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ヨブ記講解(42) - 自分の角を捨てよう(上)

9月10日
読了時間: 11分

説教:イ・スジン牧師

本文:ヨブ記16:12~15


愛する聖徒の皆さん、前回、ヨブは友達が自分を卑しめて立ち向かっていると言いながらそれも、神様がそのようにしむけられたと神様のせいにしていました。自分に過ちがあるのではないか探そうとしないで、神様と友達のせいにしているから、更に辛くなって試練は終わりません。ヨブは真理を正確に知っていなかったし、神様を見つけた体験もなかったので、すべてのことで神様を裁いていました。​


しかし私たちは真理を聞いてよく知っています。神様の恵みも体験したのですべての問題の原因を自分から見つけて、速やかに神様の恵みを回復しなければなりません。たとえ問題の原因が人にある場合があっても、その解決の鍵は私たちが神様の御言葉に聞き従うことにあります。ですからすべてのことについて感謝しなさいという御言葉に聞き従って、感謝の祈りを捧げますように。


それを神様が喜ばれ、すべてのことを働かせて益としてくださるでしょう。敵をも愛しなさいと言われました。そしてその御言葉に聞き従うなら神様が働いてくださるのです。それが神様が望んでおられる子供であり、そういう子供を神様は守って祝福してくださるのです。


祈るときは、「神様私を導いてください。」と祈りますが、しかし神様が導こうとされるときは、聞き従わない姿があるのです。自分が毎日一瞬一瞬を神様の前に捧げないで、自分がしたいとおりにするのです。自分がやりたいことをして自分が願うことをしていながら、神様私を導いてくださいと言うなら神様が喜ばれるでしょうか。自分が真理の中を歩んでいて御言葉、真理に従うとき、神様が導いてくださるのです。​


ですから私たちはヨブ記講解を聞いて、自分がどのくらい御言葉通りに生きているのか顧みますように。環境のせいにしたり人のせいにしているなら、それは神様にゆだねる姿ではありません。神様の前で低くなって、すべての問題の原因を自分から見つけますように。今日もメッセージを聞いて自分を発見して変えられて、いのちを得ますように。​


「私は安らかな身であったが、神は私を打ち砕き、私の首をつかまえて粉々にし、私を立ててご自分の的とされた。その射手たちは私を巡り囲み、神は私の内臓を容赦なく射抜き、私の胆汁を地に流した。」(ヨブ16:12-13)


ヨブは試練に会う前は家族も仲良かったし平安で裕福でした。そうだった自分を神様が打ち砕いて惨めな身にしたと表現しています。昔人々は鶏を屠るとき、若者の皆さんは見たことがないと思いますが、大人の皆さんは田舎でそういう姿を見たことがあるかもしれません。市場でもそのような姿があったと思います。見てみると鶏を屠る時、首を折っていました。


ヨブは神様がそんな風に自分の首を捕まえて粉々にしたと表現しています。ヨブは自分がされたことを考えてみたら、神様は悪い方で無慈悲な方だと思いました。このように神様についてとんでもない誤解をして悪評を言っています。


人の体を見てみると首は頭を支えている台のようです。頭は高さと威厳と誇りを象徴します。ところでこのような頭を支えている首が砕かれたならどうなるでしょうか。これはヨブの心や意志を、神様がへし折ってしまったと言っているのです。それで弱くなるしかなかったと言っているのです。そしてヨブは神様が自分を立てて御自分の的とされたと言っています。


昔、中世時代とかを見てみると、矢を武器として使う時がありました。敵軍を捕まえた時、でなければ誰かを苦しめる時、権力と力がある人が弱い人を苦しめる時どうしますか。その人を立たしておいて的代わりにするのです。矢を射る時は丸い的の中を射るのですが、人を的のようにしていたずらをしたり、実際殺したりすることも、映画とか小説の中であったと思います。今ヨブは神様が自分をそのように的にして苦しめている、殺そうとしていると言っているのです。


それだけではなく、神様の射手達が自分を巡り囲んで、自分の内臓を容赦なく射抜いて、胆汁を地に流したとまで言っています。ヨブは今神様が自分をどんな風に苦しめているのか、自分が受けている苦しみがどうなのか、一つ一つ例えを挙げて説明しています。矢を射ることはターゲットを当てて倒すためです。ここでヨブが言っている射手達は、神様の心の矢を言っています。神様の心が矢になって、射手達が自分を巡り囲み攻撃していると言っています。そして神様が容赦なく自分の内臓を射抜いたと言っています。


