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ヨブ記講解(44) - 影のようなヨブの身の上(上)

9月10日
読了時間: 16分

説教:イ・スジン牧師

本文:ヨブ記17:6~9


皆さん、前回はヨブが神様を悪い神様を裁くだけでなく、友達を完全に無視して、友達の子供達まで呪う姿がありました。このようなヨブの姿を見ると、なぜ試練に遭っているのか、なぜ試練が終わらないのかがわかるでしょう。ところで大切なのは、このようなヨブの姿から自分自身を発見して、変えられるきっかけにすることです。​


鏡を見て自分の顔に汚物がついているのを見たのに、洗わない人がいるでしょうか。本当に聖くなりたいと思うなら、必ず鏡を見る前と後の顔が変わらなければなりません。同じように皆さんが神様の御言葉を聞いて恵みを受けたなら、自分の欠けているところを発見して、善と愛で満たす行いが必要です。​


これまでヨブと友達の話を調べてみて、真理と真理と反対のものを見分けて、神様の御心が何か伝えました。ところでこのメッセージを聞いて恵みを受けたとしても、皆さんの現実では変わったところがなく、相変わらず自分の心に合わないことがあれば、言い争ったりするなら何の役に立つでしょうか。これは鏡を見て、自分の顔に汚物がついているのを知っていて、そのまま放っておくことと同じです。

ヤコブ1:25に「ところが、完全な律法、すなわち自由の律法を一心に見つめて離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならないで、事を実行する人になります。こういう人は、その行いによって祝福されます。」とあります。自分を発見したなら必ず行いが伴わなければなりません。ヨブ記は後にいくほど、人の心に深く潜んでいる悪が現れます。ですから全ての御言葉が自分の姿を映す鏡になり、変えられて命へ出てくる皆さんになりますように。



本文を読むとヨブは自分惨めな身の上を、もう一度神様のせいにしています。ヨブ記17:6です。


「神は私を民の物笑いとされた。私は顔につばきをかけられるものとなった。」(ヨブ17:6)


ヨブの噂は遠くまで広がりました。ヨブはこれを神様が、自分を民の物笑いとされたと表現しています。自分はこんな目に遭う理由がないと思っているから、全てを神様のせいにしているのです。もちろん神様が練っておられることなので、ヨブが考えているように神様がこの様になさったとも見えるかもしれません。しかし神様はヨブを苦しめる悪い意図でそうなさったのではなく、ヨブにより大きい祝福をくださるための良い意図でなさっているから、ヨブの思いとはものすごく違いがあります。​


私は顔につばきをかけられるものとなったとありますが、これは実際つばきをかけられたのではなく、自分の悪口を人々が言っているということです。ヨブは文章力があって、知識も多いし知恵もある人だから、このように多くの意味を含んでいる例えを挙げています。​


続く本文を読んでもこれがわかります。ヨブ記17:7です。


「私の目は悲しみのためにかすみ、私のからだは影のようだ。」(ヨブ17:7)


ここで目の霊的な意味は、前を見通すことができる未来、自分の明日または自分の来歴を言います。人は目で見たものが魂の中に残って、それを思い出して考え悲しむこともあるから、目を言及しながら自分の苦しさを表現しています。


それではヨブの悲しみは何でしょうか。ヨブには多くの悲しみがありました。財産も家族も全部失ったし、人々にあざけられているから悲しいでしょう。そして人生のどん底に落ちてしまい、病気で死ぬ日だけを待っている現実が悲しみでした。このような悲しみのため目がかすんだということは、自分のしたいこと未来が暗くなったという意味です。


またヨブは私の体は影のようだと言っています。影は形はありますが、何の役にも立たないものです。だから何もない虚しさ、自分の意思がくじけたことを言っています。ヨブは自分の体の虚しさをこのような影に例えています。体が腐っていて蛆が湧いて臭いから、大事にすることもできないしケアもできないし何もできない。虚しい体だから影に例えているのです。


皆さん、ヨブのように体が病気になって苦しみにあったら、人生そのものに希望がなくなって影のように虚しくなるしかありませんか?そうではありません。一番大切なのは信仰です。信仰が影のようなものだから絶望してしまうのです。皆さんが主にであって聖霊に満たされていた時は、病気でも貧しくても復活の望みがあって、喜びで満たされていたでしょう。だから仕えて奉仕をすることが楽しかったでしょう。自分の体が弱くても病気でも、主に出会って喜びが溢れているから、最善を尽くして教会の奉仕をして、段々健康になる方もいるでしょう。


