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ヨブ記講解(5) - ヨブの苦しみと心の痛み

9月5日
読了時間: 9分

説教:イ・スジン牧師

本文:ヨブ記3:13-26


きょうはヨブの心が痛んでいる姿を調べながら、まことの安らぎがない理由と聖霊に満たされている方法、恐れのない愛について伝えます。


人の口から出る言葉はいのちがある種のようなものです。ヨブのつぶやきと嘆きの言葉を調べながら、悪い言葉の無益さを悟り、いつも良い言葉、肯定的な言葉で美しい実を刈り取る聖徒の皆さんになりますように。


1. ヨブの苦しみと心の痛み


「今ごろ、私は安らかに横になり、眠って休み、自分たちのためにあの廃墟を築いたこの世の王 たち、また議官たち、あるいは黄金を持ち、自分の家を銀で満たした首長たちといっしょにいたこ とであろうに。それとも、私は、ひそかにおろされた流産の子のよう、光を見なかった嬰児のよう でなかったのか。」 (ヨブ3:13-16)


ここで「首長たち」とは、地方の民を治める高官を意味し、「議官たち」とは、何かの問題につい て論議して、問題解決を助けることができる人々を言います。ヨブは、自分が世に生まれなかっ たならば、すでに死んでよみに行ったこの世の王たちや議官たちと一緒にいただろうに、と言って いるのです。これには特別に霊的な意味があるのではなく、ヨブの個人的な考えから出た、真理 ではない言葉です。


ヨブはまた、母が自分を産んだとき、安産でなかったなら、流産の子のように世にいないから、 今の苦しみを受けなかっただろうに、と嘆いています。


「かしこでは、悪者どもはいきりたつのをやめ、かしこでは、力のなえた者はいこい、捕らわれ 人も共に休み、追い使う者の声も聞かない。かしこでは、下の者も上の者も同じで、奴隷も主人 から解き放たれる。」(ヨブ3:17-19)


ヨブは、自分がもし死産してよみに行ったとすればいこいを得ていただろうと、よみの生活につ いて説明し始めます。ここで「追い使う」とは、自由を奪って縛ることを意味します。自分で自分を 縛ることもあり、目上の人や神様のみことばによって縛られることもあります。


つまり、よみでは何ものにも縛られない、下の者も上の者も同じで平等だ、と言っているので す。これもまた真理ではなく、ヨブの考えの中から出てきた真理と反対の言葉です。


ルカ16章を読むと、この地上で神様を恐れていた貧しい人ラザロは、死んでアブラハムのふと ころに抱かれましたが、ぜいたくに飲み食いして世を楽しんでいた金持ちは、よみに行って火の 穴で永遠に苦しみを受けている姿が記されています。ラザロがアブラハムのふところで休んでいる所が上のよみであり、金持ちが火の穴で苦しみを受けている所が下のよみです。ヨブが言った ように、良い人も悪い人も同じよみに行くのではなく、同じ待遇を受けるのでもありません。しか も罪人と悪者が落ちる下のよみは、地獄の使いたちからひどい苦しみを受ける所です。


「なぜ、苦しむ者に光が与えられ、心の痛んだ者にいのちが与えられるのだろう。」(ヨブ3:20) 財産と子どもをみな失ったし、全身に悪性の腫物まで出たヨブはひどく苦しんでいました。それ で、光といのちを下さった神様を恨んでいるのです。


今日も同じです。暗やみにいた人が光の中に出てきても、信仰生活をしているうちに試練が来 れば、ヨブのように嘆くようになります。自分のうちにおられる聖霊様がうめきながら、「罪を捨て なさい、みことばどおりに生きなさい…」と言われるのに、それを守れないから心が苦しくなるの です。いっそ真理を知らなかった時は気楽だったのに、真理を知ったから「私はどうして光を見た のか、どうして神様を知ったのか」と嘆くのです。


「死を待ち望んでも、死は来ない。それを掘り求めても、隠された宝を掘り求めるのにすぎない とは。彼らは墓を見つけると、なぜ、歓声をあげて喜び、楽しむのだろう。」(ヨブ3:21-22)


ヨブは死ぬことを待ち望んだのですが、思いどおりになりませんでした。もしどこかに貴重な宝 が埋まっていることがわかったなら、人々はそれを求めるためにどれほど熱心に地を掘るでしょう か。まさにこのような切なる心よりもっと切なる心で、ヨブが死を望んでいることを表現したのです。


ヨブは治る見込みがない悪性の腫物の苦しみのため、水があふれるようにうめき声が出てき たし、食事をするたびに嘆きが出てきました(ヨブ3:24)。死にたいのに、食物をとればいのちが 延びるし、だからといって食べないわけにもいかないから、嘆きが出てきたのです。


これは霊的な糧を食べる時も同じです。多くの方がこの教会に出会って、神の力を見て、みこ とばを聞けば、恵みに満たされて幸せになります。しかし、時間が経っても心の割礼をしないで、 みことばどおりに守り行わなければ、信仰生活がだんだんつらくなります。


「いっそこの聖めの福音を聞かなかったなら、他の教会で気楽に信仰生活をしていたのに…罪 と戦うためにこんなに苦労しなくてもよかったのに…」と思うのです。悪を捨てたいのに、思いど おりにならないから心が苦しくて、聖霊に満たされなくなるのです。


