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ヨブ記講解(43) - ヨブの自己主張(下)

9月10日
読了時間: 15分

説教:イ・スジン牧師

本文:ヨブ記17:1~17:5


私の霊は乱れ、私の日は尽き、私のものは墓場だけ。(ヨブ17:1)


それで本文ヨブ記17:1「私の霊は乱れ、私の日は尽き、私のものは墓場だけ。」と言っているのです。ヨブは挫折して苦しみながら、だんだん疲れていきました。それで自暴自棄になって自分の霊は乱れたと言っています。そしてヨブが本当に今すぐ死ぬような危ないところにいるという意味ではありません。絶望していて心が疲れてしまったからこんなふうに私のものは墓場だけだと言っています。自分の考えの中で全てがおしまいだと思っているのです。立ち返ることもできないし、死だけが待っているんだと絶望しているのです。人生のどん底に落ちたと思っています。


皆さんの中でいろんな大きい問題にぶつかったとき、こんなふうに自暴自棄になって絶望したことはありませんか。信仰生活をするときも、こんなふうに否定的な告白をする人がいますが、なおさなければなりません。聖められるために変えられるために一生懸命罪と戦っていたのに、ある時から疲れてしまってへたり込んでしまうこともあります。それで私は聖められることができないようだと諦めてしまう人がいます。そうしてはいけません。


第二テモテ3:5に「見えるところは敬虔であっても、その実を否定するものになるからです。こういう人々を避けなさい。」とあります。罪を捨てて聖められることは自分の力でできるものではありません。自分の努力プラス神様の恵みと力プラス聖霊の助けがなければなりません。そうしてこそ罪と戦って勝つことができます。このような神様の力に頼らなければなりません。しかし自分でなんとかやってみようと思って、結局挫折してしまい諦めることがあります。​


しかし私たちは神様がくださる恵みと力によって、それに頼らなければなりません。皆さん聖められるために、信仰が成長するために今まで頑張ってきました。しかし周りの人を見てみたら、ある人は躓いてしまって世に行ってしまう人もいるし、そしてある人は落ち込んでいたりする姿を見て、私もちょっと疲れたと思いながら休みたいと思ったり、使命を手放したり熱心が冷めたりする姿がありませんか。​


そして自分なりに一生懸命罪を捨てるために走ってきたのに、捨てたと思ったものがまた出てきて、また出てきて、それでもう努力するのも疲れたと思う人もいますか。諦めたくなる時はありませんか。続けていくのがしんどいと思う時はありませんか。自分がある程度適当にやっても楽に生きたいと思うことはありませんか。そうしてはいけません。それはとても危ない考えです。​


信仰は成長し続けなければならないし足ぶみしていては後ろに行ってしまうのです。毎日私たちは自分を顧みて、自分の口の言葉も目つきも、心の中で考えることも気をつけなければならないのですが、一瞬一瞬そうするのがきついでしょうか。辛いと思いますか。それで諦めたいと思いますか。そうではありません。


そのように努力していけば神様が恵みをくださって聖霊が助けてくださるから、だんだん楽になって幸せになります。神様がくださる喜びがあります。その次元に至るまで私たちは、諦めてはいけないのです。もしかしてもう休みたいと思ったり楽になりたいと思った人がいるならばもう一度頑張ってください。


世では数十年間、お酒とかタバコをしていた人が辞めたいと思っても辞められないことがあります。でも教会へ来て神様の恵みが望んだら一瞬で辞めることができるという証がたくさんあるのではありませんか。だから神様がくださるこのような恵みと力を信じて神様により頼みますように。


続くヨブ記17:2です。


しかもあざける者らが、私とともにおり、私の目は彼らの敵意の中で夜を過ごす。(ヨブ記17:2)


ヨブは友達が自分を慰めるどころか、自分をあざけっていると言います。今まで自分が友達に言った言葉によって、友達が激しく怒っていることはわからないのです。自分の過ちは認めないで、友達が敵意を抱いている姿を見て理解できないのです。今ヨブは相手が悪いと思っているのです。自分は悪いと思わないのです。だから理解できないのです。


人々は自分の過ちとかミスによって相手を困らせたのに逆切れする場合もあります。自分が原因なのに相手がなぜ怒っているのかとわからないのです。例えばお金を借りた人がいるとしましょう。でも事情があって約束した日に返せなかったとしましょう。この時お金を貸してくれた人が怒って怒鳴ったり責めるならば自分は何も言えないでしょう。


