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ヨブ記講解(39) - むなしいことば

9月9日
読了時間: 9分

説教:イ・スジン牧師

本文:ヨブ記16:1~6

「むなしい」とは、空虚である、内容がない、無益である、根拠がない、という意味です。ヨブはきょうはむなしいことばの無益さと、御霊の人と肉の人の違いについて伝えます。


1. むなしいことば​


「ヨブは答えて言った。そのようなことを、私は何度も聞いた。あなたがたはみな、煩わしい慰め手だ。むなしいことばに終わりがあろうか。あなたは何に興奮して答えるのか。」(ヨブ16:1-3)


15章ではエリファズが論じ、16章からはヨブがその言葉を受けて、もう一度自分の言い分を語ります。これまでヨブの友だちがヨブにあれこれ言ったことは、ヨブもすでに先祖から聞いてよく知っている、何度も聞いたと言っています。


それでは、ヨブはなぜ友だちを「煩わしい慰め手だ。」と表現したのでしょうか。


「慰め」とは、何かをして一時の悲しみや苦しみをまぎらわせる、心を楽しませる、心をなごやかに静めるという意味です。ヨブの友だちはヨブの慰め手ではありませんでした。むしろヨブを怒らせて傷つけ、悩ませるだけだったのです。友だちはヨブを責めたてたので、ヨブがその言葉を聞きながら自分について考えると、頭が痛くなりました。だから、友だちの言葉によってかえってストレスを受けているのです。


これは信仰の兄弟の間でも気をつけなければなりません。相手が自分の言葉を受け入れないなら、かえって逆効果になります。ですから、自分の言葉のせいで相手が誤解して煩わしいと感じるなら、いっそ黙って待つ方がよいのです。​


「なぜ友だちの助言を「むなしいことば」だと言い切っているのでしょうか。それは、友だちの行いが手本になっていなかったからです。


これは主にあってもとても大切です。たとえば、真理の中で生きていて手本になるような人が伝道すれば、人々は心の戸を開いて福音を受け入れるでしょう。また、祝福されている人が「神様を信じれば祝福されます」と大胆に伝えることができるし、これを聞いた人も「あなたを見ていたら私も教会に行きたくなります」と答えるでしょう。


反対に、言葉と行いが正しくないし、神様の栄光を遮っている人が伝道するなら、「あなたこそしっかりやれば」とあざ笑われるようになります。このように、何の役にも立たない言葉が「むなしいことば」なのです。


ヨブは友だちの言葉がむなしいと言いながら「あなたは何に興奮して答えるのか。」と問い詰めます。ヨブの友だちは何のためにこのように興奮したのでしょうか。


まず、ヨブが神様の前に不遜なことを言ったし、これに対して友だちが熱心にアドバイスをしたのに、ヨブは無視しただけでなく、神様を悪い神様だとののしりました。その一方で自分は正しいと主張するから、友だちはこんなヨブが嫌になって、ますます腹が立って興奮したのです。


しかし、ヨブは自分がこのように原因を提供をしたことに気づいていないので、友だちに「なぜそんなに腹を立ててむなしいことを言っているのか」と質問しています。その上、自分は相変わらず正しくて完全だと信じていたので、友だちが興奮しているのが理解できなかったのです。


このように、話をしていて相手がいら立つなら、両方に問題があることを覚えておくべきです。神様は「敵をも愛しなさい」「あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。」と言われ、「だれに対してでも、悪に悪を報いることをせず、」「いつも善を行うよう務めなさい。」と言われました。また「いつも喜んでいなさい。」「すべての事について、感謝しなさい。」とも言われました。このようなみことばが霊の糧となっていれば、悪口を言われても、誤解されても、真理で心を守ることができます。


ひょっとして自分に過ちがあって非難されたなら、悔い改めて立ち返ればいいし、訳もないのにそんなことを言われたなら、自分が真理に逆らっていないので、心は安らかでいられるのです。このように、真理に従って神様の前に喜んでいて感謝するなら、敵である悪魔・サタンが退くし、神様が喜ばれるので祝福が臨むようになるのです。


反対に、そういう言葉のためにカッとなったり、気を悪くしたり、傷ついたりするなら、これは自分の中に悪があるので、サタンのしわざを受けているということです。


2. 互いに立場を変えてみようと提案するヨブ


「私もまた、あなたがたのように語ることができる。もし、あなたがたが私の立場にあったなら、私はことばを連ねてあなたがたを攻撃し、あなたがたに向かって、頭を振ったことだろう。私は口先だけであなたがたを強くし、私のくちびるでの慰めをやめなかったことだろう。」(ヨブ16:4-5)


ここで「ことばを連ねる」とは、行いはないのに、自分たちの思い込みや憶測によってしゃべり続けるという意味です。つまり、友だちがヨブの立場で考えて話をするのではなく、自分たちの憶測で勝手にヨブを責めているというのです。


だから、ヨブは友だちの話が自分とは関係のない話だと思うので、互いに立場を変えてみようと提案します。「もしあなたがたが私の立場で、あなたがたの悪い心が私にあるなら、私もあなたがたを攻撃して、あなたがたが興奮するように悪口を浴びせただろう」というのです。


しかし、ヨブは、自分はむしろ彼らに励ましの言葉で慰めてあげ、元気づけてあげたと言っています。これは以前、ヨブにこのような善の行いがあったので言えることです(ヨブ4:3-4)。ヨブが試練に会う前は、たとえ霊的な行いではなかったとしても、肉的には善と愛を施す行いがありました。


