ヨブ記講解(45)-自分自身を引き裂く者にならないように(下)
説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記18:5~7
ビルダデはヨブにこう言います。ヨブ記18:5-6です。
「悪者どもの光は消え、その火の炎も輝かない。彼の天幕のうちでは、光は暗くなり、彼を照らすともしびも消える。」(ヨブ18:5-6)
ともしびやロウソクの光が消えると輝かなくなります。ところでここで悪者の光は消えるということは、ヨブのように悪い人の希望がなくなるということを言っています。そして、ともしびも消えるということは、ヨブが積んでおいたすべてのことが、友達の目には悪いことだったから輝かないし、ことごとく消えてしまうと呪っているのです。
ビルダデがこのように厳しくヨブを呪ってあざけっていることは、普段からヨブを妬む心があったからです。過去のヨブの生き方を見てみると、ヨブは自分で誇るくらい正しい行いをして、徳を高めようとしていました。ヨブ記4:3-4です。エリファズはヨブにこう言いました。「見よ。あなたは多くの人を訓戒し、弱った手を力づけた。あなたのことばはつまずく者を起こし、くずおれるひざをしっかり立たせた。」ということを見ると、ヨブが徳を高めていたことが分かります。
またヨブ記29:15-17には、ヨブは自分のことを思い出しています。「私は目の見えない者の目となり、足のなえた者の足となった。私は貧しい者の父であり、見知らぬ者の訴訟を調べてやった。私はまた不正をする者のあごを砕き、その歯の間から獲物を引き抜いた。」と言いました。そのようにヨブは貧しい人、疎外された人に施しをするなど自分なりに善を積んで正しく生きたから、人に尊敬されていました。しかしヨブの友達はそのようなヨブを見ながら、ヨブを羨ましがっていて、妬んでいたことが分かります。
本文でビルダデがヨブをあざけって悪者だと表現していることから分かるでしょう。肉の人々は自分の心に合わなくて、気にいらないことがあれば、このように悪を行います。よくやったこともけなして、小さい過ちも大きい過ちに膨らませて、ないことも偽って悪い人にしてしまいます。ねたみ、そねみ、憎しみがあるからです。しかし御霊の人はマタイ5:44にあるように自分の敵を愛し迫害する者のために祈ります。悪者の光が消えるのを望むのではなくて、その人が変えられて救われるように望むのです。
本文5節でビルダデは、「悪者どもの光は消え、その火の炎も輝かない」と言い切っています。そして6節で、「彼の天幕のうちでは、光は暗くなり、彼を照らすともしびも消える。」と言っています。これは5節のことが徐々に進んでいくことを表現します。悪者の光はだんだん暗くなって、ついに完全にともしびが消えるということです。友達をこのように呪っているからどれほど悪い心でしょうか。本当に神様を信じる真理の人なら、ヨブのように苦しんでいる人を見るとどうすべきでしょうか。何としてでも希望を与えて、正しい道に行くように助けなければなりません。これが神様の子供らしい姿でしょう。
ここで網とか落とし穴は獲物を取るために、仕掛けておいた罠のことです。ヨブは自ら罠にかかったと言っているのです。皆さん道を歩いていて、目の前に落とし穴とか網があれば避けえるでしょう。しかしビルダデはヨブにこう言っています。あなたが神様の前でつぶやいて神様に喜ばれないから、それは落とし穴の上を歩んで自分の足で網にかかることだと、ヨブは愚かだと言っているのです。これはあってはいます。ところでヨブだけではなく、今日多くの人がこのような愚かなことをしています。
クリスチャンならば神様を愛するものの、また恐れることも覚えなければなりません。ただ恐れるのではなくて、神様を敬い恐れかしこむことです。神様を恐れる人は、裁きとか懲らしめを恐れてでも、罪を犯すことができないでしょう。ところで多くの人がこれくらいはと思いながら、罪を犯したり今日までは自分勝手にして、明日から御言葉通りにすればいいと思います。今すぐこらしめとか裁きが臨まないから恐れないのです。しかし神様はそれぞれの行いに応じて、正確に裁かれるのです。自分の口の言葉によってサタンが働き、自分が人を裁いて罪に定めたことによって病気になり、死に至る罪によって試練患難がやってくるのです。今すぐ災いが臨んでいないから大丈夫なのではありません。悔いあらためなければ立ち返っていなければ、懲らしめと裁きが臨みます。
箴言27:1です。「あすのことを誇るな。一日のうちに何が起こるか、あなたは知らないからだ。」とあります。人は明日どんなことが起こるか分からないし、いつ自分が死ぬようになるのかも分かりません。ですからいつも目を覚ましていて、神様の御言葉に留まっていなければなりません。しかし御言葉から離れて世と妥協すれば、それは落とし穴の上を歩んで、自分の足で網にかかることと同じです。真理を知らない世の人に言っているのではありません。真理を知っていながらも行わない人、そして罪だと知っていながらこのぐらいはと思いながら、犯し続けるその姿を言っているのです。目の前に落とし穴があるのに仕掛け網があるのに、自分の足でかかってしまうのです。知っていながら真理を行わなければ、どれほど愚かな姿でしょうか?