自分が相手を怒らせたし、怒鳴られたからといってなぜ傷つくのでしょうか。お金を返すことができなかった自分のせいではありませんか。自分が悪いと思うべきではありませんか。約束を守れなかったから申し訳ないと思って謝るべきなのに、かえって相手にひどすぎると言ったり、なんでそんなに怒るのと言うなら話にならないでしょう。


こういう場合、怒る相手を悪いと思うのではなくて、悪いと思わない自分がもっとひどいということを悟らなければなりません。約束をしたなら必ず守って相手を困らせてはいけないし、もし約束を破ったなら、相手が怒っても申し訳ないと思って謝るべきでしょう。何よりもそういうことが起こらないように知恵を持って、相手が怒らないようにすることが大切でしょう。


だから善を慕っている聖徒ならすべてのことで自分の立場ではなくて、相手の立場で考えなければなりません。相手の言葉とか行いだけ見て、嫌な思いをさせられたとかひどいとか思うよりは、なぜそのように機嫌が悪いのか怒っているのかなと思いながら、相手の立場と感情を理解しようとすれば平和を作れます。


そして反対の場合もあります。相手が何か自分に失礼なことをしたりして自分を怒らせたとしましょう。それでも怒ったことは私の心の中に悪があるからだと自分を顧みて、神様の前で悔い改めればいいでしょう。相手のせいにしないでください。この反対の場合は相手が私に悪を行ったから、私もかっとなって一言言ってあげたとか、それは自己弁明ですがそれも善ではないでしょう。


続く本文を読むとヨブはまた神様に訴えています。ヨブ記17:3です。

どうか、私を保証する者をあなたのそばに置いてください。ほかにだれか誓ってくれる者がありましょうか。(ヨブ17:3)


つまりヨブは神様と自分の間に弁護する人を立ててくださいと言っています。それで自分の正しさを訴えたいと言っています。自分には罪もないのに神様が責任を持ってくださいと言っています。今自分の苦しみは全て神様のせいだから、神様が私のために保証するものを置いてください。それで私に罪がないことを認めて問題を解決してくださいと訴えているのです。


神様のせいにして責任を取ってくださいと言っています。まるで借金のため悩んでいる人が、なんとか問題を解決しようと保証する人を探しているように、ヨブも切羽詰まって神様に叫んでいます。ヨブの苦しみから出る訴えです。神様を信じない人は問題があると、人間的な方法を使って問題を解決するために、保証してくれる人を探します。しかしお金を貸してくれる人がいても、根本的に自分が問題を解決しなければ、またその人に頼るようになります。自分の問題は自分で解決しなければなりません。


そして信仰のある人なら何か問題が起こったら、人を自分の保証するものとして立ててその人に頼ってはいけません。神様が私たちのお父様であり私たちを支えてくださる方だから、神様の前にお願いするべきでしょう。神様私のために保証人を置いてくださいというのではなくて、全知全能なる神様に委ねて信仰で求めなければならないのです。神様を信じるなら神様にお願いすればいいでしょう。神様と自分との関係はもちろん、信頼関係はちゃんとできている場合のことです。私の祈りを聞いてくださることを信じるから、願い事を神様に捧げていただけるのです。しかし神様に頼らないで人に頼ってしまうならば、神様は助けることがおできになりません。


なぜ自分がこんなふうに困難にあっているのかを悟って、悔い改めて立ち返って神様の御心に従っていかなければなりません。すると神様が問題を解決してくださいます。口の言葉では神様、私の主人になってください、私を導いてくださいと祈っているのに、日常生活では自分の考えで人の方法を使っているならば神様私を導いてくださいとしても、神様は助けたくても助けることができないのです。


神様は私たちが道を迷っているなら、立ち返って正しい道に戻ることを望んでおられます。そして過ちを徹底的に悔い改めて改善することを望んでおられるのです。そして神様との関係も正しく築き上げるようにと望んでおられます。しかしヨブは相変わらず自分が正しいと思っていたから、自分の過ちを反省する気もなかったし、漠然としてあてになる人を求めてもがいているのです。


皆さんもこんな信仰生活をしているのではありませんか。祈るときは神様助けてくださいと言っているのに、実際生活の中では神様に頼らないで人に頼って人間的な方法を使うのです。今ヨブは切羽詰まって神様にいろいろ叫んではいますが、しかし実際神様にすべてを委ねる謙遜な姿ではないのです。ただ自分には何の過ちもないのに神様がこんな苦しい目に遭わせたから、神様が責任を取るべきだというふうに問い詰めているだけなのです。皆さんはどうでしょう。神様が本当に自分の父だと思って、主人だと思う人ならば、神様が自分の祈りを聞いてくださるようにしているのかどうか、顧みなければならないでしょう。


