ヨブ記講解(43) - ヨブの自己主張(上)
説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記16:16-22
皆さん、前回は自分の角を捨てようというメッセージで、自尊心というものがどれほど無益なものなのか伝えました。イソップの寓話を見ると自分の美しい角を誇っていて、弱い足を恥ずかしく思っていた鹿の話があります。ある日ライオンがこの鹿を追いかけてくると、鹿は細い長い足で素早く逃げることができました。しかし普段とても誇りに思っていた角が枝に引っかかってしまって、結局ライオンの餌食になってしまいました。
このように人にも名誉、権力、お金、外見など誇るような角があるかもしれません。しかしこのようなものが高ぶりを生み、不幸をもたらすこともあります。しかし自分が短所だと思っていたことによって、低くなって発展することもあります。ですから心の中にある、いらない自尊心の角、高ぶりの角を捨てて、神様が喜ばれる謙遜な人にならなければならないでしょう。
神様が聖書で、ヨブの話をこのように具体的に記すようにされたのは、私たちの中にある罪の性質を発見して捨てて、聖められるように望んでおられるからです。ですから今日もメッセージを聞いて、鏡として自分を照らして発見して、悪を捨てて善を満たしますように。
本文を読むと、ヨブの心の苦しみがどれほど酷かったのかが分かります。ヨブ記16:16です。
「私の顔は泣いて赤くなり、私のまぶたには死の影がある。」(ヨブ16:16)
ヨブはひどい皮膚病で痛くて泣いていました。子どもたちをみんな失ったから悲しくて泣いていました。妻にも友達にも捨てられて泣いていました。自尊心も踏みにじられて苦しくて泣いていました。泣いていたら顔も赤くなって目も充血しました。絶望に落ちてしまって、まぶたには何の希望もなく死の影がありました。
この時は涙で嘆くのではなくて、全能なる神様のところに行って求めれば神様が解決してくださるのに。ヨブは神様により頼むことができず、自暴自棄になって泣いていました。神様を見つけた体験がないし、ただ知識的な信仰に過ぎなかったし、希望のない肉の人だったからです。
皆さん、本当に神様を信じる私たちが流すべき涙は、どんな涙でしょうか。哀れな魂を救うための悲しみの涙、罪を犯した時立ち返るための悔い改めの涙、変えられるための決断の涙、神様の恵みに感謝する涙、喜びの涙でなければなりません。今自分が試練にあって嘆きながら悔しい思いをしながら流す涙ではなくて、感謝と喜びを持って涙を流すべきです。信仰と希望のある神様の子供はどんな試練の時も患難がやってきても、喜んで感謝して祈ることで勝利できます。霊の信仰がある人とない人とではこのように大きい違いがあるのです。
続くヨブの告白を見ると、ヨブは相変わらず自分が正しいと主張しています。ヨブ16:17-18です。
「しかし私の手には暴虐がなく、私の祈りはきよい。地よ。私の血をおおうな。私の叫びに休み場所を与えるな。」(ヨブ16:17-18)
ヨブは自分の手には暴虐がないと言っていますが、暴虐とはむごいことをして人を苦しめることです。ヨブの言葉のようにヨブの手に暴虐がなかったことは事実です。人の心にあるものが行いに出てきますが、ヨブは行いに出てくるほどは悪い心があったのではありません。しかし口で多くの悪をこぼしました。それだけ心がまだ変えられていなかったからです。そしてヨブは自分の祈りはきよいと言っています。これは今まで自分が口にした言葉が、どれほど神様の前でふさわしくないのかを相変わらず悟っていない姿を言っています。
続いてヨブは「地よ。私の血をおおうな。」と言っています。これは自分が正しいし聖いから、地に自分の正しさを覆うなと言っているのです。そして私の叫びに休み場所を与えるなと言っています。これはどういう意味でしょうか。自分が続けて叫ぶように、つまり弁明できるようにしてほしいと言っているのです。世では悔しい目にあった人が自分の正しさは天が知っている、地が知っていると主張する人がいます。ヨブも今例えを挙げて自分の境遇を訴えています。
