ヨブ記講解49 - 肉と霊の価値(上)
説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記19:8~11
前回、ヨブが友達に、神様が自分を捕まえるために網を仕掛けて、その中に閉じ込めて、屈服させたと言いました。神様が無理やり屈服させたと言いながら、相変わらず不幸の原因を神様のせいにしていました。神様とヨブの間に、真の信頼と愛の関係が築かれていなかったから、誤解して呟いているのです。またヨブは、いくら叫んでも答えがないし、自分があった悔しい目に対して弁護してくれる人がいないと言いながら訴えていました。しかし、私たちが祈っても答えがなく問題が解決されない理由は、罪の壁があるからだと言いました。誰でも罪の壁を壊して、立ち返って御言葉に従うなら、神様は全ての罪を許してくださるだけでなく、答えて祝福をくださるのです。
それで、癒されて答えを受けた方々の証を聞いてみれば共通点があります。病気にかかった時、問題にぶつかった時、ある方は病院に行って薬をもらって飲んだのですが、良くならなかったのです。その時、これまで聞いたこの聖めの福音を思い出して、自分を顧みて、罪の壁を壊すために悔い改めた後、祈りを受けたら癒されたという証がありますね。これが癒される原理です。祈っても答えがないのではありません。ある人はこのような話もしていました。癒しの集会は2ヶ月に1回ぐらいあるから、毎回参加して病人登録もしたのですが、癒されなかったのです。自分ではなぜ癒されなかったのか原因がわかります。それで、もうこのままではいけないと思って決心して、悔い改めて自分を顧みて、切なる心で祈って参加したら癒されましたと証する方もいるでしょう。このような証を聞いてみれば、真理の御言葉どおりに答えられる原理がありますね。
しかし、この原理を知らないまま、ヨブは自分はいくら叫んでも答えがないと言っているのです。神様が自分を見捨ててしまったと誤解しているのです。しかし、自分が真理を知らないからでしょう。神様を恨んでも何の役にも立たないのです。癒しの集会に参加して、まだ答えを受けていない方がいるなら、今日、定めの祈祷会に参加して、悔い改めれば答えを受けるかもしれないし、このような答えを受ける原理を悟ってその通りに行えばいいでしょう。今日ヨブの告白を見てみると、相変わらず言い訳とつぶやき、神様を誤解する姿があります。それはヨブが肉の人だからです。そして神様を知識的に知っているだけで、直接見つけた体験がないからです。このメッセージを聞いて皆さんも自分を顧みて、自分の中の肉的なことを捨てて、御霊の人に変えられますように。ヨブは相変わらず神様を誤解しています。次のように言います。ヨブ記19:8です。
神が私の道をふさがれたので、私は過ぎ行くことができない。私の通り道にやみを置いておられる。(ヨブ19:8)
神様が自分の道を塞いで、自分は過ぎ行くことができないと言っています。ヨブの道はどんな道でしたか?彼は穀物をまいて刈り取り、飲み食いして宴が好きでした。良い心があったので、隣人には分け与えて施しもしました。ところが神様がこのようなことをふさがれたというのです。しかしこれはヨブが御霊の人になるようにするためでした。私の通り道に闇を置いておられるとヨブは言っています。皆さん、人が道を歩んでいるのに、突然暗闇が目の前を覆うのなら、どれほど驚いて絶望するでしょうか。ヨブは自分は良い環境と未来に向かって進んでいたのに、神様がその道を闇でふさいでしまったと言いながら、自分の辛い思いを訴えているのです。全ての財産も子供たちも失ってしまい、妻も友達も自分を見捨ててしまった状態、何の希望もないし喜びも消えてしまった状況を闇に例えています。しかしこれはヨブが神様の心をあまりにも知らないから言っている言葉です。
