ヨブ記講解(47) - 悪の極み(下)
説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記18:16~21
これまでヨブに向かって、あらゆる呪いの言葉を言っていたビルダデは、今は木を例えて言い切っています。ヨブ記18:16-17です。
「下ではその根が枯れ、上ではその枝がしなびる。彼についての記憶は地から消え失せ、彼の名はちまたから消える」(ヨブ18:16-17)
木は根が枯れると死ぬしかないでしょう。そして枝がしなびるならどうなるでしょうか?これは完全な死、すべてが消え失すことを意味します。そして彼についての記憶は地から消え失せとあります。その人には何も残らない、人々に覚えられるようなこともなくなるということです。それで人々の間でヨブの名前も呼ばれることもなくなり、ヨブについて言及することもなくなって、すべてが徹底的に滅びてしまうという意味です。ヨブはこれだけ呪われるほどの悪い人ではないのに、友達はあまりにも厳しく呪っています。
みなさん、たとえ相手が悪い人でもその人を呪うことがあってはいけません。何としてでもその人の良いところを見つけて褒めてあげて、その人も善を感じて善の中に入るように道を開いてあげなければなりません。それならヨブを慰めに来た友達が、なぜこのように悪い言葉でヨブを腹立たせて、ヨブの怒りを爆発するようにしたのでしょうか?もちろん友達の悪によるものですが、ヨブを変えさせようとする、神様のご計画の中にありました。
ヨブ記講解で伝えているように、私たちが平安の時は自分の中にある悪を見つけることは難しいです。試練艱難にあってこそ、自分の中にどんな悪があるのか発見することができます。罪とか悪だけではなくて、自分の心の狭いところとか自分の弱いところも、試練艱難にあってこそ発見することができます。より深い愛の次元に成長するためにも必要な過程です。広い心になるためにも、多くの人を受け入れるためにも、試練艱難という過程を通して発展して成長する過程が必要です。
自分なりに祈っていて罪は犯していないようでも、ちょっとモヤモヤがあって喜びが心の中から湧いてこない場合もありますが、それも神様が練ってくださることがあります。自分を誤解して自分について良くない話を他の人にするとか、そういう人が周りにいるとしましょう。自分は熱い心で積極的に何かをしたのに、それが気に入らなくて反対する人がいるとしましょう。その時自分の心はどうなのか?それが罪とか悪ではなくても、自分の心が狭いというのが発見できることがあるでしょう。なんで私のことを理解してくれないのかとか、なんで私はやってもいないことをやったと人に言うのかと落ち込んでしまったり、心が覚めたりすることがあるならば、それも自分の心が狭いからだと悟るようになりますね。祈りながら聖霊様にその理由を教えてくださいと祈れば、自分の姿を発見するようになるでしょう。私の器が狭いんだ。自分自身を愛する姿があるんだ。昔の信仰の人々のような心ではないんだと、悟るようになるでしょう。
今の私なら迫害されたら殉教できるのかと、自分を発見することがあるでしょう。自分の愛の足りなさを悟って、悔い改めるようになります。神様私は周りの人にあれこれ言われたことで感謝できませんでした。喜べませんでした。このような狭い心の自分を発見しました。悔い改めます。さらに広い心を持つようにしてください。主に似た心に変えられるようにしてくださいと。このように試練艱難を通して自分自身を発見して変えられることができるなら祝福でしょう。
しかしヨブや友達のように試練に会った時、神様の前に呟いたり互いに言い争ったり、悪を行うことはとても愚かな姿です。そうではなくて私たちは、自分を発見して成長するようにしてくださる祝福の糧だと思い、試練の時祈りながら感謝しますように。それで聖霊が悟らせてくださる時、素直にアーメンと受け入れて従って変えられますように。ヨブは試練に会う前は、まるで大きい容器にゴミが沈んでいる水のようで、上のところだけ見ると綺麗に見えました。しかしヨブの友達がヨブの怒りを刺激して激しく揺さぶったら、ヨブの深いところにあったゴミが、悪の姿が一気に現れたのです。この容器の水が本当に綺麗になるためには、沈んでいたゴミは全部取り除かなければなりません。それで完全に綺麗な水になると、その後はどんな人や環境がいくら揺すっても小さいちりも出てこないでしょう。
ですから神様はこのように綺麗な心になるように、ヨブからちりを取り除く作業をしておられるのです。皆さんも試練という過程を通して自分の中にあるゴミが発見されるならば、気を落とすのではなくて感謝しながら、その時その時捨てて速やかに変えられますように。今のこの試練の時が苦しいでしょうか?辛いでしょうか?そのような方々は自分の心を変えさせる作業をしていないからです。自分を発見しようとしないで、周りの人のせいにしたり環境のせいにしたりしているからです。しかし自分を顧みて自分を発見して、信仰が成長するチャンスだと思って変えられていくならば、この時間が辛いのではなくて嬉しくて幸せでしょう。神様の人間耕作の摂理をさらに深く悟ることができるでしょう。そして人の子等の悪、裏切る悪を痛感して自分の中からそれを捨てていくでしょう。そして周りの人を変化に導くこともできるようになるでしょう。皆さんはどのようにこの時間を過ごしているのでしょうか?落ち込んで辛いと思っていますか?きついと思っていますか?でなければ感謝と喜びを持って幸せでいますか?