しかし神様の子供は天が知っていて、地が知っているという表現を使う必要はありません。詩編139:1-4にこうあります。「主よ。あなたは私を探り、私を知っておられます。あなたこそは私のすわるのも、立つのも知っておられ、私の思いを遠くから読み取られます。あなたは私の歩みと私の伏すのを見守り、私の道をごとごとく知っておられます。ことばが私の舌にのぼる前に、なんと主よ、あなたはそれをごとごとく知っておられます。」
神様は全てをご存知です。ヘブル書4:12-13にこうあります。「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも指し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。」とあります。
このように神様の御言葉で照らしてみれば、自分が正しいか正しくないか明らかになります。私のことは天が知っている、地が知っていると言う必要もないし、神様がご存知です。また真理の御言葉で照らしてみれば、自分が正しいかどうか正確に見ることができます。それで良いのではありませんか。御言葉で自分の心を詳しく見て罪と悪を発見して捨てれば、それだけ魂に幸いを得て健康であり祝福されるのです。
神様の前では誰も何も隠すことができません。人に誤解されることもあるし、悔しい目に遭うこともありますが、神様だけは全てをご存知だから、時が来ると必ず真実が明らかにされるのです。ですから本当に大切なのは、神様の前でどのように行うかです。今は損もするようで悔しい思いをするようでも、全てを神様に委ねて御言葉に従うなら、神様が喜ばれて全てを働かせて益としてくださるのです。
ところが聖徒の中でこのような神様を信じることができず、頼らないで人に訴えたり、不平不満を言って嘆く人がいます。周りの人にまた自分を理解してくれる人を探すのです。自己主張を続けるのです。ヨブもそうでした。自分は正しいと訴え続けるのです。そして自分の話を聞いてくれる人が欲しいのです。その話を聞いて、それは違うとアドバイスをしてくれる人は嫌なのです。自分の味方をしてくれる人が欲しいのです。それは信仰ではありません。神様に頼る信仰ではありません。神様を信じる信仰が足りないし、自分から問題の原因を見つけることができない姿です。そのまま時間が経っても問題は解決されないのです。
世の人々はそんなふうに生きています。それで問題が解決されることがあるならいいのですが、ほとんどは原因がわからないから問題が解決されないのです。だからずっと不満ばかりなのです。しかし神様を信じる子供なら、クリスチャンなら人の前で自分のことを訴えたり、不満をさらけ出したりするのではなくて、神様の御言葉で自分を照らしてみて自分の欠けているところを探して霊的に解決すれば、目の前の問題も解決されるのです。
「今でも天には私の証人がおられます。私を保証してくださる方は高いところにおられます。」(ヨブ16:19)
ヨブは自分が潔白だから、自分が正しいことを証してくださる方が天におられると言っています。自分を保証してくださる方が高いところにおられると言っています。つまりこの地上では自分を救ってくれる人もいないし、問題を解決してくれる人もいないし、自分が訴える対象は神様であり、神様が自分をこんな目に遭うようにされたから責任を負うべきだというふうに言っているのです。
これは神様の前で神様が問題を解決してくださらないから、私がこんなに苦しい目に遭っているのではないでしょうかと、問い詰めているのです。前後の文脈からヨブの心の訴えがわかります。
「私の友は私をあざけります。しかし、私の目は神に向かって涙を流します。その方が、人のために神にとりなしをしてくださいますように。人の子がその友のために。数年もたてば、私は帰らぬ旅路につくからです。」(ヨブ16:20-22)
ヨブ16:20-22です。ヨブはこの時神様にとりなしをしてくださいと、神様に頼るように見えるかもしれませんがそうではありません。ヨブの友達も妻も周りの人も、ヨブをあざけっているとヨブは思っています。しかし友達の立場から見ると、ヨブが今あまりにも正しくないことを言っているから、それについて指摘しているだけなのです。だから言い争うようになるのです。
