ヨブ記講解48 - ヨブの反論(下)
説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記19:6~7
続く本文でヨブは、自分が不幸になった原因を神様のせいだと言っています。ヨブ記19:6です。
いま知れ。「神が私を迷わせ、神の網で私を取り囲まれた」ことを。(ヨブ19:6)
ここで神が私を迷わせるとは、自分の意思とは関係なく、心が乱れてよくない方向へ行くようにされているという意味です。つまり神様が自分を低くして屈服させたから、こんなに迷い出てしまったのだと言っています。神様のせいで私はこんな目にあっているのだ。だから私は無気力に負けているのだと言って、神様を恨んでいるのです。私たちは神様の前に、聞き従っていかなければなりません。しかし嫌々ながら屈服させられて、義務感からしているのではないでしょう。今ヨブはそんな風に言っているのです。
私たちは神様を愛して、神様を恐れかしこみ、私のために、救ってくださり、天国を作ってくださった神様、私の霊の父である神様だから、心から愛して喜んで聞き従わなければならないのです。そのような子供を神様は望んでおられます。それでヨブがそのように変えられるように、招いておられるのです。ヨブは以前神様を恐れて御言葉を守っていたのですが、それはうわべでした。神様はそれより、心から本当に神様を愛して、神様の愛を感じて、神様に従って御言葉を守るヨブになるようにと望んでおられました。
例えば親が子供を叱ったとしましょう。何度か注意したのに聞かなかったから、後でまたこんなことをすればお仕置きをするよと言っても、子供が聞かなかったら、お仕置きをする場合もありますね。すると子供は、お母さんが自分を憎んでいると思ってしまうなら、お母さんはどれほど心が痛むでしょうか。子供はそのお母さんの愛がまだわからないのです。でも後でわかるでしょう。大きくなるとお母さんは私のためにそうしてくれたんだとわかるようになりますね。しかしそうではなくて、自分は愛されていない、嫌われていると、誤解してはいけないでしょう。
今ヨブと神様の関係も同じです。ヨブが今神様の前で呟いたり問い詰めたり嘆いていても、神様はヨブの心の芯は良いと知っておられるから、ヨブが変えられることを期待して、待ってくださっているのです。ヨブは神の網で私を取り囲まれたと言っています。網は鳥とか魚とか動物を捕まえるために使う道具です。つまりヨブは神様が自分を捕まえるために網を張っておいて、その中に閉じ込めてしまったと表現しています。しかしこれは言い訳にすぎません。ヨブは自分の悪のゆえ、網で取り囲まれているのです。これは今日私たちが律法に縛られて、人を恨んだり教会や神様のせいにしたりするのと同じです。
例えば自分の過ちで事業がつぶれたり詐欺に遭ったのに、人のせいにしたり環境のせいにしたりする人がいます。普段神様の御言葉通りに生きていなかった人が、何か問題にぶつかったら神様に呟く場合もあります。しかし何か問題が起こったら、自分を顧みて自分の欠けているところを認めて祈り、感謝して御言葉に従わなければなりません。そうすると苦しみから抜け出すことができるし、問題も解決できるのです。
神様は私たちに救いと永遠の命を与えるために、一人子まで渡してくださいました。そして講壇から述べ伝えられるメッセージを通して天国に行く道を教えてくださっています。しかしこのメッセージを聞いて辛いとかきついとか思う人がいますか。それは御言葉通りに生きていないからです。真理が足枷のように感じるのです。真理通りに生きようとしたらきついし、生きていないときは後ろめたいし、恐れを感じるのです。しかし真理を愛して行う人はそうではありません。皆さんはどうでしょうか?この教会で真理の御言葉を聞いて、しるしと不思議神の力の技を見て体験しました。だから神様を信じたのではありませんか?人にはできない驚くべき神の力を見たから、神様が生きておられることを認めて教会に通っているのです。でも御言葉通りに生きようとすると、世を愛する心もまだ残っているから辛いのです。そして教会を離れてしまう人もいます。しかし教会を離れるときは、いろいろ言い訳をするのです。ああだからこうだからと言いながら、教会で問題を起こしたりして、離れてしまう人もいるのです。神様はそれをご覧になってどう思われるでしょうか。