それで「友よ、あなたがたは行いもないのに、私にああだ、こうだと指摘している。だが私には行いがあるから、あなたがたにこう言えるのだ。私が試練に会う前だったなら、あなたがたを強くすることもできるし、慰めてあげただろうに」と言っているのです。


ヨブの方では正しいことを言っているようでも、友だちをさらにいら立たせるばかりでした。友だちはどれほど腹を立てて興奮したのか、全身を震わせて頭を振るほどでした。友だちの目には、今のヨブにはそんなことを言う資格がないからです。ヨブは神様に呪われてめちゃくちゃになっているのに、悔い改めるどころか、神様に口論を吹きかけ、自分たちを見くびっている悪い姿でした。だから、ヨブがいくら良いことを言っても耳に入らなかったのです。


ヨブは、自分が昔のようだったら、友だちを強くすることも、慰めてあげることもできたのにと言いましたが、これはつじつまが合わない言葉です。自分の悩みを解決できない人が、どうして他人の悩みを解決してあげることができるでしょうか。


私たちはこのような話し方がどれほど無益なのか知っておくべきです。もしヨブのように今はみすぼらしい境遇にいる人が「私も昔はこういう人だった」と言いながらアドバイスをするなら、相手は聞き入れるでしょうか。


たとえば、酒、タバコをしながら悪い言動で人に迷惑をかけている人が「私はクリスチャンホームで育って、前は聖歌隊もして、教会学校の教師もして、忠実に奉仕をしていた」と言うなら、これは神様の栄光を遮る姿です。


これとは反対に「私は前、信仰生活をちゃんとしていた時は豊かだったのに、信仰生活を怠けて世に落ちたら、貧しくなってしまいました。だから、私のようにならないで、信仰生活を正しくしてください」と証しをするなら、これは悔い改める姿勢でしょう。


このように過去、自分が失敗した原因になった話をして勧めれば、相手も恵みを受けて、それを教訓にして益になるでしょう。


3. 肉の人と御霊の人の違い


「たとい、私が語っても、私の痛みは押さえられない。たとい、私が忍んでも、どれだけ私からそれが去るだろう。」(ヨブ16:6)


よく、人の事は簡単そうに見えるといいます。それで、他の人が何かの問題で悩んでいれば、「何でもないことで何をそんなに難しく考えるんですか。こうすればいいのに」と偉そうにアドバイスする人もいます。ところが、いざとなると自分の問題は解決できないならば、その言葉には何の意味もないし、そういう人をどうして信じることができるでしょうか。


霊的にも、本人に神様を見つけた体験がなけば、相手に確信をもって言えないでしょう。自分はできていないのに、相手に押しつけることもできないでしょう。


ヨブも前は人を強くして慰めてあげたのですが、今、自分の問題については何もできないことを悟って、自己発見が始まっています。ヨブが尊敬されるような地位にいた時は、彼の話は人に受け入れられるようだったのに、今は友だちさえ無視しています。


ヨブは肉の人だったから、自分が試練に会ったら口から悪い言葉を出したので、友だちはヨブを悪い人扱いしているのです。このように肉というものは変わってしまい、朽ちて無益なものなので、神様はヨブにまことのいのちを与えるために試練に会うようにされたのです。


「いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。」(ヨハネ6:63)とあるように、相手に変化といのちを与えようとするなら、まず自分の心が真理で満たされて、言葉に霊的な権威が伴わなければなりません。


肉の人は悔しい目に会ったとき、じっと耐え忍ぶことが難しいです。腹が立って眠れないから、結局は相手のところに行って、ひとこと言ってやってこそすっとするのです。


しかし、御霊の人は、使徒パウロが「私にとって、毎日が死の連続です。」と告白したとおり、自分というものがないから、わだかまりを抱くこともないし、相手に負けてあげてこそ心が安らかです。試練に会った時も、黙々と耐えて待つことができます。


また、肉の人は他人の過ちについて聞けば黙っていられなくて、周りに伝えてこそすっとするのです。肉の人は敵である悪魔・サタンの声を聞くので、悪を行うことでサタンを喜ばせるので、自分の心もうれしくなるのです。


もし御霊の人が他人の過ちを伝えたとすれば、すっとするのではなく、御霊がうめかれるので苦しくなるでしょう。問題が起こったとき、周りに愚痴をこぼしたら、気持ちが楽になるのではなく、むしろモヤモヤします。喜べなくて不平をこぼしたことを悔い改めてこそ、心が安らかになります。


肉の人と御霊の人はこのように正反対です。ですから、御霊の人になるほど聖霊の声を聞いて従うようになり、まことの平安と喜びを味わうようになります。


しかし、ヨブは御霊の人ではなかったので、黙って忍んでいることが苦しかったし、口から悪をこぼしました。それでも心に善があるので、自分が蒔いた言葉によってだんだんモヤモヤして苦しくなります。


このように人が口で否定的な言葉を蒔いていけば、自分で自分をわなにかける結果をもたらします。箴言13:2に「人はその口の実によって良いものを食べ、」とあり、箴言18:21には「死と生は舌に支配される。どちらかを愛して、人はその実を食べる。」とあります。


私たちがこのようなみことばを心に留めて、否定的な言葉を口にしないで、真理にあって肯定的な言葉を口にしていけば、状況が変わります。したがって、すべてのことにおいて口を制御して、ただ肯定的な告白、信仰の告白、善の告白をする賢い聖徒の皆さんになりますように。

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