神様はヨブの正しさと潔白な行いを知っておられたから、彼に真の祝福を与えるために練ってくださって、この過程で私たちが教訓を得るように聖書に記してくださいました。神様は子供たちがどんな試練や困難にあっても揺るがない信仰で、神様の前に感謝して、御心のままにしてくださいと告白できる心になることを望んでおられます。これが真の信頼関係なのです。親が子供に悪いことをさせたり、害になる道に導くわけがありません。子供がそれを信じるなら、苦手なことでも難しそうに見えることでも喜んで従うでしょう。今、自分の目には難しそうでも、でも親を信じるなら親が私のために私を思って言ってくれるのだと信じるなら、従うことができるでしょう。これまで親が自分によくしてくれたことを信じるからです。
しかしこのような信頼と愛がなければ聞き従わないのです。そして口応えをするでしょう。言い訳をするでしょう。それは相手を完全に信頼していないからです。私たちと神様の関係も考えてみなければなりません。ヨブにはまだそのような信頼関係がなかったから練られているのです。神様は私たちが神様の前に完全な信頼を見せることを望んでおられます。そのような信頼を示すなら、敵である悪魔サタンは一つの道から攻撃しても七つの道に逃げ去るしかないし、どんな障害物も問題にならないし、ただ栄える道に導かれるでしょう。肉の人が自分の考えで、今の道は失敗しそうに見えても、しかし神様に導かれるなら、結局はその道は成功の道になります。ヨセフがそうでした。
私たちはこの道の先に何があるのか知っているでしょう。その最後には栄光があり神様の祝福があります。それで私たちは今の苦しみによって悲しむのではなくて、希望を持って神様を信じる信仰があるから、従っていくことができます。ヨセフがそうでした。神様を信じていたから、試練の過程でも不満を抱いたり不平を言ったりしませんでした。しかしヨブは今自分があまりにも苦しいから神様の前で呟いて神様のせいにして、神様は悪い方だと誤解してしまいました。だからこれが間違っているのです。ヨブはまだ霊の信仰を持っていなかったから試練の過程で、彼の肉の信仰が明らかになっています。本文ヨブ記19:9でヨブは言っています。
神は私の栄光を私からはぎ取り、私の頭から冠を取り去られた(ヨブ19:9)
冠は王が公式の場に出る時に被る冠で権威を象徴します。栄光は輝かしい誉れ、大きな名誉をいいます。では、神様がヨブの栄光をはぎ取り、冠を取り去られたというのはどういう意味でしょうか。
それは、神様がヨブの名誉と権力を奪ったという意味です。このように自分の不幸の原因を神様のせいにしている言葉は、ヨブが肉の人であることを証明しています。以前、ヨブは裕福でした。
それで多くの人が近づいてきて、助けを受けました。羨ましいと思っていました。そしてヨブは人に褒められ、愛されていたのですが、これがヨブの栄光でした。
しかしこのすべてが、神様のせいでなくなってしまったと言っています。そして王が冠をかぶるようにヨブは、巨大な富によって権威もありましたが、神様が財産を取り上げてしまったから、その権威がなくなったと言っています。これは、これまでヨブが味わっていた栄光と権威が、富によるものだったことを物語っています。ヨブが柔和だったとか、徳があってそれが栄光になっていたならば、財産がなくなっても人々がヨブから離れないでしょう。ヨブからにじみ出る美しい心の香り、霊的な柔和があるなら、広い心に受け入れられて近づいていたでしょう。でも、今ヨブは自分の冠と栄光がなくなってしまったと嘆いているのですが、結局その栄光と権威が富によるものだったことを物語っているのです。そして神様が自分の財産を取り上げてしまったからだと神様のせいにしているから、どれ程愚かでしょうか。
ヨブが裕福だったとき多くの人が近づいてきたのに、試練がやってきたらみんな離れてしまいました。これは神様が共におられるときだけ真の栄光を受けることと、肉的な条件で結ばれた人間関係がどれほど虚しいものなのかを悟らせてくれます。ヨブが本当に霊的に知恵があったならば、試練のときこれを悟るべきだったでしょう。私はこんなに苦しみにあって試練にあっているから、前私を愛して認めてくれた人々がもういなくなってしまった。だから肉的な条件で結ばれた人間関係はこんなに虚しいものなのだ。前はいつまでもずっと一緒だと言っていた友達も家族も親族も、 みんな今自分を裏切って離れてしまいました。だから肉のものは朽ちるもの、なくなるものだ。