私たちはどんな心で教会に通っていますか、メッセージを聞いていますか?ある人は元老牧師先生はこう言われたからと言いますが、元老牧師先生は神様の御言葉を教えてくださる方です。神様が教えてくださった真理を、私たちは元老牧師先生から教わったのです。そして聖めの福音を聞いていてそのためもしかしてそれが重荷となったり、きついと思ったり辛いと思っているならば、その真理を自分が今行っていないからではありませんか?神様を愛して真理を愛して行っている人は違います。心から神様の愛を感じて真理を行っている人はきついと思いません。自由を得ます。
例えば皆さん、憎むことと愛して許すことどちらが楽でしょうか?やさしいでしょうか?人を愛することや許すことでしょう。でも自分の中に憎しみという悪があって真理と反対のものがあれば、愛することが許すことが難しいのです。だから御言葉通りに生きるのが大変だと感じるようになるのです。でも私たちは難しくても神様を本当に信じているならば、愛しているならば、神様の御言葉に従わなければなりません。親の皆さん、子供たちが嫌がっても勉強しなさいと言いますね。なぜなら、そうしてこそ立派な大人になれるからと思うからでしょう。子どもたちのためにそう言っているのではありませんか?私たちも同じです。人を憎む方が今は楽で、愛するのは難しいかもしれませんが、神様は私たちの幸せのために、憎んではならない愛しなさいと命じておられるのです。それで私たちが頑張って努力して、憎まないで愛して愛を行っていけば、だんだん自由を得るようになります。心が幸せになります。でもまだ心に憎しみがたくさんあるときは難しいかもしれないし、辛いかもしれません。しかし神様を愛して神様の愛を信じているならば、何としてでも憎しみを捨てなければ、愛して祈りながら人を許さなければと思いながら、そのように努力していけば、一つ二つとだんだん行えるようになって、心の中に愛が満たされるようになるのです。そのときは人を憎む方が難しいのです。するとどれほど幸せでしょうか。
今ある人が憎らしくてその人が自分を苦しめたなら、その人が何か失敗したとき、いい気味だと思うならば、自分の心の中におられる聖霊は喜ばれないでしょう。でも自分を苦しめていた人が今失敗したとき、その人のために愛で祈って哀れんで助けようとしたならば、聖霊は喜ばれるでしょう。それでその人への愛の心がだんだん大きくなるのです。それなら神様もどれほど喜ばれるでしょうか?すると上から真の平安と喜びが臨むのです。これは真理にあって味わう自由なのです。この自由を得るためには、いやいやながらやむを得ず御言葉に従うのではなくて、素直に喜んで御言葉に従って行かなければならないのです。すると神様が喜んで応えてくださり祝福してくださいます。
神様の御言葉が皆さんにとって重荷ですか?足枷のようですか?例えを挙げてみましょう。たえず祈りなさいという御言葉があります。この御言葉を知っていても、祈りたくないでしょうか?その時間にドラマを見たいでしょうか?ゲームをしたいでしょうか?神様より自分を愛するからでしょう。そして祈祷会に行かなかったりするのです。でも私たちは御言葉を聞いて祈らなければならないことを知っているから、祈らなければその時間に遊んだり寝たりするとどうでしょう?後ろめたいですね。神様の前に申し訳ないと思い恐れを感じるし、神様の前に大胆に出て行くことができないでしょう。だからそれが重荷のようで足枷のようなのです。自由を感じられないのです。頭で神様の御言葉を知っていても自分が行っていないからそうなのです。だから後ろめたいし不安だし怖いし、神様の前に大胆でいられないのです。だから辛いと思うし、きついと思うようになるのです。
それならこの人に神様の御言葉が網とか足枷になっていて縛っているからでしょうか?そうではありません。神様の御言葉は祝福です。絶えず祈る時でこそ敵である悪魔サタンに妨げられることがないし守られるし、問題も苦しみもなくなるからです。でも自分が従わないから自分の利益を求めていくから苦しくなるし、問題にぶつかってしまうのです。神様は足枷ではないのに自分が自分を苦しめているのです。神様は私たちを苦しめる方ではなくて応えて祝福してくださる愛の父です。しかしヨブはこのような神様の心がわからないからとてももどかしいです。
