ヨブ記講解48 - ヨブの反論(上)
説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記19:1~5
みなさん、前回はヨブの友達ビルダデが、ヨブに向かって呪う言葉の中から、悪の極みを感じました。ヨブ記18章の全体が、ビルダデのヨブに対する呪い、責める言葉がいっぱいでした。悪い人はいくら素晴らしい表現を使っても、良い言葉を口にしようとしても、悪が結局は現れます。聖書を読むと悪い言葉と良い言葉の実がよく対比されているところがあります。
ナバルとその妻アビガイルの場合です。ダビデがサウル王から逃れて逃亡生活をしていたときでした。ダビデは一緒にいた人々が飢えていて渇いている姿を見て、近くの金持ちのナバルに助けを求めました。ダビデの一行は以前ナバルの羊の群れを守ってあげたことがありました。しかしナバルはダビデが自分を低くして助けを求めても、とても侮辱的な言葉でダビデを罵って卑しめました。そして怒ったダビデは武装した400人を連れてナバルを殺すためにその家に向かいました。
これをナバルの妻アビガイルが聞きました。善で聡明だったアビガイルは急いでパンと葡萄酒といろいろな食物、贈り物を用意してロバに乗せてダビデに会いに行きます。サウル王に追いかけられていたダビデの一行に一番必要なものは食物だったので、急いで用意したのです。ダビデの前でアビガイルはひれ伏してとても謙遜な姿で、「夫は死ぬような罪を犯したのですが、自分を見て許してください」と心からお願いしました。その後、賢い言葉でダビデの良いところを褒めながら心を慰めます。そしてダビデが手を下して無駄に血を流すと神様が喜ばれないことをそれとなく悟らせました。
これを聞いてダビデは第1サムエル記25:32-33で、「きょう、あなたを私に会わせるために送ってくださったイスラエルの神、主がほめたたえられますように。あなたの判断がほめたたえられますように。」と言って、彼女を祝福して心が慰められました。アビガイルがダビデの心を慰めた後、家に帰ってみたら、ナバルは王のように宴会を開いて酷く酔って上機嫌になっていました。次の日ナバルの酔いが覚めた後、アビガイルは前の日あったことを告げました。そうしたら驚いたナバルは気を失って石のようになってしまい、10日後には死にました。アビガイルは知恵があって善の言葉と行いで、自分の家族が滅びる危機を免れたのですが、悪い言葉を出したナバルは結局死の道に行きました。アビガイルは後でイスラエルの王妃になりました。
このように心の良い人の口から出る言葉は善であり賢いので、どんな苦しみや災いも免れるだけではなく、祝福に変えることができます。ですから聖徒の皆さんは、聖なる神様の子供らしく心を善に変えて聖なる口の実で神様に栄光捧げますように。
前回まで調べたヨブ記18章では最初から最後までビルダデの厳しい呪いの言葉がありました。
その後19章ではヨブがまた口を開きます。ヨブ記19:1-3です。
「そこでヨブは答えて言った。いつまで、あなたがたは私の魂を悩まし、そんな論法で私を砕くのか。もう、十度もあなたがたは私に恥ずかしい思いをさせ、恥知らずにも私をいじめる。」(ヨブ19:1-3)
悩ますとは心が苦しむように苦しめることです。ヨブは友達が自分を悩ましていると言っていますが、実はヨブが自分からそうさせているのです。ヨブが言い返さないで反論しなかったなら悩むこともないし心は穏やかなのに、友達の話を聞いて言いまかそうとするから、いろいろ考えるようになるのです。最近も、インターネットで相手を誹謗中傷する書き込みをする場合があります。人の心はとても悪いですね。そのような書き込みを読んだ人がどれほど心痛むでしょうか、傷つくでしょうか。そして周りの人がそんな書き込みは読まない方がいいと言っても、人は読みたくなるのですね。読んでしまって傷ついてしまい悩んでしまうこともあるのではありませんか。
