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ヨブ記講解(42) - 自分の角を捨てよう(下)

9月10日
読了時間: 19分

説教:イ・スジン牧師

本文:ヨブ記16:12~15


私は荒布をはだに縫いつけ、私の角をちりの中に突き刺した(ヨブ16:15)


神様がヨブを打ち破って、破れに破れを加え、ヨブの肌は荒布を縫いつけたような状態になったと言っています。これは荒布をまとっているという意味ではなくて、皮膚病によって肌がめちゃくちゃになっている姿を言っています。今、自分の体はこんなふうに満身創痍になっていると言っています。​


普通、生地は糸が細くて柔らかいもの、また色が美しいほど高いものです。折り目が荒いものとか粗末なものなら、それは良いものではないでしょう。きめ細やかで柔らかい糸で、きちんと折られているものが高いのです。そして、幾つかの布を重ね合わせて縫い付けたものよりは、一枚で折ったものがもっと高いでしょう。貧しい人は新しい服を買うお金がないから、服に穴が空いたりすれば破けたりすると、古い布でそこに重ね合わせたり、布切れを重ね合わせたりするのではありませんか。​


ヨブは今自分の体がそんな状態になっていると表現しているのです。ヨブは荒布を肌に縫い付けたと言っています。荒布は折り目の荒い布、粗末な布を言っています。昔、韓国では、市民は主に木綿とか麻で服を作って着ました。木綿も麻も柔らかくはありませんね。荒いでしょう。だから皮膚に触れたら気持ちいいでしょうか。そうではありませんね。絹とかもっと良い布で作った服を着たとき、触れたとき気持ちいいでしょう。​


しかし、木綿とか麻はそうではないのです。これが荒布でしょう。ヨブの今の皮膚がそうなっているのです。そして服を長い間ずっと着ていて、肘とか膝のところが古くなると、布切れを重ね合わせて着たりしました。すると、その部分は厚くなって、跡が残るでしょう。そしてその周りは簡単に破けてしまうのです。ヨブがこのような状況を自分の体に例えています。​


つまり、ヨブが今、荒布を肌に縫い付けたと言っているのは、ヨブの皮膚の傷が固まってはまた崩れるのを繰り返している状態を言っています。ヨブが今、自分の皮膚について言っていますが、人の心にある善と悪の程度によって、心が平安であったり、そうでなかったりするのですが、これは皮膚にも影響を与えることがあります。皮膚が綺麗な人を見ていると、その心も安らかだとある程度予測できますね。健康状態も皮膚のトラブルが起きるかによって分かるところもあるのではありませんか。そして、心に苦しい、つらい思いをしている人ならば、皮膚も良くない場合があります。


ヨブは試練に遭う前、裕福だったときは体も健康でした。そして、ヨブは正しい行いをしていたから、もちろん皮膚も柔らかかったでしょう。しかし今は、悪性の腫瘍によって皮膚がひどく荒れていて、荒布を着ているようだと、神様の前で嘆いています。これは神様が自分を打ち砕いて、破れに破れを加えたからだと言っています。そしてヨブは、今日のメッセージのタイトルにあたる本文ですが、私の角をちりの中に突き刺したと言っています。


ここで角とは自尊心を意味しています。人は生まれて成長しながら、見て聞いて学ぶ過程を経て、知識と教養を積みながら自分の心を形成します。そして自尊心と自分の主観というものが生まれます。ここで角とは自分の主観とも言えるでしょう。これは人が生きている間自分の力となり頼りになります。


ある人は知識とか権力を積んで、それで自分の角を作ったりします。そして自分が正しいと思って形成した教養で自分を作ったり、自分の考えに合わない人は間違っていると無視するなど自分の角を持ったりします。そしてある人は正確な枠が角になる場合もあります。それで角で相手をついたりする人も、相手を苦しめたりする人もいます。そして自分が正しいと思う性格の枠によって自分を苦しめる人もいます。


しかしイエス・キリストを受け入れて神の子供とされた人は自分の角というものを捨てなければなりません。詩編75:5に、「お前たちの角を、高くあげるな。横柄な態度で語るな」とあります。自尊心、自分の主観、高ぶり、義と枠など自分の角がなくなってこそ真理が強くなり反対に真理の角が立てられます。


