実も確認しないでそのように自分の思い込みである場合もあります。​


それを発見して知らなければならないでしょう。日常生活で私たちが人を裁いて誤解することはよくあります。だからヨブの姿を見ながら、自分の姿に照らしてみて自分はどうしているのか考えてみなければなりません。私たちの心には多くの人を裁くことがあって、恨みがあって悪があるのです。続くヨブの告白を聞いてみれば、だんだん孤独と寂しさと苦しみが増していく姿がわかります。​


ヨブ記19:13-14です。


神は私の兄弟たちを私から遠ざけた。私の知人は全く私から離れていった。私の親族は来なくなり、私の親しい友は私を忘れた。(ヨブ19:13-14)


血を分けた兄弟たちも背を向けてしまい親戚も見捨ててしまったのに、親しい友達は助けてくれるわけがないと言っています。第一ヨハネ4:20「神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるならその人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。」とあります。これは家族の間でも同じです。血は水より濃いという言葉もありますが、普通人は他人よりは血でつながっている家族を優先することがあります。ところで、もし一番身近な家族にはよくしてあげないのに、他人にばかり優しく接するならこれは真実ではないでしょう。他人に認められようとする偽善と偽りにすぎません。このような側面から考えてみると、親しかった兄弟がヨブから顔を背けるくらいなら、その他の人々がヨブを遠のけることは当然なことだったでしょう。


ヨブが多くの富と栄華を味わって豊かだったときは、尊敬されて素晴らしい人だと褒められていました。周りの人に多く施しをして力づけてあげたからです。またヨブは親として愛も豊かで、子供たちと一緒に神様に生贄を捧げ、親戚にも隣人にも愛を与えていました。しかしこれは肉の愛だったことが、ヨブの今の現実が明らかに物語っています。ヨブがすべての所有物を失ったら兄弟たちも離れていき、親しかった知人が知らない人のように冷たい態度をとって、親戚もヨブを見捨てて、友達も関係がこじれてしまいました。このように肉の愛は移り変わるものです。自分の利益と合わない時は裏切ることもあります。その結果は紙一重なのです。物質で撒いたものは、その物質が消えてしまうと見捨てられるのです。権威で撒いたものは、その権威が落ちるとのけものにされます。このように肉において撒いたものは何の役にも立たないのです。ところでヨブは、周りの人は自分から離れていったことも、神様がそのように仕向けたのだと言っているのです。続く本文も、肉の愛の結果を明らかにしています。


ヨブ記19:15-16です。

私の家に寄宿している者も、私のはしためたちも、私を他国人のようにみなし、私は彼らの目には外国人のようになった。私が自分のしもべを呼んでも、彼らは返事もしない。私は私の口で彼らに請わなければならない。


過去ヨブは裕福だったので、家の中にはしもべも多くいて、多くの人が近づいてきました。しかし今ははしためたちさえ、主人であるヨブを他国人のように見なしています。外国人のようにしています。はしため達がヨブを無視して、ヨブが自分は外国人だと見なされていると言っています。主人に当然使えるべきしもべなのに、ヨブが呼んでも返事もしません。それで私は私の口で彼らに請わなければならないと言いました。つまりヨブはお願いして頭を下げてこそ、やっと聞いてくれることを言っているのです。しもべたちも自分を無視して、主客転倒になってしまったから、ヨブの苦しみと悲しみと痛みは言葉で表現できないくらいだったでしょう。


それに愛された人に憎まれ捨てられた時、どれほど苦しかったでしょうか。ヨブはあまりにも心が痛くて過去のことを振り返ってみています。ヨブに財産が多かった時、多くの人をもてなして施して面倒見てあげたのに、そして友達がお見舞いに来たのも普段ヨブに助けられたからでしょう。


ヨブは過去友達によくしてあげたことがあるから、今彼らの前で堂々とあれこれ言っているのです。


しかしヨブに返ってきたものは、蔑み、卑しめ、あざけりだけでした。それではここで私たちが得る教訓は何でしょうか。


肉と霊の価値に関することです。第一、肉の信仰を霊の信仰に変えなければならないということです。ヨブは神様を知識的に知っていて肉的に信じていたから、神様はヨブを練るしかなかったのです。神様を頭で知識的に信じていることでは、神様を見つけることも答えを受けることも、聖霊の声を聞くこともできません。だから試練の過程を通して、肉の信仰が霊の信仰に変わらなければなりません。皆さんヨブ記講解を見てみると大きいテーマがありますね。なぜ神様がヨブを練ってくださったのか、その理由です。なぜでしょうか。ヨブの肉の信仰を霊の信仰に変えるようにするためでした。肉の信仰だったことが、今ヨブが口にしている言葉と友達と言い争っている姿、 また神様を恨んでいる姿を通してわかりますね。