ビルダデはヨブにこのような、霊的な意味を知って言ったのではありませんが、真理で照らしてみれば、言葉そのものは正しいことを言っています。これまでヨブは神様の前にずっと呟いて恨み、敵である悪魔サタンが喜ぶような言葉を口にしていたから、だんだん深い沼の中に落ちていくような結果でした。それは落とし穴の上を歩んで、自分の足で網にかかることと同じです。愛する皆さん、自分はそういう姿はないのか、そういう愚かなことはないのか、顧みますように。自分なりに祈っているつもりなのに、なぜ答えを受けられないのか、なぜ試練艱難に遭っているのか、顧みなければなりません。ビルダデは、深い霊的な意味を知らなくても、ヨブにこのように言っています。 私たちは真理を知っているのではありませんか。
しかし、知識だけ知っている人ならば、目の前の利益のために、欲のために罪を犯してしまうのです。そして、今自分が口にしている言葉によって、罠にかかってしまうこともあります。その言葉、口に出した言葉は、神様も聞いておられるし、敵である悪魔も聞いています。だから、それが訴えられることがあるのです。それが罠になってしまうのです。だから自分が口にした言葉の責任は、自分が取るようになるのです。そういう姿を発見したならば、悔い改め立ち返って、自分の口の言葉を直さなければなりません。しかし、口から賛美も出してまた悪も出したりする、そういう姿は、神様に受け入れられない姿です。ヨブがこの様に愚かだと、ビルダデは責めています。
しかし、本当に友達を愛する人なら、どうすべきでしょうか。何としてでも、友達が落とし穴に落ちないように、網にかからないように、助けてあげなければならないでしょう。しかし、友達はかえって、ヨブがもっと苦しむように、もっと愚かなことをするように刺激しているのです。それは、同じ罪を犯す人と同じです。皆さん、目の前に落とし穴があることを知っているならば、友達がそこに向かわないように、引き止めなければならないでしょう。しかし今、ヨブの友達は、ヨブがその道に向かうように、後ろから押しているようなことをしているのです。
同じように、悪を互いに行っているのです。前回も伝えましたが、皆さん、家庭の中ではどうでしょうか。夫婦の間で、親子の間ではどうでしょうか。兄弟との関係で、教会の聖徒の間ではどうでしょうか。相手が今怒っているとき、自分が善の言葉、愛の言葉によって慰めてあげればいいのですが、そうではなくて自分が良かろうと思って、真理の御言葉で悟したつもりでも、相手がもっと怒るのを見ながら、相手を責めている姿ではありませんか。それは自分の中に悪があるということであり、相手がそのためにもっと苦しんで悪を行うようにするなら、それは自分にも責任があってもっと大きい罪を犯すことになるのです。
相手が悪いことをしたことを責めるのではなくて、その人がやっていることは間違っているから何としてでも正さなくてはと思いながら、無理やり押し付けるのではなくて、真理に照らして、知恵を持って待ってあげるときも必要だし、黙って助けてあげることも必要でしょう。しかし、互いに言い争うことになって、互いに苦しめることがあるのです。このような姿は、愚かな姿です。だから、私たちは自分が正しいと思うのではなくて、自分に善があるのか、知恵があるのか、真理に照らさなければなりません。
ヨブの友達は、神様の御名を借りて御言葉を引用して、ヨブの自尊心を傷つけて、ヨブがもっと悪いことを言うようにしています。皆さん、神様の御言葉を間違って引用することは、十戒の第三の戒め、「あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。」という御言葉に背いていることです。ヨブは試練にあっていて、神様の前に相応しくない言葉を出して罠を作っていますが、友達はヨブのような状況でもないのに、自分たちの口の言葉によって罠を作っています。しかし私たちはたとえ艱難にあったとしても、自ら罠を作る人や罠にかかることがあってはいけません。
口で不平不満を言って感情的になってしまうことは、落とし穴の上を歩んで自分の足で網にかかることです。自分が作った罠に自分がかかることです。自分から問題を見つけようとしないで、他の人のせいにするなら問題は解決できないし、サタンが働くようになります。ですから悪を行うことが自ら罠にかかることなのだということを悟って、このような愚かな人になってはいけないのです。