しかし神様は私と共にいる。私から顔を背けない方だ。試練のとき神様に求めると神様は働いてくださる方だ。だから神様の懐から離れたことを悔い改めて立ち返ろうと悟るべきだったのに、そうできなかったのです。相変わらず神様を恨んでいたのです。だから問題が解決されないでしょう。
だから答えもなかったのです。
皆さんはどうでしょうか。試練にあって苦しみにあって病気にかかって、子どもの問題、家庭の問題があるとき、どのように解決しようと思っていますか?配偶者が私を苦しめるから私はこんなに辛い思いをしている。だから私は病気にまでかかってしまった。聖霊に満たされていないから病気にかかったのに、人のせいにして環境のせいにするのです。そして教会の試練があってそのため悩んで、精神的にもすごく辛かったとか、教会のせいにしているのではありませんか。それは、ヨブとヨブの友達の姿と同じではありませんか。肉の思いをめぐらして神様の前に不平を言って、つぶやいてばかりいるのです。すると問題は解決されません。苦しみと試練がまた繰り返されるだけです。私たちはヨブ記講解を聞いて問題が解決される方法を悟るべきでしょう。続く本文を見るとヨブはヨブ記19:10-11でこう言っています。
神が四方から私を打ち倒すので、私は去っていく。神は私の望みを木のように根こそぎにする。神は私に向かって怒りを燃やし、私をご自分の敵のように見なされる(ヨブ19:10-11)
四方から打ち倒すとは、東西南北から自分を攻撃してくるということです。だから何の希望もないし、こんな自分の境遇は死んでいるものと同じだと言っています。肉の人はこのように大きい権力と富を味わっていて、ある日突然そのすべてを失ってしまうと死だと思います。神様を知らないし天国への希望がないから、ヨブのような境遇に置かれたら自分で死んだものと同然だと嘆くのです。しかし本当に神様を信じる人なら、たとえすべてを失ったとしても絶望するのではなく喜んで感謝するでしょう。喜んで感謝することは信仰の行いで、この信仰の行いは神様に喜ばれるので、結局失ったものを回復することができます。しかもこの地上での人生は束の間で、永遠の天国への希望があるから喜んで感謝することは当然です。ですから私たちの価値は、この地上の富とか権力、名誉にあるのではないということを覚えていてください。
皆さんが試練の時何を感じましたか?私はなるほど人々の心にある悪、かけているところがこの様に明るみに出されるんだ。それを発見して目の当たりにしたら、私は人ではなく神様に頼るしかないんだと思いました。また自分に頼ることもいけないと思いました。親しかった人が離れてしまうから、悲しくなって落ち込んだりするのではなくて、神様がともにおられるから、神様が守ってくださっているから喜んで感謝しなければならないのです。荒波がある海の中で航海していても、神様がともにおられるならば安全です。安心できます。すると大胆になれます。イエス様が海と波に命じたら静まったのではありませんか。それを信じるなら私たちは心が平安でしょう。
しかし教会の試練の時、教会から離れてしまう人々を見ていて、親しい人が離れてしまうのを見ていて悲しくなって落ち込んでしまい、熱心が冷めてしまったり心がふさいだりしたことはありませんか。皆さんはどのように処理しましたか。今でも悩んでいますか。自分の姿を顧みてみましょう。もしそうなら肉の人なのです。肉的なものは全部変わってしまうものです。私たちは肉と霊について学んだでしょう。だから心を霊に変えていかなければなりません。でも今自分が置かれている環境の中で何かを失ってしまったり変わってしまうことがあっても、それは肉のものだから驚くことはありません。私たちには神様がおられ、聖霊がおられ、永遠の天国への希望があるから揺るぐ必要はないし、信仰が成長するし喜んで感謝できるのです。皆さんはそのようにしていますか?