皆さんも自分の信仰が肉の信仰なのか霊の信仰なのかをいつもチェックしていなければなりません。自分なりに奉仕もしていて、集まりにもちゃんと参加していて、毎日祈っているけれど、何のためでしょうか。霊的な信仰生活でしょうか。祈ってはいるけれど、心の割礼はしていないならそれは大きい問題です。だからそういう自分を発見しなければなりません。毎日祈ってはいるけれど、ただ応えてください、祝福してくださいとばかり言っていて、本当に自分の深い心の底から神様の前に変えられるために、霊の信仰を持つために、心の割礼はしていないのです。


ただ聞いた知識的なことはあるから、私もマグダラのマリアのようになりたいですとか、口では言っているのですが、日常生活で実際そのような善は行っていないのです。職場でも同僚と揉めたり、そして嫌な上司がいるならばいなくなってほしいとか思うのです。でもそれが悪であることをみ言葉を聞きながら悟って、そういう自分の悪を捨てるために祈るべきでしょう。神様、私本当に悪い人です。ちょっと一言言われたら相手が嫌いになって、それでその人に会いたくないし、避けたいと思いました。これは私の悪のためでした。憎しみを捨てるようにしてくださいと、このように具体的に自分が変えられるために祈らなければなりません。だから祈ってはいても、相変わらず肉の信仰のままなのです。


ヨブは神様を恐れる人で、生贄も捧げました。うわべでは罪を犯していませんでした。子供のために代わりに生贄を捧げました。行いはそうだったのですが、心の割礼ができていなかったのです。だから試練の過程を通して、肉の信仰が霊の信仰に変えられるようにしてくださったのです。私たちもこのヨブを通して自分を顧みて、自分に肉の信仰があることを悟らなければなりません。そしてヨブの友達がヨブを責めている姿と、ヨブに対する憎しみとか、妬み、そねみなどを通して自分を顧みて、私にも妬みがあるんだ、憎しみがあるんだと思って、実際そのような霊の心に変えられなければならないのです。今日も神様を信じる人が試練に会う理由のひとつは、肉の信仰を霊の信仰に変えられるようにするためです。


ヨブ記講解を聞きながら皆さんは、神様の深い御心を悟っていると思います。皆さんは、聖められたいと走っているから、罪と悪を捨てようとします。ことさらに罪を犯す人はいないと思います。うわべでは罪を犯していないから、心に潜んでいる悪の性質は発見されない場合もあります。それで自分はよくやっていると思っている人がいます。誰かと争ったりする姿もないし、特に目につく罪を犯すこともないし、死に至る罪も犯していないし、でも問題は自分の心に潜んでいる悪がまだあるということです。それで心の中で人に対して、あの人は何でとか、もやもやしたり、そして思い込みによって、ああだこうだと傷つけてしまうことがあるのです。


口には出さなくても、顔には出さなくても、心の中でそのようにふとよぎる考えもあるし、そうでなければ、祈っているとき、同じ言葉を繰り返していたり、礼拝の時間に居眠りをしたりする場合もあるでしょう。大礼拝のときも聞いたでしょうが、聖霊に満たされていなければ、自分に問題があることを悟らなければなりません。毎日祈ってはいるけれど、なぜ聖霊に満たされていないのか?自分に霊的な問題があるからでしょう。それを悟ってそれを直していくならば、発見できるのですが、それを発見できないから問題なのです。だから、停滞しているしかないのです。その原因がわからない場合があります。自分の中にある悪または肉的なことを、大したことでないと思って蓋をしておいておくこともあるのです。私たちはそうではなくて、自分を顧みて詳しく一つ一つ明るみに出して変えられていかなければなりません。肉と霊の価値の違いについて、今日のメッセージを聞いて悟りますように。


第二は、肉の愛の虚しさと霊の愛の重要性です。肉の愛は自分の利益を求める愛です。結局は朽ちて変わってしまう虚しい愛です。しかし霊の愛は変わりません。すべての人がヨブから顔を背けて離れてしまった理由は何でしょうか?普段ヨブが彼らを肉の愛を持って対していたからです。今試練に会っている時、ヨブの口から出てくる恨みと不平などを見てみると、ヨブが肉の人だと分かるでしょう。こういう心でどうして霊の愛を分かち合えるでしょうか?ヨブが豊かだった時も人々に霊の愛を持って、接したのではないことが分かるでしょう。もしヨブに霊の愛が豊かだったならば、兄弟や友達に対する心が試練にあっても落ちて変わらなかったでしょう。自分が病気になっても苦しみにあっても、友達に対する愛も心も変わらなかったでしょう。だったら友達が何と言っても、それを友達が自分を愛してくれるアドバイスだと受けたでしょう。でもそうできなかったし、激しく言い争っているのです。罪に定めているのです。だからヨブには霊の愛がないんだと分かるでしょう。