そして聖徒の間では互いに力づけて慰めてあげなければならないのに、かえって相手が罪の網にかかるようにつまずきを与えてはいけません。兄弟が真理と反対のことをしているとき、アドバイスをするつもりで言ったのに、言い争うようになってしまったならば、それは相手が網にかかるようにすることです。
これを聞きながら、元老牧師先生がどれほど、善をもって悪に打ち勝っておられたのかがわかるでしょう。元老牧師先生は、相手が罪と悪を犯していることを知っていながらも、講壇からは真理の御言葉を伝えて悟らせてはくださいますが、その人が受け入れることが難しいときは、その人を指摘したりすることはなさいませんでした。なぜなら、そう指摘されるともっと悪を行うこともあるから、そうです。
ある人は、元老牧師先生が言ってくださればよいのにと、思うかもしれませんが、元老牧師先生が正確にその人の名前を挙げて言ってくだされば、その人が悟って変わるのではと、そのように思うかもしれませんが、先生はそれよりはるかに高い次元の善と愛を持って、その相手の事情も全部わかって、それぞれに合わせてくださるのです。あるときは待って黙って、そして慰めてくださり、あるときは厳しくまた悟することもあるのです。
皆さん、私たちが誰かのために忍耐をして待ってあげることは、簡単なことではありません。なぜなら、その人によって自分が被害を受けることもあるからです。自分が不当に誤解されることもあるからです。しかし、善がある人はそれを全部甘んじて受けながらも、その人のためなら黙っていることもあるのです。聖徒の皆さんの間で互いにそのような善を行っていくならば、すべての人と平和を作ることができるでしょう。
皆さん、自分はどうでしょうか。真理を行っていない人を見ていると理解できないとか、その人のためにこれは言ってあげなければと思ったりすることはありませんか。そして、罪と悪にとどまっている人をただ見ていたり、そうでなければ、その人をあざけったりするならば、その人も自分の足で網にかかる愚かな人です。ですから私たちは、真理と反対のことをして悪を行っている人でも、哀れんで愛を持って祈り、その人が何としてでも悔い改めて立ち返るように助けてあげる、神様の良い子供になりましょう。ところで、ビルダデはどうでしたか。自分はヨブよりもっと悪い心を持っていながら、ヨブに向かって厳しく指摘しています。
続くヨブ記18:9-10です。
「わなは彼のかかとを捕らえ、しかけ網は彼をつかまえる。地には彼のための輪縄が、その通り道には彼のためのわなが隠されている。」(ヨブ18:9-10)
ここで、「罠は彼のかかとを捕らえ、仕掛け網は彼をつかまえる。」とはどういう意味でしょうか。罠は鳥獣をおびき寄せたり通路に仕掛けて捕らえる装置です。動物が罠にかかると命を失うようになるように、人のかかとが罠で捕らえられるとは、その人がこの地上から滅びるという意味です。ビルダデはヨブに、動物が仕掛け網にかかって捕獲されるように、あなたも罠によって捕らえられ滅びる、命を失うようになるだろうと呪っているのです。
次にビルダデはヨブに、「地には彼のための輪縄が隠されている。」と言っています。人が輪縄を地に隠しておく理由が何でしょうか。何かを捕えるためでしょう。輪縄を作ってそれをこっそり仕掛けておけば、そこを通っている動物や人がその縄で捕えられるでしょう。だからそれは悪い意図で害を与えるために、そのように仕掛けることではありませんか。そのような悪い目的なのです。ビルダデは今、ヨブがそんなふうに捕えられて、困難に会うようになると言っています。また、その通り道には彼のための穴が隠されていると言います。これも同じ意味です。
人はこのように落とし穴を掘っておいて、その上に草とか土で覆っておいて、動物とか人がその上を歩いていて、落ちるように仕掛けるのです。ビルダデはヨブが悪いから、こんな苦しい目に遭うようになると言い切っています。そしてその輪縄と罠が隠されていると言います。つまりそれが今は目に見えなくても、ヨブのために備えられているという意味です。それでヨブがいつかはその落とし穴に落ちて滅び、命を失うようになるだろうと言っています。あなたはもうすぐ罠に捉えられ仕掛網に捕まえられるだろうと、落とし穴に落とされるだろうと言って、ヨブを怖がらせて脅しているのです。
