ヨブ記講解(32) - 天国への希望がないヨブ
説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記14:1~6
きょうは天国への希望がないヨブの姿から、私たちに望んでおられる神様の心と思いを伝えます。
1. 女に恨みの矛先を向けて人生の空しさを論じるヨブ
「女から生まれた人間は、日が短く、心がかき乱されることでいっぱいです。花のように咲き出ては切り取られ、影のように飛び去ってとどまりません。」(ヨブ14:1~2)
ここでヨブは女性を軽んじているように見えます。旧約時代の女性はたいてい男性の所有物のように扱われて、服従だけしなければならない存在でした。
もちろん神様は男性と女性を差別されたりはしません。しかし、創世記を読むと、女であるエバを通して罪が入り、人類が滅びの道に向かったことがわかります。エバがまず蛇に誘惑されて善悪の知識の木から実を取って食べ、夫のアダムに与えたので、アダムもそれを食べて不従順の罪を犯したのです。
女性はエバの本性を受け継いで生まれるので、男性に比べて心がもろくて、ずる賢い場合が多いです。人によって違いますが、ほとんどは男性の心の芯が女性に比べて真っ直ぐで、移り変わることが少ないです。
神様は、ああしたりこうしたりするずる賢い心をとても嫌われて、どんな環境や条件でも真っ直ぐで移り変わらない心を愛されます(第一コリント16:13)。しかし、女性でも、旧約時代の預言者デボラやエステルのような人物は神様に愛され、大いに用いられて国を救いました。
これは、どんな時にも揺るがない強くて真っ直ぐな心と、男性に劣らない大胆さを神様に認められたからです。
ヨブは今、あまりにも苦しいので、人生の空しさと短さを花と影にたとえています。知恵があり、学識が高くて名声のあった人も、その名前は永遠に残りません。悪人も善人も、金持ちも貧しい者も、結局は死にます。一生苦労してたくわえたものも、人が死んで一握りの土に帰ってしまえば、もう楽しめないから空しいだけです。
したがって、ヤコブ4:14に「あなたがたには、あすのことはわからないのです。あなたがたのいのちは、いったいどのようなものですか。あなたがたは、しばらくの間現れて、それから消えてしまう霧にすぎません。」とあり、詩篇144:4に「人はただ息に似て、その日々は過ぎ去る影のようです。」とあるのです。また、伝道者の書3:18には、人が神様を恐れず、その命令を守らないなら、獣にすぎないと書いてあります。
このようにすべてが空の空であることを体験したソロモン王は、晩年になって人生のまことの価値が何か深く悟って、徹底的に悔い改めます。それで、「結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。 神は、善であれ悪であれ、すべての隠れたことについて、すべてのわざをさばかれるからだ。」(伝道者12:13~14)とあるのです。
神様は私たちのすべてのわざと隠れたことについて、善であれ悪であれ、必ずさばかれます。したがって、神様を恐れず、みことばを守って生きていないなら、いくらお金をたくさん儲けて、名誉や権力、知恵があっても、空の空なのです。結果は罪から来る報酬である死、地獄に落ちるしかないからです。
ヨブはこのような霊的な意味を知らないまま、人生は空しいと言っています。ヨブの言うとおり、人生は永遠の時間に比べれば日が短いです。しかし、霊的に見ると、神様を信じてみことばどおりに生きた人は、永遠のいのちを得て、天国で永遠に生きていきます。もちろん、神様を信じない人は地獄に落ちて、とこしえに苦しみながら生きていくことになります。
ヨブは、過去を考えてみれば幸せな時がたくさんあったのに、現在の苦しみのために過去の美しい思い出まで否定しています。信仰があるなら、たとえ今は試練に会っていても、過去に受けた祝福に感謝して、神様の答えを待ちながら未来を望まなければなりません。
そして、人生には心がかき乱されることでいっぱいだというのは、クリスチャンには合わない言葉です。聖霊を受けた神の子どもはいつも喜んでいて、楽しみがあふれます。一日過ぎれば、花婿なる主に会う日がそれだけ近づいて、熱心に働いたほど神の国と義が実現していくので、うれしくて楽しいのです。
私たちは花のようにパッと咲いては枯れていくのではなく、毎日、毎日、さらに新たになり、聖霊に満たされて、ますますたましいに幸いを得ていかなければなりません。第二コリント4:16に「ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。」とあるとおり、ますます真理と反対のものである肉を捨てて、御霊の人へと変えられていかなければならないのです。
第一ペテロ1:24~25に「『人はみな草のようで、その栄えは、みな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。しかし、主のことばは、とこしえに変わることがない。』 とあるからです。あなたがたに宣べ伝えられた福音のことばがこれです。」とあるように、永遠の天国に希望を置いて、主のみことばどおりに生きていかなければなりません。
このような生き方をすれば、健康の祝福はもちろん、いろいろな事故や危険から守られて、家庭や事業の場、職場において、入るときも出て行くときも祝福されるようになります。世で成功するだけでなく、天国でも永遠のいのちの祝福を受けるのです。
