ヨブ記講解(37) - エリファズ二回目に論ずる(3)
説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記15:17~25
前回に続いて、エリファズが二回目に論ずる内容を調べて、私たちが信仰相談を受けるとき、聖霊の声を聞くことがどれほど重要なのか伝えます。
1. 先祖の言葉を引用してヨブを悟らせようとするエリファズ
「私はあなたに告げよう。私に聞け。私の見たところを述べよう。それは知恵のある者たちが告げたもの、彼らの先祖が隠さなかったものだ。彼らにだけ、この地は与えられ、他国人はその中を通り過ぎなかった。」(ヨブ15:17-19)
エリファズはこれまで自分の知識を総動員してヨブを説得したのですが、ヨブが聞かなかったので、知恵のある先祖の言葉を引用しようと言います。
イスラエルの地は神様が選民に与えられた地なので、他国人はその中を通り過ぎないように教えました(ヨエル3:17)。また、神様は選民イスラエルをエジプトから連れ出した後、将来カナンの地に入ったら、そこの異邦人を聖絶せよと命じられました。もしこの声に聞き従わないなら、その地に住んでいた異邦人がイスラエルの民にとって、いばらとわなになると仰せられました(申命記7:16)。
もしイスラエルの民が異邦人と一緒に暮らすなら、彼らが仕えている偶像や彼らの間違った慣習と悪行に染まることもあるので、神様は彼らを滅ぼし尽くしなさいと命じられたのです。私たち人は環境から影響をすぐ受けて、それによって滅びに向かうので、神様が愛をもって未然に防いでくださるのです。
イスラエルの民は預言者モーセとともにカナンの地へ行く途中で、異邦人の国々と戦って大勝しました。これを見て恐れたモアブの王バラクは、神様と交わるというバラムを呼んで、イスラエルの民を呪わせます。しかし、神様は呪わないようにされ、反対に祝福のみことばだけを下さいました。
これに対してバラムは計略を巡らし、イスラエルに呪いが臨む事をバラク王に教えます。つまり、モアブ人の集まりにイスラエルの民を招待させたのです。するとイスラエルの民はモアブの女たちと淫らなことをして、偶像を拝み、これによって疫病が臨んで2万4千人も死んだのです。イスラエルの民は神様の大いなる力を体験したのに、異邦人と出会って彼らの文化に接すると、すぐ心が移り変わったのです。
神様がイスラエルの民に異邦人との結婚を厳格に禁じられたのも、このような理由からです。イスラエルの民が神様の命令に聞き従って、偶像に仕えないでみことばの中で生きていた時は、栄えの道に導かれました。
しかし、神様を離れて異邦人とつらなって、偶像に仕えた時には、他国に侵略されて捕虜にされるなど、多くの困難を経験しました。
異邦人と結婚してはならないということは、霊的には、神の子どもは世と友にならず、真理にあってみことばに聞き従いながら生きなければならない、という意味です。神の子どもが世と友となって、真理と反対になる悪を行って生きていく時は、サタンのしわざを受けて試練に会うのです。
ところで、エリファズがこのようにイスラエルの民をたとえに挙げているのは、ヨブを悟らせるためです。ヨブが不従順の罪を犯したイスラエルの民のように神様の前にふさわしくないから、試練や患難が来たのだと厳しく責めているのです。
2. ヨブを悪者で横暴な者だとさばくエリファズ
「悪者はその一生の間、もだえ苦しむ。横暴な者にも、ある年数がたくわえられている。」(ヨブ15:20)
ここで「横暴な者」とは、権力や腕力に任せて無法で乱暴な行いをする者という意味です。エリファズは、選民イスラエルと一緒にはいられない異邦人のように、ヨブもそんな悪者で、横暴な者だと言っているのです。つまり、ヨブは悪者で横暴な者のひとりなので、神様がヨブを懲らしめられるようにすでに定めておられるというのです。
「悪者はその一生の間、もだえ苦しむ。」とは確かに神様のみことばです。「まことに、【主】は、正しい者の道を知っておられる。しかし、悪者の道は滅びうせる。」(詩篇1:6)、「悪を行う者に対して腹を立てるな。悪者に対してねたみを起こすな。悪い者には良い終わりがなく、悪者のともしびは消えるから。」(箴言24:19-20)と書いてあります。必ず善であれ悪であれさばきがあって、悪者はしばらく栄えるように見えても、結局は地獄の火に永遠に落ちるのですから、悪者が栄えているのをねたむ必要はないのです。
「その耳には恐ろしい音が聞こえ、平和なときにも荒らす者が彼を襲う。彼はやみから帰って来ることを信ぜず、彼は剣につけねらわれている。」(ヨブ15:21-22)
これまでヨブの耳には、財産が全部なくなってしまったという報告、子どもたちが死んだという報告、飼っていた家畜が死んだという報告が聞こえてきました。それだけでなく、妻が自分を捨てて呪う言葉も聞いたし、親戚も遠ざかりました。しかもからだには悪性の腫物が出て、うめき声が水があふれるように流れたし、嘆きの声も絶えなかったのです。ヨブはずっとこのような声だけ聞いていたのです。
このようなことが起こる前は、ヨブにはいつも平和がありました。しかし、試練や患難が襲ってくると、平和はすぐ荒らされて、ヨブは死の直前まで行ってしまいました。エリファズの目には、このように大きい試練や患難に落ちたヨブには抜け出す希望がないのです。