それなら祝福でしょう。聖書は何が私たちにとって大切なのか教えてくれます。ヨブの冠と栄光は富にありました。しかしそれは朽ちるものでした。富とか名誉とか知識、また周りの人がいてそれが自分の誇りだったとか、でもそれが一瞬でなくなってしまうなら、もう自分には希望はないと思いますか、それは肉の信仰です。肉の人の価値観です。
ルカ16章を読んでみれば金持ちと貧しい人ラザロの例えが出てきます。これを通して多くを悟ることができるでしょう。神様を恐れないでこの地上で贅沢な暮らしをしていた金持ちと、その家の門の前で物乞いをしていても、神様を恐れていたラザロの生き方の中で、皆さんはどちらを選ぶでしょうか。このメッセージを聞いて皆さんはすでにその聖句を知っているから、答えを知っているでしょう。しかし本当の自分の心を顧みてください。
自信を持って答えられるのか。なぜ聖書にこのような例えが書いてあるのか、私たちはメッセージで聞いたのですが、いざとなると日常生活でラザロのような生き方ではなくて、金持ちのような生き方をしているのではないのか、顧みますように。貧しいとか自分の手に何かないからといって、そのため悲しくなったり、人をうらやましく思ったりする姿はありませんか?神様はこの金持ちとラザロのたとえを通して、多くを教えてくださっています。彼らが死んだ後、金持ちが地獄の下の闇に落ちて苦しみを受けていました。この地上では贅沢な暮らしをしていたのに、下の闇ではとてもみすぼらしくなって、みじめな姿になりました。しかし貧しい人ラザロは、上の闇でアブラハムの懐に抱かれて、安息を味わっていました。皆さんこの二人の違いを考えてみてください。
この地上で肉に属するものを追い求めて楽しんでいたなら、死んだ後、後の世でどうなるでしょうか。かろうじて救われたとしてもパラダイスに入るなら、自分の家もないし報いもないから、どれほど神様の前に申し訳ないでしょうか。しかし神様の栄光のために生きた人ならば、天国で神様が栄光と報いをくださるし、家も広いし多くの人の誇りになるでしょう。どちらを選ぶのか、もう一度ヨブ記講解を聞きながら、考えてみますように。ですから、後の世を知っている人なら、当然ラザロのように神様を恐れて天国に行くと言うでしょう。
ところがヨブには、このような信仰も希望もありませんでした。神様が共におられるなら、たとえ全てを失ったとしても回復できるのに、霊の信仰がないから神様を恨んでいました。そして天国への希望もないから、自分で自分は死んでいると嘆いていました。これはヨブが肉の人であることを明らかにしています。ヨブにとって神様は、まだ真の神でも真の父ではなかったのです。だから神様との真の関係を作るために、試練が必要でした。
それでは、神は私の望みを木のように根こそぎにするとはどういう意味でしょうか?ヨブの希望は、望みは子供や富、名誉、権力など彼が所有していた肉的なものでした。ところがその全てが一瞬でなくなってしまったから、まるで根を深く下ろしていない木を簡単に引き抜くように、神様が自分を根こそぎにされてしまったと、説明しているのです。いくら枝が多くて葉が茂っている木でも、根が簡単に抜けてしまうならどれほどむなしいでしょうか。
このように肉的なことはいつでも、その根が根こそぎにされることがあるし、従って肉的なものに希望を置く生き方は、どれほどむなしくて愚かなのか悟らなければなりません。たとえ私たちに富と名誉、権力がなくて貧しくて弱くても、神様を正しく知って信じている御霊の人なら、実は豊かなものです。人の目には貧しく見えるかもしれませんが、神様が将来永遠の天国で大きい栄光と報いを与えてくださるからです。