ところで私たちが主を受け入れて聖霊を体験したからといって、すぐ自分の角を捨てて完全にされるのではありません。赤ちゃんが生まれて幼年期を経て大人に成長していくように、人が御霊によって新しく生まれた後は御言葉を行っていきながら、御霊の人に変えられて信仰が成長していくのです。


ところでこの様に信仰が成長する過程で、私たちの中にある二つの心が霊的に戦います。主を受け入れる前の真理と反対の心と、聖霊を受けた後の真理の心が互いに対立するのです。つまり真理・善・霊を追い求める心と、それと反対のもの悪・肉を追い求める心が互いに立ち向かうのです。一方は御霊に従おうとしますが、もう一方は真理と反対のものに従って神様に逆らうからです。


私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。なぜなら肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなた方は自分のしたいと思うことをすることができないのです。(ガラテヤ5:16―17)


肉の願うことは御霊に逆らいとあります。これは自分の角、すなわち自尊心、自分の主観、高ぶりなどであり、それによって御霊に従えないのです。この自分の角を捨てないから御霊の歩みに入れないのです。


皆さんも成長過程の中でそして主を受け入れる前、自分の中に自分というものがあったでしょう。高ぶりもあったし、そして自分の主観の強い人がいますね。自分の義と枠で自分の角を作った人もいるでしょう。そして自分の誇りとか、強い性格などが自分の角になっている場合もあります。それを打ち砕いて捨てなければ御言葉・真理に従えないのです。


そして自分の角というものは、すべて自分でしょう、自分を愛するからでしょう。聖書の神様の御言葉に従いたくないのです。低くなりたくないのです。低くなりなさい、犠牲になりなさい、仕えなさいという聖霊の声に従えないのです。


自分という角があるから、自分が低くなって犠牲になろうとするなら角が対立します。肉の思いが動きます。私は愚かなものでもないし、何故私が犠牲にならなければならないのかと思います。こうやって自分という角を捨てないから、信仰生活をしていても、聖霊の声に従えないのです。


自分がまず人を許さなければならないのに、自分という角がある人は相手を許さないのです。相手が自分に悪いことをしたからと思います。自分から低くなって相手に仕えたくないのです。平和をつくる為には、まず自分から手を差し伸べなくてはならないのに、そうすれば、自分が負けるようで自尊心が傷つくと思うからそれがいやなのです。


自分が譲ること、自分がまず謝ることは自分が負けるようで、自分の角がそれを許さないのです。そして敵である悪魔サタンがそのように仕向けるのです。山羊は角をもって他の羊とか山羊を攻撃しますね。皆さんにはそういう角がないのか顧みますように。


ある人はうわべだけ見れば、柔和に見えるのですが。しかし、その中を見てみれば強い面があります。頑丈な面もあって人と妥協しないし、人の話を聞かない強い自分という角を持っている人がいます。うわべでは、人と争うこともなく、おとなしく見えるかもしれませんが、その中には意外と強い角のようなものがあって、変えられるのが難しい人がいます。皆さんは自分にはどんな角があるのか。顧みますように、それを見つけて捨てなければなりません。


使徒パウロは、第1コリント15:31でこう言っています。「兄弟たち。私にとって、毎日が死の連続です。これは、私たちの主キリスト・イエスにあってあなた方を誇る私の誇りにかけて、誓って言えることです。」これは主を知る前、自分が学んだ自分が正しいと思っていた全て、自尊心、自分の主張、義と枠全てを全部捨てるという意味です。真理と反対のものを全部捨てるという意味です。それが自分の誇りだと言っています。


皆さん、自分の知識とか、自分が正しいと思っている考え方とか、自分の外見を誇るのではなくて、毎日が死の連続だということを誇らなければなりません。自分の角が打ち砕かれて真理の角が立てられて、主に従わなければなりません。


ピリピ3:7-8です。「しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。」と言っています。


皆さん、自分にとって尊いものがありますか。貴重なものがありますか。これだけは捨てたくないと思っているものがあるなら、それを捨ててこそ、主に自分を捧げることができます。そうすると、自分の尊いもの香油を主に捧げることができるし、すると神様が強くしてくださるのです。


しかし未だに自分を主張していて、自分にとって貴重なものを捨てていない人がいますか。全てを捨てて塵あくたと思いましょう。このように自分の角を打ち砕くほど、御霊の人、真理の人、主のご性質に似た人になります。使徒パウロは真理にあって毎日が死の連続だったので、聖霊の声を明らかに聞いて、神様の力を受けて大いに行いました。