ビルダデはこのように、自分がヨブを落としているとは思わなくても、普段からヨブを憎んでいた心が、このように恐ろしい表現として現れているのです。人の心が真理によって変えられる前は、ほとんど嫌いな人が失敗するのを願います。例えば相手のせいで自分が大きい苦しみに遭ったり、濡れ衣を着せられたならどう思いますか。あの人も悪いことに遭うだろう、覚えておけとか心の中で呪う人もいるでしょう。皆さんの中ではそこまでいかなくても、まだ人を憎んでいる負の感情が、残っているのではないのか顧みますように。
自分を苦しめた人が今失敗して苦しみにあっているなら、それを見て心がスッとしたり、ちょっと面白いと思ったりすることはありませんか。そして、その人が前に自分にしたことを思い出して、いい気味だと思うのではありませんか。そうでなければ、その人があまりにもかわいそうで、悔い改めなければならないのに、どう助けてあげればよいのかと思いますか。皆さんにどのくらい悪があるのか善があるのか顧みますように。ビルダデのように呪いまではしなくても、もしかしてまだ人を憎む心があるのではないか顧みますように。
教会の試練のときはどうでしたか。互いに意見が合わなくて言い争うようになったり、そして、ある人によって自分が誤解されたり、自分の悪口をその人が他の人に言ったりして、それを後で聞いて悔しいと思ったりしたとき、皆さんはどうだったでしょうか。その人が嫌いとか、その人が失敗すればいいとか、いなくなったらいいのにとか、思ったことはありませんか?そして、それを自分が一人で考えるだけではなくて、他の人のところに行ってあれこれ言って、その人を本当に悪い人扱いしてしまうことはありませんでしたか。皆さんがそのように口にしたことが、皆さんが心の中で考えたこと、その悪はどのぐらいあったでしょうか。
神様は私たちの罪を償うために、一人子イエス様をなだめの備え物として下さいました。それなのに神様を信じると言いながら、相変わらず憎しみ、妬み、そねみのような悪い心を持っているなら、神様はどう思われるでしょうか?神様の完全な子供にするためには、主の尊い血であらいきよめてくださるためには、練ってくださるしかありません。試練にあって祈りながら悟って、悔い改めて立ち返るようにするのです。ですから、もしかして自分の中に、ヨブやヨブの友達のような悪があるなら、速やかに捨てなければなりません。
神様は聖書を通して、私たちが悪い人にどう対するべきか教えてくださいました。ローマ12:17-21です。「だれに対してでも、悪に悪を報いることをせず、すべての人が良いと思うことを図りなさい。あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。」「もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら飲ませなさい。」とあります。「敵が飢えたなら食べさせなさい。渇いたなら飲ませなさい。」とあります。「そうすることによってあなたは彼の頭に燃える、炭火を積むことになるのです。悪に負けてはいけません。かえって善をもって悪に打ち勝ちなさい」とあります。
自分に悪を行った人、自分に被害を与えた人に、手向かうのではなくて善をもって行うと、神様が介入してくださるのです。これは神様、あの人を懲らしめてくださいという意味ではありません。神様がすべてを働かせて、役としてくださるということです。だから自分を苦しめる人がいても自分が復讐しようとするのではなくて、神様の前にすべてを委ねて祈らなければなりません。祝福の祈りをするということです。このように愛で祈れば、敵である悪魔は退くしかありません。イエス様はこのように善と愛の模範になってくださいました。