本文11節でヨブは神は私に向かって怒りを燃やしと言っています。自分が今置かれているすべての試練、患難、苦しみと絶望、痛み、苦労の原因は神様の怒りのためだと言っています。ヨブはこのようにものすごい苦難を受けるようにされるのは、神様だと思っていたから、すべての不幸の原因を神様のせいにして恨んでいます。神様が自分を敵のように見なされるとまで言っています。皆さん、互いに敵のような関係ならどんな現象が起きますか?互いに相手の顔を見ると目をそらすし、目を合わせるのも嫌だし、相手の声を聞くことさえ嫌で、相手がいなくなってほしいとまで思います。人の悪い心の一つが敵意を抱くことです。
ところで神様は悪を嫌い、敵を愛しなさいと言われたのに、このような神様がヨブを敵のように見なされると言っているから、どれほどとんでもない無知な言葉でしょうか。人との関係でもそうです。相手は自分を憎んでいないのに、自分の中にある悪のゆえ相手を誤解して、相手を悪い人のように決めつけてしまうのです。人を裁いて罪に定めるのです。これは神様の前でどれほど悪い心でしょうか?これは直さなければならないのです。相手が自分を憎んでいるとしても、それに対してあれこれ考えて悩む必要もないのに、相手が自分を憎んでもいないのに、自分から誤解して決めつけてしまって、相手を悪い人のようにみなすことがあるなら、これは悪い姿で愚かな姿です。
神様との関係が遠ざかっていたり、真理を正しく知っていなければ、簡単に神様を誤解して裁くことがあります。今日も神様を知らない人々の中で、本人の過ちによってことが失敗したのに、天も薄情だと言いながら神様に呟きます。また神様を信じる人の中でも真理を正しく知っていなければ、試練艱難にあった時、ヨブのように、神様が自分を憎んで打ったと誤解することがあります。しかしヘブル人への手紙12:4-8を読んでみれば、神様がなぜ子どもたちを懲らしめられるのか分かります。まずは私たちが神様の真の子どもになるためには、罪と戦って血を流すまで抵抗しなければなりませんが、そうしていないから懲らしめられるのです。私たちが信仰生活をしていても、聖めに向かって走っていないし、足踏みをしていて停滞しているから試練に遭う時があります。しかしそれは神様の愛です。そのような懲らしめがあってこそ、悔い改めて立ち返って神様の真の子どもになるからです。でなければ、うわべでは信仰生活をしているように見えても、心を割礼していないから肉の信仰にとどまっているしかないのです。だから神様が愛する子どもは懲らしめてくださるのです。
ですから自分が信仰生活を間違ってしているのに懲らしめがないならそれも問題です。神様は私たちを愛して懲らしめてくださいます。変えられるように聖められるように、肉の信仰から霊の信仰に変わるように、そのために試練に遭うようにしてくださるのです。そうやって真の子どもになって、神様と天国で永遠に愛を分かち合うようにするために、私たちを練ってくださるのです。だからそれは神様の愛です。また神様の子どもちが、御言葉から離れて罪と悪の中に生きているから、神様は責め懲らしめてくださるのです。ですからこういう懲らしめは、神様の愛であることを忘れませんように。神様の子として扱ってくださるからです。つまり私生児ではないからです。死の道から立ち返るように正してくださることだから、このため弱り果てるのではなく喜んで感謝すべきです。これを覚えていてください。
自分が罪と悪の中に生きているのに、もし神様の懲らしめがなければそれは私生児だからです。これは恐ろしいことです。そのような人がたくさんいます。神様を信じない人ならば自分の罪のためサタンによって試練にあうのですが、しかし聖霊も受けたのに相変わらず罪の中で生きていて、悪を行っている人がいます。しかし懲らしめもないならそれは私生児ように扱われていて、救いからも離れているでしょう。だから自分が罪の壁があってそのため問題にぶつかっているならば、神様の愛で懲らしめられていると思うなら感謝するでしょう。でも罪の壁があってもよくわからない場合もあります。