ヨブは他に誰か誓ってくれるものがありましょうかと言っています。誓ってくれる人を、これは保証すると誓ってくれる人を言っています。先ほども言ったのですが、ヨブの周りを見てみると自分を助ける人は誰もいないのです。だから神様が何とかしてくださいと、責任を負ってくださいと言っているのです。神様が自分にこのような病気にかかるようにして、こんな苦しみに遭うようにされたから、神様が解決してくださいと言っています。これは低くなって謙遜になって求めるのではありません。問題の原因を神様のせいにしているだけなのです。だから問題です。


皆さんは試練にあった時、マンミンの聖徒なら神様が苦しめたとは絶対言わないでしょう。真理を聞いているから。でもクリスチャンの中でそんな表現を使うことはよくあります。問題にぶつかったり病気になったりすると、神様が試練に会わせられたとか、神様が自分を打ったとかいうふうに表現する人がいますが、それは正しくないでしょう。自分を顧みて自分の中から問題の原因を見つけなければなりません。神様のせいにしてはいけないのです。でもヨブはそんなふうにずっと言っています。


ヨブ記17:4です。


あなたが彼らの心を閉じて悟ることができないようにされたからです。それゆえ、あなたは彼らを高められないでしょう。(ヨブ17:4)


自分が友達にいろいろ教えてあげたのに彼らが悟れないのは、悪を行うのは、神様がそうなさったからだと言っています。ヨブはこういう表現、似た表現を今繰り返し言っています。友達が悪い、友達が自分にいろいろ悪いことをしている。それは神様のせいだと言っているのです。だから神様も彼らを認めてはいけない。彼らを高めてはいけない。自分も彼らを認める気はないと言っています。


でも今ヨブが言っていることは正しくないでしょう。もしヨブが神様がくださった知恵をもって、善をもって友達と話をしていたなら、友達は怒らなかったし言い争うこともなかったでしょう。しかしヨブは自分の中の悪が出てしまって感情的になって、自分が正しいとずっと言い張っているから、サタンが働いて友達と感情的にぶつかったのです。でもヨブは自分の過ちが悟れないで神様に訴えていて、自分を咎めて責めている友達を、神様高めないでくださいと言っています。


これはとんでもない要求ですね。皆さんはこういう姿はありませんか。誰かが自分を苦しめたからと言って、神様あの人に罰を与えてくださいとか。皆さんならそのように祈ることはないけれども、でも自分が何か誤解されたならば、周りの人のところにいってまた自分の正しさを訴えたくなりますね。弁明したくなりますね、それもヨブのような姿なのです。今ヨブは友達が悪いでしょう、私は正しいでしょうと神様に正確に言ってくださいと、彼らを認めてはいけませんというふうに言っています。


どれほど高ぶっているでしょうか。皆さんも日常生活の中で、自分を苦しめて自分に嫌味を言う人がいる場合、その人に直接言えないし、神様にもあの人が悔い改めるようにしてくださいとは言わなくても、でも自分の親しい人のところに行って、その人の陰口を言ったり、私はこんな悔しい目に遭ったとかするならば、それもヨブと同じような姿なのです。


ヨブは今あまりにも悔しいのですね。友達が過ちのない自分をとがめて責めているから。だから神様に彼らを認めてはいけませんと言っているのです。皆さんも日常生活で神様にそう言わなくても、自分の親しい人のところに行って、自分を苦しめた人の悪口を言ったり、自分が悔しいと言ったり、その人が悪い人のように印象づけることがあるのではありませんか。それも自分の中に悪があるからでしょう。でも本当に善のある人、神様を信じる人、頼る人ならば、神様に祈ってその人のために祝福を祈って、それで時を待ちながら善を行うでしょう。ヨブは神様が友達の心を閉じて悟ることはできないようにされたから神様が悪いと言っています。また友達も無視しています。


続くヨブ記17:5ではヨブは友達を呪っています。


分け前を得るために友の告げ口をする者、その子らの目は衰え果てる。(ヨブ17:5)


今ヨブは友達に自分が侮辱されたから、その代価としてその友達の子供たちの目が衰え果ててしまえと呪っているのです。自分が指摘される姿があったことは悟れないで、相手のせいにして呪っているのです。それはヨブに信仰がなくて真の愛を知らないからです。このような姿を見ればなぜこのように試練に遭っているのか分かるでしょう。


イエス様はルカ6:27-28で、「あなたの敵を愛しなさい。あなたを憎む者に善を行いなさい。あなたをのろう者を祝福しなさい。あなたを侮辱する者のために祈りなさい」と言われました。神様は敵を愛しなさいと言われたのに、敵でもない友達を信仰の兄弟を憎んではいけないでしょう。自分を呪う人のために祝福することは簡単ではないでしょうか。霊の愛が臨むなら、そうできます。


