ヨブ記講解(45) - 自分自身を引き裂く者にならないように(上)
説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記18:1~4
皆さん、前回ヨブは自分の体は影のようだと言いながら、自分の人生が虚しいと訴えました。ところで、その姿から自分の信仰を顧みるべきだと言いました。真の信仰と希望がなければ、苦しみと試練の中で虚しさを感じて苦しみます。このように言う人もいます。「これまでの自分の人生が全部虚しいものだった」と、教会に通っていて主のために忠実だったことが、虚しいという人がいます。
それは問題でしょう。私たちは天国に全部積まなければならないのに、そうしなかったのではありませんか。自分なりに忠実にした、忠実に仕えたつもりでも、試練にあったりすると疲れたとか辛いとか、今まで自分がやってきたことが虚しいと言いながら、損をしたと思いながら今までの信仰を否定してしまうならば、今のヨブのような姿ではありませんか。
自分が信じる主が実像ではなくて、影のようになってしまったからです。主に出会った時は実体である主に出会いました。しかし自分が移り変わってしまうから、自分が御言葉通りに生きていないから自分というものが死なないで、自分を主張しているからそうです。それで試練にあったら主が影のようになってしまい、自分の信仰が移り変わってしまうのです。
本当に信仰があるならば、ヘブル11:1に「信仰は望んでいることから保証し目に見えないものを確信させるものです。」とあるように、神様に祈り、目に見えるものを捨て神様を体験するでしょう。そして何か苦しいことがあっても、天国への希望があるから呟いたり不平を言ったりしないで、喜びながら感謝して天国に向かって走っていきます。神様は生きておられるのに、今、目の前の問題があるからと言って、神様を否定してはいけないでしょう。神様を本当に信じているならば、希望があるから天国に向かって走っていくことができます。
しかしそうしないで自分の信仰が冷めてしまう人がいるならば、自分が信仰に根をしっかり下ろしていなかったからです。岩の上に家を建てるべきなのに、砂の上に建てたから、厳しい風が吹いてくると倒れてしまいます。しかしヨブは神様を見つけた体験がないから、霊の信仰も希望もありませんでした。それで目の前の現実を見て、苦しみによって虚しいと思いがっかりしています。そして自分はよみを住み家として望むと言っていました。
私たちはこのようなヨブの姿から、なぜ人間耕作が必要なのか、なぜ試練が必要なのかを悟らなければなりません。平安な時嬉しい時は、皆が素晴らしい信仰を持っているように見えます。神様を愛しているように見えます。しかし試練に会うとそれが本当なのかがわかるようになります。その時自分の姿を見てがっかりするのではなくて、自分の欠けているところを発見したから、感謝して変えられなければならないでしょう。
自分は自分なりに熱心だったけれども、その熱さが今冷めてしまった。人を愛していると思ったのに、試練に会ったら人を愛する余裕がなくなってしまったならば、そのように自分の姿を発見することは自分が変えられる機会です。そして自分というものが強くあって悪を行う時もあります。それを発見して悔い改めてこそさらに変えられることができます。だから試練というものが必要なのです。どんな苦しみにあっても揺るがずに変わらない愛を所有したまことの子どもを得たいと思っておられる神様の心を悟って、私たちは神様の前で喜ばれ慰めになるものでなければなりません。
ヨブ記16章と17章では、ヨブが言い訳をして自己主張をしていました。何の過ちもない自分を苦しめる神様は悪い神様だと、友達も悪いと罪に定めました。それから18章ではシュアハ人ビルダデが登場します。ヨブと友達は一生懸命言い争っています。自分の立場を言い張っているから、口論が終わらないのです。怒りと憎しみはだんだん大きくなってもっと悪を行って苦しみをもたらしています。
ビルダデはヨブ記8:11で「パピルスは沼地でなくても育つだろうか。葦は水がなくても伸びるだろうか。」と例えをあげて、すべてのことには原因と結果があるように、ヨブが苦しみを受けていることは、ヨブの悪から始まっていると言った人です。そして続いたヨブと友達の話を聞いていて我慢できず、18章でまた話をするのです。
ヨブ記18:1-2です。
そこでシュアハ人ビルダデが答えて言った。いつあなた方はその話にけりをつけるのか。まず悟れ。それから私たちは語り合おう。(ヨブ18:1-2)
もし友達や親戚が口喧嘩をしていて互いに自分が正しいと言って、争いが終わらなければ皆さんはどうするでしょうか?一体いつまで争うとしているのか、もうやめてと言うでしょう。ビルダデもこのような心でこう言っているのです。
これまで私たちはヨブと友達が言い争っている姿を見ながらもどかしかったでしょう。互いに自分だけが正しく相手は正しくないと言いながら、相手が言った言葉に言い掛かりをつけていちいち言い返していました。このようにほとんどの人々は言い争うとき、どんな言葉で相手をまかそうか、いろいろ工夫しながら最後まで黙らないのです。何としてでも相手に勝とうとして、何とか自分の言い分を通そうとします。言い返しができなくなると逆切れしたりします。皆さんはどうでしょうか?相手に勝つためにこの様に虚しい言い争いをしたことはないでしょうか?
