ヨブ記講解(35) - エリファズ二回目に論ずる(1)
説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記15:4~11
きょうはエリファズが二回目に論ずる内容を調べて、私たちの言葉と行いが相手に及ぼす影響について伝えます。
1. ヨブをさばいて非難するエリファズ
「ところが、あなたは信仰を捨て、神に祈ることをやめている。」(ヨブ15:4)
エリファズは「ヨブ、前にあなたが豊かだった時は、神様の前に全焼のいけにえをささげて神様を恐れていたではないか。ところが、今は神様を恐れるどころか、恨んで悪い神様扱いして、祈ることさえやめている」と指摘しています。
しかし、ヨブが神様に反抗させた要因の一つが友だちとの言い争いだったので、友だちの責任も大きいのです。これは、私たちが誰かの相談に乗る時にも気をつけなければならない部分です。自分のひと言が相手に信仰といのちを植えつけることもあるし、反対に相手をつまずかせたり、もっと悪を行わせることもあります。
特に主のしもべや働き人は聖徒を訪問するとき、人間的な考えを巡らさずに、いつも聖霊の声を聞いて話をしなければならないでしょう。
「それは、あなたの罪があなたの口に教え、あなたが悪賢い人の舌を選び取るからだ。あなたの口があなたを罪に定める。私ではない。あなたのくちびるがあなたに不利な証言をする。」(ヨブ15:5-6)
ここで「あなたの罪があなたの口に教える」とは、ヨブの口から出てくる言葉がヨブが罪人であることを証言しているという意味です。
それなら、エリファズはなぜヨブを悪賢いと言っているのでしょうか。昔はヨブは神様をこの上なく恐れかしこんで高めていたのに、今はその反対になりました。ヨブは「神様は潔白な者も悪者もともに立ち滅ぼされる」と言うかと思えば、「悪者には祝福を与え、正しい人は滅ぼされる」と言って、悪い神様扱いしました。また、前は徳の高い言葉で人々を教えて助けていたのに、今はむなしいことばを口にして思慮のない人になってしまったので、これを指して「悪賢い人の舌を選び取る」と言っているのです。
しかし、私たちはうわべに現れる言葉と行いで人をさばいてはいけません。聖められる前は心と口が別々の時が多いし、言葉と行いが一致しないこともよくありです。人は相手の言葉と行いを見てさばきますが、神様は心をご覧になります。ヨブは真理を知らないから正しくない言葉をぶちまけているので悪賢い人のように見えますが、心そのものは悪賢くありません。
エリファズはヨブに「あなたの口があなたを罪に定める。私ではない。」と非難します。しかし、実は友だちもヨブを非難する資格はありません。これまでいろいろと責め立ててヨブをイライラさせて憤らせるなど、ヨブが悪を行うように原因を提供したからです。
2. ヨブに皮肉を言うエリファズ
「あなたは最初に生まれた人か。あなたは丘より先に生み出されたのか。あなたは神の会議にあずかり、あなたは知恵をひとり占めにしているのか。」(ヨブ15:7-8)
この質問は全部ヨブに対するエリファズのひねくれた心の表現です。エリファズは人類で最初に生まれたのはアダムだということも、人より丘が先に創造されたことも、よく知っていました。また、人が神様の会議に参加して奥義を聞くはずがないことも、ひとりだけ知恵を持っているわけがないこともよく知っていました。だから、ヨブに皮肉を言っているのです。
それなら、ヨブの友だちがなぜこれほどまでに心がひねくれてしまったのでしょうか。これは、それまでヨブが友だちを無視していたからです(ヨブ13:1-4)。ヨブは友だちに高ぶった態度で「あなたがたは相手にもならないから、神様とだけ論じ合いたい」と言いました。ところが、友だちが実際にヨブの話を聞いてみると、とんでもない話ばかりしているのです。
そうでなくても心がひねくれていた友だちは、もっとひねくれるしかありませんでした。ヨブの発言がひとりよがりのように感じられたので、エリファズはヨブを厳しく責め立てるようになったのです。
しかし、ヨブの立場も考えてみなければなりません。自分を慰めに来た友だちがしきりに「あなたが間違っているから災いが降りかかったんだ。悔い改めなさい。祈りなさい」などと感情的な言葉で責めるから、ヨブの心はもっと苦々しくなったのです。
3. 言い争うことの無益さ
「あなたが知っていることを、私たちは知らないのだろうか。あなたが悟るものは、私たちのうちに、ないのだろうか。」(ヨブ15:9)
エリファズは「ヨブ、あなたが知っていることを私たちも全部知っている。あなたが悟っていることは私たちもみんな悟っている」と真っ向から反論しています。ここで私たちは言い争いのためどれほどサタンから妨げられて、試練や患難を自分から招くのか知っておくべきです。
「群盲象を評す」という言葉がありますが、これは視野の狭い者が多く集まり、めいめいの観点から理解したことを述べ、結果として物事の本質が見失われている状態をたとえているのです。私たちの周りでも、一部分だけ知っているのに全体を知っているかのように話をして、言い争うことがどんなに多いでしょうか。霊的な盲人になって、自分が知っていることだけを正しいと主張して、人をさばいて罪に定めるようになり、まかり間違えば神様の前に大きい罪の壁を作ることもあります。ですから、自分が知っていることがいくらでも事実と違うこともあるし、ある一分野だけかもしれないことを悟って、謙虚な心を持たなければなりません。