続くヨブ記8:18でビルダデはこのように言っています。
「彼は光からやみに追いやられ、世から追い出される」(ヨブ8:18)
光からやみに追いやられるとは死を言っています。希望を全部失うことを意味します。そして世から追い出されるとは、ヨブがこの世からいなくなることを言っています。ただ死ぬようになると表現してもいいでしょうが、世から追い出されると表現しているから、とても悪い呪いでしょう。この中に込められた意味は、ヨブが悪いから罠にかかった。それで世から追い出されると言っているのです。つまり世と周りの人がヨブを受け入れないで見捨ててしまったという意味です。
例えばある人が絶望的な時、世にも見捨てられ、全ての人が自分を見捨てたということがあります。これは最後にもう生きる希望がなくなった時に言う言葉でしょう。ビルダデはこのような呪いの言葉を、ためらわずにヨブに向かって言っているのです。ヨブ自身がそのように嘆いてもいけないのに、ビルダデはヨブがそんなものだと呪っているのです。皆さん、今私たちはヨブの友達ビルダデの姿から、悪の極みを見ています。
ところで神様はこれを通して自分自身の心はどうなのか、自分の言葉はどうなのか、顧みるように望んでおられます。例えば神様を信じると言いながら、真理と反対の言葉をためらわずに口にして、相手をつまずかせることがあります。これは相手を直接呪ったのではありませんがとても悪いことであり、相手を苦しめて霊的に殺す言葉になることがあります。
例えば人の過ちを伝えて噂話をして誤解させる場合があります。ある人の過ちを知ったことを、第三者に伝えるのです。それで一緒に陰口を叩くのです。それで相手がその人を裁いて罪に定めるようにするのです。だから大きい悪でしょう。自分ひとりでその人を裁いて罪に定めることも悪いのに、人に伝えて一緒に悪を行うようになるのです。だから悪に悪を加える姿です。そして自分の言葉によって仲違いをさせたり、互いに憎み合うようにする人もいます。他の人について噂話をしてそれで互いに誤解するようになって、仲違いをしてしまうことがあります。もちろん自分が実際聞いたこともあるかもしれませんが、伝えないほうがいい時もあるでしょう。
Aという人がある人について、あの人試練にあっていて助けたいなと言いました。それを当事者に伝えるのです。Aさんがこんなふうに言いましたと自分の考えの中で伝えるのです。すると相手が誤解するようになるし、Aという人について悪い印象を持つようになることもあります。Aという人が良い意図で言ったのに、自分の考えで悪く伝える場合もあるし、偽りを加えて伝える場合もあります。それで互いに憎み合うこともあります。これはとても大きい悪でしょう。でもそれを意識しないで平気で偽りを言ったり、それで後で忘れてしまうから罪の壁が壊されないのです。そして自分の考え、思い込みによって真理を間違って引用することもあるし、高ぶって偽りを聖霊の働きのふりをして言う場合もあります。このような言葉によって誰かが傷ついてつまずくなら、これはその人を光から闇に追いやることになります。自分の言葉のせいで全世界より尊い人を、信仰から離れさせてしまうこともあるのです。
マタイ18:6-7に、「しかし、わたしを信じるこの小さい者たちのひとりにでもつまずきを与えるようなものは、大きい石臼を首にかけられて、湖の深みでおぼれ死んだほうがましです。つまずきを与えるこの世は災いだ。」とあります。これは人につまずきを与える人に災いが臨むことを言っているのです。ですから私たちは悪い感情を持って口の言葉を制御できなくて、試練艱難を招くことがあってはいけません。人の心が悪ければその言葉も悪いでしょう。ビルダデの言葉を聞いてみればわかります。
ヨブ記18:19です。
「彼には自分の民の中に親類縁者がなくなり、その住みかには一人の生存者もなくなる。」
(ヨブ18:19)
前回ビルダデはヨブに「死の初子が彼のからだを食らおうとしている。」と言っていました。それはヨブの体だけではなく、他の子どもと家族、環境、業績とすべての祝福がなくなるということを表現しました。ビルダデはもう一度具体的にヨブを呪っています。彼には自分の民の中に親類縁者がなくなると言っています。ヨブの家のものが根絶やしされるという呪いです。皆さん、ヨブ記の内容が昔の話、旧約の時代にあったヨブのことだと思わないで、皆さんがその立場になってみてください。自分はヨブのような試練にあっていると思ってみてください。病気で苦しんでいるのに、友達が来て慰めるどころか、このように厳しく呪っているなら、どれほど心が痛むでしょうか。
