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ヨブ記講解(44) - 影のようなヨブの身の上(下)

9月10日
読了時間: 13分

説教:イ・スジン牧師

本文:ヨブ記17:10~16


ヨブ記17:10-11です。


「だが、あなたがたはみな、帰って来るがよい。私はあなた方の中にひとりの知恵のある者も見いだすまい。私の日は過ぎ去り、私の企て、私の心に抱いたことも破れ去った。」(ヨブ17:10-11)


ここでヨブが友達に、あなた方はみな帰って来るがよいと言っています。これは実際帰ってから戻ってきなさいという意味ではありません。あなた方は今まで言ったことを、全部振り返ってみなさいと言っています。あなた方の言っていることは正しいのか、真実なのか反省してみなさいと言っています。


そして友達の中には知恵のある者はいないと言っています。友達の中で誰も自分を悟らせてくれないし、何の役にも立たないと言っています。だからヨブは自分の日は過ぎ去って、自分が企て自分の心に抱いたことも全部破れ去ったと言っています。つまり神様が自分から御顔を背けられたから苦しみに遭っているけれど、自分ではこの問題が解決できないし、友達の中でも自分を助ける知恵のある人はいないから、だんだん死の道に行くしかないと言っています。


例えば水に溺れている人がいて、それを見つけた友達が泳げないから助けることができないことと同じです。このようにヨブは友達が自分にとって何の役にも立たないし、かえって自分の心をかき乱して自分をイライラさせたから、自分は腹が立って絶望しているということです。ヨブは相変わらず自分だけ正しいとずっと主張していて、込み上げる怒りと苦しみを訴えています。


しかしこれは真理と反対の言葉なのでサタンの罠になるしかありません。悪い言葉を口にすると、相手にも嫌われるし、その言葉によって苦しみを受けるようになります。このように、相手を無視して、神様まで悪い神様と裁く人を、神様はどうして助けることができるでしょうか。ヨブは、友達が自分をあざけった、攻めたと思うから、自分も友達をあざけって攻めています。


続く本文を読むと、わかりやすい言葉で言えるのに、あえて難しい例えを挙げて友達を攻めています。ヨブ記17:12です。


「夜は昼に変えられ、やみから光が近づくと言うが、」(ヨブ17:12)


ここで夜は闇を言っています。夜は昼に変えられ、とあります。これは、闇の技を仕事をするようにしている、悪を日常茶飯事のようにしていると、友達を攻めているのです。あなた方は、闇の技をそんな風にしていると言っています。そして、夜は昼に変わったり、闇から光が近づくという言葉は合わない言葉でしょう。昼と夜は正反対だし、光と闇は共存できないからです。


つまり、ヨブは友達に、太陽が西から昇ることがないようにあなた方はとんでもないことを言っていると、例えをあげて表現しています。あなた方は今言っていることは正しくない、あなた方は何の過ちもない私にかえって濡れ衣を着せているのだ、こういう意味で友達を攻めているのです。過ちを犯した人が、かえって正しい人に食ってかかるように、ヨブは友達に指摘して、とんでもないことを言っているのだと責めています。


ヨブの友達は、自分なりに知識があるから、ヨブが今例えを上げて自分たちを咎めていることに気づきました。だからどれほど腹が立つでしょうか。信仰生活をしている人の中でも、相手が自分の心に合わなければ、神様の御言葉を引用して相手を指摘したり、罪に定める場合があります。特に教える立場にいる人の中で、神様の御言葉を間違って使ったり、間違って引用して、信徒たちを怖がらせることがあります。しかし、真理は、平和と喜び、自由と命を与えるものであって、決して不安と恐れをもたらすものではありません。


皆さん、大礼拝の時地獄のメッセージを聞いていますが、不安で恐れるようになりましたか?そうではないでしょう。神様を恐れかしこむ姿勢は必要なのですが、神様はもちろん、裁く方だし、公義によって正確になさる方です。それを知っているならば、罪を犯すことはないでしょう。そして、神様が私たちに地獄のメッセージを伝えてくださる理由は何でしょうか? 神様の愛を感じて、もっと感謝するようになるのが正常でしょう。


私たちはただ恐がるのではなくて、神様を厳しい方だと思うのではなくて、神様の愛を感じなければなりません。そして、皆さんが怖がることがないように、画面には見せてくださらなかったでしょう。不安にさせるためではありません。ヨブ記講解の時も、元老牧師は神様がどんな方なのかを教えてくださいました。そして講壇でも、御言葉通りに行わなければ地獄に行くとか、このように強く厳しく言われたことはありません。呪いとか不安と恐れを持つようなことは言われませんでした。神の力を表して、神様がどんな方なのかを見せて、神様に仕えるように、そして神様の人と変えられるためにはどうすべきかを正確に教えてくださいました。


そして神様がそのようにしてくださる、神様の心と愛を悟らせてくださいました。私たちはその神様の愛を悟るなら、自然に罪から離れるようになります。恐れるから、怖いからではありません。そして元老牧師先生は大いなる神様の力を行っていても、それを利用して人を怖がらせたことはありません。神様を崇めて、神様にだけ栄光を捧げたし、皆さんには喜びと平安、自由と命を持つようにしてくださいました。


