ヨブ記講解(8) - 肉的な人生観と霊的な人生観
説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記5:1-7
きょうは憤りとねたみの愚かさ、そして肉的な人生観と霊的な人生観について伝えます。
1. エリファズの高ぶりと間違った教え
「さあ、呼んでみよ。だれかあなたに答える者があるか。聖者のうちのだれにあなたは向かって行こうとするのか。」(ヨブ5:1)
エリファズは、ヨブがいくら神様を呼んで祈っても神様が答えてくださらないと決めつけて、高ぶって神様のみことばを否定しています。しかし、苦難の日に神様を呼び求めれば助け出してくださり、呼び求めて祈れば聞いてださるのが神様のみこころです(詩篇50:15,エレミヤ29:11-13)。また、エリファズは「このように悪くて醜いあなたの姿でどうやって聖者たちの前に出て行けるのか。身の程をわきまえなさい」という意味でヨブを叱責していますが、この言葉も正しくありません。
イエス様は正しい人だけでなく罪人で醜い人も救おうとこの地上に来られました。しいたげられている者を顧みて、取税人と罪人のように疎外されている者を訪ねて行って、彼らの友になってくださいました。ある人々は罪人たちと一緒に食事をしておられるイエス様を見て非難しましたが、イエス様がこの地上に来られた目的は、豊かで正しい人のためではなく、貧しくて病気にかかった人、そして罪人のためであると教えてくださいました(マタイ9:12-13)。これが父なる神様の心です。
ところで、エリファズはヨブが汚れていると責めながら、パリサイ人のように神様のみことばを間違って使っています。神様を誤解していて、神様のみことばを正しく知らなかったので、ヨブに間違ったことを教えて叱責しているのです。自分の悪い姿は悟れないで、かえって正しい人を叱責するようなものです。
イエス様の時にも、義人のふりをしている人々がイエス様に向かって「悪霊どものかしらベルゼブルに取りつかれている」といって非難しました。しかし、イエス様はこのように非難して迫害する人々でさえ「悪い」と指摘されたのではなく、神様のみことばで悟らせてくださいました。
私たちもこのような主の心に似ていかなければなりません。罪悪の中にいる人々や、教会を離れた人々を見ても、罪に定めるのではなく、かわいそうに思って、いつでも帰って来るように祈る善と愛を所有しなければなりません。
2. 憤りとねたみの愚か
「憤りは愚か者を殺し、ねたみはあさはかな者を死なせる。」(ヨブ5:2)
エリファズは真理と反対のことを真理のように言った後、今度は正しいことを言っています。こ れは神様のみことばに合っています。あることについて自分の考えに合わなかったり、気に触った りするとすぐ憤る人を、神様は愚か者と言われ、反対にはずかしめを受けても黙っている者は知 恵のある者だと言われます(箴言12:16,15:1)。
第一テモテ2章8節に「ですから、私は願うのです。男は、怒ったり言い争ったりすることなく、 どこででもきよい手を上げて祈るようにしなさい。」とあり、エペソ4章31節に「無慈悲、憤り、怒り、 叫び、そしりなどを、いっさいの悪意とともに、みな捨て去りなさい。」とあります。このように憤り は百害あって一利なしなので、神様はこれを捨て去りなさいと言われるのです。
また、箴言14章30節に「穏やかな心は、からだのいのち。激しい思いは骨をむしばむ。」とあり、 ヤコブ3章16節に「ねたみや敵対心のあるところには、秩序の乱れや、あらゆる邪悪な行いがあ るからです。」とあります。
このようにねたみのように激しい思いは相手と周りの人々を疲れさせるだけでなく、骨をむし ばむように自分自身を苦しめる悪です。そねみが程度を超えればねたみに発展して相手を呪い、 さらに殺人さえためらわないこともあります。
代表的な例として、聖書で弟アベルをねたんで殺したカインが挙げられます。また、イエス様が 十字架につけられて死なれたのも、その当時の大祭司をはじめとする宗教指導者たちのねたみ のゆえでした。使徒パウロも神の力を大いに現わすほど、悪い人々からねたまれて迫害されまし た(使徒13:45)。
このようなねたみと憤りはサタンから来るものであって、人を滅びの道に引いて行くので、必ず 捨てるべき悪です。
「私は愚か者が根を張るのを見た。しかし、その住みかは、たちまち腐った。その子たちは危険 にさらされ、門で押しつぶされても、彼らを救い出す者もいない。」(ヨブ5:3-4)
エリファズはヨブが憤って感情を抑えられない姿を愚かだと言って、ヨブと彼の家族まで呪い ます。ヨブが滅びる前は子どもたちもぜいたくに暮らしていて、安らかに仲良く暮らしていたのに、 一瞬にしていのちを失ったので、危険にさらされた、と言っているのです。
「門で押しつぶされた」とは、権威の力によって抑えつけられたことを意味します。エリファズは、 ヨブと子どもたちが神様の権威に抑えつけられてこんなはめになってしまった、と言っています。 神様がこのようにされたので、助ける人もないと決めつけているのです。
前はヨブに比べてエリファズの立場のほうが低かったので、ヨブを愛して尊敬すると言ってい ました。ところが、今はヨブの身の上が惨めになって、自分のほうが上になったので、前に尊敬し ていたヨブをこのように軽蔑して非難しているのです。