元老牧師先生はこの場面で、人の心の悪を感じてとても悲しんだとおっしゃられました。そしてヨブの心を考えると、涙が出そうだと言われました。しかし多くの人が自分の小さい試練にとても苦しみながら、人の大きい試練にはあまり共感できません。そして相手が自分に一言言ったからと言ってそれによって辛いのに、自分の口の言葉によって相手が傷つくことは考えられません。もちろん皆さんの中には、ビルダデのように悪い言葉を言う人はいないでしょうが、何気なく言った自分の一言によって、相手にそれが傷になることもあることを、いつも覚えていますように。それでいつも善の言葉、励ます言葉、希望を与える言葉、温かい言葉を口にしましょう。
皆さん、職場でビルダデのように悪い言葉を言って相手を傷つける人が、そのような上司とかがいるなら、皆さんはどう対応するでしょうか。その人によって自分が傷ついたとか、その人の嫌味とかによって、自分を辛いと思ったことはありませんか?その時もしかして根に持っていて、後で言い返したり、人に悪口を言ったりする姿はありませんか?そうしてはいけないでしょう。私たちは世の人と違ってその人のために祈り、その人の心を理解してその立場に立ってみることが必要でしょう。しかし実際はそうできないこともあるでしょう。私は自分なりに善を持って対しているのに、なんであの人はずっとそのように悪い言葉を言って、嫌味を言って私を苦しめるのかと、その人を恨むとか、そういうことはありませんか?私たちはそうではなくて、神様のみ言葉に照らして善を行って、その人のために祈っていけば聖霊が働いてくださるでしょう。
続く本文ヨブ記18:20-21です。
「西に住む者は彼の日について驚き、東に住む者は恐怖に取りつかれる。不正をする者の住みかはまことに、このようであり、これが神を知らない者の住まいである。」(ヨブ18:20-21)
これはヨブの今の現状が酷い災いのサンプルになるし、その後を追う人々が恐怖に取りつかれるということを説明しています。ヨブの惨めな結末を警告しているのです。これはヨブを苦しめて、骨をむしばむような苦しみを与える呪いです。ビルダデはヨブがこのようひどい目に遭っていることは、ヨブが不正をする者で、神を知らない者だからと言っています。もちろんヨブは神様について正しく知らなかったので、つまり霊的な無知によって今の過程を経験しています。
もしヨブが神様を正しく知っていたなら、友達が真理を持ってアドバイスするとき、耳を傾けて悔い改めて立ち返ったでしょう。そして神様を恨むことはなかったでしょう。しかし旧約時代に神様を見つける体験もなく、ヨブのように潔白で正しく生きる人はあまりいなかったでしょう。だから神様もヨブの心を認めて褒めておられました。しかしビルダデはヨブのこのような心を知らないまま、不正をする者だとさばいていました。そしてヨブが不正だからその結果として惨めな結末になると決めつけていました。ではビルダデはヨブをそのように評価するほど、ヨブより正しいでしょうか?神様についてよく知っている人でしょうか?そうではありません。ビルダデは神様についてよく知らないし、正しくないのに神様をよく知っているように言い切っているから、おかしい姿でしょう。
十戒の第三の戒めで神様は「あなたはあなたの神の御名をみだりにとなえてはならない」と言われました。そして伝道者の書5:2に、「神の前では、軽々しく、心あせってことばを出すな。神は天におられ、あなたは地にいるからだ。だからことばを少なくせよ。」とあります。神様の前で祈るとき、言葉を少なくせよという意味でしょうか?そうではありません。皆さんの日常生活で、自分の口の言葉に気をつけなさいという意味です。私たちの言葉と行い一つ一つを、聖なる神様が炎のような御目で見ておられるということをいつも心にとめて、神様の御名を崇めて、真理の唇になるように努めなければなりません。
ところで皆さんがノンクリスチャンの人と話をするとき、こういう人がいると思います。私も子供のとき教会に通っていたから神様を知っている。私も聖書を読んだから神様について知っているという人もいるでしょう。しかし神様について本当に知っているなら、天国と地獄があることも知っているから、信仰生活をするはずです。しかし神様を知っていると言いながら教会に来ないということは、自分が天国ではなく地獄を選んだことだから愚かなことでしょう。神様を知らないから信仰生活をしていないのです。