これはヨブがあまりにも苦しいからこのように表現しているのです。すべての財産と子供も失ったし、妻も自分から離れてしまい、友達にも蔑まれているから、ヨブはどこを見ても自分を助ける人はいないのです。内臓を射抜いたと言うのは主体性を失ったことを意味します。人の体の中で首に怪我をするならその舌は使うことができます。ギブスをしたりしても歩いたり手を使ったりすることはできますね。首だけ怪我をすればそうなります。そして足を折ったら足は使えないのですが、上体は使えます。しかし内臓が壊れたら全身が使えなくなります。


このようにヨブは首も砕かれてしまって、つまり自分の意志も挫けてしまったし、神様が内臓を射抜いてしまったから全身が使えなくなった。満身創痍になったと言っています。そして胆中を地に流したとは、ヨブの心の苦しみがそれだけ苦いということを意味します。ヨブは神様を体験することがなかったから、このように苦い思いをしているのは神様のせいだと表現しています。


神様を信じない世の人や、まだ信仰が弱い人々は、生きていてこのような苦しみを訴えるときがあります。しかし、神の子供たちは、たとえ事業がつぶれても、子供がぐれても、病気になっても、四方八方から苦しめられても、感謝を失ってはいけません。詩編50:23に、「感謝のいけにえをささげる人は、私をあがめよう。その道を正しくする人に、私は神の救いを見せよう。」とあります。たとえ悲しいことやつらいことがあっても、心から感謝の祈りを捧げてみてください。その心の香りを受け入れられた神様が、炎のような御目で皆様を守り、救い出してくださるでしょう。ですから、どんな試練にあったとしても、速やかに悔い改めて立ち返って、真理の中を歩みますように。


そうすると、全知全能の神様が行く道を導いてくださり、全てを働かせて益としてくださるから、 私たちはその神様を信じて感謝すればいいのです。なぜ感謝できるのでしょうか。救われたから、天国があるからです。今、目の前に苦しみがあって、試練があっても、大きい問題にぶつかっていて、つらい思いをしていて、ここから抜け出せないように思うかもしれませんが、神様は生きておられます。


神様が私たちのために天国を備えておられます。救ってくださったから、それだけでも感謝できます。目に見える環境や状況を見れば、感謝することができそうにないのですが、しかし霊的な視線から見れば感謝できます。


多くの人がこのようなメッセージを聞いて感謝しようとしても、口では感謝しますと言っても、心から感謝しない人は、行いが伴わないのです。教会に来て礼拝するときや、祈るときは感謝します。どんな試練があっても、これからは喜べますと祈りました。


しかし、次の日、朝会社に行ってまた同じ問題にぶつかったら、感謝を失ってしまうのです。呟いたり、文句を言ったりします。それは信仰がある人の姿ではありません。いくら抜け出せないような苦しみにあっても心から神様の前に感謝する人は、神様の救いを体験するようになります。


主が尊い血で救ってくださった、その喜びがいつも溢れているなら、神様はそれをご覧になり、問題を解決してくださいます。そして私たちには、天国への希望があります。だからその喜びは、世のどんなものも奪うことはできません。その喜びによって世に打ち勝つことができます。しかし、ヨブにはそういう信仰がありませんでした。神様を見つける体験がなかったからです。全き信仰がなかったから、神様を誤解して呟いて嘆いているのです。


しかし私たちは、神様を見つけました。体験しました。皆さん、神様を見たことがないと言うでしょうか。いいえ、私たちは見ました。体験しました。神の力を体験したでしょう。

今日、教会に来た時、ある方が証をして感謝していました。2005年にこの教会に来たのですが、この方は腰が曲がっていました。今から18年前ですね。


その時は今より若かったのですが、腰が曲がっていました。そして後遺症によってとても痛くて、お酒を飲まなければその苦しみを忘れることができないから、眠れないからアルコール依存症になってしまいました。それであちこちの教会にも通ったり、宗教に頼ったりしたのですが、癒されなかったのです。