ヨブと友だちは自分たちの知識の限界内で自己主張をして、互いに無視してさばいているのです。
信仰の兄弟の間でも、最初はささいなことで言い争いが始まったのに、互いに譲らないで自分を主張していると、だんだん感情的になって怒ることがあります。
しかし、神様は「あなたがたのうちの一番偉大な者は、あなたがたに仕える人でなければなりません。」(マタイ23:11)、「あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福すべきであって、のろってはいけません。」(ローマ12:14)と言われました。
このような神様のみことばを守り行えば神様のみわざを体験できるのですが、反対にみことばに反してしまえば、神様のみわざは体験できません。互いに誤解して、相手を刺激して一緒になって悪を行っているのに、どうして神様のみわざが起こるでしょうか。
もし、相手は真理を知らないので自分を迫害していて、自分は真理をよく知っているのに相手を呪うならば、自分のほうが悪いということを知っていなければなりません。悪い人に善をもって対応するとき、善が勝つのです。これが神様の法則だからです。
ローマ12:17-18に「だれに対してでも、悪に悪を報いることをせず、すべての人が良いと思うことを図りなさい。あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。」とあり、ローマ12:21に「悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。」とあります。自分がいくら平和をつくりたくても、相手が受け入れてくれなければ仕方ありませんが、それでもできることなら、すべての人と平和をつくらなければなりません。
私たちのイエス様は力ある方ですが、誰とも言い争われませんでした。当時、大祭司と祭司長、律法学者とパリサイ人たちは絶えずイエス様を殺そうと計略を立てました。
だからといって、悪い者たちがイエス様に手を下すことはできませんでした。イエス様は神様の摂理が完全に成就するまで、時には身を隠したり、その場から出て行ったりしながら、知恵をもってこの地上で働かれました。
これは決して卑怯な姿ではなく「悪い者に手向かってはいけません。」(マタイ5:39)とあるとおり、ただ真理を行われたのであって、誰とも争うことも、叫ぶこともなかったのです(マタイ12:19-20)。
私たちはこのようなイエス様のご性質に似なければなりません。自分のほうが明らかに正しくても、相手が受け入れないならば、いっそ話をせずに待つほうがよいのです。自分の意見だけ主張して相手の悪を刺激することなく、真理にあって良い方法を選んで、平和をつくらなければなりません。
4. 神様のみことばで自分を照らすべき
「私たちの中には白髪の者も、老いた者もいる。あなたの父よりもはるかに年上なのだ。神の慰めと、あなたに優しく話しかけられたことばとは、あなたにとっては取るに足りないものだろうか。」(ヨブ15:10-11)
ヨブの友だちの中には年を取って白髪の人もいるし、ヨブの父親より年上の人さえいることがわかります。それで、エリファズは「ヨブ、あなたは年配者の前でそんな無礼なことを言うのか」と言っているのです。
また、「私たちは神様のみことばを引用してあなたを慰めようとしたのに、なんでこんなに反抗しているのか。あなたは高ぶっていて、私たちを無視している」と責めています。
しかし、これは見当違いの話です。友だちもヨブを無視してさばいて、ヨブと同じように罪を犯しているからです。友だちの感情的な言葉がヨブにますます悪を行うようにさせたので、実際はヨブより彼らの過ちのほうが大きいのです。
また、神様のみことばを引用して相手を指摘したり、自分が正しいと主張したりすることも間違っているのです。感情的になっている人に「聖書には憤ってはならないとありますが」と言うなら、どうして相手が喜んで聞き入れるでしょうか。
人は相手の考えや心の中まで正確にわかりません。ただ言葉や行い、表情など、表に現れる姿で相手の心を推測するだけです。同じように自分の心も正確にわからない時があります。それで、これを照らす基準が必要です。それは真理である神様のみことばです。
それでは、ヨブと友だちの言い争いを見て、私たちはどんなみことばが思い浮かぶでしょうか。
ヘブル12:14に「すべての人との平和を追い求め、また、聖められることを追い求めなさい。」とあります。また、ヤコブ1:19-20に「愛する兄弟たち。あなたがたはそのことを知っているのです。しかし、だれでも、聞くには早く、語るにはおそく、怒るにはおそいようにしなさい。人の怒りは、神の義を実現するものではありません。」とあります。
私たちはこのような神様のみことばを思い起こして、自分を照らしてみなければなりません。ところで、みことばを知識としてだけ持っていても、何の役にも立ちません。このみことばを心に刻んで自分のものにした人は、日常生活でも真理でなければ聞こうとしないし、ひと言でも注意して口にするでしょう。言い争えば怒って神様の義を実現できず、互いの間の平和が壊れるからです。
したがって、生きていて力のある神様のみことばをいつも人生のともしびと光として、毎日変えられて、いのちを得ていきますように。
