ヨブ記講解(6)
説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記4:1-11
1. 感情的にヨブを責めるエリファズ
ヨブが自分の生まれたことと親を恨んで嘆くと、ヨブの友だちエリファズが聞いていて、まず口 を開きます。
「すると、テマン人エリファズが話しかけて言った。もし、だれかがあなたにあえて語りかけたら、 あなたはそれに耐えられようか。しかし、だれが黙っておられよう。」(ヨブ4:1-2)
ここで「それに耐えられようか」と言っていますが、それは「聞きたがらないだろう」という意味な のです。「ヨブ、お前の話を聞いていたら、もう我慢できない。ちょっと忠告しなければ。おれの言 葉を聞けば耳が痛いかもしれないけれど、指摘しよう」というような意味です。エリファズはヨブ の話が気にくわなくて、しゃくに障り、腹が立ちました。
しかし、このようなエリファズの行いも真理に照らすと合っていません。神様は聖書のあちこち で、怒ってはならない、さばいてはいけないと言っておられます(ヤコブ1:19,4:11-12,マタイ7:1 -2)。人の心は、ただ神様だけが探ることがおできになるからです。
いくら正しいことを言われても、感情的に言われれば、相手の心を開くことはできないのです。 かえって鋭い剣で刺されたように心が傷ついて、元気をなくしてしまうかもしれません(箴言12:1 8)。どうしても必要なことを勧めるとしても、相手の心と立場を推し量って愛の心でするとき、相 手の心が動かされて変えられます。相手に正しいことを言うのも大切ですが、どれほど善と知恵 をもって接するかがもっと大切だということを心に留めなければなりません。
「見よ。あなたは多くの人を訓戒し、弱った手を力づけた。あなたのことばはつまずく者を起こし、 くずおれるひざをしっかり立たせた。だが、今これがあなたにふりかかると、あなたは、これに耐え られない。これがあなたを打つと、あなたはおびえている。」(ヨブ4:3-5) 以前、ヨブは正しい生き方をしていたので、他の人々を教えて正しい道に導くことができました。 「弱った手を力づけた」とは、生きる意欲がない人が生きる意欲を取り戻せるように勧めて導いた、 ということです。
「つまずく者」とは、人生の希望を失った人を言います。一日で事業がつぶれたり、失恋したり、 家庭が崩壊したりするなど、絶望的な現実の前に人生の希望を失ってあきらめようとする人々に、 ヨブは真理のみことばで悟らせて力づけました。
ヨブが「くずおれるひざをしっかり立たせた」ということは、行う力がない人々に実際に助けに なって力づけた、という意味です。お金がない人にはお金を施しして、食べる物がない人には食べる物を与えるなど、実質的な行いで助けていたのです。
ところで、いざ自分が病気になると苦しんで、ヨブが訓戒していた人々と同じ姿になってしまったと言って、エリファズは感情的にヨブを責めています。
2. ヨブとエリファズの姿を通して私たちが省みるべき点
神様は、ヨブの嘆く姿を通して、私たちが恵みに満たされていた時とそうでない時の心につい て悟らせてくださいます。試練、患難がやって来たとき、信仰の状態をチェックすることができるし、 自分の心と信仰の現住所が明らかにされるのです。神様が自分を祝福してくださり、祈りに答え て認めてくださっていた時は「神様、愛しています」と言っていたのに、ひょっとして自分が試練に 会っている時も変わらずその告白が出てくるか、省みなければならないでしょう。
使徒パウロは神様への姿がいつも同じでした。神様が認めて祝福してくださる時だけ、神様の 働きに忠実だったのではありません。むちで打たれて、迫害されて、監獄に閉じ込められて、誤解 されて、いのちが危なくなって時も、変わらず神様をほめたたえました。死に至るまで忠実であっ たし、多くの苦しみを受けましたが、主への愛はさらに深くなり、感動的な愛の告白を残しました (ローマ8:35-39)。神様は私たちもこのような信仰を持つことを望んでおられます。
次に、エリファズの姿から私たちが悟るべき点は何でしょうか。
エリファズは以前、ヨブから多くの訓戒を受け、助けてもらっていました。その時はヨブを尊敬 する心もあったでしょう。ところが、今は自分が知っていた姿ではないから、ヨブを見ると、真理の 知識でヨブをさばいて罪に定めているのです。
このように相手の状況が変わったからといって、以前受けた恵みを忘れて皮肉を言ったり、腹 を立てて責めるならば、本当の愛ではありません。また、そういう言葉では相手も悟れないし、慰 めも受けないで、かえってサタンが働いて相手の感情をさらに傷つけることがあるのです。
たとえ自分の考えが正しいとしても、感情的に話をすれば何の役にも立たないのです。完全に 悪意がない状態で愛の込められた主の心で話をする時でこそ、聖霊が働かれて、相手が悟って 変えられることを知らなければなりません。
3. 続けてさばいて罪に定めるエリファズ
「あなたが神を恐れていることはあなたの確信ではないか。あなたの望みはあなたの潔白な行 いではないか。」(ヨブ4:6)
いつもヨブは神様の御前に自分の行いが潔白であり、神様の御前に潔白な者になりたいと 思っていました。エリファズはヨブの友だちだったので、普段ヨブと話をしながら、ヨブのこのよう な望みについてもよく知っていました。ところが、いざヨブに試練がやって来て苦しみに会うと、い つも彼が言っていたこととは余りにも違った行いを見せているので、エリファズは続けてヨブの欠 点を指摘します。
ここで、ヨブが本当に神様を恐れてより頼んでいたかは調べる必要があります。本当に神様を 恐れる人ならば、ダニエルのようにどんな状況でも、どんな困難がやって来ても、神様により頼む でしょうし、神様を愛する心が変わりません。