私達は使徒パウロの性格が元々どうだったのか学んだでしょう。自分が正しいと思ったら絶対くじけないで人と議論するのは好きで、深く探求する性格でした。義の強い人でした。しかし主に出会った後、自分に死んで自分を捨てて、心が広くなってどんな人も受け入れることができました。それで神様は大きい神の力をくださって尊く用いてくださいました。もし、使徒パウロに自分の考え方、自分が正しいと思っていることを主張している姿があったらこのようには用いられなかったでしょう。


使徒パウロは第2次伝道旅行の時、小アジアに行こうとしたのですが、御霊によって、そこに行かないようにと言われました。それを後で幻を見て、確かにわかりました。マケドニアの人が私達のところに来て助けてくださいという幻を見たのです。それで、使徒パウロは聞き従ってマケドニアに行って、そこで福音を伝えたら、あちこちに教会がたくさん建てられ多くの人が救われました。


試練を通して毎日が死の連続になって、完全に聞き従う神の力を行う人になったのです。それで神様に栄光を捧げました。私達も聖霊に満たされているときは御霊に導かれますね。それで、このようにしなければと思って、この道がまことだ、新しいエルサレムに行く道だと導かれていました。しかし、自分というものが完全に捨てられていなければ、疑ったり、落ち込んだり、くじけたりするのです。


このように行ったり来たりして二股をかけているから、心の中で二つの心が戦っているからどれほどつらいでしょうか?自分の角を完全に捨てなければならないのに、それがまた伸びてしまうのです。そうではなくて毎日自分に死んでいきましょう。


ところがヨブは自分に死ぬのがあまりにもつらかったのです。自分の自尊心が傷ついたのがあまりにも悲しかったのです。角がちりの中に突き刺されたと言っています。これは自尊心が傷ついてそれを悲しんでいる姿です。ヨブのように自尊心を捨てるのを嫌がる人もいます。しかし、イエス様と昔の信仰の人々はどうでしたか。自尊心も高ぶりも自己中心的な考えもありませんでした。


イエス様は悪い人々が捕えようとしたとき被造物が、創造主の神様の御子を捕らえようとするのかと叱られませんでした。おとなしく神様の御心に従って捕らえられておとなしい羊のように、罪の為の生贄になってくださいました。自分というものが全くなかったからです。


彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。(イザヤ53:3-4)


イエス様はこのようにさげすまれこのように裁かれても、その為苦しいと思ったのではありません。神様の愛を知らずに、十字架の意味を知らずに悪を行う人の子らを見て、もどかしい心で悲しんでおられました。代わりに執り成しの祈りをしてくださった愛のイエス様です。


どうして私をこのようにさげすむのか、こうして私をこんなふうに苦しめるのかと言われたのではありません。彼らが悪を行って滅びに向かう姿を見て悲しんでおられました。これが、自分の角がない姿です。


しかし、自分の角があって悪がある人は、人によって苦しめられると、その人を憎みます。悔しいと思います。しかし悪のない人は、相手が悪を行っている姿を見て、かわいそうに思うのです。善の心です。これが自分の角がない人、真理の角がある人です。


イザヤ53:7です。「彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれていく羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。」とあります。イエス様の犠牲と献身、自分というものがなく聞き従われた姿を表現しています。


聖書にある信仰の人々もそうでした。モーセはエジプトの王子だったときはどれ程自分の角が強かったでしょうか?同族を虐待するエジプトの人をその場で殺すほど短気な人でした。王子という身分があって全ての分野で自尊心もあったでしょう。自信も溢れていたでしょう。しかし40年間、羊を飼いながら試練の歳月を送った後は自分の角はなくなりました。地上の誰にも勝って非常に謙遜でありました。どんな人でも受け入れる人になりました。


アブラハム、ヤコブ、ヨセフ、エリア、ダニエルもそうです。試練の過程を経て自分の角がなくなったので、ただ神様の御心に従いました。イエス様の弟子たちも聖霊を受けたあと、自分の角を捨てて、神様に大いに用いられる人になりました。自尊心、高ぶり、自分の主観など自分の角は信仰をもって聖められることを妨害します。こういうものは敵である悪魔、サタンが好きで、喜ぶものです。 そして、何の使い道もない塵あくたのようなものです。