このようなヨブの姿を通して皆さんは自分が霊の愛を持っているのか、肉の愛を持っているのか分かるでしょう。家族に対する自分の姿はどうなのか?自分と親しい人または自分が愛している人を大切に思っていても、それが本当に霊の愛なのか?でなければ肉の愛なのか?ヨブを通して顧みますように。そしてヨブは神様に対しても霊的に愛していたならばよかったのですが、そうできませんでした 霊的に愛していたならば、試練艱難に会ってもつぶやいたり不平を言わないで、最後まで忍耐して感謝していたでしょう。しかしヨブは神様に対する愛も完全ではなかったのです。このようにヨブの愛は肉の愛だったから、周りの人々が結局は彼から離れてしまったのです。


ヨブは裕福だったとき多くの人に希望を与えて助けたのですが、霊の愛ではなくて肉の愛だったから彼らはヨブを離れてしまい、何も残らなかったのです。第一コリント13章にあるように、寛容で柔和で相手の利益を求める霊の愛があったならば、彼らはヨブを離れなかったでしょう。このように人々が移り変わるのは肉の愛だからです。もちろん霊的に愛したのにも関わらず、相手は裏切ることもあります。イエス様を売り渡したイスカリオテ・ユダがそうでした。あまりにも心が頑な人でしょう。私たちはこういう悪い人になってはいけません。いただいた恵みと愛に報いながら、いつも変わらない愛を所有しなければなりません。自分達がそのような霊の愛を所有して、悪い人をも変えさせる力のある霊的な働き人になりますよう主の御名によって祈ります。


皆さん時には試練に会う時もあります。それで親しかった人々が離れてしまい、そうでなければ苦しめることもあるでしょう。そういう場合人のため悩むのではなくて、ああ私の愛は肉の愛だったと悟りますように。それでその肉の愛を霊の愛に変えていきますように。しかし人間関係のため悩んでいるならば、なぜ自分が試練に会っているのか、原因が悟れない場合もあります。ヨブを通してこのように肉の愛の虚しさを悟ったでしょう。だから自分にも適応してみてください。肉の愛の虚しさを悟って、私たちは霊の愛を所有しますように。相手のため人のため気を落としたりするのではなくて、霊の愛を持って変わらずに接しますように。


愛する皆さん、今日はヨブが寂しくてみすぼらしい身の上になったことと、肉の愛の虚しさと霊の愛の重要性について伝えました。聖書では変わらない霊の愛の例えがあります。それはダビデとヨナタンの愛が代表的でしょう。ヨナタンの父親はイスラエルの初代王のサウルで、ダビテはサウル王の臣下でした。ところがダビデが戦いに出て毎回勝利して民に愛されるようになると、サウル王は妬んでダビデを憎むようになって、殺そうとまで思いました。ヨナタンはサウル王の長男でした。王位を受け継ぐ後継者でした。しかし、私心とか欲がなかったから、王座を欲しがらなかったのです。ヨナタンは将来ダビデが王になることと父親が滅びることも知っていました。霊的に悟っていたのです。


ヨナタンはダビデを殺すのではなくて、かえって守ってあげました。サウル王が王位を守るためにダビデを殺そうと血まなこになった時、ヨナタンは危険を犯してダビデを救い出してあげました。第一サムエル記20:17「ヨナタンはもう一度ダビデに誓った。ヨナタンは自分を愛するほどに、ダビデを愛していたからである。」とあります。このようにヨナタンはダビデのために命も与えることができて、このような愛は死ぬ時まで変わらなかったのです。ヨナタンに対するダビデの愛も同じです。ヨナタンがペリシテ人との戦いで戦死するとダビテは断食して、かつその死を痛み悲しんで泣きました。王位についたダビテはヨナタンの息子のメヒボシェテイを探してサウルの財産を全部返して王宮で自分の息子のように面倒を見てあげました。このように霊の愛は自分に利益にならなくて害になっても、命を尽くして変わらない心で愛することです。何か代価を求めたり自分に良くしてくれるから愛するのではありません。何の条件もつけないで純粋に自分を犠牲にして相手のためにただ与える美しく価値ある愛なのです。


このような霊の愛とは反対に、ヤコブとエサウは肉の愛だったので一人の親から生まれた兄弟にもかかわらず互いに自分の利益ばかりを求めて、どうなりましたか?兄は弟を殺そうとして、弟は兄からのがれて逃げて行きました。愛して頼るべき兄弟が他人より劣る関係になってしまいました。このように肉の愛の結果は無価値で、肉と霊はこのように違いが大きいのです。ですから皆さんはすみやかに肉を脱ぎ捨てて、心を霊に変えていきますように。聞いたメッセージを思い出して祈りましょう。


父なる神様、今日は肉の信仰と霊の信仰の違い、また肉の愛と霊の愛の違いについてヨブを通して悟りました。私たちはどんな信仰と愛を持つべきなのか、考えてみました。ヨブに肉の愛があってそれは虚しいものでした。私たちは朽ちてしまい、移り変わる肉の愛ではなくて、変わらない霊の愛を所有していくように祝福してください。感謝します。イエスキリストの名によってお祈りいたします。アーメン。

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