ヨブ記講解(31) - 霊的知識の重要性
説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記13:20~28
きょうは霊的に無知なので神様に抗議するヨブの姿を見て、霊的知識がどれほど重要なのか伝えます。
1. 霊的知識がなくて神様におびえるヨブ
「ただ二つの事を私にしないでください。そうすれば、私は御顔を避けて隠れません。あなたの手を私の上から遠ざけてください。あなたの恐ろしさで私をおびえさせないでください。」(ヨブ13:20~21)
前回でヨブは、自分と論じる資格があるような人はいないと言いました。ですから、今は神様と自由に論じ合えるように、二つの事をしないでくださいとお願いをしています。一つは神様の手を自分の上から遠ざけてくださいということで、もう一つは神様の恐ろしさで自分をおびえさせないでくださいということです。神様がもし手を出さないで、その恐ろしさでおびえさせなければ、神様の前に訴えて問い詰めることがたくさんある、ということです。
ヨブは試練に会う前も神様におびえていたので(ヨブ3:25)、死より大きい苦しみの中にある今は、なおさらおびえるしかありません。これは、自分で自分は正しい人だと思っていたし、霊的な知識がなく、真理について間違って知っていたからです。自分に霊・たましい・肉を下さった父であり、愛と公義によって治める神様なのに、神様についてよくわからないからおびえるのです。
ヨブは正しい自分に何の理由もなく試練を与えた神様だと誤解しているので、もし神様の許可なしに言いたいことを全部言ってしまえば、さらに苦しめられるのではないかと怖がっています。もし言いたいことを全部言えるようにされるなら、ヨブは今までよりもっと激しい言葉をぶちまけるでしょう。
私たちが心から神様を愛するなら、どんな試練や患難に会っても、つぶやいて神様を悲しめたりしません。不満をぶちまけて腹を立てるからといって、問題が解決されるのでもなく、かえって神様の前に罪の壁を作って、敵である悪魔・サタンにあざけられるようになるのです。
かといって、無理に我慢するのも正しいことではありません。バネをぎゅっと押さえておいてから手を離せば、突然はね上がります。このように、悪を押さえて我慢していると、いつかは爆発するものです。最初から我慢することがないように、心を善に、愛に昇華させていかなければなりません。
また、天国への希望をもって耐え忍ばなければなりません。私たちの国籍は天にあって(ピリピ3:20)、やがて主が来られると、涙も悲しみもない天国で言葉にできない栄光と幸せを永遠に味わうでしょう。これを信じるならば、たとえこの地上で苦しいことがあっても、信仰によって打ち勝ち、喜んで走って行くことができるのです。
2. 神様に抗議するヨブ
「呼んでください。私は答えます。あるいは、私に言わせ、あなたが私に答えてください。私の不義と罪とはどれほどでしょうか。私のそむきの罪と咎とを私に知らせてください。」(ヨブ13:22~23)
神様が自分をおびえさせないようにしてから「ヨブ」と呼ばれれば、私は答えます。その次は神様が言いたいことを言ってください、という意味です。神様のお許しさえあれば「なぜ悪者は栄えさせて、正しい私にはこのように苦しみを受けさせるのですか」と大胆に問い詰めるつもりだと言っているのです。
そして、ヨブは「いくら調べても私には不義も罪もないのに、どうしてこんなに厳しく懲らしめられるのですか」と抗議します。
聖徒の皆さんの中には、自分の過ちで苦しみに会ったのに「神様、なぜ私にこのような苦しみを与えるのですか。なぜつまずかせるのですか」と問い詰めるようなことがあってはいけないでしょう。
ある人は自分では誠実に生きてきたと思っているのに、問題が解決されなかったり、事業がうまくいかなかったりすることがあります。この時、自分は最善を尽くしたから何の過ちもないと考えることもあるでしょう。
しかし、神様はこんな場合でも自分の妥当性を主張するのは正しくないと言われます。神様は、たましいに幸いを得ているほど、すべての点でも幸いを得るようにしてくださる方です。みことばどおりに行えば、かしらとなり、貸すであろうが借りることはないようにしようと約束されました。
聖書には健康の秘訣、祝福の秘訣が詳しく書かれているので、病気だとか経済的に何か問題があるなら、必ずみことばから答えを見つけなければなりません。
ところが、ヨブはこのような霊的な知識が足りなかったので、答えを得られないまま、ずっと間違ったことばかり言っているのです。
3. 試練がやって来た時はイエス様から目を離さないでいなければ
「なぜ、あなたは御顔を隠し、私をあなたの敵とみなされるのですか。」(ヨブ13:24)
これもまたヨブの誤解から出ている言葉です。神様はヨブに御顔を背けられたこともなく、ヨブを敵とみなされたこともありません。いつも炎のような御目で見守っておられ、ヨブが口から出す一言一言を聞いておられます。
神様はヨブに悔い改めて立ち返れる機会をたくさん下さいました。友だちを通して真理のみことばで悟らせたのですが、ヨブは一言も受け入れなかったのです。自分だけ正しいと主張して、かえって相手を非難して責めていました。
では、私たちに試練がやって来た時は、どうすべきでしょうか。