主に出会う前は影のような身の上でした。何の望みもなく感謝もできず、いつも不満でいっぱいでした。そのような人だったのですが、主に出会って天国への望みが溢れるようになると、現実は変わらなくても心が変わるから、喜び感謝や希望が溢れるようになります。心が満たされて聖霊に満たされて恵みに満たされているのです。だから影ではなくて本物になるのです。人生が変わり生き方が変わるのです。現実は同じように見えても心が変わるから、生き方が変わるのです。


しかしある時からその姿が変わってしまいます。影のようにあやふやになってしまうことがあります。皆さんもそんなことはないのか、顧みますように。聖霊に満たされているならば熱心が冷めることがないのに、聖霊に満たされなくなってしまうと、信仰生活が影のようになってしまうことがあります。神様の御言葉を聞いて知っていても行いが足りないからです。


御言葉に捨てなさいとあれば捨てて、行いなさいとあれば行って、してはならないとあるならしないで、守りなさいとあるなら守るべきです。しかし御言葉を知識として知っているだけで行わないならば、聖霊に満たされなくなってしまって、心の中で御霊がうめかれるので心は苦しくなります。それでも続けて従わなければ、御言葉通りに行う力もなくなって、祈ることも大変になって霊的に乱れていくしかないのです。


前は確かに信じていた神様、天国、地獄、後の世がだんだん不確かなものになります。霊の世界と信仰の働きがだんだん漠然となります。試練に遭うと全能なる神様の前で求めているのですが、答えがなくあちこち彷徨っているしかありません。今自分の信仰が影のようなもの、虚しいものになってしまったからです。聖霊の満たしもなく熱心も覚めてしまったからです。それで試練に遭った時神様を呼んでも神様が答えてくださることができないのです。


影のような信仰ではなくて、本物、実体にならなければならないのです。だから悲しんで悩んでいるしかないのです。自分が信じている主が影のようになってしまう人がいるのです。皆さんにとって主は実体としておられますか?2000年前におられたイエス様を、私たちは見たことはないのですが、どうして信じているのでしょうか?そしてどうして主に出会ったと言えるのでしょうか?


賛美しているうちに礼拝しているうちに私たちは主を見つけて御言葉の中から見つけて、私たちが体験することによって実体である主に毎日会っているのです。信じています。そう言わなければならないのですが信仰生活が覚めてしまうと、神様の御言葉通りに行っていなければ、その主が実体ではなく影のようになってしまいます。すると前に信じていたこともだんだんその信仰が不確かなものになってしまいます。


前ははっきり信じていたのに、それがだんだん疑うようになるのです。証を聞いても疑うようになります。そして自分の信仰が霊的に乱れてしまうのです。だから証を聞いても自分のものとして信仰として受け止めるのではなくて、聞き流してしまうのです。このような虚しい生き方をしてはいけません。


神様の子供と言いながら、深い霊的な次元に入れずに、真理を知っていても行わないから、その真理のため悲しむようになります。影のような信仰、生き方をしているのです。御言葉を聞いても行わないから、だんだん霊的に暗くなってしまいます。御言葉を信じていると言っても影のようだしそれが力にならないから、問題にぶつかるとこれが神様の御心かあれが御心かと悩みさまよいます。そうやってぐらついて倒れたりすることもあります。その信仰が実体ではなくて影のようなものだからです。


それではこのような時どうすべきでしょうか?初めの愛を回復しなければなりません。主に出会って救われた時の喜び、世のものは虚像であり永遠の天国は実像だと信じて、天国に向かって力強く走っていた時の行いを回復しなければなりません。


例えをあげましょう。ある子供が英語に興味を感じて一生懸命単語も覚えて授業に集中したら、だんだん成績が上がりました。すると自然にその授業が待ち遠しくなりますね。しかしある時から面倒に思うようになって、ゲームにハマってしまって勉強をおろそかにすると、だんだん成績が落ちて最初持っていた興味がなくなり、その授業も退屈に思うようになります。それを回復するためにはどうすべきでしょうか?睡眠時間も削ってもっと頑張って勉強しなければなりません。すると下がった成績を回復できるのです。


霊的にもこのような努力が必要です。一からやり直すつもりで神様の前に謙遜に恵みを求めれば、初めの愛を回復することができます。黙示録2:5です。「それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行いをしなさい。」とあります。熱心だった信仰はなぜ冷めてしまったのか?悟って悔い改めて立ち帰らなければなりません。影のように漠然としてもやもやしていた、このような信仰でいてはいけないのです。


そのような状態では、神様を信じていると言っていても神様との関係が確かなものにならないのです。神様の前にそのような時は悔い改めなければなりません。御言葉通りに行いませんでした。世に目を向けていました。熱心が冷めてしまいました。聖霊に満たされなくなってしまいました。それで主も天国も漠然と思うようになりました。