天国に行くためには、地獄について知らなければならないから、地獄について教えてくださいました。地獄を知ってこそ、地獄に行くような罪を犯さないからです。そして罪について正確に教えるのは、命を与えるためです。天国に行くようにするためです。呪われないように、災いに遭わないようにするためです。


男女で死に至る肉の行いをすることを、そうしてはいけないと教えて下さる理由もそうです。そのように教えなければ、みながそのようなことをしてもいいんだと思って罪を犯してしまってはいけないからです。教会は、それはいけないと正確に教えるところです。それが真理だから、神様の御言葉だからです。イエス様は、情欲を持って女を見るなら、その心の中で既に罪を犯しているとまで言われました。正確に教えてくださっているのです。


神の力を見て喜んで感謝していた人が、時間が経って後で移り変わってしまうとどうなるでしょうか。罪を指摘されるのが嫌で、きつく思って離れてしまう人もいます。それは、その心が変わってしまったからです。だから、ヨブが言っていたように、影のような状態になってしまうのです。天国、神様がはっきりした確かなもので実情だったのに、それが段々、影のように不確かなものになってしまうものです。


私たちはそうしてはいけません。私たちが目で見て、体験して、耳で聞いたことは、事実で真実です。ヨブと友達は、真理をよく知らない状態で、真理と反対のもので互いを苦しめていますが、 皆さんは真理であって、いつも善と愛を持って互いに仕えなければなりません。主のしもべも働き人もそうです。もしかして、罪を犯している人がいても、憐れんで愛を持って助けようとしなければなりません。罪を指摘して、非難したりしてはいけないし、避けてもいけません。もどかしい心で何としてでも命に導こうとしなければなりません。すると、聖霊が働いてくださるでしょう。


続く本文を読むと、ヨブはまた例えを挙げて自分の心を訴えています。ヨブ記17:13-16です。


「もし私が、よみを私の住みかとして望み、やみに私の寝床をのべ、その穴に向かって、「お前は私の父だ」と言い、うじに向かって、「私の母、私の姉妹」と言うのなら、私の望みはいったいどこにあるのか。だれが、私の望みを見つけよう。よみの深みに下っても、あるいは、共にちりの上に降りて行っても。」(ヨブ17:13-16)


ヨブは、虚しさと失望によって、自分の望みはもう、よみに住みかを造っていると言っています。前は全て豊かで平安だったのに、希望があったのに、今は全てがなくなってしまい、自分はよみに下っていくしかないと言っています。今、ヨブの身の上があまりにも辛いから、苦しいから、このように言っています。


その口にした言葉をサタンが聞いて、それを罠として試練をもたらしているのです。真理と反対の姿だからです。皆さんも試練にあっているとき、辛いと思って不平を口にするとそうなります。今、ヨブの言っていることを聞くとどうでしょう?心に平安が感じられますか?そうではありませんね。もどかしいでしょう。皆さん、自分自身はどうなのか、顧みてください。家族に対して、子どもに対して、どんなふうに言っているのか。子どものせいにしたり、配偶者のせいにしたり、配偶者の家族まで悪口を言ったりする姿はありませんか。そういう姿があるなら、顧みて悔い改めましょう。


環境のせいにしたり、人のせいにしないで、自分自身を顧みてへりくだって、自分を愛する心、自分の自尊心、高ぶりなどを悟りましょう。誰かが自分の自尊心を傷つけるなら、かっとなってその人を呪ったりする心はないでしょうか。聖書には右の頬を打たれたら、左の方も向けなさいとあります。それが真理です。それを学んだから、それを行わなければなりません。しかし真理と反対のことを知っている人がたくさんいるからとてももどかしいです。


でも私たちは他の人をああだこうだというのではなくて、私は神様の前でどんな姿なのか、私は真理にとどまっているのかをいつも顧みなければなりません。例えば結婚前に男女の間で付き合って、肉の行いがあったりしてはいけないと、元老牧師先生が教えてくださいました。聖い関係を保つことはどれほどいいことでしょうか。それは良いことではありませんか。真理でしょう。しかし自分はそれが嫌だから、後で強要されたとか、強いられたとか、自分はそうやりたくなかったのにとか、このようにする場合はありませんか?


男女の間で死に至る肉の行いをしてはいけないと、元老牧師先生は正確に真理を教えてくださったのに、その時自分はそれを誤解して、自分は結婚しないと誓願を立ててしまったりしておいて、後でそれを元老牧師先生のせいにしたことはないでしょうか?そして男性の場合はどうでしょう。元老牧師先生がそう言われたことを誤解して、心の割礼をしなければならないのに、そうしないでただ肉的に割礼をしてしまって、後でそれを教会のせいにしたり、元老牧師先生のせいにしたことはありませんか?