イエス様はこの地上におられる間、天国の福音を伝えてくださり、病人を治してくださるなど、善だけを行われました。それなのに悪い人々は、イエス様を殺そうとしました。悪霊に取り憑かれたとか、ベルゼブルに取り憑かれているとか、罵りました。イエス様はその人々の悪い意図を知っておられながらも憎むことなく、神様の御心を悟るように教えてくださいました。それでも聞き得ない時は、彼らと言い争うのではなくて、身を避けられました。そしてご自分をあざけって蔑み十字架につける人々のために、「父よ。彼らをお許しください。彼らは何をしているのか自分でわからないのです。」と、とりなしの祈りを捧げてくださいました。
このような愛の結果として、主を救い主として受け入れる人は誰でも神様の子供とされる、救いの御業が起きたのです。イエス様は神の御子だから、救い主に自動的になられたのではありません。 命を尽くした犠牲と愛によって、その結果として、その御名を信じる人は救われるようになったのです。犠牲と献身がなければできないことです。霊の世界の法則です。皆さんも自分が犠牲になって献身してこそ、神様が善の実を結ばせてくださいます。いくら不当な目にあっても、悔しい目にあっても悪を行わないで、善を持って許して、譲って、祈って、神様に委ねると神様が働いてくださるのです。それが神様を信じることです。
神様は善・愛そのものである方だから、善と愛を行う人の味方になってくださいます。この地上では善と悪が対立しています。それで神の力を行う人がいると、闇の勢力はその人を苦しめて殺そうとするのですね。でも善と愛を持って行いその人のために祈り、悪に善を持って報いるなら、神様が働いてくださって、神様に栄光を捧げるようにしてくださるのです。神様に大いに栄光を捧げる人を、敵である悪魔は妨げようとするでしょう、当然。しかし神の人、光の中を歩む人はそのような人も憎みません。
神の力を行った人がもし自分を憎む人、自分を苦しめる人に復讐しようとするなら、そのような人は神の力を行うことが嘘になるでしょう。だから心が善に愛に変えられなければなりません。そのような人に神様は力を下さるのです。イエス様もそうでした。神の御子だから、自然に何もしないで救い主になられたのではありません。人の子等にあざけられ蔑まれ、卑しめられて、殺されても、ただ善と愛を持って代わりに許してくださいと求め、ご自分を完全に犠牲にした時、それによって、その主を信じる人々が救われるようになったのです。代わりにその公義を満たしてくださいました。とうてい、許せない人も許して、理解できない人も理解して、愛をもって救ってくださいました。
皆さん、この霊の世界の法則は、私たちにも同じように適用されます。皆さんが神様の前に答えを受けたい、祝福されたいと思っていながら、祈っていながら、神様の子供らしくない悪を行っているなら、どうして答えを受けるでしょうか?どうして癒されるでしょうか。誰かが自分に嫌味を言ったり、嫌がらせをするからといって落ち込んでしまって、その人に不満を抱いて憎らしいと思ったりしているなら、そのような人がどうして神様の力を受けることができるでしょうか 。
私たちはイエス様のような善と愛の心に似ていかなければなりません。そのような人が、神様に愛されるまことの子供になれます。神様は私たちも主に似て、最高の善と愛を所有するように望んでおられます。そうすると私たちが望んでいる美しい天国、新しいルサレムに入ります。聖徒の皆さんは、新しいエルサレムに行きますと告白していても、その資格を備えるための訓練は、きつい、辛いと思っているのではありませんか?理解できない人も理解して、許せないような人も許して受け入れて、自分をひどく悩ませて苦しめる人も愛するとき、主の心に似て天国を所有できます。
しかし不当な目に遭ったらあの人は到底許せません。こんなことまでされてきついですと思ったなら、これは口の言葉と行いが全然違うでしょう。今この時間が私たちを新しいエルサレムに導くための訓練過程であることを知って、悪はどんな悪でも避けて、善と愛で心を満たしていく聖徒の皆さんになりますように。
そうしないで、もしビルダデのように呪いの言葉を口にするなら、神様は御顔を背けられるでしょう。サタンが喜ぶでしょう。よくやっている続けなさいと言われるのです。サタンから褒められてはいけないでしょう。サタンが皆さんから遠ざかっていかなければなりません。そのためには皆さんが、心が善と愛で満たされていなければなりません。相手のために愛をもって祈り、代わりに公義を満たしてとりなす姿勢が必要です。