これが典型的な肉の人の属性です。自分に恵みを与えて助けてくれた人でも、その人が低く なって困難にあえば、それまでに受けた恵みと感謝も忘れるのです。
3. 言葉の重要性
「彼の刈り入れる物は飢えた人が食べ、いばらの中からさえこれを奪う。渇いた者が彼らの富 をあえぎ求める。」(ヨブ5:5)
ここで「飢えた人」とは侵略者を言います。侵略者は自分の満足を満たすために人の物を略奪 します。
ヨブが農作業をして刈り入れた物をいばらのような鉄条網でいくら守ったとしても、それまで 侵略者に全部略奪されてしまった、ということです。エリファズはヨブの口から出てくる悪い言葉 が罠になって、権力者によって押しつぶされて財産を全部奪われた、とののしっているのです。
言葉が罠になるというこの言葉は正しい表現であり、霊の世界の法則です。箴言18章21節に 「死と生は舌に支配される。どちらかを愛して、人はその実を食べる。」とあります。
多くの人が自分の言葉によって試練がやって来ても、災いが近づいても、その原因を知らずに 生きています。
ある人は無駄な言葉を口にして、相手が怒ると「なに、冗談で言ったのに、真に受けたのか」と 言ったりします。しかし、人は口の告白のとおりに祝福が臨んだり、呪いが臨んだりするのです。 相手を傷つけて自分から呪いを招く言葉は、軽い冗談でも言ってはいけません。冗談一言でも 真理と反対であれば、自分と他の人を刺すとげになり、罠になって、サタンに訴えられるからです。
4. 肉的な人生観と霊的な人生観
「なぜなら、不幸はちりから出て来ず、苦しみは土から芽を出さないからだ。人は生まれると苦 しみに会う。火花が上に飛ぶように。」(ヨブ5:6-7)
この言葉のとおり、ちりが不幸を生むのでもなく、土が苦しみをもたらすのでもありません。し かし、霊的には、人は土に蒔いて刈り取って、食べて生きていけるので、苦しみも祝福も土から出 ていると言えます。
ここでは肉的な人生観と霊的な人生観を区分することが重要です。
エリファズが言ったとおり、人は生まれると苦しみに会うのでしょうか。
神様を信じない人々は、人は生まれると苦しみに会い、「生きるために食べる」または「食べる ために生きる」と言います。死によってすべてが終わると考えるので、自分の利益だけ求めて、 「どうすればもうちょっとおいしい物を食べようか」「どうすれば富と権威と名誉を得られるだろう か」という肉的な人生観を持って生きていきます。
このようにこの地上の希望だけを持って生きていく人の目で見ると、人生は苦しみの連続であ り、苦しむために生まれたかのように感じられます。
神様を信じない人々だけでなく、神様を信じていてもまことの信仰がなくて天の望みがない人 は、エリファズのように肉的な人生観を持って生きていくので、毎日が疲れてつらいのです。うれしいことがある時だけ喜んで、感謝すべきことがある時だけ感謝します。環境と条件によって一 喜一憂するのです。
しかし、霊的な人生観を持っている人々は天国を望んでいるので、どんな状況でもいつも喜ん でいて、すべての事について感謝して、絶えず祈ります。
聖書を読むと、私たちがこの地上に生まれた目的がはっきり書いてあります。
イザヤ43章7節に「わたしの名で呼ばれるすべての者は、わたしの栄光のために、わたしがこ れを創造し、これを形造り、これを造った。」とあり、43章21節に「わたしのために造ったこの民は わたしの栄誉を宣べ伝えよう。」とあります。
神様は私たちがこの地上で苦しんでむなしい生き方をするために創造されたのではありませ ん。神様の栄誉を宣べ伝えるまことの子どもを得るために人を造られたのです。この地上でしっ かり耕作を受けて神様のかたちを取り戻し、栄えある天国で父なる神様と永遠に愛を分かち合う まことの子どもになることを望んでおられるのです。
このような人間耕作の摂理を正しく知っている聖徒なら、どう生きるべきでしょうか。コロサイ3 章1-2節に「こういうわけで、もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、上にあ るものを求めなさい。そこにはキリストが、神の右に座を占めておられます。あなたがたは、地上 のものを思わず、天にあるものを思いなさい。」とあるとおり、霊的な人生観を持たなければなり ません。
霊的な人生観を持っている人は世の娯楽より神様の前に出てきて礼拝をささげるのが楽しく、 肉的な話をするより神様を賛美して祈るのが幸せです。
永遠に生きていく天国の栄光と幸せを知っているなら、この地上に生まれて耕作を受けること が少し苦労でも、感謝と喜びでこの道を歩むことができます。人生は苦しみのために生まれたの ではなく、幸せのために、神様の栄光のために生まれたことを知っているので、心から「父なる神 様、私がこの地上に生まれるようにしてくださって感謝します」と告白します。それだけでなく、い つも天国を望んで、父と主を待ち望んでいるので、「主よ、早く来てください」と告白するのです。
愛する聖徒の皆さん、 霊的な人生観を持って、毎日毎日再臨の主を待ちながら、さらに美しい花嫁の備えをして、い のち尽くして忠実でありますよう、主の御名によって祈ります。