心が変えられれば自分を呪う人でも、その人を可哀想に思うからその人のために祈ることになります。ステパノ執事は神様の御心を伝えていて石を投げられて死ぬ時も、自分に石を投げる人を恨んだりしませんでした。膝をついて大きい声で、「主よ。を彼らに負わせないでください。」と、代わりに許しを求める祈りを捧げました。その心に悪い人々のためにも、命を捧げる最高の善と愛を所有していたからです。神様は私たちがこのような善と愛の次元に至るように望んでおられます。


ヨブは行いでは潔白で正しいものとして神様に褒められていたのですが、でも人が自分を打つならば自分も打ち返すような人でした。だからヨブの行為的で一方的な善を、真の善に変えてくださるために練ってくださっているのです。神様はヨブを御霊の人に変えられるようにするために、火のような試練の中で自分の悪が出てきてそれを発見するようにしてくださるのです。


それでヨブに潜んでいた悪が明るみにされるのです。しかしヨブが悪を発見して捨てると、神様に認められ愛されて祝福される器になれるから、神様はそうなさるのです。もし厳しい訓練を受けなくてもオリンピックで金メダルを取れるなら、選手たちは訓練を受けようとするでしょうか。また監督も選手を訓練させる必要もないでしょう。しかし金メダルを取るためには、必ず厳しい訓練の過程が必要です。だから地獄のような訓練でも耐えるのです。ヨブの場合も、神様はヨブが真の祝福を受ける器だから鍛錬してくださるのです。


ところで神様が祝福するために練ってくださる時、結局自分の中にあった悪が出てくるのです。悪がなければそれが出てこないでしょう。自分の中に悪があるから出てくるのです。例えば職場で上司が同僚を褒めたとしましょう。その時、「え?あの人は何の取り柄もないのに?」と面白くないなら自分の中に悪がたくさんあるのです。上司が自分を指摘したのでもないのに、褒められた同僚を妬んで不満を抱いて自分を苦しめるのです。このように心に悪があれば良いことを見ても悪く思うのです。


それではヨブが友達の子供の目は衰え果てると言ったのはどんな意味でしょうか?目は霊的には未来を意味します。人は目が見えなければ道も見えないし閉じ込められたようですね。だから目が衰え果てると言っているのは大きい呪いです。また子供は家の跡を継ぐ大切な存在なのに、そんなふうに呪ったからこれは大きい悪でしょう。


ヨブ記15章でエリファズがヨブを呪ったのですが、今ヨブもそれに仕返しをしているようなものです。皆さんこの姿が自分ではないか顧みますように。相手の言葉とか行動で傷つけられて、気分が悪くなりました。それならそれを覚えていて、後で仕返しをしようと思っていますか?ずっと根に持っていますか?それは世の人の姿で悪い心でしょう。神の子供はそうしてはいけません。だからヨブ記講解を聞きながら自分を顧みて悪を発見して速やかに捨てましょう。


結論です。


愛する聖徒の皆さん。並行線はいくら長い時間が経っても互いに会うことはありません。自己主張を曲げないでずっと自分だけ正しいと言い張る人も同じです。もしヨブが最初から友達の言う話を受け入れたなら、もうすでに問題は解決されたでしょう。しかしヨブは自分の自尊心と意地を曲げないでずっと自分が正しいと主張していたから、試練が続いています。主を愛する聖徒なら人と言い争ったりしたくないでしょう。平和を作りたいでしょう。でも些細なことで互いに仲が悪くなることもあります。それは自分の利益を求める心、自分の立場を考えるからです。


しかし真理と反対のものでなければ相手に合わせてあげたほうがいいです。今すぐは損をするようかもしれませんが、善を行うと神様が喜ばれるから、神様が祝福してくださいます。塩が溶けてこそ塩気が効くように、自分というものを、自分の感情、自分の利益、自尊心を捨てましょう。そして犠牲になって全て渡す主の心に似ていきましょう。すると主の前で褒められる皆さんになるでしょう。


聞いたメッセージを思い出して祈りましょう。

父なる神様、今日ヨブが神様と友達が悪いと言いながら、自分には何の過ちもないのに悔しいと言いながら、神様の前に訴えている姿を見ました。そして友達の子供まで呪っている姿を見ました。私たちの心にはこのような姿がないのか、悪がないのか顧みますように。自分の口の言葉と心の中と思いの中を顧みて発見して自分を認めて、速やかに捨てて変えられるようにしてください。感謝してイエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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