ヨブ記講解(33) - 過去を偲びながら神様に訴えているヨブ
説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記14:7~16
きょうは、豊かで良かった過去を思い出しながら神様の前に訴えるヨブの姿から、神様が望んでおられることが何かを伝えます。
1. 霊的に無知で天国への希望がないヨブ
「木には望みがある。たとい切られても、また芽を出し、その若枝は絶えることがない。たとい、その根が地中で老い、その根株が土の中で枯れても、水分に出会うと芽をふき、苗木のように枝を出す。しかし、人間は死ぬと、倒れたきりだ。人は、息絶えると、どこにいるか。」(ヨブ14:7~10)
今までヨブは神様につぶやいて嘆き、あれこれ話をしてみたのですが、何の答えもないと、意気がくじけました。それで、自分は無力で、弱い女から生まれた者だと人生のみじめさを説明するかと思うと、今度は神様を説得するために木にたとえています。「私は木よりも劣る人だから、かわいそうに思って、もう勘弁してください」と自分の哀れさを訴えているのです。
木を切ると、そこからまた芽を出し、枝が育って、新しく植えたように茂ります。また、木の根は地中で古くなれば自然に枯れますが、その上の枝は相変わらず生きています。ある木は、根株が土の中で枯れても、水分に出会うとそこからまた芽をふいて、苗木のように枝が伸びていきます。ところが、人間は死ぬと倒れたきりなので、望みがないとヨブは言っています。
「人が息絶える」とは、人にあった力、すなわち名誉、権力などが死とともに無に帰ってしまうという意味です。
ところが、神様を信じる人としてこういうことを言うのは正しくありません。神様を信じて救われた人は、息が絶えるとからだは土に帰りますが、主が空中に降臨されるとき、再び御霊に属するからだによみがえり、空中に引き上げられます。人は死んでも霊は消滅しないで、天国の待機場所にとどまっていて、主が降臨なさる時に、よみがえった御霊に属するからだと結合して、永遠に生きるのです。
それで、第一コリント15:20に「しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。」とあり、神様を信じる人が死ねば「眠っている」と表現するのです。
「水は海から消え去り、川は干上がり、かれる。人は伏して起き上がらず、天がなくなるまで目ざめず、また、その眠りから起きない。」(ヨブ14:11~12)
海の水は水蒸気になって上って行くようですが、雨になってまた下りてきます。山の谷間から出てくる湧き水が集まって小川になり、小川は流れて川に行き、川の水はまた流れて海に行きます。ですから、千年経ち、一万年経っても、海の水は減りません。もし海の水が減るほどならば、川の水は全くかれてしまうでしょう。
ヨブは学識も知恵も優れた人だったので、海水が減らないということぐらいは知っていました。もし海の水が減るならば、当然川は干上がってかれるという原理を説明しているのです。
ヨブは「人は伏して起き上がらず、」と言っていますが、これは間違っています。神様を信じている人が死ねば、起き上がらないのではなく、主がまた来られる時によみがえって、永遠に生きるからです。
それなら「天がなくなるまで目ざめず、」とはどういう意味でしょうか。よく世の人はある事がどうしてもうまくいかないとき、「天地がひっくり返ってもこれは不可能だ」と表現します。ヨブも「人が死んでから生き返るのは天地がひっくり返ってもありえない」という意味で言っているのです。
ヨブは肉的には知識が多い人でしたが、霊的にはあまりにも無知なので、ずっと真理に合わないことを言っています。
2. 神様に訴えるヨブ
「ああ、あなたが私をよみに隠し、あなたの怒りが過ぎ去るまで私を潜ませ、私のために時を定め、私を覚えてくださればよいのに。」(ヨブ14:13)
神様は、ルカ16章の貧しい人ラザロと金持ちのたとえを通して、私たちによみについて教えてくださいました。
金持ちはこの地上でぜいたくに遊び暮らしていましたが、神様を恐れなかったので、死んだ後に下のよみで言葉にならない苦しみを受けるようになりました。反対に、金持ちの門前で金持ちの食卓から落ちる物を食べて暮らしていた貧しい人ラザロは、神様を恐れうやまっていたので、死んだ後、上のよみにいるアブラハムのふところで平安に休むことができました。
ところが、ヨブは霊の知識が足りなかったので、よみを死んだ人が永遠に眠る場所としてだけ理解していました。ですから、何もない無の状態であるよみに、すなわち死の中に、自分を隠してくださいというのです。
ヨブは、神様が物事の分別がつかなかった若い頃の自分の過ちまであばいて御怒りを燃やされ、自分をこのように苦しみの中で生きていくようにされたと誤解しています。神様が勝手に定めておいて、自分をみじめな状態にされたけれど、「いつかは神様の御怒りが過ぎ去る時が来るのではないか」と考えているのです。
ですから「神様の怒りがおさまる期限を定めてください。その時まで私を隠しておいて、その期限が来たら、私を思い出して生き返らせてください」と訴えているのです。苦しみに会ったとき、「この苦しみがいつ終わるかわかれば、その希望を持って我慢できるのに、終わりがわからないから絶望的でつらい」と思う人もいます。「問題が解決される時まで寝ていたい」と言う人もいます。