マタイ7:6に「聖なるものを犬に与えてはいけません。また豚の前に、真珠を投げてはいけません。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたを引き裂くでしょうから。」とあります。このように自分はいくら良いことを相手に言っても、相手は聞き入れなければ役に立たないし、それ以上無駄な言葉は口にしてはいけないでしょう。相手も自分が正しいと考えているから、引き下がらないのです。だからもっと大きい争いになる前に、自分の方で辞めた方が賢明でしょう。
ところで第三者が戦いを辞めさせようと割り込んで相手を悟すつもりで、かえって自分が長々と喋る場合もあります。本文に出てくるビルダデがそうでした。いつあなた方はその話にけりをつけるのかと言っています。つまりいつまで言い争っているつもりなのかと言いながら辞めさせようとしていても、自分も黙らないで言いたいことを言っているのです。
神様がご覧になるとどれほどおかしいことでしょうか。言い争っているヨブと友達も正しくないけれど、彼らにやめなさいと言っておいて、本人は長々と言い続けているビルダデも同じです。ビルダデはヨブに次のように言います。
ヨブ記18:3-4です。なぜ、私たちは獣のようにみなされるのか。なぜ、あなた方の目には汚れて見えるのか。怒って自分自身を引き裂く者よ。あなたのために地が見捨てられようか。岩がその所から移されようか。(ヨブ18:3-4)
これまでヨブが友達にあなた方は人間以下だ、あなた方は未熟だ、私には相手にもならないと無視してきました。それでビルダデはそれに対して、ヨブが友達扱いもしないで獣のようみなしたと言っているのです。獣は人と違って理性も判断力もなくてただ本能に従って生きる存在です。ビルダデの目にはヨブは友達をこのように理性のない獣の扱いをしていたし、曲がった人だと罪に定めていたから、なぜ汚れて見るのかと問い詰めています。
これまでヨブは友達を侮辱して怒りに燃えて激しく嫌がっていました。友達も少しも譲らないで言い返しているからお互い様です。本文4節でビルダデはヨブに「自分自身を引き裂く者よ」と言っています。ヨブは希望もない、むごたらしい状況に置かれた自分に、友達が責めて指摘するから、怒って自分自身を引き裂く者になりました。それではヨブがどのように自分自身を引き裂いたのか調べてみましょう。
ヨブ記16:9-11です。ヨブはこう言います。「神は怒って私を引き裂き、私を攻めたて、私に向かって歯ぎしりした。私の敵は私に向かって目をぎらつかせる。彼らは私に向かって口を大きくあけ、そしって私の頬を打ち、相集まって私を攻める。神は私を小僧っ子に渡し、悪者の手に投げ込まれる。」と言っていました。つまり神様は自分を小僧っ子のようなあなた方に渡して、悪者であるあなた方の手に投げ込まれたと言いながら、神様も友達も悪いと言っています。
この他にもヨブは真理と反対の言葉を口にして、自分自身を引き裂く姿がたくさんありました。自分自身を引き裂くというものが何か、その意味について気になっていたと思います。世でも自害するという言葉がありますね。自分自身を苦しめて自分自身を傷つけることです。
精神的な問題でそのようにする人も世にはいるでしょう。それはとても危険なことでしょう。子供がそうするなら親がそれをやめさせるでしょう。自害すると血も出て傷もついて損ではありませんか。今ヨブがそのようにしているとビルダデが言っているのです。それならヨブがどのように自分自身を引き裂いていたのでしょうか?
