ヨブ記講解(47) - 悪の極み(上)
説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記18:14~15
皆さん、前回はシュアハ人ビルダデが、ヨブに向かって厳しく呪う言葉を一つ一つ調べてみて、私たちの言葉がどれほど重要なのか伝えました。ヨブはまだ御霊の人ではなかったので、友達から責められ呪われた時、とても心が苦しくなりました。だからヨブも友達に向かって悪い言葉で言い返して、互いに自分が正しいと言い争っていたので、感情的になって、だんだん悪に悪を加えていきました。もしヨブと友達が御霊の人だったなら、どのように対応したでしょうか?
相手が罵っても殴っても感謝しながらその相手のために祈っていたでしょう。あの人が私をこんなに苦しめるから、私は言ってもいないことを言ったと言いながら、ぬれ衣を着せるから、私は言い返しをしなくても、あまりにもそのため傷ついてしまいました。それで祈りたくなくなって悲しくなりました、というならそれは悪いことではないと思いますか?いいえ、それも自分を愛する姿で、相手を憎んでいる心があるから、そんな反応が出てくるのです。
悪い人が悪を行うとき、それによって自分が被害を受けるとき、もちろんそのため悲しいでしょう。それで心が痛む時もありますが、しかし皆さんの心の底にある幸せと喜びはなくならないのです。傷つくことがあっても、心から湧いてくる喜びはなくならないのです。しかし今ヨブと友達が、互いに悪で報いているような姿ではなかったとしても、もしかして熱心が冷めたとか、祈りたくなくなったとか、落ち込んでいたとか、そういう姿があるならそれも悪から出てくる姿であるのです。しかし御霊の人ならば喜んで感謝するし、相手のために平和を作るために善を行うでしょう。
例えば使徒パウロの場合、福音を伝えていて受けた苦しみはとても大きかったです。使徒パウロは何の過ちもないのに、ユダヤ人たちは迫害しました。パウロがイエス・キリストが神の御子だと伝えるから、それを受け入れられなくてパウロを迫害しました。使徒パウロはイエス様が救い主であることを伝え、神の力を行っていました。それでユダヤ人は彼を憎んでいました。パウロを殺すまでは飲み食いしないと誓った人が40人もいました。どれほど悪い姿でしょうか。
使徒パウロは彼らに何か害を与えたのでもないのに、かえって多くの人の病気を癒して、神様の福音を伝えて善を行っていたのに、ユダヤ人たちはそれが嫌でパウロを憎んでいました。そして自分にはない神の力が現れているから、ねたんでいました。だからそのようにパウロを殺そうとしました。40人は飲み食いもしないと誓ったのです。聖書に書いてあるこのような出来事を読んで、初代教会の聖徒が受けた迫害のことを思ってみれば、今私たちが受けている試練はあまり大きいものではないのがわかります。
私たちも使命を行っていて、主の福音を伝えているのに、なんでこんなに迫害されるのかと思うかもしれませんが、使徒パウロが受けた苦しみや迫害と比べてみれば、取るに足りないものでありませんか。敵である悪魔サタンはいつでも神の人を妨げて殺そうとしてきました。どの時代にもあることです。パウロが福音を伝えるところには、彼を迫害して殺そうとする人がたくさんいました。パウロが行くところについて行って妨げていました。ある時は石打ちにされて彼が死んだと思われた時もあったし、鞭で数え切れないほど打たれたし、牢に入れられることもありました。それでも使徒パウロは彼らを呪ったりしませんでした。
ローマ9:3に「もしできることなら、私の同胞、肉による同国人のために、この私がキリストから引き離されて、のろわれた者となることさえ願いたいのです。」とあります。「私の同胞、肉による同国人のために」と言っています。自分を迫害しているユダヤ人のことですね。その人々の救いのためなら自分が「キリストから引き離されて、のろわれた者となることさえ願いたい」、つまり自分が地獄に行ってもいいと言っているのです。このように深い善と愛の段階に入ると、敵のためにも命まで渡すことができます。神様は私たちがこのような善と愛の次元に至るように、望んでおられます。
ですから今日もメッセージを聞く時、ヨブの友達はあまりにも悪いとだけ思うのではなくて、自分の中にはそんな悪の属性があるのではないか、顧みますように。それでエペソ5:13に「けれども、明るみに引き出されるものは、みな、光によって明らかにされます。」とあるように、皆さんも心の中にある悪を発見するならば、光によって善によって変えられますように。前週に続いてヨブにビルダデは呪っていますが、だんだんその程度がひどくなっています。今日はもっとひどい呪いの言葉を口にしています。
ヨブ記18:14です。
「彼はその拠り頼む天幕から引き抜かれ 、恐怖の王のもとへ追いやられる。」(ヨブ18:14)