教会に通っていない人のことだけではなく、教会に出席していて礼拝も捧げている、奉仕をしている人の中でも、神様を知っている、信じると言いながら、真理通りに行わなければこれは真実な心ではないのです。神様を知るということは、神様の御子であるイエス・キリストを知っているということであり、それはイエス・キリストをただ頭で知っていることだけではなく、心で信じて救い主として受け入れて、その御言葉通りに行うことです。しかし多くの聖徒は主を信じる、神様の御言葉を知っていると言いながら、その御心通りには実行しないことがあります。これは本当に信じることでもないし、ただ知識として知っていることだけです。だから神様の御心ではなくて自分の思い通り、自分の利益に合わせて真理と反対のものを追い求めて、悪を行う場合があるのです。
働き人で、信仰歴が長い神様の御心を知っていると言いながら、人をさばいて罪に定めたり、憎んだり妬んだりしているならば、それは悪を行うことで神様を知っているのではないのです。本当に神様を信じてその御心を知っている人は悪を行えません。ですから私たちはヨブの友達のように、自分も神様の御心をよく知っているように錯覚しているのではないか顧みますように。エペソ4:13に、「ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに対し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。」とあるように、完全に御心をおこなって神様が望んでおられる子どもの心に変えなければなりません。
結論です。
皆さん、アフリカのある部族では使い道のない木をノコギリで切る代わりに、その木に向かって全ての住民が死んでしまえと叫ぶそうです。そのように呪いの言葉を続けると、実際木がだんだん枯れて死ぬそうです。魂のない木もその言葉に敏感に反応しますが、人はどうでしょう。言葉の力は驚くべきものです。自分の一言によって相手が傷つくこともあるし、勇気を出すこともあります。言葉は人生を左右します。
箴言13:2です。「人はその口の実によって良いものを食べ、裏切る者は暴虐を食べる。」とあります。人はどんな言葉を口にするかによって、祝福されたり呪われたりもします。ビルダデのように厳しい呪いの言葉は言わなくても、心にある悪のため無意識に争いを引き起こしたり、傷つけたり、押しつけるような言葉を口にしているのではないか、顧みますように。そして同じ言葉でも言うべき時があり、言ってはならない時があって、それが必要なのか、じっくり考えて口にする知恵が必要です。どんな言葉を口にするかによって相手が喜んで、慰められたり愛の絆を強くする場合もありますが、反対に傷つけたり苦しみを与えることもあります。ですから、いつも自分がどんな言葉を口にするかはとても大切です。
心が神様によって聖くなる人は口の言葉も聖くなり、善の言葉に変えられます。ルカ6:45で「良い人は、その心の良い倉から良いものを出し、悪い人は、悪い倉から悪いものを出します。なぜなら人の口は、心に満ちているものを話すからです。」とある通りです。善と愛の言葉を口にするためには心から憎しみ、憤り、怒りなどを捨てて、善と柔和、愛で満たしていかなければなりません。ですから毎日御言葉と祈りによって心を聖めていき、皆さんの口からは傷つける言葉とか、攻撃的な言葉ではなく、徳と愛をもって命を与える言葉だけがありますよう主の御名によって祈ります。
聞いたメッセージを思いながら、一緒に祈りましょう。父なる神様、今日はヨブの友達ビルダデがヨブに向かって呪う姿を見ました。その言葉はあまりにも悪くて厳しい呪いの言葉でした。悪の極みを感じました。しかしそれはただビルダデの姿ではなくて、自分の心も自分の姿もそうではなかったのか、顧みて悟りますように。周りの人に対して、兄弟、姉妹に、そして他人に対しても、自分がどんな心でどんな言葉を口にしていたのか、顧みて発見して変えられるようにしてください。感謝してイエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