もしそれによってそれを口実に 教会を悪く言う人がいるならば、私たちは正確に説明しなければならないでしょう。神様が教えてくださった真理を守っていくならば、私たちには平安と喜び幸せがいつもあると思います。神様に喜ばれる信仰の告白をして、真理を行わなければなりません。すると大胆になるでしょう。


ヨブは今、自分はよみに下っていくと言っています。そして闇に自分の寝床をのべると言っています。これは闇にとどまるようになると言っていることです。このようなヨブの言葉から天国への希望は少しも見いだせないのです。皆さんがつまずいている聖徒にアドバイスをしたり、世の人を伝道するとき、ヨブのような反応をする人がいるでしょう。例えば悪を行っている人のところに行って、何々さん罪から立ち返らなければならないでしょうとか、世の人に悔い改めてイエス・キリストを信じてこそ天国に行けますと言うなら、それを黙って聞いている人もいます。しかし私は地獄に行ってもいいが、あなたは悔い改めて天国に行きなさいときつく当たる人もいます。


今のヨブの姿に似ています。ヨブは失望して諦めてしまってやけになって、私はよみに行くのが望みだと言っています。そしてその穴に向かって「お前は私の父だ」と言い、とありますが、これは墓が自分の体を守ってくれるという意味です。人が死んで葬られると墓の中に納められることを例えています。家庭で父の役割は子どもを守ることでしょう。このようにヨブは自分が死ぬと、墓が自分の父になって自分を守ってくれるだろう。安息の場所になるだろうと言っています。


しかしこれは神様の前でとても無礼で、とんでもないことを言っているのです。前は神様を恐れて全焼のいけにえを捧げて祝福されて人に尊敬されていたのに、今は墓が自分を守ってくれる父だと言っているから、どれほどもどかしいでしょうか。神様を信じる人は神様が父となってくださり、守って導いてくださるのに、どうして墓を父と言えるでしょうか。


それではうじに向かって私の母は私の姉妹という。このたとえにはどんな意味があるでしょうか。これはヨブの体が腐っていて、うじが湧いている状態を言っています。母は子どもを産むと抱っこして乳を飲ませ、おんぶして子どもとスキンシップをして育てていきます。兄弟姉妹の間でも子どものときは、互いに抱っこしたりチューもしたり、スキンシップしながら育ちますね。このように今ヨブの体にはうじが湧いて皮膚に住みついているから、うじが自分の母と姉妹のようになっていると言っています。


この表現だけ見てもヨブの悲しみと苦しみがどれほど惨めなのか分かります。ヨブは私の望みは一体どこにあるのかと嘆いています。人が死んで葬られたら、土の中に閉じ込められたようなものになります。だからヨブはよみの深みに下るとか、共に塵の上に降りていくとか言っています。ヨブには肉的に知識もあって学問もあるから、このようなたとえを挙げて自分の身の上をうまく表現していますが、霊的にはあまりにも無知です。


イエス・キリストを信じている私たちの望みは、よみではなく天国です。真理と命を持っている私たちは、天国が自分の家になるからどれほど感謝なことでしょうか。神様を信じる人は霊が生き返って神様の子供とされたので、その霊は天国に入ることができます。体は死んで葬られて塵に戻っても、将来主が空中に降臨される時よみがえって変えられた体を着ます。それで天国で永遠に朽ちない御霊に属する体で生きていけます。このように神様を信じる人は、天国に希望を置くので喜びと感謝が絶えないのです。


この地上でも祝福されます。魂に幸いを得ているように全てに幸いを得、健康であり物質の祝福も受けます。心の悪を捨てて変えられて聖められるほど、心に真の平安が臨むから感謝が溢れます。永遠の命を得たから、たとえ体は死を迎えるとしても恐れることなく、むしろ真の安息を味わえる天国への希望が溢れます。


この他にもこの地上で受ける祝福は数え切れないほどたくさんあります。もちろん天国における栄光と祝福は言うまでもないでしょう。しかしヨブはこのような希望がなかったから、現実の苦しみは終わらないと思って死を待っていました。


皆さん、私たちは復活の主を信じています。これは影でもないし想像でもありません。実像であり現実です。このような信仰と望みがあるなら、ひょっとしてヨブのような苦しみにあっても、全能なる神様を信じるから復活の栄光を受けることができます。皆さんはこのような全き信仰をもって、毎日勝利の生き方をして、どんな状況に置かれても復活の主を望みますよう、主の御名によって祈ります。


聞いたメッセージを思い出して祈りましょう。


父なる神様、今日ヨブが嘆いているいろんな言葉、表現を調べてみました。神様の前につぶやいて神様を悪い神様のように言って、友達も無視して友達を責めていました。そして自分の身の上を影のようだと言って、虚しさと失望、絶望によって嘆いていました。自分はよみに行くと言っています。どれほど愚かな姿でしょうか。


天国への希望がない姿でした。しかし私たちは神様を見つけて体験しました。それは影ではなく実像であり現実です。天国もそうです。このような信仰によって勝利するようにしてください。感謝してイエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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