ヨブは自分が悔しいと言っていますが、友達が見るには当然のことを言ってあげているのです。でもヨブがそれを受け入れないから、互いに対立していて言い争っているのです。互いに自分は正しい、あなたは正しくないと言いながら相手が自分を無視していると思っています。友達も同じですね。ヨブが自分たちを無視していると言いながらだんだん感情的になって、言葉の表現が激しくなって呪ったりするのですね。誤解がだんだん募るのです。こういう時は互いに自分が正しいと主張するのではなくて、真理の御言葉を持ってただすべきです。
そしてヨブは神様に向かって涙で訴えているのですが、この方法も正しくありません。御言葉には喜びなさい、祈りなさい、感謝しなさい、信仰を持って神様の前に願い事をしなさいとあります。しかしヨブは反対に、呟いて恨んで嘆いて誤解して裁いて涙を流しています。だから同じ涙でもどんな意味かによって違います。ヨブが低くなって自分の罪を悔い改めながら涙を流しているなら、それは神様に受け入れられるような涙でしょう。悔い改めの涙だったらよかったのですが、そうではなくて、ヨブの涙は悔しくて、痛くて、嘆きながら、訴えながら涙を流しています。
するとどうなるでしょうか。サタンが働くようになります。そのような口の言葉、涙によってサタンが働いてしまってさらに病気がひどくなって、苦しみが大きくなるのです。今ヨブはそのような繰り返しですね。それが皆さんの自分の姿かもしれません。ダニエル祈祷会の時、涙を流して祈っているとしても、その涙の意味が何か自分で考えてみなければなりません。
今病気で苦しいから痛いから涙を流すのか、そうでなければ、今日一日嫌なことがあったから悔しいから涙を流しているのかです。ヨブも天に自分を保証してくださる方がいると言っていますが、それは本当に神様をおそれかしこむ意味ではなくて、神様の前で訴えて責任を取ってくださいというふうに問い詰めている姿でした。だから違う意味の涙でした。
でも私たちはそうしてはいけないでしょう。喜び、感謝の涙を捧げて、信仰によって自分を顧みて悔い改めてこそ問題が解決されます。ヨブは自分が正しいと主張してきました。だからとりなしをしてくださるようにと言っています。自分が正しいことをどうして認めてくれないのですか、どうしてこんなに苦しい目に合わせるのですかと言っているのです。いくらでも私は自分の正しさを言えるのにと言っています。高ぶっている姿です。とりなすとは対立する二人の間に立って、事態が好転するようにうまくとりはかることです。
ここでヨブは人の前でも神様の前でも自分が正しいことを主張していると言っています。「人の子がその友のために。」とありますが、この人の子は普通の人ではなくて、人として本分を尽くしていて、義と善を持っている人を言っています。そのような人が自分をとりなしてくれるようにと願っているのです。なぜなら自分は、自分も正しく、又良いことをしていたからと言っているのです。そして自分を知っている全ての人の前で、自分の弁明をしたいと思っていました。自分はこんな苦しみを受けるような悪いことをしたことがないと言いたいのです。人々は自分が神様によって懲らしめられていると誤解しているようだから、それについてはっきり解明したいと思っています。
しかし私たちは苦しみにあったとき人の前で弁明するのではなくて、全てをご存知の神様に委ねなければなりません。教会の中で聖徒の間で意見が違うときもあるし、互いに誤解したり誤解されたりすることもあると思います。そのようなことがあってはいけないのですが、いろんな人が集まっているから、またそれぞれ違う環境で育った人もいるし、人と人との間では誤解することもありますね。