それは自分の中で自分が苦しんでいること、自分の痛みを神様のせいに友達のせいにしているのです。しかしそれは結局、自分が自分を苦しめることになります。それはただ不満やただのつぶやきではなく、自分に帰ってきて自分をもっと苦しめて、自分をもっと傷つけることになるのです。今自分が苦労していること、自分が今悲しいこと悔しいことを自分はそれが我慢できなくて、口でそのように言っているかもしれませんが、それによって自分に害が返ってくるのです。それを今日のメッセージで悟らなければなりません。もしかして皆さんは自分自身を引き裂くものではないのか、チェックしてみますように。
主を信じると言いながらも真理にあって完全に変えられる前は、このように自分自身を引き裂くものがたくさんいます。悔しい目にあったり自分の考えに合わないとき、怒鳴ったり暴れたり自分の心を治めることができないなら、それも自分自身を引き裂くものになるでしょう。皆さんはこのような悪を忘れたと思います。以前の姿にはあったと思います。
例えをあげましょう。子どもたちに怒りっぽい子どももいるでしょう。親のそのような気を受け継いで生まれて、そして親が育てるときそんなふうに育てる場合もあります。小学生の子どもですが自分が気に入らないことがあると、怒鳴ったり暴れたり泣いたりするのです。例えばデパートに行って自分が欲しいおもちゃがあるけれどそれを親が買ってくれなければそこで駄々をこねたり、そこで暴れたり物を投げたりする子どももいます。そういう荒っぽい姿があるのです。それも自分自身を引き裂く姿の一つの例でしょう。そのような激しく自分の感情を表現する場合もあります。
そして肉の思いによって自分を苦しめる人がいます。人にぶつける場合もあるし、自分の心を自分が傷つけることもあります。皆さんは自分の過去の姿にそういう姿があるかもしれません。しかし今ももしある人が気に入らないとか、ある人について不満を抱いているならば、それを誰かのところに行って全部喋ってこそすっきりすることがあるのではありませんか?そして夫婦喧嘩をするとき相手を侮辱したりして、いろんな形として現れることもあると思います。今日のこのメッセージを聞きながら、自分の過去の姿今の姿を比べて自分を発見して捨てましょう。人はこのように自分自身を引き裂く姿があります。
信仰のない人やまだ信仰の弱い初心の者の場合を例にあげましょう。このような人の中にはお酒を飲んで酔っ払って怒鳴りながら、早くドアを開けろと言いながら足で玄関を蹴る場合もあります。すると自分の足だけ痛いから自分自身を引き裂く姿でしょう。ある人は夫婦喧嘩をして貴重な家財を投げて壊す場合もあります。これはお金の面でも損でしょう。また夫が浮気をしたからといって、奥さんが怒って逸脱行為をしたり、本人も浮気をして家庭が破綻するなら何の益になるでしょうか?
教会の中でも主のしもべや聖徒と揉めて、主日礼拝に来ない人もいますが、主日を守らないことは神様の前で罪を犯すことだから、これも自分自身が損です。怒ったからといって祈らないとか、つまずいて神様の前で忠実に奉仕をしない人も、自分にとって何の益にもならないし苦しみをもたらすことです。このすべてが自分自身を引き裂く姿です。
子供の中では親が自分が欲しいものを買ってくれなければ、ご飯も食べない子がいるのですが自分に損でしょう。これは自分自身を引き裂く姿まではいかなくても、それも悪の一つの姿なのです。世の人のように物を投げたり壊したりすることはなくても、子供の時からこのような悪を捨てなければ、だんだん大きくなるのです。親が家庭でそれを正してちゃんと教えなければならないのです。環境のせいにして親のせいにしてしまい、すぐ諦めてしまったり自己中心な人に育ってしまうのです。それは自分に霊的にマイナスです。それは罪ではないしと思うかもしれませんが、神様は、それは自分自身を愛する姿で神様を愛する姿ではないと言われるでしょう。
ある人のせいでとか、教会で誰々のせいでもう行きたくないとか言うのだったら、それは実は霊的には自分にとって損であり、自己中心的な姿で神様を愛さない姿です。終わりの時、肉の人にはそういう姿がよくあります。このような悪が積まれて結局は自分自身を引き裂く姿になるのです。
それで教会の中でつまずいてしまって教会を離れてしまったり、人のせいにしながら使命を手放してしまう人もいますが、それもいけません。
その他にもヨブのように神様と友達を誤解してさばいて自分で自分を苦しめる人も多くいます。あの人は私を憎んでいるようだ、他の人の話を聞いて私を悪く思っているようだと、思い込んでしまって距離を置くのです。それで苦しむのです。それでもう人と会いたくないと思って家に引きこもってしまったり、自分自身を苦しめる肉の思いもあります。これもどれほど愚かな姿でしょうか?