しかし、伝道されて万民教会に来たのです。何か信じようとしてきたよりはただ連れられてきたのですが、礼拝の後、その夜からお酒が飲みたくなくなって、お酒を飲まなくてもぐっすり眠れたそうです。しかし痛みは相変わらずありました。その次の月に癒しの集会がありましたね。それで、癒しの集会のとき癒されたという証を聞いたのですが、自分はそれが信じられなかったそうです。確かにアルコール依存症の症状がなくなったのに、信仰が持てなかったのです。


それでも癒しの集会に参加はしたそうです。その時は服装もきちんとしていなかったし、あまり慕う心もないまま疑いながらも一度来てみたそうです。しかし癒しの集会のとき、祈りを受けて痛みがなくなって健康になったのです。それでその後から熱心に伝道したそうです。そして今も多くの人を伝道したいですと、祈りをお願いしますと言っていました。


それで私がマガジンで証されましたかと聞いたら、してないそうです。こんなに驚くべき証があるのに、紹介されていないんだと思いました。このようにこの教会では、証が溢れているのです。神様が癒してくださったとき、唯、癒された感じがすると感じただけではありません。実際痛みはなくなったし、実際ぐっすり眠れたのですね。この方も他の教会に通っていたのですが、癒されなかったのに、ここに来て癒されたのではありませんか。


どれほど驚くべき神の力ある業を私たちは体験しているのでしょうか。これは神様を見たことと同じではありませんか。だから全き信仰を持つべきなのに。それなら、いくら環境が良くなくても、感謝を失うことはないでしょう。


しかし、ヨブは真理を正確に知らなかったし、神様を見つける体験がなかったから神様を誤解していたし、あまりにも厳しい試練だったから嘆いていたのですが、皆さんは違うでしょう。だから私たちはいつも感謝しなければなりません。


「神は私を打ち破って、破りに破りを加え、勇士のように私に向かって馳せかかる。」(ヨブ16:14)


続く本文を見ると、ヨブの表現はあまりにも相応しくないし、おかしいです。ヨブ16:14です。「神は私を打ち破って、破りに破りを加え、勇士のように私に向かって馳せかかる。」とあります。前にもたとえを挙げて説明しましたが、もし3,4才の子供が大きい大人につっかかるなら、大人はただ避けてしまうでしょう。まして全知全能の創造主の神様が、被造物に過ぎないヨブをどうして打ち破って、勇士のように馳せかかるでしょうか。


ヨブは神様の心がわからないから、このようにとんでもない誤解をするのです。意外と多くの人が信仰生活をしながら、神様が私をこのように試みられたとか、神様が私に試練を与えたとか、病気を与えたとか、そういうように表現する人がいます。自分の欠けているところによって、いろいろ苦しみにあって試練にあっているのに、神様は自分を打っておられるという場合もあります。試練にあって失敗した原因が自分にあるのに、神様が自分を打ったと言いながら、神様を怖い神様のように思うのです。


ヨブの場合も、神様が何の理由もなくヨブを打ち破られたのではありません。ヨブの悪のため、試練が続いているのです。もし、ヨブの友達が指摘したときヨブがそれを受け入れて、自分から原因を見つけようとしたなら、神様は恵みをくださったでしょう。ヨブの欠けているところを悟って立ち返るように、強くしてくださったでしょう。そして、過去の健康も祝福も回復させてくださったでしょう。


しかし、ヨブは問題の原因を人のせいにして、続けて悪を行って、試練が長くなっています。悪を行うほど、サタンに訴えられるから、試練と苦しみは続くのです。ヨブは、練られるべき理由があるから、そうなったのに、すべてを神様のせいにしていたから、神様を悪い神様のように、恐ろしい神様のように感じていました。


聖徒の皆さんは、自分の試練が長引いているなら、自分の心に悪がそれだけあるということを悟りますように。そして、問題の原因を自分から見つけていないということを悟りますように。環境のせいにしたり、家族のせいにしたり、人のせいにすることは悪です。それによって、試練は続くのです。だから、自分を顧みて自分が変えられてこそ問題が解決されるのです。


試練がやってきたとき、速やかに乗り越える方法は、自分をまず顧みて自分を発見して変えられることです。自分の欠けているところを満たしたり直すことです。ただ、感謝しますと言っていても何もしていない姿ではなくて、変えられようと努力しなければなりません。すると試練が終わって、祝福が臨みます。

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