もちろんこの教会で現れている神の力を見ているから否定はできないけれど、教会を離れることはできないけれど、心の中で恵みを受け入れられなくなってしまい熱心が冷めてしまって、信仰が影のようになってしまうから問題なのです。こういう時は神様の前にヘリ下って悔い改めて、許しを求めて世のものを断ち切って努力しなければならないのです。


そのような努力はしないで、ただ祈るからと言って答えは来ないのです。神様がくださった恵みを裏切ってしまったから、自分から捨ててしまったからです。それを回復するためには、もっと努力しなければならないのです。もっと熱くならなければなりません。愛の父なる神様は、皆さんがそのように悔い改めて努力すると助けてくださり恵みをくださいます。


そうすれば、影のように漠然としてモヤモヤしていた信仰ではなくて、実像を見ながら走っていく信仰に変わります。すると求めるものは何でも答え受け、主に出会って体験する、生きている、信仰生活ができます。これは主と神様を見つける信仰生活です。このように神様を見つけるなら全てが解決されるでしょうが、信仰の体験ができないから霊的に彷徨っている聖徒もたくさんいます。


皆さん、万民の聖徒の皆さんには、神様を体験したことがありますね。癒されて答えを受けたことはもちろん問題が解決されることもあるし、賛美して祈るとき聖霊の恵みを体験します。火のような聖霊の御わざも体験するし、霊の目が開かれた方もいるし、異言の賜物もいただきました。この全てが神様の恵みです。


それを1年2年前に受けたなら、その後その恵みが続かないで、世に目を向けてしまって世を愛していくならば、その恵みがだんだん冷めてしまい恵みから離れてしまうようになります。自分)は体験したことがあるから、教会を離れることもできないまま、世と神様とにふた股をかけているのです。それは生ぬるい信仰で救いとは遠く離れています。


だから私たちは神様を見つける生きる信仰生活を、いつもしていなければなりません。それは大きな祝福です。ヨブは神様を見つけた体験がなかったから、このように虚しさによって苦しんでいるからとてももどかしいです。しかし試練は結局、ヨブにとって祝福です。


コーチとか監督が選手を発掘するとき、誰でも選ぶのではありません。先行しそうな資質を持っている人を選んで、熱意を持って心込めて訓練をさせます。厳しい訓練過程を通った後、立派な選手が誕生するのです。同じように神様はヨブが聖められて大きい器になることを知っておられたから、このように厳しく練ってくださるのです。ヨブは自分の体は影のようだと嘆いていて、気を取り直して自分の主張をまた言い張ります。


ヨブ記17:8-9です。


「正しい者はこのことに驚き、罪のない者は神を敬わない者に向かって憤る。義人は自分の道を保ち、手のきよい人は力を増し加える。」(ヨブ17:8-9)


友達が自分を正しくないとずっと迫害して、自分の言うことを聞いてくれないから、ヨブは第三者、正しい者、罪のない者を使って友達を説得しようとしています。ここで正しい者、罪のない者はヨブ自身をも指しているでしょう。本当に正しくて罪のない人なら、誰かが人の道から外れてものすごい悪いことをしているのを見ると、義憤を覚えることがあるでしょう。


ヨブは今とんでもない悔しい目に遭っているから、自分のような正しい者はこのことに驚いていると言っています。罪のない者は神を敬わない者に向かって憤ると言っています。つまり自分も正しいし罪がないのにこんな目にあっているから、こんなことをされているから、それに驚いて憤(お)っていると訴えているのです。到底理解できないことを自分の目で見ていて、自分がそのことをされているから悔しくてたまらないのです。


しかしヨブはこのようなことを言える立場ではありません。本当に正しくて罪のない人ならこう言えるでしょうが。ヨブは今、真実でない人だし、第三者の例えを挙げて自分を合理化することは正しくありません。人に信頼されない人が自分の意見を主張するために第三者の名前を言うなら、相手もその第三者を認めないでしょう。それで自分の言葉によって、関係のない第三者に迷惑をかけることもあります。これは日常生活でもよくあることでしょう。


これによってサタンが訴えて、次々と争いを起こすようになります。ある人は自分の目的を達成するために関係のない人まで巻き込みます。例えば自分が言いたいことはあるけれど、誰々がこんなふうに言っていたというのです。そして自分が気に入らないし不満があるとき、誰々がこんなふうに文句を言っていたというふうに言うのです。


そしてこういう人は自分の話に同調する人を探しています。自分の主張を強くしている人は、誰々もこんなふうに文句を言っていたと言いながら、自分に同調してほしいと思うのです。何度もそういうのです。しかしそれは不満を抱きそうなことでもないのに、その人はずっとその不満があっていると、相手の人が賛成してほしいとしつこくそれについて言うのです。自分の見方をしてくれる人を探しているのです。あちこちに行ってあれこれ不満を言いながら、自分は正しいかのように自分のことを訴えているのです。