しかし試練がやってくると、その時自分を顧みるから、それで自分の間違っているところを発見することができ、立ち返って悔い改めるなら、神様がまた回復させてくださるからその試練は愛です。本当に子どもを大事にして愛する親なら、子どもが過ちを犯して正しい道からそれるならそのまま放っておかないでお仕置きをしてでも、正しい道に導くこと、教えることと同じ原理です。しかし神様はすぐ懲らしめるのではありません。その前にいろんな方法で悟らせてくださり、機会をくださいます。最初は言葉で悟らせてくださいます。皆さんが礼拝をするときメッセージを聞きながら、聖霊が働いて悟らせてくださるのですね。
私は今の生き方ではダメだと思ってそれでメッセージを聞いて感動して、変えられるために祈るようになります。しかし主日はそうだったのに、月曜日からまた自分の以前の生活に戻ってしまうなら、心におられる御霊が呻かれて心が苦しくなるのです。こうしてはいけないのにと思って、気が重くなってもやもやして不安になるのです。以前ヨブ記講解でも言いましたが 、不安な心になることもそのためなのです。だからそのときは聖霊の声を聞こうとしなければなりません。でもことさらに罪を犯し続けるならば、もう心が麻痺してしまう場合もあります。しかし聖霊のうめき声を聞いて心が苦しくなったとき、早く立ち返らなければなりません。それでも聞かなければどうなるでしょうか?鋭く神様が責められます。そして懲らしめられます。病気にかかったり、試練艱難がやってくることもあります。しかしそれでも相変わらず聞き従わなければ、もっと大きい懲らしめが臨むのです。
これも親が子供を育てるときを考えてみればわかるでしょう。子供が何か過ちをしたとき、最初は言葉で言い聞かせます。それでも聞かなければ叱ったり、それでも聞かなければお仕置きまでします。皆さんご両親の皆さん、だからと言って子供たちにしょっちゅうお仕置きをしてはいけません。罰を与える段階があるのです。それは正しい教育ではありません。まずは言葉で説得して約束をして教えて言い聞かせるのです。しかし聞かなければ叱ることもあって、そしてお仕置きをする場合もあるでしょう。叩いたりすること以外にもいろんなお仕置きがあると思います。そうではなくて、親が子供が自分の言うことを聞かないからと言って、すぐ怒鳴ったり叱ったりすぐ手を挙げたりすることがあってはいけません。
ヘブル12:9-11に「さらにまた、私たちには肉の父がいて、私たちをこらしめたのですが、しかも私たちは彼らを敬ったのであれば、なおさらのこと、私たちはすべての霊の父に服従して生きるべきではないでしょうか。なぜなら、肉の父親は、短い期間、自分が良いと思うままに私たちをこらしめるのですが、霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、こらしめるのです。すべてのこらしめは、その時は喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。」とあります。
つまり神様は私たちの益のために、ご自分の聖さにあずからせようとしてこらしめるのです。このように神様は私たちを愛するがゆえに、私たちが御言葉通りに生きていない時、試練や艱難にあうようにされます。こらしめられて真理にあって生きるように導いてくださいます。神様は人の悪の姿を捨てて完全にするために練ってくださるのです。そして私たちは試練の過程を経て罪と悪を捨てたら、金のような信仰を所有した昔の信仰の人々のように尊い人になります。
したがって自分の過ちのため試練にあったとしても、結局、試練は祝福であり感謝なことなのです。ヨブは肉の人だから試練の時に神様の前に呟いて、不平を言っていたのですが、皆さんは御霊の人になっていつも喜んで感謝することで、祝福の実を結びますように。自分はまだ肉の人だから、呟いたり不満を言っても神様が理解してくださるだろうと思ってはいけません。ヨブが試練艱難が終わって答えと祝福を受けるためには、この呟きと不平をなくさなければなりません。やめなければなりません。だから私たちは、御霊の人になろうとしなければなりません。また試練の時に打ち勝つためにも自分の悪と肉を捨てなければなりません。
