ヨブ記講解(36) - エリファズ二回目に論ずる(2)
説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記15:12~22
きょうは前回に続き、エリファズが二回目に論ずる内容を調べて、人が感情的になって言い争うとどんな結果を生むのかを伝えます。
1. 感情的になって言い争うことの結果
「なぜ、あなたは理性を失ったのか。なぜ、あなたの目はぎらつくのか。あなたが神に向かっていらだち、口からあのようなことばを吐くとは。」(ヨブ15:12-13)
ここで「理性を失った」とは、心が落ち着かないで興奮していることをいいます。そして「目はぎらつく」とは、腹を立てたとき、目つきがぎらぎら光って怖く見える状態をいいます。
人が言い争っていると、感情的になったり、声が大きくなったり、目つきが怖くなったりなど、いろいろな現象が起こります。はらわたが煮えくり返って心拍が早くなったり、血の巡りが早くなって顔や目の縁が赤くなったりもします。さらに目が血走ったりして、見ると怖く感じられます。
ここで終わらないでずっと言い争っていると、息が上がってブルブル震える人もいます。こうなると自制できないので、悪態をついたりします。ヨブとヨブの友だちは今、こんな状態になっているのです。
ところが、本人は自分の姿を見ることができないことが多いのです。それで、周りから「なぜそんなに怒るんですか」と指摘すれば、「いや、怒ってないけど」と言います。
第三者から見れば確かに表情や目つき、声から怖いほど憤っているのに、本人はそれを認めないで言い訳するから、自分を発見して変えられるのが遅くなるのです。ですから、誰かが指摘してくれたら、自分は違うと言い張らずに、「ああ、自分でも気がつかない癖があるんだ」と認めて直すように努力しなければなりません。すると変えられるのです。
エリファズはヨブに「あなたが神に向かっていらだち、口からあのようなことばを吐くとは。」と言って、ヨブが不遜にも神様に向かっていらだち、とんでもないことを言っていると指摘しています。
エリファズは自分なりに神様のみことばである真理を引用してヨブを悟らせようとしたのですが、ヨブは完全に無視しました。それで、ヨブは心から神様に反抗している、というのです。それまでヨブが口にした言葉が、口先ではなく、深い心から出てきたことを知っていたからです。
人の言葉は三つに分けられます。心にあるものが口から出てくる場合があって、心にないことを口にする場合もあります。たとえば、相手が本当に憎くて「嫌い」と言うなら、これは心から出た言葉です。しかし、心では相手を憎んでいても、口ではいくらでも「好きだ」と言えます。この二つは、言っている本人がその言葉の意図を知っています。
ところで、自分でも知らないうちに嘘をつく場合があります。この時「私の心はそうじゃないのに、うっかり口がすべった」と言い訳したりもします。こういう場合は、故意ではなくても偽りです。自分でも知らない、心に深く潜んでいたものが口から出てきたのです。
私たちが真理にあって正直に生きているなら、口のすべての言葉が心と一致します。嘘をつかないのはもちろん、何気なく口にする言葉でもむだな言葉がなく、うっかりでも心にない言葉は出てこないのです(ヤコブ3:2)。
したがって、私たちは完全に真実な心になって、言葉と行動が一致する生き方をしなければならないでしょう。
2. 主にあっては心も性格も作り直していただけると信じるべき
「人がどうして、きよくありえようか。女から生まれた者が、どうして、正しくありえようか。」(ヨブ15:14)
聖書を読むと、この言葉が間違っていることがわかります。
たとえば、エノクはとても心がきよくて正しい人でした。それで、神様が300年間もともに歩んでくださいました。モーセは地上のだれにもまさって非常に謙遜で、全家を通じて忠実な人でした。ステパノ執事は何の過ちもなく石で打たれて死にかけていたのに、ひざまずいて大声で「主よ。この罪を彼らに負わせないでください。」と代わりに神様に赦しを求めました。どれほど悪のないきよい心でしょうか。
それなのに、なぜエリファズは「人がどうして、きよくありえようか。」と言っているのでしょうか。エリファズは悪くて汚れた自分の心の中を知っていました。周りの人たちを見ても、みんな悪くてきよくなかったので、人はみんなそうだと決めつけているのです。
しかし、自分が悪いからといって、相手も悪いのではありません。自分は嘘をつく人でも、相手は真実を語る人かもしれません。
また、エリファズは「女から生まれた者が、どうして、正しくありえようか。」と言っていますが、この言葉は肉的にも霊的にも正しくありません。
韓国の朝鮮時代のイ・スンシン将軍は国に忠誠を尽くして親孝行をし、兄弟愛もありました。濡れ衣を着せられて一兵卒として従軍しながらも王を恨まなかったし、国と民のために命をささげました。このように、女から生まれた人の中にも正しい人はいるのです。
霊的にも同じです。誰でもイエス・キリストを受け入れて聖霊を賜物として受ければ、死んでいた霊が生き返って、神の子どもとされる特権を得るようになります。このように信仰によって罪赦されて義と認められるなら、正しいと言われるのです。