しかし、ヨブは御霊の人ではなく肉の人なので、このような神様の心を知らなかったのです。それで、考えることも言うことも肉的な姿でした。
2. 神様を否定して信仰のみわざを遮ってしまうヨブ
「あなたはこのような者にさえ、あなたの目を開き、私をご自身とともに、さばきの座に連れて行かれるのですか。だれが、きよい物を汚れた物から出せましょう。だれひとり、できません。」(ヨブ14:3~4)
ヨブの言うとおり、神様が目を開き、ヨブを見ておられるということは合っていますが、神様はさばこうとされるのではありません。神様がヨブを連れて行ってさばかれたのではなく、ヨブが自分からさばきを招いているのです。
神様は人の子らを愛しておられるので、炎のような御目で見ておられます。私たちを救おうと、また罪から立ち返って聖められて神様の愛される子どもにするために探っておられます。
ところが、ヨブは先祖から聞いて力ある神様は漠然と知っていただけで、愛の神様については知らなかったので、勝手に誤解してさばいています。
また、ヨブは「だれが、きよい物を汚れた物から出せましょう。だれひとり、できません。」と決めつけています。これは神様の力を否認して、神様を無視する言葉です。ヨブの高ぶりがうかがえる言葉で、なおさら正しくありません。
私たちの神様はどんなことでもおできになります。私たちがイエス・キリストを受け入れる前は、闇の子どもであり、汚れの中にいました。しかし、イエス・キリストを信じる者に、神様は聖霊を賜物として遣わしてくださり、汚れをきよめて、神様の子どもにしてくださいました。ヨブはこのような神様を否定して、信仰のみわざを遮ってしまっています。
3. 神様がすべてを勝手に定めておかれたと抗議するヨブ
「もし、彼の日数が限られ、その月の数もあなたが決めておられ、越えることのできない限界を、あなたが定めておられるなら、彼から目をそらして、かまわないでください。そうすれば、彼は日雇い人のように自分の日を楽しむでしょう。」(ヨブ14:5~6)
ヨブの考えでは、神様は予定しておいて、人を生かしも殺しもするなど、思いのままにする方でした。したがって、ヨブも神様が予定しておいて、このように苦しめたと決めつけているのです。そして「神様、私は女から生まれたつまらない者だから、もう構わないでください。そうすれば、何の自由もなく、言われたことだけする日雇い人のように人生を終えるでしょうから、その方が楽なのです」と言っているのです。
日雇い人とは、その日その日労働の代価として賃金をもらって生きていく人です。決められた時間は雇い主が言うとおりに働かなければならないので、自由がありません。
しかし、神様は人間を日雇い人のようには造られませんでした。自由意志を下さったので、人は自分の意志によって選択して生きていくのです。神様が強制的に人の心を動かすのではなく、人が自由意志をもって善を行ったり、反対に悪を行ったり、また愛したり、ねたんだりするのです。人は、このようなすべての行いに対するさばきをそのまま刈り取るようになります。
私たちが神様のみことばを誤解すると、ヨブのように、自分が間違っていても全部神様のせいにしてしまいます。
たとえば、自分の実力が足りなくて大学に落ちたのに、まるで神様が落としたかのように思ったり、落ちるのが神様のみこころだと言って、責任を神様に転嫁する場合があります。このような心ならば、心から感謝が出てこないし、自分の過ちを発見することもできないのです。
生きている間に試練に会うなら、必ず理由があります。苦しみに会うのも、正確な公義の法則に従って必然的に起こることなのです。真理に照らしてみれば、神様がそのように仕向けたのではなく、人が神様のみことばに逆らうことをして、自分から招いた結果なのです。
霊的な人は、たとえ目の前の道が完全にふさがっていて、死の陰の谷を歩いているようでも、信仰の告白をして神様により頼みます。
たとえば、預言者ヨナはニネベに行きなさいと言われた神様のおことばに聞き従わないで、タルシシュに逃げました。激しい暴風の中、海に投げ込まれて大きな魚にのみ込まれました。この時、ヨナは絶望したのではなく、三日間神様の前に徹底的に悔い改めました。そして感謝の祈りをささげると(ヨナ2:9)、神様は大きい魚をつかさどってヨナを陸地に吐き出すようにされました。
このように感謝できない状況でも感謝すれば、神様の心が動かされるのです。これとは反対に、ヨブは恨みと不平をやめず、否定的な告白をして神様のみわざを遮ってしまっています。
ところで、ヨブは予定の神様だと誤解しているのが問題であって、神様のみことばどおりに生きていこうとする心は潔白で正しかったのです。それで、神様は試練に会わせて、ヨブの誤解を悟らせて正そうとしておられるのです。
愛する聖徒の皆さん、
ヨブはこの地上での人生で終わりだと思っていたので、天国への希望がありませんでした。しかし、私たちはこの地上での人生はつかの間であり、永遠の天国があることを知っているので、希望を持って毎日信仰によって歩めます。たとえ試練や患難がやって来ても、信仰で耐え忍び、感謝して神様のみこころを探そうとします。
この地上に希望を置いて生きている人々には、一日一日がますます死に近づく時間ですが、天国への希望のある私たちには、一日が過ぎれば、それだけ父なる神様にお目にかかる日が近くなるのです。
したがって、新しいエルサレムへの希望をもって、いつも喜んでいて、すべての事について感謝し、毎日信仰によって勝利しますよう、主の御名によって祈ります。