続く本文を見るとヨブは続けて反論し続けています。ヨブ記19:7です。
見よ。私が、「これは暴虐だ」と叫んでも答えはなく、助けを求めて叫んでも、それは正されない。(ヨブ19:7)
暴虐とはむごいことをして人を苦しめることです。つまり暴虐だと叫ぶということは、自分がむごいことをされて苦しめられている、被害を受けていることを訴えるのです。しかしそれが正されないと言っています。つまり自分はいくら訴えても、それを聞いて正しい裁きをしてくれる人がいないと今言っているのです。それで嘆いているのです。ヨブは今自分があまりにも辛いし苦しいから、そして自分にされていることがあまりにも理解できないのです。だから神様は自分を憐れんでくれないし、助けてくれないしこのように苦しめているし、自分がいくら叫んでも答えもないし、自分のために正しい裁きをしてくれる人もいないと言っています。
皆さんもしヨブのような試練に遭うならば、皆さんは神様の前につぶやかないでしょうか?これまで教会でいろいろなことがあったのですが、試みがあったとき、真理を聞いて知っていながらも、神様を恨んで教会を離れてしまった人もいました。教会から離れてはいなくても、熱心が冷めてしまって、人と言い争ったりする姿もありました。それもヨブと同じような姿です。ヨブが求めても叫んでも答えを受けられない理由は何でしょうか?今週癒しの集会があります。まだ癒されていない、答えを受けていない方々は、このメッセージを心に刻んで祝福と答えを受けますように。ヨブは自分がいくら叫んでも答えはないと言っています。皆さんも何か問題があれば神様に祈りますね。でもなぜ答えがないのでしょうか?その理由を探して解決しなければならないでしょう。ヨブは真理を正しく知っていなかったし自分についてもよくわからなかったのです。
聖書を読むとなぜ祈っても答えがないのか、問題が解決されないのかが書いてあります。イザヤ書1:15-17です。「あなたがたが手を差し伸べて祈っても、わたしはあなたがたから目をそらす。どんなに祈りを増し加えても、聞くことはない。あなたがたの手は血まみれだ。洗え。身をきよめよ。わたしの前で、あなたがたの悪を取り除け。悪事を働くのをやめよ。善をなすことを習い、公正を求め 、しいたげる者を正し、みなしごのために正しいさばきをなし、やもめのために弁護せよ。」とあります。つまり神様が答えてくださらない理由は、私たちが悪を行っているからです。善を行っていないからです。イザヤ書59:1-3には、「見よ。主の御手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて、聞こえないのではない。あなたがたのとがが、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。実に、あなたがたの手は血で汚れ、指はとがで汚れ、あなたがたのくちびるは偽りを語り、舌は不正をつぶやく。」とあります。
私たちが祈っても答えを受けられない理由は、罪の壁があることで、それをはっきり教えてくださっています。ところで神様は問題の原因だけではなく解決策も教えてくださいました。イザヤ書1:18-19です。「『さあ、来たれ。論じ合おう』と主は仰せられる。『たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。もし喜んで聞こうとするなら、あなたがたは、この国の良いものを食べることができる。」とあります。つまり私たちが悔い改めて立ち返って御言葉に従って行くなら、全ての罪を許してくださるだけではなく祝福してくださるという意味です。
皆さんが自分の過ちと罪を口で告白して悔い改めなければなりません。私は罪を犯しました。罪を罪と思わないで、ことさらに罪を犯していました。それは神様をないがしろにして、主をもう一度十字架にかける姿でした。人を憎んでいました。言い争っていました。人を裁いて罪に定めましたと、自分の罪を一つ一つ神様の前に告白して、許しを求めなければなりません。二度とそうしないように助けてくださいとへり下って、徹底的に悔い改めて、罪の道から立ち返って光の中を歩み真理を行っているとき、神様が応えてくださり癒してくださるのです。それではヨブはどうすれば答えを受けられるでしょうか?自分の心の悪を悟って神様が応えてくださることを信じて、喜び感謝して祈っていくならば祝福されるでしょう。しかしヨブは真理とは反対に不平を抱いて文句ばかり言って、神様の前に恨んで訴えて問い詰めていたから、答えを受けられなかったのです。