肉の思いによって自分自身を引き裂く姿です。
そして劣等感によって他の人と比較して苦しみを招いて悲しんでしまったり、落ち込んでしまったり、相手を妬みそねみ悪を行う人もいます。劣等感、人と比較することも自分をとても苦しめることです。ある程度ならば肉の思いで悪だから捨てればいいのですが、度を越してひどい劣等感によって人に害を与える場合もあります。そして自分自身を苦しめる人もいます。いろんな人のことを裁いて罪に定めたりしているのです。自分が嫌う人を誰かが褒めるならばそれが嫌で、その人を憎んだりするのです。するとどれほど苦しいでしょうか、つらいでしょうか。そんなふうにしていて信仰生活をしているなら、どれほど神様の前で苦しいでしょうか。
皆さん、自分自身を自分が殴ってそれで傷つけたなら、それが何の益になるでしょうか。だから私たちは霊的にそんなことがあってはいけないのです。自分の肉の思い込みによって、憶測によって苦しんでいるのです。ヨブがそうでした。神様が自分をこんなふうに苦しめている、神様が懲らしめていると言いながら、自分の考えによってだんだん自分が自分を苦しめて死にたいと思っているのです。皆さんもそういう姿はないのか、顧みますように。これらのすべては自分の悪のためです。
周りの人のせいで苦しいと言う必要はありません。自分の中に悪がなければ、それは関係がないからです。ある人が怒っているならば、自分も怒るのではなくて、私がもしかして失礼なことをしたことはないのかと思いながら自分を顧みて、そしてその人が怒って気が済むならば、喜んで笑顔でそのように受け入れることもできるでしょう。
しかしそうではなくて、あの人は私を憎んでいると思いながら、私の悪口を言っているのではないかと、いつもそれが気になってしょうがないし、それで悩んで苦しむのです。それは自分の悪のためでしょう。環境のせいとか人のせいで苦しい、つらいと言うのではなくて、その原因は自分の悪によるものだから、それを悟らなければなりません。それで自分の感情を制御することができなくて、怒ったりするなら自分自身を引き裂くものになるから、どれ程愚かなことでしょうか。
ビルダデはヨブに「あなたのために地が見捨てられようか。岩がそのところから移されようか」と言いました。この文章を読むと理解できますか?どんな意図でこんな風に言っているのかと思うでしょう。ビルダデが今言っているように、地がまた岩が移されないことは事実です。どんな意図でこのように言っているのでしょうか。ヨブあなたが怒ったからと言って、地や岩がびくともするだろうかと言いながらあざけっているのです。あなたがあんなに怒って、いろんなことを言っていても、それは何の効き目もないと言っています。日常生活でのたとえをあげましょう。
夫が妻に怒って、横にあった時計を取って投げたとしましょう。この時妻がこう言うのです。それを投げるからと言って気が済むの?もっと高いものを投げればと言うなら、夫はもっと怒るでしょう。夫が投げたことも悪いことですが、妻がそのように言うことはもっと悪いでしょう。だから、夫は初めは時計一つを投げることで済ませようとしたのに、妻にそう言われたら頭にきて、妻が大事に思う高いものを投げて壊すかもしれません。知恵のある人なら、このようなことがあるなら、ああ、私が愚かなことをしているんだ。夫を怒らせたなら、私にだけ損だと思って心を治めるでしょう。そして、神様の前に悔い改めて、主人にも謝るなら問題は大きくならないでしょう。
しかしそうしないで悪い言葉によって相手をもっと怒らせてしまうと、自分にも何の益にもならないでしょう。二人で口喧嘩をして、物を投げたりした時、それを治めようとしなければならないのに、もっと腹を立たせてはいけないでしょう。それで家の家財を投げたりして壊れるならばどれほど損でしょうか。今相手が怒っているならば、こちらから落ち着いて、怒りが治まるまで待ってあげたほうがいいでしょう。二人とも感情的になって相手に勝とうとするから、喧嘩が終わらないのです。
相手が今聞く耳もないし興奮している状態ならば、それ以上刺激しないで、黙って静かに待ったほうがいいでしょう。火事が起こったところにまた火に油を注ぐようなことがあってはいけないでしょう。だから悪を行う人も問題ですが、その人を怒らせた人にも問題があるのです。だから両方同じです。お互いに責任があるのです。お互い様です。こういう場合は互いに自分自身を引き裂いているのです。そして悪い言葉と行いによって、相手を引き裂くことになるのです。自分が悪いことを言って悪い行いをしてすっきりするのではなくて、それが自分を引き裂くことになり相手を引き裂くことになるのです。