マタイ10:39に、「自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。」とあります。神の子供である私たちが、肉にあって死ねば霊にあっては生きます。信仰によって自分というものを捨てて、家庭と教会で、神の国のために低くなって使えるなら、神様が祝福してくださいます。これが霊的な法則です。


ルカ14:11に、「だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」とあります。自尊心を捨てて低くなるとき、神様が高くしてくださいます。世の人の中には、力が足りなくて殴られたり、卑怯だから退く場合があります。今自分は力が弱いから、仕方なく抵抗できないし、殴られるし、退くのです。これは信仰の行ないではないから、神様が働いてくださることはできません。


ところが神の子供がマタイ5:39に、「悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。」という御言葉に従って、相手と争うことをしないで、かえって負けてあげるなら、神様はそれを信仰の行いとしてみなして、勝利を与えてくださいます。御言葉に従って低くなろうとしたら、かえって高くしてくださり、すべてを働かせて、益としてくださいます。


このように自分の角を捨てて、真理の角が生きていなければなりません。自分の角を捨てていくほど、真理が強くなり、聖霊に導かれ、神様の御心に従うことができるのです。しかし、自分の主観にこだわる人は、神様の御言葉に従いません。サウル王は自分の考え通りに行って、御言葉に繰り返し聞き従わなかったので、結局退けられました。


ヨナも自分の角、自分の主観を捨てなかったから、御言葉に従えませんでした。 神様はニネベに行って、罪を悔い改めるように叫びなさいと命じました。しかし、ヨナはニネベが滅びるのを望んでいたから、神様の御言葉が自分の考えと合わなかったから、神様の御目を避けてタルシシュに逃げました。こういう場合は、肉の思いを打ち砕いて従うときまで、試練と苦しみは続くようになるのです。


ですから皆さんも神様の御心に逆らっていくとき、さらに厳しくなって試練が大きくなったりするのです。ですから、試練に遭ったときは、神様の前で自分を捨てて自分を徹底的に低くなってこそ、早く試練が終わります。つまり、自分の角を捨てることです。ヨナはそうできませんでした。


タルシシュに逃げようとしたのですが、神様が悟らせてくださって、ニネベに行って、悔い改めを宣言するようにしました。それで、王と民が悔い改めたら、神様は憐れんでくださったのです。しかし、ヨナはそれについて腹を立てました。皆さん、自分の心はどうなのか顧みますように、悪を行った人、罪を犯した人を神様が許してくださって、救ってくださったのを見ながら、それについて腹を立てたりする姿はありませんか。


どれほど悪い心でしょうか。私たちは、そういうことがあってはいけません。ただ、神様の御心に従っていかなければなりません。うわべでは、神の働きをしていても、心から神様に従えない人がいるなら、ヨナのような姿です。ヨナは、神様の憐れみと愛を深く悟ることができませんでした。私たちは、そうしないで、自分の角を捨てましょう。


まとめます。私たちが生まれて生きながら、学校や社会で学んだものの中で、御言葉や真理に逆らうすべてのもので、自分の角を形成しました。ところで、誰かがその角を傷つけるなら、気を悪くしたり腹を立てたりします。教養という角があります。進化論という理屈の角もあります。相手に勝たなければという自己中心的な考え方の角もあります。自分は人より優れているという高ぶりの角もあります。高ぶりの角のある人は威張って怒鳴ったりしますが、こういう人は、真理にあって自分の角を打ち砕いたら、謙遜になって態度も声も変わるのです。


ですから私たちは、自分の角を打ち砕いて神様の完全な子供になるためには、第2コリント10:5に、「様々な思弁と神の力に逆らい立つあらゆる高ぶりを打ち砕き、すべてのはかり事をとりこにしてキリストに服従させなければなりません。」とあります。世の理屈や真理と反対のもので作った自分というものを完全に捨てなければなりません。そして、その角を引き抜く代わりに真理の角を植え付けて、真理が強くなって、真理が働いて、まことの永遠の命、祝福の道に行かなければなりません。


世では優れた知識を持って、一生懸命研究して新しいものを発明したり開発した人を知恵があると言います。こういう人の中では、自尊心、自分の主観、高ぶりという肉的な角にこだわる人がいます。しかし彼らが創造主の神様を見つけることができず、天国と地獄があることも知らないまま滅びに向かうなら、どうして知恵があると言えるでしょうか。