神様は御言葉で天地万物を創造して歴史を導いて、人の生死禍福の権限のある方です。ですから祝福を受けたいと思うなら、真理である神様の御言葉に従えばよいのです。神様の御言葉は私たちに喜んでいなさい、祈りなさい、感謝しなさいと言われました。そして善をもって悪に打ち勝ちなさい。敵をも愛しなさいと言われました。これを心に刻んで守り行っていくならば、いくら大きい問題があっても神様の力によって解決されます。しかしヨブはこれと反対に絶望して、悪い言葉で反論して言い訳をして嘆いているから、答えを受けることができないのです。ですから神様はヨブのために、ヨブが悟って悔い改めて真理に従う時まで待ってくださるのです。
皆さん、詩編66:18に「もしも私の心にいだく不義があるなら、主は聞き入れてくださらない。」とあります。罪の壁を壊していなければいくら祈っても、それは虚しい祈りに過ぎないのです。空中の権威を持っている敵である悪魔サタンが、その祈りを遮断して妨げてしまうから、神様の前に届かないのです。これも霊の世界の法則です。ですから皆さんはこの御言葉を自分に適用して、なぜ試練艱難に遭っているのか、なぜ祈っても答えがないのか、なぜ病気にかかったのか、どうすれば問題が解決されるのか、その答えを得ますように。そして癒しの集会に備えて自分を顧みて悔いを改めて、癒しの集会のとき答えを受けますように。
結論です。
愛する皆さん。今日はヨブが再び友達に対して反論して指摘して神様を誤解して言い訳をしている姿を見ました。なぜヨブが試練に会うしかないのか、もう一度わかったでしょう。ヨブはまだ自分は正しい人だ、神様を恐れていた、なぜそれなのになぜ神様を自分はこんなに苦しめるのかと恨む心があります。だから理解できないのです。自分があっている艱難があまりにも悔しいのです。だから続けて恨み不平ばかりで言っています。
しかし心から神様を愛する人々は、どんな試練や迫害、苦しみで命が危なくなったときも、ヨブとは違って神様の前に感謝し祈りました。預言者や使徒だけではなく、初代教会の一般の聖徒もそうでした。主を信じるからといって激しい迫害を受け苦しみを受けました。もしヨブのように考えていたならば、私には何の過ちもないのになんでこんなに迫害されるのか?なぜ神様は助けてくださらないのかと恨むかもしれません。しかし初代教会の聖徒たちは、自分たちが救われた恵み、天国への希望があることで喜び感謝してその道を歩みました。だから迫害されても苦しみを受けても、心は天国でした。後の世があるから天国での栄光を望んだのです。私たちもどんな状況におかれても神様の変わらない愛を信頼して、信仰を持って走っていくべきでしょう。そうすると神様はその祈りを聞いて答えてくださり、祝福と栄光をくださって神様の愛を明らかにされるでしょう。
しかしヨブはうわべでは完璧でしたがその心の中にはまだ完全でないところがあったので、神様は彼を完全にされるために試練に遭うようにして、自分の悪を発見できるように練ってくださるのです。このように神様は私たちの心から悪を取り除いて、完全にするために練ってくださるのです。練られて金のような信仰を所有するようになれば尊いものになれるのです。だから今試練に遭っていても、その中で変えられて神様により頼むなら、その試練も祝福になります。ですから聖徒のみなさんはどんなことにあっても、喜びと感謝を持って金のような信仰を所有しますよう、主の御名によって祈ります。
聞いたメッセージを覚えて思い出して一緒に祈りましょう。父なる神様、今日はヨブが友達を指摘しながら反論しながら神様のせいにしている姿がまたありました。まだ自分を発見することができず、自分が正しいと思い込んでいました。私たちもヨブの姿から自分を発見するようにしてください。そして相手を理解できない姿、相手を責める姿があるなら自分の悪を発見して捨てて変えられるようにしてください。そして祈りに答えてくださらないからといって神様に呟くのではなくて、なぜ自分が答えを受けられないのか、悔い改めて備えるようにしてください。感謝してイエス・キリストの御名でお祈りいたします。アーメン。