「拠り頼む天幕から引き抜かれる」とは、すべての家が壊れて身のよりどころがなくなるという意味です。人が潰れると、住んでいた家まで奪われることもあります。このような惨めな身の上になることを言っています。そして「恐怖の王のもとへ追いやられる」とありますが、これはどういう意味でしょうか?多くの人が恐ろしい存在を連想すれば、悪霊のような闇の勢力を思い浮かべます。このような闇の勢力を支配する王なら、ルシファーのことでしょう。しかしここで恐怖の王とは、悪霊やルシファーのような何か闇の勢力を言っているのではありません。私たちがある分野の頭を言うとき、単語の終わりに王をつけますね。何々王と言って発明王とか、貯蓄王とか表現します。ここで恐怖の王というのは、恐怖の極みに達した状態を言っています。したがって恐怖の王のもとへ追いやられるとは、激しい恐怖に囚われて、だんだん心を奪われていく状態を言っています。
ビルダデは火事が起こった家に油を注ぐように、あざける言葉でヨブの心をもっと苦しめています。
ヨブはヨブ記17章:13-14節でこう言っていました。「もし私が、よみを私の住かとして望み、やみに私の寝床をのべ、その穴に向かって、『おまえは私の父だ』と言い、うじに向かって、『私の母、私の姉妹』と言うのなら、」と言いました。ヨブは惨めな病気で家はバラバラになった状態で、生きる希望を失ってだんだん恐怖に囚われていました。それでヨブは続けて自分の妥当性を主張して、神様の前に立ち向かって友達と言い争ってきました。そしてヨブはこのように恐怖の状態に陥るのをビルダデは知っていたから、恐怖の王の下へ追いやられると表現して、ヨブをあざけっているのです。
ここで私たちが悟るべき重要なことが二つあります。これは恐怖によって起こることについてのことです。第一は、恐れることによってヨブのように一生懸命自分を言い訳することです。例えば、自分が言ったことに責任を取れないとか、任されたことを果たせないとき、人々は恐れます。もしかして叱られるのではないか、他の人に無視されるのではないか、自分の無能さが明るみに出されるのではないかと不安になります。それで心配して恐れて一生懸命言い訳をするのです。
例えば、小さい子供がお母さんがそうしてはいけないと言われたことをしたならば、叱られるのではないか恐れますね。すると、その子供はどんな反応をするでしょうか。お母さんに指摘されたとき、どう言い訳をしようかと思います。でも、お母さんが見ていると、その子供が考えていることが見えますね。皆さんも自分がミスをしたり、あやまちをしたことが人に知られることが不安で、言い訳しようとするのではありませんか。
信仰にあっても、真理の中に住んでいないとき、または知っていながらも聞き従わなかったり、怠けて御言葉通りに行わなかったとき、恐れを持って、自分を合理化するために言い訳をします。自分の過ちを認めればいいのに、あの人のせいだ、環境のせいだと言います。しかし、相手が自分の話を聞いてくれなければ、不満を抱いて言い争うようになることもあります。自分が言い訳をしたとき、相手がそれを聞いてくれないと、ヨブとヨブの友達のように言い争うようになるのです。
皆さんにはこういう姿はありませんか。自分にあやまちがあるなら、それを認めればいいのに。それを認めたくないから、自分を合理化するために言い訳をし続けるのです。すると相手はそれを認めないで指摘するでしょう。だから互いに言い争うようになって、感情的になって、悪を行うようになるのです。でも自分自身は、自分が恐れのため言い訳をしたとは悟れないのです。でも自分の心の中にそういう恐怖があるから、人に無視されるのではないか、自分の無能なところが明るみに出されるのではないかと思って、自分を弁明して、自分を守るために言い訳をするようになります。そして人のせいにしたり、何かの理由付けをして環境のせいにしたりするのです。それが認められなければ争うこともあります。これが恐れによって起こることなのです。
第二は自分を縛りつけることがあります。何かについて恐れると、その原因を悟って早く立ち返らなければなりません。聞き従わなかった人が聞き従って、真理と反対のものをしていた人が真理を行うように、怠けていた人が誠実な人に立ち返ればいいのに、そうでなければ、だんだん恐れに支配されるようになります。皆さんが罪を犯していけば、恐怖に囚われるようになります。罪の意識があって、恐れを感じるようになります。それで不安になって、心配になっていくのです。だんだん自分を押さえつけるようになります。でもその罪の意識がなくなると、罪を罪とも思わないで平気で罪を犯すようになります。それは本当に恐ろしいことです。だから自分に罪の意識があるとき、早く立ち返らなければならないのです。