例えば皆さんに誰かが嫌味を言って皆さんを責め立てたりするなら、そのようなことは聞きたくないでしょう。そしてある人がそのような悪い内容のメールを送ったり電話して悪態をつく場合もありますが、それならその人の電話に出なければいいし、そのメールを読まなければいいのですが、ある人はそれを読んでしまい、また電話に出てしまって傷つく場合もあります。ですから私たちはなるべくそういうことは聞かないで受け入れない方がいいでしょう。
ヨブも友達がいくらあれこれ言っても、それによって悩んだりイライラしたり腹を立てたりしないで、素直に受け入れて自分を顧みて、神様の前に祈っていたのならよかったのに、そうできなかったのです。それで自分を悩ました友達が悪いと言っていますが、実はそれを聞いて友達を恨んで神様に呟いた自分の悪が大きいのです。だから私たちは真理でなければ聞かないで見ないで話さない方がいいでしょう。相手が悪を行って嫌味を言ったりすることは相手の悪だけです。それによって自分が傷ついたり自分が苦しんだりする必要はないのです。
本文でヨブは友達がそんな論法で私を砕くのかと言っていますが、これはすなわち友達が自分を言いまかそうとしているということです。言いまかすということは相手を反応できないまで論じ詰めて黙らせてしまうこと、相手を屈服させることです。これまでヨブが何かを言うと友達は、言いまかすためにいろんなたとえを上げて指摘して呪ったり、ヨブを黙らせようとしました。人の間で言い争いが起こると、互いに感情的になってこのような場合があります。クリスチャンでもノンクリスチャンでも同じです。相手が何か話をしたとき自分の考えと合わなければ、言いまかすためにへ理屈を述べる場合もあります。こうやって論じ詰めることは彼を理解させることができないと思ったり、理解させたくないと思ったからでしょう。
例えば会議をするときや話をするとき誰かに質問するとき、相手が納得できるように説明すればいいのにそうではなくて、強圧的な口調でそれ以上意見を言えないように、黙らせる場合があります。それは相手を無視することでしょう。会議をするとき、全体の発展のために意見を出してくださいと言って、ある人が意見を言ったのですが、その会議を導く人がそれはもういらないことですと言ったり、そんなことを話さないでくださいと言うならば、どれほど相手を無視する姿でしょうか。
家庭で例えば子どもたちが何か話をするとき、親がその子どもの話を聞いてあげないとか、もう黙りなさいとか、静かにしていなさいとか、子どもが何か欲しいというのに、それなら宿題したの?とか言ったりする場合もあります。するとそれ以上子どもたちとのコミュニケーションが難しくなってしまうのではありませんか。人と話をするときこういうところに気をつけなければなりません。
例えば相手を言いまかすために黙らせるために、相手の弱点を攻撃したりする場合はないでしょうか?このように相手を無視して黙らせてしまうと、相手はもっと反発するようになるでしょう。だから言いまかすことは正しくないでしょう。私たちは何としてでも愛と徳を持って、相手が理解できるようにしなければなりません。神様は人の心を全部ご存知です。ヨブと友達の深く潜んでいる悪を明るみに引き出してくださっています。それで自分自身を発見して変えられるように望んでおられるからです。
本文にヨブは、もう十度もあなた方は私に恥ずかしい思いをさせ、恥知らずにも私をいじめると言っています。ここで十度とは十回だけを言うのではありません。ヨブの友達がそれだけ何度もヨブをいじめたという意味です。ヨブは自分が今まで我慢しまた我慢してきたのに、あなた方は繰り返し私をいじめて、恥知らずではないのかと言っています。自分には過ちがないのに、神様がこんな風に病気になるように、傷だらけになるようにしてしまった。あなた方に良心があるなら、私を責め立てるのを恥ずかしく思いなさいと言っているのです。ヨブは自分より正しい人が苦しみを受けているのに友達が慰めるどころか、自分を厳しく咎めているから理解できないのです。それで友達のやっていることが恥ずかしいことだと悟らせるために、このように言っているのです。