ここで「剣につけねらわれている」とは、ヨブが今、多くの人から卑しめられ、あざけられ、さげすまれ、心臓を刃物でえぐり取られるような痛みを経験している、ということです。つまり、剣につけねらわれているようなものなので、やみから帰って来ることを信じられないはめになった、というのです。
「ヨブ! あなたは悪者で横暴な者だから、平和に見えていても、神様が懲らしめて呪われて、今は剣につけねらわれている。だから、試練や患難から救われたいと願ってはいけない。悪者や横暴な者には滅びが定まっているのだ。もう人々があなたをあざけって呪うことしか残っていない」と言っているのです。
ヨブは自分では正しい人だと思っていたのに、友だちから悪者だ、横暴な者だと罵倒されるので、どれほどつらかったでしょうか。しかも聖霊時代でもない当時、ひとりでもなく三人の友だちが次々と攻撃するので、悔しくてはらわたが煮えくり返るしかありません。そのように攻撃するヨブの友だちの悪と責任も大きいのです。
3. 正しい信仰相談をするには聖霊に働きかけられるべき
「彼は食物を求めて、『どこだ』と言いながら、さまよい、やみの日がすぐそこに用意されているのを知っている。苦難と苦悩とが彼をおびえさせ、戦いの備えをした王のように彼に打ち勝つ。それは彼が神に手向かい、全能者に対して高慢にふるまい、」(ヨブ15:23-25)
ヨブは豊かな人だったのに呪われてつぶれてしまったし、やみから帰って来られないはめになったので、今はさまよいながらもの乞いするしかない、と言っているのです。「やみの日がすぐそこに用意されているのを知っている。」とは、やみの力から抜け出せないままさまよっていて、結局は「とうてい回復する道がない。もうおしまいだ」と言ってあきらめてしまう、絶望してしまうという意味です。
これはどれほど厳しくて恐ろしい呪いの言葉でしょうか。エリファズがヨブに対してわだかまりがつのって、悪意に満ちて、言ってはならないことを言っています。
ヨブは苦難と苦悩の中で神様を恐れて、おびえていました(ヨブ9:34-35)。ヨブのこのような状況をエリファズは「苦難と苦悩とが彼をおびえさせ」と言っているのです。また、「戦いの備えをした王のように彼に打ち勝つ。」と言いましたが、もし王が数年間徹底的に戦いの備えをするなら、簡単に相手に打ち勝つでしょう。これは、ヨブが勝てない苦難と苦悩に落ちていることを表現しているのです。
ヨブの友だちの目には、ヨブは神様に手向かっています。人がけんかするとき、相手を指さしたりする姿だったのです。それだけでなく、ヨブは高慢にふるまったので、全能者に手向かった、だから今のような苦難と苦悩に落ちるはめになったのだと説明しています。
エリファズが言っているように、人が神様のみことばに「アーメン」と言わずに聞き従わないのは、自分というものが生きていて高ぶっているからです。私たちのイエス様は神様とお一つである方ですが、「自分」がなかったし、神様のみこころに完全に従われました(第二コリント1:19)。結局、イエス様は十字架につけられて死にまで完全に従われたので、救いの摂理を全うされました。
私たちもイエス様が手本を見せてくださったように、神様のみことばならば環境と条件に関係なく「しかり」と「アーメン」と言って従わなければなりません。
ところで、エリファズがヨブに「それは彼が神に手向かい、全能者に対して高慢にふるまい、」と言ったのは、ヨブをさばいているのです。ヨブの友だちはヨブが口にする言葉だけでヨブをとがめて「あなたは悪者だ、横暴な者だ、高慢だ」とさばいて罪に定めています。
しかし、ヨブの心はそうではなかったし、神様に手向かう心でもなかったので、ヨブは友だちの言うことを認められませんでした。ヨブは、友だちが自分のことを知らないだけでなく、彼らの言葉が自分を納得させることもできなかったし、自分の考えと全然合わないので、ずっと言い争っていました。友だちがとんでもないことを言うので、ヨブは彼らを相手にしないで、神様と論じ合おうと言ったのです。
ところで、ヨブがこのように友だちを無視するほど、友だちはもっとヨブを誤解して、さばいて罪に定めるしかありません。だから、互いに感情的になって、遠ざかってしまうのです。
伝道者の書5:2に「神の前では、軽々しく、心あせってことばを出すな。神は天におられ、あなたは地にいるからだ。だから、ことばを少なくせよ。」とあります。神様だけが人の心をご覧になるので、自分には相手の心がわからないのに、軽々しく言葉を出してはいけません。
主のしもべや働き人が聖徒の信仰相談を受ける時も同じです。うわべの言葉や行いだけを見て、相手を悟らせて神様のみことばで教えようとすれば、相手は心の戸を閉ざしてしまうでしょう。いくらみことばの知識が多くて弁舌が優れていても、それで人の心を変えさせることはできません(第一コリント4:20)。
相手に正しい道を悟らせて悔い改めさせるには、何よりも聖霊の声を聞いて働きかけられなければなりません(第一コリント2:10)。
私たちが心を真理で満たせば、それぞれの状況に合う答えが何か、聖霊の声を聞いて明らかにわかります。相手の心と思いも御霊が示してくださるし、相手の信仰の量りに合わせて答えを与えるのも、御霊だけがおできになります。したがって、私たちはまめに心を真理で満たし、聖霊の声を聞いて働きかけられるべきでしょう。