罪を犯していくとき、恐れを感じるときがありますね。もしかして運転しているとき事故に遭うのではないか不安になったり、道を歩いているとき、上から何かが落ちてきて当たるのではないかと恐れるようになります。そのとき早く立ち返って悔い改めなければなりません。しかしそうしないで、肉のものを追い求めて世を愛していって立ち返らなければ、だんだん御霊のうめきも聞こえなくなってしまい、良心が鈍くなってしまうのです。それで死のうちにだんだん落ちていくのです。皆さんにはそういうことがあってはいけないでしょう。
ですから恐れを感じるようになるときは、御霊の働きだと悟って、速やかに罪と悪から立ち返り悔い改めされますように。皆さんが罪と悪にとどまっていると、いろんな形によって恐怖を覚えるようになります。食事をした後消化しなければ、聖霊に満たされていたときは、ちょっと食べ過ぎたかなと思うだけなのですが、しかし今自分が闇の中にとどまっていて恐れているならばどう思うでしょうか?ちょっと胃が痛くなったり消化しなかったりすると、もしかして大きい病気にかかっているのではないかと不安になるのです。それで数日後それが治ったならば、また自分勝手に罪の中を生きるようになります。
何か体に異常があるときは恐れて、神様の前に悔い改めればいいでしょう。それで痛かったところが癒されれば、神様に感謝して霊的に成長すればいいのですが、反対にどこか痛くてちょっと不安になっても、それが治ったらまたそれを忘れてしまい、相変わらず肉にとどまっている愚かな人になってはいけないでしょう。そして現代を生きている人々には、このような恐怖というものによって、いろんな肉の思いによって鬱病にかかったりすることがあります。パニック障害によって引きこもりになったりすることもあるし、人に会うのが恐ろしくなる対人恐怖症になったりすることもあり、いろいろな問題として現れるのです。しかし神様を信じて主を受け入れた人ならば、そのような恐怖に支配される理由がないのです。自分が御言葉通りに生きていないし、光の中を歩んでいないから、闇がだんだん入ってくるようになって、それによって恐れが生じるのです。しかし神様を愛して聖霊に満たされているならば、いつも幸せで喜びが溢れているでしょう。
そのような生き方をしなければなりませんが、恐れがあり不安があって心配があるならば、何か神様の前で相応しくない姿があるということでしょう。世の人々はその恐怖のためどれほど苦しんでいるでしょうか。そしてある場合は、自分の過ちによるものではなくて、成長する過程で親に暴力を振るわれたりする人もいるし、でなければ職場で上司のことで抑えつけられて、自分がその恐れを覚えることもあるかもしれませんが、真理のみ言葉には答えがありますね。成長過程で親が暴力をふるったならば、そのため自分は今こうだと言い訳をするのではなくて、そのような親を理解して愛を持って受け入れてその親のために祈り、それで自分が許して和解できるようになるならばどれほどいいでしょうか。
そしてお父さんがなぜそうするしかなかったのか、仕事がどんなに大変だったのかとか、いろんな悩みがあったからお酒を飲むしかなかったんだと理解できるなら、受け入れることができるでしょう。そして自分には今、霊の父である神様がおられるから、神様の愛に包まれて、その恐れとかそのような心の傷なども神様の愛によって全部癒されることができるし、解決できるのです。それで愛を持って親のために祈るなら、神様がその相手の心に働いてくださって、関係は良くなるでしょう。ある人は親のせいで自分がこんな性格になってしまって、被害妄想とかがあるんだと思うのですが、そうではなくて、神様の愛と主の愛で心が満たされれば、そういうものは自然になくなるのです。私たちは真理にあってさらに成長しますように。
第1ヨハネ3:21-22です。「愛する者たち。もし自分の心に責められなければ、大胆に神の御前に出ることができ、また求めるものは何でも神からいただくことができます。なぜなら、私たちが神の命令を守り、神に喜ばれることを行っているからです。」とあります。神様の前に真理を行っているなら、恐れはなくなって、大胆に神様の前に出ることができます。どのようにすれば大胆に出ていくことができるのか、答えがこの御言葉の中にあります。「自分の心に責められなければ」とあります。そして「神の命令を守り、神に喜ばれることを行っているからです。」とあります。このような人ならば恐れないし、神様の前に求めるものは何でもいただけるでしょう。私たちも光の中を歩んで真理を行っているなら、大胆に神様に求めるし答えを受けるでしょう。このような人はもしかして過ちをしたとしても、神様の前に素直に認めて指摘されるのを喜んで、悟った後は立ち返るでしょう。
