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ヨブ記講解(9) - 全能の神、正しいさばきを行う方

9月6日
読了時間: 9分

説教:イ・スジン牧師

本文:ヨブ記5:8-16


きょうは、私たちのすべての祈りに答えてくださる全能の神様と、不正をお許しにならない公義 の神様について伝えます。


1. 全能の神様


「私なら、神に尋ね、私のことを神に訴えよう。」(ヨブ5:8)


エリファズは先に「ヨブ、おまえがいくら神様に尋ねても、神様は答えてくださらないだろう」(ヨ ブ5:1)と言っておきながら、自分なら神様に尋ねて答えていただけるだろう、神様に尋ねなさい とヨブに忠告しています。


しかし、潔白で正しいヨブも、ひどい苦しみに会ったらつぶやいて嘆いたのに、苦しみに会って いる友だちを非難してののしるほど悪い人なら、どうでしょうか。おそらくつぶやいて嘆くことで終 わるのではなく、神様を呪って離れてしまったでしょう。エリファズは、イエス様の時のパリサイ人 のように、口では真理を語っても行いが伴わない偽善者だったのです。


今日もこういう人は口では「全知全能の神様」「生死禍福をつかさどられる神様」と呼びながら、 いざ自分に問題が起こると、人と世に頼ります。


ユダのアサ王は、王位に就いて35年までは神様により頼んで、正しく行いました。クシュの百 万の軍勢がユダを攻めて来たとき、ユダの軍勢は58万人に過ぎず、勝てない戦争でした。それ でアサ王が神様に切に呼んで祈ると、神様がユダに完全な勝利を与えられました。


ところが、この後、北イスラエルの王バシャがユダに攻め上って来ると、この時はアサ王は神様 により頼まず、アラムの王に助けを求めます。このことでアサ王は予見者を通して神様に責めら れます。


するとアサ王は悔い改めたのではなく、かえって予見者に足かせをかけます。結局、アサ王に 懲らしめが臨んで、両足とも病気にかかってしまいました。このような懲らしめを受けても彼は神 様の愛をつかまなかったし、かえって恐れて逃げます。結局、世の医者に頼って、いやされないま ま死んでしまいました。


第二歴代誌16章12節の「彼は【主】を求めることをしないで、逆に医者を求めた。」というみこ とばは、神様がアサ王の信仰のない姿をどれほど悲しんでおられたのかを表わしています。 神の子どもたちでも、この世を生きていると大小の問題に直面します。そんな時、神様は全能な るご自分だけにより頼むことを望んでおられます。したがって、大小に問わず、ある問題に直面す れば、心から神様に求めて、答えを受けて栄光をささげなければなりません(第二歴代誌16:9)。


「神は大いなる事をなして測り知れず、その奇しいみわざは数えきれない。神は地の上に雨を 降らし、野の面に水を送る。神は低い者を高く上げ、悲しむ者を引き上げて救う。」(ヨブ5:9-11)


エリファズは神様を見つけた体験はなくても、創造主の神様について聞いて知っていました。 アブラハムとモーセが誰か、イスラエルの民がエジプトから出て来る過程で神様がエジプトに下 された十の災いや葦の海が分かれるみわざ、雲の柱と火の柱で導かれたこと、マナとうずらを降 らせてくださったこと、苦い水が甘い水に変わったことなど、どれほど大いなる驚くべき事を行わ れたのか知っていました。


ですから、神様は私たち人の子らに測り知れない奇しいみわざを行われ、天地万物と山川草 木をつかさどる方ですと告白しているのです。


神様は真理にあって自分を謙遜に低くする者を高く上げてくださる方です。真理にあって自分 を低くする者とは、使徒パウロが「私にとって、毎日が死の連続です。」(第一コリント15:31)と告 白したように、高ぶりや自尊心、自分の義、枠など、このような肉に対して死ぬ者を言います。こ のように謙遜でみずから低くなる人は、神様が高く上げてくださいます(マタイ23:11-12)。


イエス様もご自分から卑しくなられたので、神様はイエス様を高く上げて、神様の御座の右に 着かせてくださいました。イエス様は創造主なる神の御子ですが、救いの摂理を成し遂げるため に、被造物である人としてこの地上に来られました。


この地上で働いておられた間、貧しさと空腹、疲れ、寒さと暑さなど、人の子らの受けるすべて の苦しみを味わわれました。傷もしみもない聖なる方が被造物からあらゆるあざけりと苦しみを 受けて、まるで凶悪な罪人のようにむごい十字架につけられることによって全人類の罪を贖い、 救いの道を開いてくださいました(ピリピ2:6-8)。


ですから、これを喜ばれた神様はイエス様を王の王、主の主として高く上げてくださったのです。


「悲しむ者を引き上げて救う。」とは、霊的に悲しむ者を慰めてくださるという意味です。マタイ の福音書5章4節の「悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから。」とあるとおりです。


私たちは神の国のために悲しみ、死の道に向かっている憐れな人々のために悲しまなければ なりません。


それだけでなく、神様を冒涜したり汚したりする人を見るなら、真理にあって義憤を覚えなけれ ばなりません。神様の栄光を遮って神様を冒涜する不義を見た時や、死に向かっている人々を 見た時は、義憤を覚えるべき時もあるのです。