しかし、本当に正しい人になるには、御霊によって霊を生み、罪を捨てるのはもちろん、悪はどんな悪でも避けなければなりません。私たちが御霊に従っていくほど、心から真理と反対のものと悪は捨てられ、真理で満たされます。私たちの心が完全に真理で満たされれば、神様が人を造られた時のかたちを取り戻すようになります。この状態を「たましいに幸いを得ている」といい、本当に正しい人なのです。
神様は私たちに正しくなれると言われ、その方法も教えてくださいました。自分の力ではできなくても、自分の努力とともに神様の恵みと力、そして聖霊の助けがあると、いくらでも良くて正しい心に変えられることができるのです(マルコ10:27,エレミヤ32:27)。
エゼキエル36:26に「あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。」とあります。神様は、心はもちろん性格も、いくらでも作り直すことがおできになります。
モーセはエジプトの王子だったとき、人を打ち殺すほど憤りが多かったのですが、荒野で40年間練られて、地上のだれにもまさって非常に謙遜な人に変えられました。使徒パウロも自尊心と義の強い人でしたが、主に出会った後、試練に会って練られ、良い柔和な性格の、神の力を行う使徒に変えられて、義の栄冠を受けることができました。雷のようにせっかちな性格だったヨハネも、変えられて愛の使徒になりました。
このように主にあってはできないことがなく、自分を強くしてくださる方によってすべてができると信じてこそ、変化の力を体験できるのです。
3. ヨブに神様のみこころを間違って伝えるエリファズ
「見よ。神はご自身の聖なる者たちをも信頼しない。天も神の目にはきよくない。まして忌みきらうべき汚れた者、不正を水のように飲む人間は、なおさらだ。」(ヨブ15:15-16)
霊的に「聖なる」とは、外見だけでなく、心まで傷もしみも全くなくきよい状態をいいます。したがって、本来「聖なる」という言葉は人には使えない言葉であり、善そのものの神様だけが聖なる方なのです。
ところが、神様は愛する子どもたちも「聖なるものとされなさい」と言われています。神様が本当に私たちに望んでおられるのは心の聖めです(第一ペテロ1:15-16)。ですから、私たちは心の割礼をして、どんな悪もない、きよくて良い心に変えられなければなりません。
このように変えられて聖なるものとされた人がいるなら、神様は当然その人を信頼してくださるでしょう。しかし、エリファズは「神はご自身の聖なる者たちをも信頼しない。」と、神様の心を知っているかのように言っています。これは自分が神様のようになる、非常に大きい悪で高ぶりです。
また、エリファズは「天も神の目にはきよくない。」と言っていますが、これも正しい言葉ではありません。
神様は初めに人間耕作の舞台になる天地万物を創造して喜ばれました。神様が造られたすべてのものには霊的な意味が込められています。天は霊的に天国を意味します。神様は人の心に本当の故郷である天国を慕う心を下さったので、私たちは天を見上げれば懐かしさを感じます。
それなのに、神様がこのような天をどうしてきよくないと言われるでしょうか。エリファズは神様を誤解して、ヨブに間違ったことを言っているのです。
人は水なしには生きられないので、一日に何回も水を飲みます。このように水を飲むように不正を行っているなら、どれほど悪い人でしょうか。
また、「汚れた者」とは、人の本分から離れて過ちを犯す人をいいます。エリファズはヨブがこのような人だと言っています。「ヨブ、あなたは水を飲むように悪を行っているから、忌みきらうべき汚れた者だ。神様は聖なる者でも信頼されず、天も神様の目にはきよくないのに、ましてあなたのように悪い人を受け入れてくださるだろうか」と罵倒しているのです。このように、とうてい想像できない表現まで使っています。
しかし、ヨブは心そのものが悪いのでもなく、忌みきらうべき汚れた人ではありませんでした。友だちはヨブを刺激して、ヨブがもっといらだつようにして、口にわなをかけて罪を犯させていくのです。友だちはヨブが自分の言葉を聞き入れないので憤り、ヨブのほうは自分は正しいと思っているのに友だちが悪いと言うのでいらいらしています。どちらも自分が正しいと主張して相手を攻撃しているので、お互いさまです。
これは言い争いがこのような結果をもたらしたからです。世では、口論していてだんだん感情的になると、激しい言葉を使って、相手を呪ってしまうことさえあります。したがって、神様は私たちに言い争ってはならないと戒めておられるのです(第一テモテ6:20,第二テモテ2:23)。
言い争う人たちの中には、第三者の話だけ聞いて、間違ってさばき、とんでもないことを言う人もいます。しかし、自分の目で見て、自分の耳で聞いたとしても、それが合っていないこともあることを知っておかなければなりません。
相手が嘘をついているかもしれないし、事実だとしても、聞く人がどんなふうに受け入れたかによって、元の意味から離れることもあるのです。人は見た目だけでさばくことが多いのですが、人の心は神様だけが正確に知っておられます。
したがって、互いの間で言い争うことをやめるのはもちろん、誰もさばいて罪に定めることもあってはならないでしょう(ヤコブ4:11)。