だからといって霊の糧を食べないこともできないし、教会を離れることもできない。ああするこ ともこうすることもできないで、ヨブと同じ嘆きが出てきます。聖めの福音を聞いて救いの道と新 しいエルサレムを知ったので、再び世に戻ることもできません。


また、聖霊に満されていた時は「新しいエルサレムを望んで走って行きます」と言っていた人が、 ある瞬間「私はパラダイスに行くだけでいいから、ちょっと気楽に信仰生活をしたい」と言ったりす ることもあります。


しかし「今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、 取るに足りないものと私は考えます。」(ローマ8:18)とあるので、新しいエルサレムの栄光を望ん で、熱心に霊の糧を食べることを喜ぶ聖徒の皆さんになるべきでしょう。


2. ヨブの恐れ


ヨブは行いではほぼ完璧に信仰生活をしていましたが、いつも心に不安と心配がありました。 神様が自分を打たれないだろうか、懲らしめられるのではないだろうか、ひょっとして子どもたち に何かの災いが臨みはしないだろうかと、恐れの中で生きていました。結局、彼が恐れていたと おりに災いが臨んだし、また、病気になるのではないかと恐れていたように、実際に病気にまで なったのです。それで「私の最も恐れたものが、私を襲い、私のおびえたものが、私の身にふりかかったからだ。」(ヨブ3:25)と告白します。


これは、まだ本性の中に悪があるので感じる恐れであり、神様の愛を完全に悟れないために 感じる恐れでした。


聖徒の皆さんも、まだ心に罪の性質が残っていて恐れがあるなら、「すみやかに変えられて、 神様に喜ばれる子どもになろう」という希望に変えていきますように。私たちがみことばどおりに 行えば、神様の前に恐れがなくて大胆です(第一ヨハネ3:21-22)。また、与えられた信仰の量り の中で最善を尽くして神様のみこころのとおりに生きれば、いわれのない呪いはやって来ないの です(箴言26:2)。


しかし、ヨブはこのような神様のみことばを正しく知らなかったので、神様がいわれもなく懲ら しめることができると思って、恐れていたのです。


3. 安らぎがない理由


「私には安らぎもなく、休みもなく、いこいもなく、心はかき乱されている。」(ヨブ3:26)


「安らぎ」「休み」「いこい」とありますが、これは安定した状態の暮らしを意味します。ヨブは財 産と子どもたちを全部失ったので、もう安定した暮らしもないと言っているのです。ヨブが信仰と 天の希望がない人であることを端的に表わしている言葉です。まことの安らぎと休みといこいは 肉的な条件にあるのではなく、神様が下さるものです。


では、熱心に信仰生活をしている人でも安らぎがない理由は何でしょうか。


第一に、信仰がないからです。私たちが大小を問わず信仰によって神様にすべてをゆだねる 時に、まことの安らぎが臨みます。神様により頼めなくて自分の思いと計画を持ってするので、失 敗するのではないかと心配で、だまされるのではないかと不安で、あれこれと悩むのです。


第二に、天国への希望がないからです。この地上のものへの未練を捨てなければ、天国への 希望が生じません。お金の欲、名誉欲、権力欲、自慢、自尊心、高ぶりなど、むなしいものを持っ ているので、天国への希望がないのです。


第三に、聖霊に満たされていないからです。たいていの場合、罪の壁があったり、肉の思いに よって祈れなかったりすると、聖霊に満たされなくなります。私たちが罪から離れて真理の中にと どまるとき、聖霊に満たされます。神様のみことばを聞いて守り行うとき、聖霊が喜ばれるので満 たされるのです。


また、信仰がある人は、ひょっとして病気が来たとしても、神様の前に信じてゆだねるので安ら ぎがあるのです。この地上で子どもやくつろぎの場所がなくても、天国への希望があれば、安息 を得ることができます。


ところが、ヨブは死ねばすべてが終わると思っていたので、天国への希望もなかったし、ただ苦しみの中で嘆いてばかりいるのです。


「まことの休み」はたましいに幸いを得ている時に臨みます。たましいに幸いを得ていれば、物 質、家族、健康の祝福が伴うので、どんなことにも心配がないだけでなく、安らかな信仰生活が できます。


また、まず第一に神の国と義のために祈るとき(マタイ6:33)、「まことの安らぎ」が臨みます。 私たちがまず第一に神の国と義を求めれば、神様が衣食住はもちろん、私たちの必要を満たして くださって、心の願いもすみやかにかなえてくださるからです。


愛する聖徒の皆さん、 神様を恐れるから仕えるのは、まことの信仰と全き愛がないからです。第一ヨハネ4章18節に 「愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っている からです。恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです。」とあります。


神様がアブラハムに息子イサクを全焼のいけにえとしてささげなさいと言われたとき、アブラハ ムは少しもためらわずに聞き従います。神様に理由を伺うこともなかったのです。息子を愛して いないからでもなく、神様を恐れて聞けなかったのでもありません。善そのものである神様を見 つけて体験したので、神様を完全に信じたのです。それで、少しも誤解しないで、喜んで聞き従ったのです。


神様はヨブともこのような関係になりたいと思われました。いつかは自分に不幸が降りかかる かもと心配して神様を恐れるのではなく、アブラハムのようにどんな状況でも神様を完全に信頼 する、そういう関係でまことの愛と平安と祝福を受けることを望んでおられたのです。


したがって、ヨブ記講解を聞いて神様の愛を深く悟り、神様との間に完全な信頼関係、恐れの ないまことの愛の関係を築きますよう、主の御名によって祈ります。

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