イエス様には憤りやわだかまりはありませんでしたが、いつも優しく行われたのではありませ ん。神の宮で売買する人々の家畜を追い出したり、両替人の台を倒されたりもなさいました。悪 い人々を責める時は「蛇ども、まむしのすえども」「わざわいだ」と強く言われたりもされました。


このような義憤は悪い心から出たものではなく、聖い心から出たものなので、サタンが訴える ことができません。また、人々をいのちに導くための愛から出てきたものなので、たましいを生か すみわざが起こります。


しかし、悪感情をもって怒る時は、相手を傷つけたり、つまずきを与えたりすることもあります。 何よりも神様の栄光を遮るので、肉的な怒りや憤りは捨てなければなりません。


2. 正しいさばきを行う方


「神は悪賢い者のたくらみを打ちこわす。それで彼らの手は、何の効果ももたらさない。神は知 恵のある者を彼ら自身の悪知恵を使って捕らえる。彼らのずるいはかりごとはくつがえされる。 彼らは昼間にやみに会い、真昼に、夜のように手さぐりする。」(ヨブ5:12-14)


辞典では「悪賢い」は「悪いほうによく知恵がまわる。ずるくて抜け目がない。狡猾だ」と定義し ています。霊的にも「悪賢い者」は「正しくない方法でわざと人をだます人、また、そのように自分 を形成していく人」を意味します。


モーセに立ち向かったコラとその仲間やイエス様を売り渡したイスカリオテ・ユダ、神のしもべ を欺いたアナニヤとサッピラなどがこれに当てはまります。


次に、「たくらみ」とは「よくないことを計画すること」を言います。


悪い人々がたくらみを巡らすと、その時はうまくいくように見えるかもしれませんが、時間が流 れれば、結局、試練、患難に落ちて滅びてしまいます。神様が彼らの手ですることが成功しないよ うに防がれるからです。


「知恵のある者」の「知恵」とは、ここでは悪知恵のことです。神様は「裏表があって二重性のあ る人」を悪知恵があると言われます。


「神は知恵のある者を彼ら自身の悪知恵を使って捕らえる。」とありますが、聖書にはこのよう な例が多くあります。


代表的な例として、敵である悪魔・サタンは悪賢いので、宗教指導者と総督ピラトを操って、罪 のないイエス様を十字架につけました。しかし、これは「罪から来る報酬は死」という霊の世界の 法を破る行いでした。


次に「彼らのずるいはかりごとはくつがえされる。」とあります。「ずるいはかりごと」とは、たくら みよりもっと大きい悪い計略を行いとして現わすことを言います。箴言11章9節に「神を敬わない 者はその口によって隣人を滅ぼそうとするが、正しい者は知識によって彼らを救おうとする。」と あるとおり、神を敬わない者はずるいはかりごとを使って悪を行い、自分も周りの人も滅びに引 いて行きます。このような人は試練、患難がやって来た時に解決する方法がないので、お先真っ 暗になります。昼間でも闇で覆われた夜のように絶望的なのです。


しかし、真理にあって生きていく人は敵である悪魔に打ち勝ち、絶望的なことに会わないだけ でなく、会ったとしても神様がすべてを働かせて益としてくださいます。


「神は貧しい者を剣から、彼らの口から、強い者の手から救われる。こうして寄るべのない者は 望みを持ち、不正はその口をつぐむ。」(ヨブ5:15-16)


ここで「貧しい者」とは、肉的に貧しい者ではなく、霊的に貧しい者を言います。たとえば、神の 子どもに試練、患難がやって来ると、まず悔い改めるべきことを探して悔い改めて、神様に祈るで しょう。こういう人を貧しい者と言われるのです。神様はこのように貧しい者が神様を呼んで祈る とき、答えてくださいます。


また、貧しい者とは、義に飢え渇いて心が貧しい者を意味します。心が貧しいということは、心 が謙遜で、自尊心や高ぶり、利己心、欲などの悪がないことです。


心の貧しい人は福音をすぐ受け入れるだけでなく、天国への希望を持って神様を切に捜しま す。みことばを一つでも多く悟ることを慕って、何としてでも真理にあって生きようと努めます。自 然にその人生から不正は離れるようになるのです。


このように心が貧しくて天国を望み、すべてのことに神様により頼めば、神様は剣のように強 い者の手から守ってくださいます。何よりも信仰によって救われて、永遠の天国を所有する祝福 を受けるのです(第一ペテロ1:9)。


反対に、心が豊かな人は高ぶり、自尊心、自分の利益を求める心、欲などが心にぎっしりある ので、神様を捜しもしないで、もっと多く手に入れて楽しもうと人に悪を行ったりもします。このよ うに不正な生き方の結末は永遠の死なので、「不正はその口をつぐむ。」とあるのです。


愛する聖徒の皆さん、 神様は創造主で全知全能の方です。ですから、神の子どもたちがすべてにおいてご自分を信 じて頼ることを望んでおられます。また、神様は公平で正しい方なので、決して不正を許さず、悪 賢い者、悪知恵のある者、ずるい者のたくらみを打ちこわされます。反対に、真理にあって生きて いる者には盾と砦になってくださり、心の貧しい者には天国への希望と祝福を下さいます。


したがって、悪賢さや悪知恵、ずるさのような悪を完全に捨てて、心の貧しい者となって、ただ 光と真理の中を歩んでまことの祝福を受けられますよう、主の御名によって祈ります。

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