皆さんはそういうとき、自分が悔しい目にあったと思うならどうしていますか?自分の悪口を言った人とか、自分の陰口を言った人のところに行って、厳しく一言言ってあげたいと思いますか?そうでなければ自分のことを誤解している人々のところに行って、私は違う、やっていないとヨブのように弁明したいと思っていますか?そうでなければ黙々と神様が知っておられるから、また自分を顧みて、もしかして自分が相手に何か失礼なことをしたのではないか、誤解されるような原因が自分にあるのではないかと思いながら祈る姿でしょうか。
一瞬もしかして落ち込んでしまったり傷ついたなら、それさえも神様の前に悔い改めている姿でしょうか。そして神様の前に祈りながらさらに広い心になるように、どんな人でも受け入れる人になるようにと祈っていますか。そういう人なら神様の前に正解を書いた人ですね。そんな生き方をしている人ならば神様に愛されるし、すぐ祝福されるでしょう。
しかしある人は誤解されたりするなら、それが悔しくてたまらないのです。そして自分がそんな風に言ってないのに、周りの人々がそれを膨らませて伝えてしまったから、他の人に自分が悪い人のように誤解されているならそれが悔しくてたまらないですか?腹が立ったり我慢できなかったりして、しゃべっていろいろ弁明したいと思いますか。それならヨブの姿と同じではありませんか。
皆さん、日常生活で自分はどうなのか顧みますように。人の目を意識して私はそんな人ではないのにみんなに悪く思われたくないと思いながら、何とかして弁明したいと思って訴えている姿はないのか顧みますように。神の子供はどうすべきか、私たちは真理を聞いて知っています。神様は全てを見ておられ全てを知っておられます。だから神様に委ねて信仰によって歩んでいれば時が来ると神様が全てを明らかにしてくださいます。
私はその神様がおられるからとても心強いしとても感謝です。もし神様がおられないなら一人では耐えられないと思います。しかし神様がおられるから、神様により頼むことができるから安心できるし心が平安です。私の顔を見ると平安に見えますか? そうでなければ心配しているように見えますか?イ-スターのとき賛美を捧げる時、私の顔を見るとどうでしたか。実はいろいろなことがあったのですが、そして私も講壇に立って皆さんの前に見せるような立場にいるのですが、普通賛美リードをするならば、カメラもクローズアップしたりするからお化粧とかそしていろいろ気をつけなければならないところがあるのですが、今回はそれに気をつける心の余裕もなかったのです。
それでも私は神様の前に私の心を捧げようと思いました。それなら聖霊様が支えてくださるからと思いました。神様により頼むしかなかったのです。もちろん世の方法は使いません。何かマッサージをしたり、そういうこともありません。私たちは神様により頼んでいるのか、世の方法を使うのか。皆さんも自分を顧みながら考えてみてください。
人との間でも対人関係でも神様にゆだねますように。問題は自分と神様の関係がどのくらい信頼関係が築かれているのかでしょう。本文にヨブは「数年もたてば、私は帰らぬ旅路につくからです。」と言っています。ヨブは今の自分が受けている苦しみが大きいから絶望していて、もうすぐ自分は命がなくなるだろうと思っていました。このままずっと苦しみを受けていて、いつ死ぬかわからないと思っていました。だから帰らぬ旅路につくと決めつけています。
しかし私たちは神様の御言葉を聞いて、私たちはどこから来てどこに帰るのかよく知っています。この地上で生きている間どのようにすれば祝福されるのか、どのようにすれば呪われるのか、たとえ死の陰の谷を歩いていても、信仰を守っているなら神様が救ってくださることも知っています。そしてこの地上での人生が終わると、永遠なる天国で主と共に受ける栄光と幸せを望んでいるから、どんな状況でも絶望しません。一日一日を信仰で勝利できます。
そのように信仰生活をしていて死ぬようになったとしても、天国に入るから幸せでしょう。しかし信仰のない人々は、死を迎えるようになったり絶望的なことにあったりするととても苦しくなって恐れます。創造主の神様を知らないし天国への希望がないから、死が近づくほど人生の虚しさを感じます。ヨブも神様を、知っていると思っていましたが天国への希望がないから、口から出てくる言葉は虚しいことや絶望だけでした。
