ヨブ記講解(7) - 霊を見分ける力と霊的な高ぶり
説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記4:12-21
きょうはヨブの友だちエリファズの霊的な体験を調べて、霊を見分ける方法と霊的な高ぶりに ついて伝えます。
私たちがたましいに幸いを得ているほどすべてに幸いを得、聖霊の声を明らかに聞いて霊的 に見分けられます。いくらみことばを知識的に多く知っていて、よく祈っていても、いざというとみ ことばに聞き従わなければ、たましいに幸いを得られず、霊的に見分けられないだけでなく、か えって霊的に高ぶってしまいます。メッセージを聞いて、たましいに幸いを得ていて、霊を正確に 見分ける力を得ますように。
1. エリファズの霊的体験
深い夜中にエリファズは霊的な体験をしたのですが、これをよく理解できなかったので、思い 乱れました。彼はまだ神様を正確に知っている状態ではなかったし、また、神様を見つける体験 もない状態で霊的な体験をしたので、恐れておののきました(ヨブ4:12-14)。一つの霊が顔の上 を通り過ぎるのを感じたので、身の毛がよだちさえしました。それが来て立ち止まっても、それが サタンの霊なのか、神様が遣わされた霊なのか、見分けられなかったのです(ヨブ4:15-16)。
この時、エリファズの耳に一つの声が聞こえてきたのですが、「人は神の前に正しくありえよう か。人はその造り主の前にきよくありえようか。」(ヨブ4:17)と言いました。エリファズはまるで神 様が声を聞かせてくださったかのように言っていますが、私たちは霊を正確に見分けなければな りません。
ここで「人は神様の前に正しくありえないし、きよくなれない」ということは真理です。私たちは 信仰によって神様の前に正しい人と認められ、罪を捨ててみことばどおりに行うほど、正しくなっ て聖められていきます。人の心がいくら良くても、神様の善に至ることはできないから、人は神様 より正しく、きよくなれないというエリファズの言葉は、ここまでは真理です。
ところで、サタンが惑わす時は、真理と真理と反対のものを巧妙に混ぜて、相手が見分けられ ないようにします。私たちがあることを見分ける基準は人ではなく、神様のみことば、すなわち真 理でなければなりません。
2. 霊を見分ける方法
霊を見分けるとは、御霊に属するものと肉に属するもの、聖霊の声と肉の思い、善と悪、真実と 偽り、義と不義などを神様のみこころによって見分けることを言います。したがって、霊を見分け るには、神様のみこころを知っていなければならず、神の御霊に導かれなければなりません。
そのためには真理と反対になる思弁を打ち砕き、すべてのはかりごとをとりこにしてイエス・キ リストの御前に服従させなければなりません(第二コリント10:5)。そうやってみことばに完全に聞 き従うとき、神様のみこころと霊の世界の法則を悟って、霊を見分ける力が臨むのです。
霊を見分ける力があれば、人にだまされません。よく人はうわべを見て「良い人のようだ」また は「悪い人のようだ」と言いますが、神様は人の心をご覧になります。そして、御霊は神様の深み にまで及ばれるので、相手が良い人なのか悪い人なのか、または神様が備えられた人なのかそ うでないのかを正確に見抜くことができます。心に悟りを下さったり、霊の目を開いて見分けたり するようにもされます。
神様は、何よりも聖書を通して真理の霊と偽りの霊を簡単に見分けられる方法を教えてくださ いました。「私たちは神から出た者です。神を知っている者は、私たちの言うことに耳を傾け、神 から出ていない者は、私たちの言うことに耳を貸しません。私たちはこれで真理の霊と偽りの霊と を見分けます。」(第一ヨハネ4:6)とあります。神様のみことばを聞いて従えば、真理の霊に属す る人です。真理のみことばを聞かないで受け入れなければ、偽りの霊に属する人なのです。
御霊の人になりたいと思いながら、真理と反対の話を聞きたがって一緒に話しているなら、こ のような人は霊を見分ける力がないことはもちろん、真理に属する人とも言えません。さばいて 罪に定める話、陰口、悪口、不満のこもった信仰のない言葉、否定的な言葉を聞きたがっている と、礼拝して祈っても変えられないのです。その心の中に真理がなく、知識だけ受け入れている から、霊を見分ける力がないのです。
3. 神様が信頼されるしもべと信頼されないしもべ
エリファズが「見よ。神はご自分のしもべさえ信頼せず、その御使いたちにさえ誤りを認められ る。」(ヨブ4:18)という言葉は正しくありません。
神様はアブラハムを信頼されたので、信仰の先祖として立てて、練って用いられました。モーセ、 エリヤ、使徒パウロなど、神様のみこころにあって立てられたしもべはみな信頼してくださったの です。予知予定の神様は世界の始まる前からすべてを知っておられ、その器をご覧になって、し もべを選んで用いられるのです。
しかし、イエス様はイスカリオテ・ユダがご自分を売ることを初めから知っておられたので、信 頼されなかったのです(ヨハネ6:64)。このように神様が信頼されないしもべがいるかと思えば、 予知して、摂理のうちに信頼して立てるしもべもいるのです。
エリファズは神様を誤解して「その御使いたちにさえ誤りを認められる。」と言っていますが、神 様が用いておられる御使いたちが誤ることなどあるでしょうか。また、神様が人を立てられたなら、 その人が使命を果たせる力も知恵も下さいます。