ところで相手を引き裂くことは、自分を引き裂くことになります。自分が相手に悪を持って行うなら、その実は自分に返ってくるのです。それで結局損をする人は自分自身だからです。このように互いに引き裂くことは、神様の前でとても御怒りを買うようなことです。その結果サタンが働いて家庭が破綻したり、子どもたちがぐれて病気になったり、いろんな試練や艱難が伴うのです。神様が御顔を背けられるから敵である悪魔サタンが引き裂いてしまうのです。
家庭の中で子どもがぐれてしまう原因がここにあります。親が夫婦喧嘩をするから、するとサタンが働くのです。子どもたちは不安で家にいたくないのです。そして心のその傷をどこで癒されるでしょうか。それで世の人に頼ってしまうこともあります。しかし親は自分のせいだと思わないで子どもを咎めるのです。そうすると問題は解決できません。もう子どもが大人になったとしても、過去にあったことを顧みますように。そしてその悪が今も自分の中に捨てられないままあるということが問題です。
ある夫婦は一緒に暮らしていて数十年たったらこんな風に喧嘩しても互いに損するだけだ、自分の感情をこの様にぶつけても、何の益にもならないと分かりました。それでもう話をしなくなるのです。離婚はしていないけれど、他人のように対するようになります。どれほど悲しいことでしょうか。自分の中にある悪を捨てて、憎しみ、恨み、嘆きなどを捨てて、相手を理解して受け入れて譲り、その様に愛し合わなければならないでしょう。相手を自分が無理やり変えようとするのではなくて、相手を理解してこそ平和をつくることができます。そうしないで相手の気に入らないところを直そうとして、無理やり変えようとするから、言い争うようになって喧嘩して後は疲れてしまい、もう口も聞かなくなって、他人同士のようになってしまうのです。私たちは霊的にそんなことがあってはいけません。
そんな人が神様に祈るなら神様は答えてくださるでしょうか。そのような家庭にはサタンが働いて、試練艱難が伴うのです。だから私たちは自分の心にある悪を、そして配偶者に対する憎しみも、いろんな不満も早く捨てなければなりません。私たちは肉の思いと悪によって自分自身を引き裂くことや、相手を苦しめて引き裂くことがあってはいけません。
社会生活をしていると、時には相手が自分の利益を求めて、自分を苦しめて不利益を与える場合もあります。しかし皆さんがそういう環境の中でも善を行おうとするでしょう。自分がちょっと損をしても言い争おうとしないでしょう。しかし相手があまりにもひどい場合は、爆発してしまうことがあるかもしれません。それで争うこともあったり、このような姿があるなら、結局自分の利益を求める姿があったからだし、だから私たちは主の善の心に似ていかなければなりません。すると神様が相手の心に働きかけてくださるのです。それで善を行っていけば損ではなくて神様が働いてくださるのです。この様に真理を行う皆さんになりますように。
ビルダデはヨブに「あなたのために地が見捨てられようか。岩がそのところから移されようか」と言いながら、あなたはいくら怒っても何も変わらないと言いながら嘲笑っています。火事が起こった家の火を消すと言いながら割り込んで、返って煽る人がいます。ビルダデの立場ではヨブは神様も友達も侮辱して悪を行うから黙らせようと思って言いましたが、それはとても高ぶっている姿です。私たちは相手が過ちをして逆切れしたり悪を行っても、その人を見下したりしてはいけません。その人の悪を刺激してはいけません。どんなところでもただ真理を行うとき相手の怒りが収まるようになって感動するでしょう。
第一テサロニケ5:15です。「誰も悪をもって悪に報いないように気をつけ、お互いの間でまたすべての人に対して、いつも善を行うよう努めなさい」とあります。相手に善をもって悪を悟らせなければなりません。善をもって悪を悟らせると言っているのですが、それは教える立場で言うのではなくて、相手を理解して仕える立場で愛をもって言わなければならないのです。相手が感情的になっているのに、言葉で何とか言ってその人を悟らせようとしてはいけません。その時は何も言わないでただ寄り添って、その人が怒りが収まるまで待ってあげることも必要だし、そしてその人が今訴えていることを聞いてあげることだけでもいいでしょう。