皆さん夫婦の間でもまた友達の間でも、会社の同僚との間でも同じです。相手が自分にひどいことを言ったから、あの人は悪い人だ、あの人がやっていることが恥ずかしいことだと思うでしょう。でも相手はそのように思っていないのです。相手は言うべきことを言ったと思います。そしてただアドバイスしただけだと思う場合もあります。今、ヨブとヨブの友達の関係がそのようになっているのです。ヨブは友達が自分をこんな風に指摘したり、責め立てていることは恥ずかしいことだ、間違っていることだとそれを厳しく言っているのです。しかし友達の立場では、自分たちは悪いことをしていると思わないのです。だから互いに自分の立場だけを思っているのです。
私たちの日常生活にもこういうことがよくあると思います。自分とあまりにも合わない人に会ったとき、その人が言っていることやしていることが、到底理解できないときがありますね。でも相手も同じように考えていることもあるのです。ヨブとヨブの友達が今言い争っている姿を私たちは第三者の立場から見るとわかりますね。それで互いに互いが理解できないのです。皆さんも同じです。周りの人との関係でそういう場合があるのです。
自分は相手が理解できないと思っていますが相手も同じなのです。それならどちらが正しいでしょうか?神様がご覧になるときはどちらも正しくないのです。こういうことが日常生活ではよくあります。どうしてあれがわからないのかとか、どうしてそんなことを言うのかとか思いますか。相手も同じように思うのです。それで互いに言い争うようになったり、ギクシャクしたりするのです。だからそういう場合は自分が相手を理解できないところがあるんだ、自分の心はまだ狭いんだと、自分の心の中に悪があるんだと自分を顧みて、相手のために何か自分が助けることがないのかと思いながら祈ろうと、神様に委ねれば心は穏やかになって、そして自分は感謝できるでしょう。
しかし相手のことをなんであんなことをしているのかと思いながら、イライラしたりすると自分に損ではありませんか。そのような必要はないのです。人は自分のほうがいつも正しいと思っています。でもそれは思い込みかもしれません。だからいつも自分のことばかり考えるのではなくて、客観的になって相手の立場に立って考えるべき必要があります。そしてヨブとヨブの友達が言い争っている姿を見ながら、自分を顧みなければなりません。私にもヨブのような姿があるんだ。友達のような姿があるんだと自分を発見すること、これが神様の望んでおられることです。ヨブ記でずっと繰り返してこのような互いに言い争っている姿が示されているのも、神様がそれを悟らせてくださるためです。
それで元老牧師先生はその霊的な意味を解き明かしてくださるから、私たちはヨブ記講解を聞きながら自分の心の隅々まで発見できるのです。ある方はこのヨブ記講解を聞きながら、先生、先週私の家に来られたかのように、私のことを言っておられるんだと思う方がいるそうです。皆さんが友達との間で起こったこととか、また会社で同僚との間で起こったことなどを、御霊が一つ一つ悟らせて思い起こさせてくださるから、私たちは自分を発見してその恵みによって変えられることができるからどれほど感謝でしょうか。ヨブ記講解のメッセージを通してこのように恵みをくださって発見させてくださることも、御霊の働きです。
ヨブとヨブの友達は互いが理解できなくて、互いをとがめて責めているのですが、私たちもその姿から自分を発見しますように。ヨブは友達にあなたがたがしていることはありえないことだ、恥を知れと言っています。もちろんヨブは自分が正しいと思っていますが、実際何の傷もない義人ではありません。今までヨブが口にした真理と反対の言葉の罪があるでしょう。ヨブが試練にあうような理由があるから練られているのです。でもまだ自分の悪を悟れず、自分は正しい人だとだけ思っています。だからヨブの立場では、自分より悪い友達が自分を厳しくいじめているから、それは恥だと恥ずかしく思いなさいと言っているのです。しかしヨブの友達は感情的になって、ヨブを責め立てていながらも自分たちは正しい、ヨブは悪いと思っているから恥と思わないのです。このように人が高くなってしまうと、恥ずかしいことをしていながらも悟れないのです。自分は心が高くなって人の過ちと欠点をしょっちゅう指摘していながらも、自分は見事に従っている、正しいと錯覚しています。しかし本当に心が良くて正しい人は、相手の過ちを見ても指摘したりしません。