しかし、そうすることはできません。神様が試練の期限やその方法、解決方法を全部教えてくださるなら、本当のテストではないからです。
ヨブは「この苦しみは神様が下さったものなので、その終わりがいつなのか教えてください。そしてこんなに苦しんでいる私を思い出してください」と訴えています。
木は死んでいるようでもまた芽を出しますが、ヨブは死んだらそれで終わりだから、憐れんでくださいというのです。自分は価値のない女から生まれた存在で、めちゃくちゃになった体で苦しんでいて、死ねばもう希望もない哀れな者なので、後で自分を覚えていて生き返らせてくださいと言っているのです。
「人が死ぬと、生き返るでしょうか。私の苦役の日の限り、私の代わりの者が来るまで待ちましょう。」(ヨブ14:14)
前の節では、自分が死んでよみにいても、神様は自分を覚えていて生き返らせてくださいと言ったヨブが、ここでは人が死ぬと生き返れないと断定しています。つじつまが合わないことを言っているようですが、これはヨブの悔しい気持ちが込められている言葉です。
ヨブは霊の世界の法則を知らないから、一度死ねばそれで終わりだと思っています。「私の苦役の日の限り、私の代わりの者が来るまで待ちましょう。」とは、もし木のように人が死んでも生き返るという望みがあるなら、どうして自分はこんなに神様に恨んだでしょうかということです。つまり、自分が生き返るという希望があるなら、最後まで我慢して待ちますが、そうではなくて死んだらそれで終わりだと文句を言ったのです、思ったことをそのまま口にしたのです、と自分を弁護しているのです。
しかし、本当に信仰がある人は、どんな試練や患難に会っても、受けた恵みを忘れません。永遠の天国があることを信じるので、つぶやいたり嘆いたりして神様を悲しめるのではなく、かえって喜んで感謝して勝利します。もし試練や患難に会った時に喜びと感謝がなくなってつまずいてしまったとすれば、これは完全な信仰がなかったという証拠です。
ヨブは聖霊を受けていないので、悟りもなくて、自分の思いのまま感情を爆発させていますが、聖霊を受けた神の子どもたちは聖霊に助けられるので、どんな試練や患難が来ても感謝して、信仰によって勝利できるのです。
3. 良かった過去を偲ぶヨブ
「あなたが呼んでくだされば、私は答えます。あなたはご自分の手で造られたものを慕っておられるでしょう。今、あなたは私の歩みを数えておられますが、私の罪に目を留めず、」(ヨブ14:15~16)
人は何かに頼りにして生きています。ある人は金銭や権力を、ある人は名誉や知識を、ある人たちは家族に頼ります。また「私は誰にも頼らない。自分のこぶしだけを信じる」と言う人もいます。
ところが、人は明日のことも知らないし、権力も、名誉も、知識もいつまでもあるのではありません。いくら多くの財産をたくわえても、一日でなくなることもあり、神様がたましいを召されるなら、何も持たずに天国か地獄のどちらかに行かなければなりません。箴言27:1に「あすのことを誇るな。一日のうちに何が起こるか、あなたは知らないからだ。」とあるとおりです。最も幸いな道は、創造主の神様を信じて頼りにすることです。
ヨブは以前は神様により頼んでいて、時に応じて全焼のいけにえをささげていました。ただし、先祖から聞いたとおりに全焼のいけにえをささげてはいたのですが、ヨブは実際に神様を見つけたことも、御声を聞いたこともありませんでした。
その上、今いくら神様を呼んでも、神様が答えてくださることもなく、助けてもくださらないようです。もしヨブに神様を見つけた体験があったなら、「あなたは私を呼ばれ、私は答えました」と自分の経験を言ったでしょう。しかし、何の体験もなかったので、本文のように「あなたが呼んでくだされば、私は答えます。」と仮定の表現を使ったのです。
ヨブは何としてでも神様を説得してみようと、過去、自分の良かった時を神様に説明しています。ヨブは、以前は富も学識も健康なども持っていて、人々を徳によって従わせることができました。だから、神様はそんな自分を慕っておられるでしょう、と言っているのです。
ヨブは神様の御声を聞いて、見つけたのではありませんが、過去、自分が持っていたすべてのものは神様が下さったので、「神様は私を大切に思ってくださったのではありませんか」と言っているのです。昔は自分を豊かにしてくださる良い神様だと思っていたのに、今は神様はいくら捜して叫んでも答えてくださらない悪い方だと誤解しているのです。
「今、あなたは私の歩みを数えておられますが、私の罪に目を留めず、」とは、前はヨブを大切にして祝福を下さった神様なのに、今は心が変わって、ヨブの前の罪まであばき出して懲らしめ、、このように苦しめた、ということです。「前は神様は私を愛して豊かにしてくださいました。神様はどれほどいとしそうに私を見つめておられたでしょうか。『ヨブ!』と呼んでくださるならば、私は答えたでしょう。ところが、今になって私をこのようにみじめに捨てられたのですか。その理由は何でしょうか」と問い詰めているのです。
愛する聖徒の皆さん、
ヨブは後の世について知らなかったので、天国への希望を持てずに試練の中でずっとつぶやいて嘆いています。ところが、私たちは天国について明らかに知っているし、何より新しいエルサレムへの希望があります。したがって、永遠の新しいエルサレムで味わう栄光を望んで、すべての試練を信仰によって勝利しますよう、主の御名によって祈ります。