そして自分が知っている真理があってもその真理をもって教えようとするのではなくて、相手が落ち着いて心が開かれる時その後に言った方がいいでしょう。悪をもって悪に報いようとすると相手はさらに大きい悪を行うようになります。これを覚えていてください。皆さんの口の言葉はどうでしょうか。相手が悪を行うから私はこう言ったと皆さんは思うかもしれません。その人のために良かれと思って真理を言っただけなのに、私は良い意図で言っただけなのにと思うかもしれません。しかし相手が今怒っていて相手が興奮している時、私たちが何かを言って相手がもっと怒るならばそれは自分のせいです。悪をもって悪に報いた姿です。
私たちはそうではなくて、善をもって相手に仕えなければなりません。譲って相手が考える時間を与えることが必要です。自分は善をもって相手に接したと思うかもしれませんが、相手がそれによって怒ったり相手がそれを受け入れない場合は、自分の口の言葉を顧みなければならないのです。互いに対立すると両方に問題があるのです。相手が自分を非難して自分が悪口を浴びたとして自分が何か真理をもって悟らせようとしても、互いにだんだん感情的になって、ああだこうだと 自分は正しいと言いながら、それが言い争うことになってしまうことがあります。そういう場合は自分が今善を行っているのではないことがわかるでしょう。
ヨブとヨブの友達もそうでした。自分たちは自分が正しいと思って、相手を悟らせようと思って言ったのですが、それは結局結果的には悪だったのです。皆さんもこれを悟らなければなりません。私は良かれと思って良い意図で相手のために言ってあげたのに、相手は聞き入れなくて言い争うことになったと言ってはいけないのです。そうしては問題が解決されません。皆さんも日常生活の中で、自分の口の言葉がどうなのか、また何か言うとき自分の心はどうなのか、顧みなければなりません。善をもって悪に報いること、これが勝利する道なのです。
韓国の朝鮮王朝の500年の歴史を見ると、悪をもって悪に報いた党派争いと血の流れの歴史の連続でした。例えばチャン・ヒンビという人は、19代王のそばめで20代王の母親でした。ひどい妬みによって自分自身を引き裂いて、自ら墓穴を掘った人です。悪い呪術で王位を奪うなど人の道理から外れた行為によって、ひどく悪い結果をもたらしました。彼女の悪行を知った王は死刑にしました。そして王はそれが当然のことで正しいことだと思いました。しかしそれによって息子は王位に上がった後もいつも党派争いの中で、精神的にまた身体的にも平安がなかったのです。
もし王や臣下たちが真理を知っていたなら、彼女が後で王になる王子の母親ということを考えて、殺す代わりに他の罰を与えたかもしれません。王は自分の正しいことをしたと思うけれども、それは真理ではなかったから、善ではなかったから、その後も血の流れの歴史は続きました。このように多くの人が、自分の行動によって起こる問題は周りの人がそれによって苦しみを受けることを考えることができず、悔しいことがあればそれだけ復讐しようとします。しかしこれはまた違う悪を呼ぶだけです。
先ほど王がそのそばめを死刑にしたことがその時は正しいと思ったけれども、それによって次の自分の息子が王になった時、いろんな党派の争いがもっと激しくなって悲しいことがあったのではありませんか。だからそれをよく考えなければなりません。もちろん悪があってそれに対して処罰することは正しいかもしれませんが、それを遥かに超える愛があって善があるのです。
イエス様の善と愛がそうでした。イエス様はご自身に悪を行って、あざけりさげすむ人々に対してただ善を持って行いました。昔の信仰の人々もそうでした。相手の悪に善をもって報いることが本当の勝利だからです。悪い相手に善をもって対するなら損をするようでしょうか。そうではありません。神様はいつも心の良い人、正道を歩む人の味方になってくださいます。私たちが最後まで善を行う時、神様が共におられ、闇は退き状況が変わるのです。これを心に留めておいてください。