だれも自分を欺いてはいけません。もしあなたがたの中で、自分は今の世の知者だと思う者がいたら、知者になるためには愚かになりなさい。なぜなら、この世の知恵は、神の御前では愚かだからです。こう書いてあります。「神は知者どもを彼らの悪賢さの中で捕らえる。」また、次のようにも書いてあります。「主は知者の論議を無益だと知っておられる。」(第一コリント3:18-20)


私たちが神様の前で徹底的に自分を捨てて、聖い心の器を用意すれば、神様は上からまことの知恵をくださいます。しかし、真理の角のない人はまことの知恵もないから、肉的なことである自分の主観に従って自分を主張して生きるから、結局は滅びの道に向かうのです。


今ヨブも自尊心、自分の主観にこだわっていて、それを捨てないから友達と争っています。今ヨブは苦しんでいるのに、友達が自分を攻撃して間違っていると言うから自尊心が傷つくのです。だから、自分の角がちりの中に突き刺されたと言っていて、とても悲しんでつらく思っています。


ヨブは自分なりに正しく生きてきたのに、自分は優れていると思ったのに、その自尊心がけがれるのがあまりにもつらいのです。ヨブは、神様と友達のせいで自分の角が打ち砕かれたと思っています。だから、皮膚病で体が苦しいことや、財産と子どもを失ったことよりは、自分の自尊心が踏みにじられた苦しみの方が大きかったのです。続く御言葉を読むと、ヨブの心の苦しみがどれほどだったのかがわかります。それは次の時間に調べてみましょう。




愛する聖徒の皆さん、結論です。聖書で自尊心を捨てて栄えた人と、むなしい自尊心のため滅びた人がいます。ダビデとサウル王の例を挙げられます。ダビデはサウル王から逃れて、ペリシテに属するガデの王のアキシュのところに行ったことがあります。ところでペリシテはイスラエルの敵国だったから、以前イスラエルの軍隊の長だったダビデはペリシテ人をたくさん殺しました。ですからペリシテでは亡命してきたタビデを疑ったでしょう。


それでタビデはどうしたでしょうか。ペリシテに行けば、自分はそう疑われることを知っていたでしょう。それでその場でタビデはどうしたでしょうか。彼らの前で彼らを安心させるために気が違ったかのように振る舞って狂った振りをして門の扉を傷つけたり、髭によだれを流したりしました。それを見た人々はタビデをさげすんでタビデは命が守られました。


もしタビデがペリシテ人のゴリアテを打ち殺したという自尊心を持って、イスラエルの軍隊の長だったその高ぶりを持ったままならば、その場で殺されたかもしれません。しかしタビデはそうしませんでした。今自分がもし態度を変えなければ殺されるかもと思ったから、低くなって狂った振りをして、気が違ったかのように振舞いました。それで命が守られました。ダビデはいらない自尊心は捨ててしまったのです。


しかしある人は自尊心を自分の命のように大事に思う人もいます。自分は死んでも自尊心は捨てられないと思う人もいます。しかしそれはどれ程愚かなことでしょうか。人の前で自分は自尊心を主張していても、それは知恵でもないし善でもありません。だからといって卑怯に振舞いなさいという意味ではありません。何が善で悪なのかを正確に見分けて、自尊心を捨てて善を選ぶ姿が必要です。ダビデは自尊心を捨てて知恵を持って行ったので、後の日イスラエルの王になりました。


しかしサウル王は虚しい自尊心を重んじてしまい滅びました。神様の御言葉に聞き従わなかった時、サムエルが指摘したのにサウル王は悔改めるどころか、民の前で自分の面目を立ててほしいと言いました。 今、神様はサウル王を退けるとまで警告なさったのに、サウル王は悔い改めなかったのです。そして民の前で自分の面目を立ててほしいと言いました。神様の前でどうするかよりは人の前でどう見えるかを気にしていたのです。その結果サウルは神様に退けられるしかなかったし、ペリシテとの戦いでみじめに死にました。


このように虚しい自尊心は滅びに引いていきます。ヤコブの手紙4:6に「神は高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。」とあり、箴言18:12に「人の心の傲慢は破滅に先立ち、謙遜は栄誉に先立つ。」とあります。ですから、私たちは自尊心・高ぶり・自己中心的な考え・欲などいらない自分の角を完全に捨てて、謙遜な心になって栄誉を得ますよう主の御名によって祈ります。

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