ダニエルは、神様に祈れば獅子の穴に投げ込まれることを知っていながらも、変わらず感謝の 祈りをささげました(ダニエル6:10)。神様を愛して、そのみこころを行うだけなので、生きるにしても、死ぬにしても、ただ感謝だけしました。本当に神様を恐れるなら、どんな状況でもダニエル のように神様のみことばを守り行うのです。また、私たちが「神様にはどんなことでもおできになる」 ということを信じるなら、神様の御前にすべてをゆだねることができます。
エリファズは「さあ思い出せ。だれか罪がないのに滅びた者があるか。どこに正しい人で絶た れた者があるか。」(ヨブ4:7)とヨブに反問します。この言葉自体は真理です。もし何かの災いや 事故、問題が起こったとすれば、そこには必ず罪または不正という根本的な原因があるのです (ローマ6:23,コロサイ3:25)。
問題は、こう言っているエリファズの心の中です。もし試練と患難の中にいる人に「すぐ悔い改 めてください。あなたに罪があるから試練がやって来たのではありませんか!」と言うなら、これ は愛ではなく、かえって傷つける言葉になってしまいます。
また、エリファズがヨブに「私の見るところでは、不幸を耕し、害毒を蒔く者が、それを刈り取る のだ。」(ヨブ4:8)と言ったのもそうです。
不幸で畑を耕して、害毒を種として蒔いたら、その実もやはり害毒という実になるしかないの です。しかし、これもまたエリファズがヨブの心がそれほど悪いとさばいているという点が問題です。
続いて「彼らは神のいぶきによって滅び、その怒りの息によって消えうせる。」(ヨブ4:9)とあり ますが、ここで「いぶき」とは神様のみことばを意味し、「怒りの息」とは神様の心を意味します。つ まり、エリファズは「ヨブ、きっとお前が悪をもって畑を耕して種を蒔いたから、蒔いたとおりにそ の刈り取りもしているんだ! そんな人は神様のみことばで滅んで、神様の心によって消えうせ てしまうんだ」と、自分が裁判官になって、ヨブを悪い人だと罪に定めています。
しかし、ヨブは良い地の心を持っている人だったし、潔白で正しい人でした。悪で地を耕したの ではなく、善で地を耕した人で、害毒で種を蒔いたのでもなかったのです。ヨブが今つぶやいて 嘆いているのは、その心の地が悪いからではなく、真理を知らなくて、まだ神様を見つけた体験 がなかったからです。
「獅子のほえる声、たける獅子の声は共にやみ、若い獅子のきばも砕かれる。雄獅子は獲物が なくて滅び、雌獅子の子らは散らされる。」(ヨブ4:10-11)
これは、エリファズがヨブの境遇を獅子にたとえて遠回しに言っているのです。ヨブが以前は 裕福だったし、多くの人から尊敬されていたのに、今はすべてを失ってしまったので、このような 境遇をきばが砕かれた若い獅子、老いてもう狩りができない雄獅子にたとえたのです。
また、これは世の理(ことわり)についても言っています。「百獣の王であるライオンも、強い時 があれば老いる時があるように、人間もこういう時があればああいう時もあるのだ。人間の運命 はどうすることもできない」という意味で言っているのです。それで、世のことわざには「待てば海 路の日和あり」というのがあって、今は思うように行かなくても、じっと待っていれば良い日が来 ることもあると言ったりします。また「運命のいたすところだ」と言って、人の運命はどうすることも できないと言うこともあります。
しかし、これは神様のみことばに照らしてみれば合いません。神様は、私たちが神様のみことば どおりに生きれば、すべての病気から守ると言われたし(出エジプト15:26)、私たちを地のすべての国々の上に高くあげて、貸すであろうが借りることはなく、かしらとならせ、尻とはならせない 祝福を与えると約束されました(申命記28:1-13)。
また、私たちが神様を恐れかしこみ、信仰によって生きていくなら、マルコの福音書9章23節に 「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」とあるとおりになり ます。それだけでなく、必ず蒔けばその刈り取るもすることが神様の法則です(ガラテヤ6:7)。
4. まず自分の中の梁を取りのけてこそ
イエス様は「また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には 気がつかないのですか。兄弟に向かって、『あなたの目のちりを取らせてください』などとどうして 言うのですか。見なさい、自分の目には梁があるではありませんか。偽善者よ。まず自分の目か ら梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができ ます。」(マタイ7:3-5)と言われました。
ここで「梁」とは「心にある大きい罪の性質」を意味します。まず自分の目の中から梁を取りの けてこそ、主の心と目ですべての人を見ることができるし、相手のちりを正確に見ることができま す。自分の目の中に梁があれば、エリファズのように悪意をもって指摘するようになるので、相手 を悟らせるよりは苦しみを与えて、つまずかせるかもしれないのです。
自分の中に霊の愛があるなら、相手がいくら正しくないことをしても、憎くなったり腹が立った りするのではなく、愛をもっておおうことができます。梁がないから相手の良い点だけが見えて、 その信仰に合わせて理解して、相手のために愛をもって祈るのです。
傷もしみもなかったイエス様は人々の過ちを指摘したり罪に定めたりしたのではなく、まず赦し てくださって、そむきの罪をおおって、正しい道を歩めるように導いてくださいました。
まして神様の御前で多くの罪と過ちを赦された私たちはどうすべきでしょうか。まずはみことば と祈りで自分の心から悪を取り除くことに努め、一歩進んで互いの罪をおおう愛の心を所有しま すよう、主の御名によって祈ります。