第一コリント1章27節に「しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を 選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。」とありますが、これは 神様が愚かな者をお遣わしになるという意味ではありません。世で知恵があるふりをして高ぶっ ている人ではなく、謙虚で心の良い人を選んで用いられるという意味です。
聖書を読むと、ヨセフ、ダニエル、使徒パウロなど、神様が選んで用いられた神の人はみな思 慮深くて知恵のある人でした。エリファズは神様を見つけた体験がなかったし、まだ霊的に見分 けられるような段階ではなかったので、小さい霊的な体験をしても自分の思いを巡らして、まる で神様が下さったかのように言っているのです。
今日も同じです。よく祈っている聖徒たちの中で「聖霊のお告げを聞いた」とか言いますが、そ れが100%正確になるまでは、聖霊の声なのかどうか聞き分ける訓練過程が必要です。ですか ら、まだ正確に霊を見分けられない時は、むやみに聖霊の声だと決めつけてはいけないのです。
また、聖書のみことばを間違って引用する人も大勢います。自分が何かを決心したとおりに実 行できないとき、「心は燃えていても、肉体は弱いのです。」(マタイ26:41)というみことばを引用 して言い訳をして、自分を合理化する場合があります。
また、習慣的に「神様が心に働きかけてくださった」とか「神様がこうなさった」あるいは「神様 が引き止められた」と言うのも、神様の御名をみだりに唱える場合です(出エジプト20:7,レビ1 9:12)。
もし神様の御名で偽りを言ったり、自分を誇示しようとする意図で自分の思いを聖霊のみわざ だと言ったりするなら、これは人だけではなく、神様の前にも偽りを言ったということなのです。
4. エリファズの高ぶり
エリファズはヨブのことをたとえて、ちりの中に土台を据える泥の家に住み、しみのようにたや すく押しつぶされる者で、朝から夕方までに打ち砕かれる人だと言っています(ヨブ4:19-20)。 東の人々の中で一番の富豪であったヨブが一日ですべてを失ってしまったことを表現している のです。立ち上がる気力もなく、完全に打ち砕かれたヨブをもう誰も顧みない、と決めつけているのです。
ヨブ記4章21節に「彼らの幕屋の綱も彼らのうちから取り去られないであろうか。」とあるのは、 根絶やしにされて回復する可能性もない、という意味です。エリファズはヨブが回復する可能性 がなく、何の希望もないと言って、そんな者が死ぬ時は知恵もないと皮肉っているのです。
このようなエリファズの姿は、イエス様が働いておられた当時のパリサイ人や律法学者たちの 姿と似ています。律法を教える人々でしたが、自分たちには行いが伴っていないのに、持ってい る知識でイエス様をさばいて罪に定めたのです。
人はそれぞれ考えが違うので、何か正しいか正しくないかは自分の考えに基準を置くのでは なく、神様の真理のみことばに基準を置かなければなりません。たとえ相手がみことばに照らして 明白な罪があっても、それをさばくのは神様の権限であることを心に留めなければなりません。
そうではなくて、自分がさばく者になって相手をさばいて罪に定めるなら、これもまた神様のみ ことばに逆らっているのです(ヤコブ4:12)。
ヨブは潔白で正しい人でしたが、まだ神様の摂理を知らなくて苦しみを訴えています。しかし、 エリファズはヨブの外見だけを見てさばきました。それだけでなく、霊的に高ぶっていて、幻のう ちに神様のみことばを聞いたかのように言っていますが、実際は敵である悪魔・サタンのしわざ でした。
5. 肉的な高ぶりと霊的な高ぶり
肉的な高ぶりは、肉的な条件で自分が相手より優れていると思う分野で、自慢してうぬぼれて 人を無視するなど、目によく見えます。したがって、信仰生活をしながら真理を学んでいくと、肉 的な高ぶりは比較的簡単に発見して捨てることができます。
これに比べて、霊的な高ぶりは発見して捨てるのが容易ではありません。真理を頭にだけ入れ ておいて、心に刻んで霊の糧としていないから、自分が変えられたと錯覚して霊的に高ぶるので す。
信仰歴が長くなって務めが高くなれば、自分の信仰もそれだけ育ったのだと錯覚したりもしま す。また、自分の信仰は立派だと思うので、他の人を見ると、すぐ指摘して教えようとします。
このような人は自分では信仰があって神様を愛しているという自負心があるので、人の勧め や叱責を受け入れることができず、神様のみことばを聞いても自分を省みることができなくて、他 の人をさばいて罪に定めるのです。
また、聖霊の声を聞いたとか、霊の目が開かれたとか、何かの霊的な体験をしたとか、あるい は霊的なみことばをたくさん知っているとか、使命を長い間果たしてその分野で実力があるとか で「私のほうがよく知っている」と心が高くなってしまうのも霊的な高ぶりに属します。
したがって、いつも自分を省みて、肉的な高ぶりはもちろん霊的な高ぶりがないかチェックして、 神様の御前に謙虚な心を所有しますように。
愛する聖徒の皆さん、 霊を正確に見分ける力がない状態でみことばを知識的にだけ積んでいけば、霊的な高ぶりに なって、自分が裁判官になって多くの罪を犯します。したがって、真理のみことばを心に刻んで糧 として、たましいに幸いを得ている祝福を受けて聖霊の声を明らかに聞いて、霊を正確に見分け るすべての聖徒の皆さんになりますよう、主の御名によって祈ります。