イエス様はご自分を売り渡すイスカリオテ・ユダにも直接的に責めることはなく、間接的に悟らせてくださいました。最後まで彼をそばにおいて、他の弟子と同じようによくしてくださって、彼が悔い改めるように続けて機会をくださいました。元老牧師先生も、聖徒の何かの過ちを知ったとき直接的に指摘するよりは、講壇でメッセージの中で間接的に悟らせてくださいました。元老牧師先生は、誰かの過ちを指摘することは気が引けるような性格でもあるし、聖徒が指摘したとき彼が悔い改めて立ち返るなら祝福ですが、もし不満を抱いたり聞き従わなければ試練に遭うようになるから気をつけておられました。
使徒パウロは第Ⅱコリント10:1で「さて、私パウロは、キリストの柔和と寛容をもって、あなたがたにお勧めします。私は、あなたがたの間にいて、面と向かっているときはおとなしく、離れているあなたがたに対しては強気なものです。」と言っています。どういう意味でしょうか。聖徒に会ったときは大胆に厳しく指摘できなくても、手紙を書くときはこのように強気で進めることができるということです。
正しい人でも相手の過ちを指摘することを慎むので何度も厳しく責めることは簡単ではありません。ヨブは前から正しいところがあったので、自分がやっていることは相手ができないからといって厳しく責めたりしませんでした。アドバイスをしても相手が聞き入れなければ気が引けました。しかしヨブは友達を見ていたら、友達は何の過ちもない自分を続けて指摘して責めたてていながらも恥ずかしいと思わないのです。だから過ちがある人を叱るのも慎むべきなのに、何の過ちもない私を悪いあなたたちが恥知らずにもいじめているのかと問い詰めているのです。
皆さんの姿にはこういうところはありませんか?前回も伝えましたが、相手の悪や過ちを知ってそれを指摘してしまうことは自分の中に悪があるからです。自分の中にある梁は見えることはできず相手の目の中にあるちりを見て指摘する姿です。自分を顧みるよりは、人を見てその人の欠点とか過ちを見つけ出そうとする姿はどれほど悪い姿でしょうか。クリスチャンは神様の子どもはそうしてはいけません。私たちの基準はいつも聖書の御言葉です。人を裁く人は自分も裁かれるのです。人の悪行を言う人は自分も悪行を言われるようになります。この御言葉を覚えていなければなりません。そして人を許さない人は神様にも許されないのです。相手が自分に過ちを起こして失礼なことをしたとしても許して、そしてその人のために祈るべきなのに。そうでもない人がいてその人を許せないとか、その人との関係が苦手だとか思うことがあってはいけないでしょう。
続く本文ヨブ記19:4-5です。
「もし、私が本当にあやまって罪を犯したとしても、私のあやまって犯した罪が私のうちにとどまっているだろうか。あなたがたがほんとうに私に向かって高ぶり、私の受けたそしりのことで、私を責めるのなら、」(ヨブ19:4-5)
ここでもし私が本当にあやまって罪を犯したとしてもと言っています。これはヨブが自分の過ちを認めている意味ではありません。ヨブは自分には何のあやまちもないと思っています。それなのに友達が何度も自分が悪いとあやまちがあるとこのように続けて言うから、ヨブはここで心にもない言葉で肯定しているのです。まるである人が無実の罪を着せられて逮捕された時、尋問されながら耐えられなくて偽りの自白してしまうことがありますね。これと似ています。ヨブはこれまで友達と言い争っていて、感情的になっていてあまりにも苦しいし辛いのです。それで口先だけでこのように言っているのです。何を話しても友達を納得させることはできないし理解してもらえないと思うから、分かったもう分かったというふうに言っているのです。
しかしヨブは罪を犯したとしても、あなた方は本当に私に向かって高ぶり、私の受けたそしりのことで私を責めるのかと言っています。つまりこれは自分が本当に悪い人なら、あなた方は偉いのか、それならそれを証明してみせなさいと言っているのです。この内容をもっと具体的に調べてみます。ここで高ぶるとは、自慢すること、見下すこと、偉そうに振る舞うことを意味します。ヨブは友達にあなた方がそんなにうぬぼれているほど正しいのか、私はあなた方が指摘したとおりに悪い人なのか、もしそうなら私のそしられるようなところを証明してみなさいと言っているのです。