だから言い訳をしないのです。私にこのような肉の痕跡があって過ちを犯しました。申し訳ありません。これからは御言葉通りに生きますと言って、感謝して喜ぶことができます。このため救われないのではないかと不安になったりしないのです。しかし多くの人が変えられたいと言っていますが、何か指摘されたり過ちが明るみに出されたりすると、言い訳をするのに汲々とします。罪を犯しておいて心から悔改めていないから言い訳を続けて、悔改めると言っていても、責められるのが嫌で自分の過ちを認めるのが嫌だから、続けて闇に留まるのです。すると喜びもなくなって聖霊の満たしもなくなるから恐れるのです。
だから恐れを締め出すためには、御言葉通りに生きていない自分を認めて立ち返らなければなりません。完全に変えられるなら、それ以上、敵である悪魔が支配できなくなるから、恐れはなくなり平安と喜びが望みます。しかし自分は神様を愛して信じていると言いながらも、心配があり不安があり恐れがあったのではないのか顧みますように。速やかに闇の業を脱ぎ捨てて光の中を歩みますように。
「彼の天幕には、彼のものではない者が住み、硫黄が彼の住まいの上にまき散らされる」
(ヨブ18:15)
「彼の天幕には彼のものではない者が住み」、これはヨブの家が壊れてなくなった場所に、よその人が住み着くという意味です。硫黄はマッチとか火薬を作る原料で火をつける成分があります。したがって「硫黄が彼の住まいの上にまき散らされる」とは、ヨブのすべてが火で焼き尽くされるという意味です。例えば皆さん、石油を家の中にまき散らされたなら危ないでしょう。家全体が焼き尽くされる危険がありますね。そういうことです。他の人がヨブの家を奪い取るだけではなく、ヨブに残っているものも全部火で焼き尽くされるという意味です。つまりヨブのすべての基盤が滅びて跡形もなく、すべてがなくなるという呪いの言葉です。
このメッセージを聞いている皆さんの中で、ビルダデはひどい、悪い、どうしてあんな呪いを言うのかと考えるかもしれません。しかし自分の心に裁き、罪で定めること、妬み、憎しみ、高ぶりなど悪を捨てていない以上、自分も悪を言うことも行うこともあるのです。多くの人が悪を行っている姿を見るとどうでしょう。そして教会を妨害している人を見るとどうでしょう。その人を憐れんでその人のために祈らなければなりませんが、そうではなくて、その人が憎らしいのです。そしてその人は地獄に行くようなことをしているんだと言うのです。そしてその人が失敗するのを願うのです。
こっそり。
それならビルダデと同じようなことではありませんか。もちろん悪を行う人が悪いのですが、どうして自分がその人を裁いて、罪に定めて自分の悪を行うのでしょうか?そうする必要はないでしょう。ある人の悪をなぜ他の人に伝えるのでしょうか?それよりはその人の悪を知らないほうがいいでしょう。それならその人を憎むこともないし腹を立てることもないでしょう。ある人がひどい悪を行って自分を苦しめたとしましょう。それで自分はそれが悔しくて他の人のところに行って、その人の悪をあれこれ言うとするならば、相手だけではなく自分にもその様に大きい悪があるということです。
ビルダデのようにひどい呪いの言葉を言わなくても、自分の中にある妬み、憎しみ、高ぶりなど悪があると、自分も同じような人になる可能性があるのです。そしてとくに多くの人が自分の目の梁は見ることができず、相手のちりを見て指摘することがあります。これは大きい悪です。しかし人々はこれに気づかないことがよくあります。神様は人のちりを指摘する前に、自分には梁があるのではないか調べるようにと望んでおられます。自分にある悪は発見できないし、人の悪を指摘する人がいます。マタイ7:5ではそういう人を、「偽善者よ」とイエス様は言われました。この様に大きい悪を行っている人なのです。偽善者なのです。どれほど愚かな姿でしょうか。
マタイ7:5です。「偽善者よ。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます。」自分の中にある悪を全部捨てた後でこそ、他の人の悪も真理を持って正確に悟らせることができます。そうしないで相手を指摘して叱るなら、神様はあなたの目にはもっと大きい梁があるのよと、言ってくださるのです。偽善者だと言われるのです。それは大きい悪だと言われるのです。しかし自分がまず自分の悪を捨てて変えられた後、愛を持って相手を悟らせるならば、相手も変えられることができます。兄弟の目からちりを取り除くためには、まず自分の目から梁を取りのけなければならないのです。
第1テサロニケ5:22に「悪はどんな悪でも避けなさい」とあるように、私たちは大小を問わず、どんな悪でも完全に捨てなければなりません。ビルダデは今ひどい呪いの言葉を言って、大きい悪を行っていると思いますか?そして自分にある悪は小さく見えますか?いいえ、神様の前では同じ悪です。相手の過ちを他の人に伝えて噂話をすることも、陰口を叩くことも。ビルダデと同じような悪の根から出てくるものなのです。ですからそれを発見して捨てなければなりません。