信仰の創始者であり、完成者であるイエス様から目を離さないでいなければなりません(ヘブル12:1~3)。イエス様は被造物の手でむち打たれ、さげすまれてあざけられました。しかし、ご自分が十字架を負うことで神様の御座の右に着座されることと、地上のすべての民に救いのみわざが起こることをご存じだったので、このためにはずかしめをものともせずに、最後まで忍ばれました。ついに全人類の罪を代わりに負って十字架で死なれましたが、三日目によみがえられることで救いの道を開いてくださいました。神様は、ただ愛をもって死にまで従い、信仰によって勝利されたイエス様を王の王、主の主として立ててくださいました。
私たちもイエス様のように父なる神様のみこころを正確に悟って、どんな試練も患難も忍耐して勝利しなければなりません。
それでは、神様が子どもたちについて望んでおられることは何でしょうか? それは傷もしみもなくきよいまことの子どもを得ることです。
しかし、多くの聖徒が罪を捨てて聖められるべきだとは知っていますが、罪と血を流すまで戦うのは大変だと思います。聖書のすべてのみことばを守り行うべきなのに、そうしないまま自分は信仰生活をちゃんとしていると思う人も多いです。簡単に嘘を言っておいて罪だと思わないし、親、配偶者、職場の同僚などが自分の気に入らなければ、憎んでいるのに、それがみことばに聞き従わなかった罪だとは思いません。真理に対する無知ゆえなのです。
「しなさい、守りなさい、してはならない、捨てなさい」というみことばに聞き従わないから懲らしめが来るのに、霊的知識が足りないので悟れません。懲らしめを通して子どもたちが罪と悪から離れて光の中へと出てくることを望んでおられる神様の愛を知らないまま、つまづいてしまう人もいます。
子どもがぐれていくとき、親が叱って懲らしめるように、神様もご自身の子どもが罪を犯したとき、懲らしめてむちを加えられます。もし懲らしめがないなら、神様の本当の子どもではなく私生子だと聖書にあるので、私たちは懲らしめを受けた時は、神様の愛であることを悟って、感謝しなければなりません。
イエス様が忍耐をもって赦しを与えながらその道を歩まれたことを思って、口からは悪ではなく善を出して、すべての事について感謝して、周りに恵みを与える姿になりますように。
4. 若い時の咎の代価として災いを与える神様だと誤解するヨブ
「あなたは吹き散らされた木の葉をおどし、かわいたわらを追われるのですか。実にあなたは私に対してひどい宣告を書きたて、私の若い時の咎を私に受け継がせようとされます。」(ヨブ13:25~26)
ヨブは自分をいのちある枝から離れた者だと思っているので、取るに足らない木の葉やわらにたとえています。風に吹き散らされた木の葉のように孤独で寂しい存在であり、乾いたわらのように何の希望もない存在だというのです。
ヨブは、自分が死ぬことも生きることもできない、気力も希望もない落葉にすぎず、人の足で踏まれるわらにも劣る存在なのに、神様が追いかけてきて苦しめていると訴えています。まるで力の強い横綱が3~4歳の子どもを相手にしているようだと非難しているのです。
ヨブは今までの人生を省みて、何の過ちもありませんでした。おとなになった時は一家の長として、父として、夫として誠実に生きてきたし、多くの人に施しをして正しく生きてきただけで、何の過ちも発見できなかったのです。ですから、神様は分別のない若い時に犯した罪まであばき出して懲しめていると考えているのです。
これはどれほど悪い神様だとけなす言葉でしょうか。神様は、私たちがイエス・キリストを救い主として受け入れたとき、過去のすべての罪を赦してくださいました。私たちが罪を悔い改めて立ち返るならば、神様はその罪を思い出すこともなく、主の尊い血で洗いきよめてくださるのです。しかし、このような神様の愛を知らないヨブの言葉はますます激しくなります。
「あなたは私の足にかせをはめ、私の歩く小道をことごとく見張り、私の足跡にしるしをつけられます。そのような者は、腐った物のように朽ち、しみが食い尽くす着物のようになります。」(ヨブ13:27~28)
「私の足にかせをはめ、」とは、神様がヨブのいのちに足かせをはめられたという意味です。つまり、生きたくても生きられないし、死にたくても死ねないし、自由意志もなく、身動きできないように神様がしてしまわれた、ということです。神様が、何の分別もなかったヨブの若い時の咎まであばいて、いのちまで取ろうとしておられる、というのです。
また、神様が自分の足跡にしるしをつけて、腐った物やしみが食い尽くす着物のようにしてしまったと抗議しています。
皆さんの中には、真理の足かせにはめられているように感じている方はいないでしょうか? 主日には旅行もしたいのに、教会に来て礼拝をささげなければならないし、好きなテレビ番組やスポーツの試合が中継される時間に祈らなければならないから、きついでしょうか?
真理は私たちを縛る鎖ではなく、闇の中の灯のように祝福の道に導いてくれるものです。私たちがみことばのうちにとどまっていれば、真理が心を満たして、真理による自由を得るようになります(ヨハネ8:32)。
このように真理の自由を得た人は、この地上でしばらくは狭い道を歩んでいるようでも、天国への希望で心が満たされています。神様が行ったとおりに報いてくださることを信じるので、喜びと感謝で信仰生活ができるのです。
ですから、永遠の天国で父なる神様と花婿なる主と思う存分愛を分かち合って生きていく日を望みながら、さらに真理にあって幸せな信仰生活をしますように。
次の時間に続いて伝えます。