人々は言い争っていって感情的になると相手の弱点を攻撃します。自分の話が、言葉が通されないから腹が立って、相手に負けるようなふりをして相手の過ちとか欠点をあばき出して何としてでもこき下ろそうとするのです。今ヨブが同じようなことを言っています。二人がいま言い争っているとしましょう。それで一方が相手の欠点とか弱点を攻撃するとしましょう。しかし自分はそれが理解できないし納得できないのです。だから言い負かそうとするために、相手の弱点とか相手の欠点などをあばき出して相手を攻撃して仕返すのです。
会社で同僚の間でもそうだし、上司との間でもそうです。上司が自分の自尊心を傷つけたり、そして何か理不尽なことを言ったりすると、この人もイライラして上司の前で上司の弱点とかを攻撃する場合もあると思います。相手がそれ以上何も言えないように黙らせようとすることもあるし、自分が窮地に追われたら相手の弱点を攻撃しながら、あなたは私より偉いのかと言っているのです。それはヨブの今の姿です。皆さんも家庭の中で、また会社の中でこういう姿はないのか顧みますように。聖徒の皆さんにはこういう悪ではなくても、自分の考えや自分の利益に合わなかったり、自分が認められていないと思うときどんな姿だったのか考えますように。
例えば、教会のある組織のリーダーに選ばれたときは熱心だったのに、次に選挙で選ばれなかったなら、前と違って熱心が冷めてしまいます。そして、今リーダーとして新しく選ばれた人より自分が優れていると思うから不満を抱いて、人々は自分を認めてくれないから寂しいのです。今ヨブがそのような心なのです。友達が自分に言っているように、もし自分が悪い人なら、あなたたちは私より偉いのか、その証明をしてみなさいと言っているのです。皆さんもそういう姿がないのか顧みますように。自分の考えとか自分の利益に合わなくて、また自分が認めてもらえないとき不満を抱いたり、心の中で相手を無視したりする姿がないのか顧みますように。それも悪なのです。
そして集まりで自分の意見が受け入れてもらえないとき、どうなるか見てみようと思いながら、協調しないで協力しないならこれも悪でしょう。そして相手の陰口をたたいたりするならこれはもっと大きい悪だし、サタンが喜ぶことでしょう。ただその人がこれまで自分なりに奉仕をしていたことは、人に認められるためにしていたことを自分で明らかにする姿です。ですからこういう悪は、断食して火のように祈って必ず捨てなければなりません。そうしないでこのくらいは自分が相手を呪ったり大きい害を与えたのでもないのにと思うなら、それがもっと大きい悪に育ってしまったり、そして自分の中にずっと隠れた悪があるということです。
今ヨブとヨブの友達を見ながら、本当にひどいな、悪いな、どうして互いにあんなふうに言い争って呪ってまでしているのかと思いますか。皆さんの心にもそういうところがあるかもしれないのです。自分がヨブのような境遇に置かれたら、ヨブよりもひどく悪を行うこともあるということです。だから潜んでいる悪を探し出さなければならないし、言い争ったりすることはなくても、心の中で相手を理解できなくて、そうでなければ思い込みの中で決めつけてしまったり、人に悪口を言ったりする、そういう姿はありませんか。それを発見したならば早く捨てなければなりません。発見したのに捨てなければ、ずっとその隠れた罪が自分の中にあるから、どれほど神様の前に申し訳ないでしょうか。それは敵である悪魔サタンが喜ぶことです。試練と患難をもたらす原因になるのです。
だから悪はどんな悪でも避けなければなりません。私はヨブの友達のようにひどい悪を行っていないと思うかもしれませんが、神様がご覧になるとき、自分の心を本当に聖いのかと変えられなければなりません。相手を無視したり自分より劣っていると思ったり指摘されたくないと思ったりすることも同じです。