または自分が話すと相手が聞かないと思って、地位があって権利のある人の名前を上げて、その方がこんなふうに言っていたという場合もあります。またある人は自分が周りに認められないから、頭になる人の名前を上げてその人に自分が愛されているかのように言います。これも罪だと思わないかもしれませんが、これは大きい悪でサタンが訴えることです。これも偽りだからです。


自分が人に認められるために他の人の名前を借りて言うのです。偽りなのです。前に一回褒められたことがあるだけなのに、頭になる人に自分が認められているかのように人に言うのです。それで人に自分の話が、自分の意見が通るようにしようとするのです。それは悪だし、そして正しくないことでしょう。罪になります。そしてその言葉によってサタンが訴えるようになります。


続いてヨブは、「義人は自分の道を保ち」と言っています。自分の道を保つとは正しい道を歩み続けるという意味です。ヨブがこのように言っているのは自分の道が正しいと思うから、周りからどんな反対があっても揺らぐことなく貫くつもりだと言っているのです。つまり私は正しい、しかし友達が何の罪もない私を刺激して悪いもの扱いをしていた。これについて私は解明してきて、これからも解明していくと言っているのです。


そして「手のきよい人は力を増し加える」と言っています。これは自分が正しいから、ますます力を得るようになると言っています。これは一見合わないようではありませんか。なぜならヨブは、ヨブ16:8では自分は痩せ衰えたと言っていたし、ヨブ17:1では自分の霊は乱れたと言っています。今の表現とは正反対に言っていました。しかしヨブは自分の考えではこれはあっていました。ヨブは自分の体が衰えていても、自分の言葉は正しいから、力を増し加えて最後まで主張するという意味で、こう言っているのです。とても愚かな姿ではありませんか。周りからいくら反対されても、私は正しいからこの意見を最後まで貫くと言っています。


ヨブの強い自尊心と意地が込められている言葉です。韓国のことわざに、雀も死ぬ時大声で鳴くという言葉がありますが、ヨブも最後まで声を上げて自分を弁護していくと言っています。体がだんだん痩せ衰えても自分は正しいから、力を絞り出して訴え続けると言っています。皆さん真理に照らしてみれば、このような意地と頑固さは何の使い道もありません。


かえって相手に嫌われるし平和を壊すしかありません。サタンの喜ぶことです。私たちは話をする時も何かを勧める時も、周りの人が理解できないならもう一度顧みるチェックをしてみる必要があります。また互いに平和を保てないのは、それぞれに問題があることだから、自分だけ正しいと主張しないで、相手の話を聞いて理解しようとしなければなりません。


人々は自分が正しい、相手は正しくないと思っています。皆さん自分の考えがあっていると思いますね。正しくないと思っている人はあまりいないと思います。自分が見て感じたことが全部あっていると思います。だからそのように考えて人にもそのように言うのです。人に対してもそんなふうに裁くのです。でも正しくないことあっていないこともたくさんあります。人のした姿だけ、その人の行動だけを見ていますが、その人の心は分からないからです。


ヨブの友達もヨブの言っていることを見て、腹を立てていましたが、ヨブの心は知らなかったのではありませんか。神様はヨブの友達の方がヨブより悪いと言われたでしょう。皆さんも自分が今見て聞いて考えて話していることが、正しいと主張するのではなくて、正しくないかもしれない、あっていないかもしれないと、へりくだる姿勢がとても必要です。それは自分の自尊心を捨てるときに、自分を発見することができます。互いに自分が正しいと主張して言い争うことがあるなら、両方に問題があります。そして両方が相手のせいにするのです。


でも相手の話を聞き入れることは必要です。そして相手の立場で考えてみて、真理と反対のものでなければ聞いてあげることもいいでしょう。相手に合わせてあげることも善でしょう。そのためには心の悪を捨てて、霊の愛が臨んでこそできるのです。このメッセージを聞いて、明日すぐ変えられることが難しくても、続けて努力しなければなりません。大切なのは人と争ったりしたときは、相手にだけ問題があるのではなくて、自分にも何か問題があるのではないかと自分も顧みる姿勢です。


そのために祈りながら、聖霊に助けを求めるなら、聖霊は悟らせてくださるでしょう。イエス様は悪い人々がいくら迫害しても、言い争うことはありませんでした。イエス様は良い働きだけなさったのに、悪い人々がイエス様を殺そうとしました。それでも彼らを憎まなかったし、神様の御心を悟らせてくださり、自分を十字架につける彼らのために赦しの祈りを捧げました。私たちもこのようなイエス様の心に似て、その方の行いを自分の生き方に適応しなければならないでしょう。

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