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ヨブ記講解(30) - 高ぶりの極みを見せるヨブ

9月8日
読了時間: 9分

説教:イ・スジン牧師

本文:ヨブ記13:6~19

きょうも前回に続き、高ぶりの極みを見せるヨブの姿によって自分を省みて、神様の望んでおられる姿が何かを調べてみましょう。


1. ヨブの論争と訴え


「さあ、私の論ずるところを聞き、私のくちびるの訴えに耳を貸せ。あなたがたは神の代わりに、なんと、不正を言うのか。神の代わりに、欺きを語るのか。神の顔を、あなたがたは立てるつもりなのか。神の代わりに言い争うのか。」(ヨブ13:6~8)


「論ずる」とは、互いに意見を戦わせる、論争するという意味です。聖書には言い争ってはならないとあるのに(第一テモテ6:20)、ヨブは神様と論じ合ってみたいと言い、友だちに自分の訴えを聞きなさいと言っています。白黒をつけて自分は間違っていないことを明らかにして、正当化したいのです。


真理にあって生きていく人は、不当なことをされても、訴えたり言い訳したりしないで、まことの審判者である神様を望んで、黙々と耐えてみことばどおりに行っていくだけです。


イエス様は不当な仕打ちにあわれた時も、ただ神様にゆだねて祈られただけで、誰とも言い争ったり訴えたりされませんでした。このように、言い訳したり訴えたりせずに、神様ご自身が働かれるようにゆだねなければなりません。どんな誤解をされても、自分を省みて、喜びと感謝をもって行うなら、神様が助けてくださって誤解が解け、敵をも和らがせてくださいます。


「欺き」とは、言葉巧みにうそを言って、相手に本当だと思わせること、だますことです。ヨブは自分を指摘する友だちに、欺きを語る者だと責めています。


神様のみことばのとおりに歩めない人が誰かに神様のみことばをもって悟らせるなら、かえって神様の栄光を遮ることになります。したがって、ヨブは友だちに向かって「あなたがたは真理のとおりに行ってもいないのに私を指摘しているから、偽り者ではないのか。そんなあなたがたがどうして神様の代わりに不正を言うのか。巧妙に神様を欺こうとするのか。神様はあなたがたの心を全部見ておられる。」このような意味で問い詰めているのです。


それなら「神の顔を立てるつもり」とはどんな意味でしょうか。


誰かの顔を立てるとは、面目が保たれるようにする、体面が傷つかないようにするという意味です。ヨブは友だちに、偽り者であるあなたがたがどうしてあえて神様の代わりになろうとするのかと言っているのです。どうしてあなたがたが聖なる神様に代わって、神様のみことばをもって自分と言い争おうとするのか、ということです。


「神があなたがたを調べても、大丈夫か。あなたがたは、人が人を欺くように、神を欺こうとするのか。もし、あなたがたが隠れて自分の顔を立てようとするなら、神は必ずあなたがたを責める。神の威厳はあなたがたを震え上がらせないだろうか。その恐れがあなたがたを襲わないだろうか。」(ヨブ13:9~11)


ヨブは友だちに「あなたがたは人は欺くことはできても、心を調べる神様を欺くことはできない」と言っているのです。ヨブは友だちの弱点をつかんで責めています。彼らがこれ以上言い返せないように言い負かそうとしているのです。友だちの目には梁があるのに発見できず、自分の目の中のちりを指摘していると悟らせているのです(マタイ7:4)。


ここでも自分自身の姿はどうなのか省みますように。皆さんがひどい苦しみに会っているとき、ある聖徒が神様のみことばでアドバイスをしてくれるとしましょう。この時、顔には出さなくても、心の中ではその人が憎らしいと思ったり、嫌いになったり、そのアドバイスが気に障ったりするなら、これも高ぶりなのです。


ここで「隠れて自分の顔を立てようとする」とは、偽善をもって真実で謙虚に神様を仰ぎ見ない人のことです。こういう人は責められます。しかし、神様の前にへりくだっている人は、神様の声を聞くことができます。


今日も、私たちが聖霊の声を明らかに聞くには、へりくだっていなければなりません。聖霊様が私たちに神様のみこころを悟らせてくださっても、高ぶっているなら、その声が聞けないからです。


それなら、もしヨブの友だちがへりくだっていて神様の声が聞けるなら、神様は彼らに何と言われるでしょうか。彼らの偽りと偽善、本人は言行が一致していないのにヨブをむやみにさばいて責め立てた姿などを叱責されるでしょう。


皆さんが誰かをさばいて量るなら、自分も必ずさばかれて量られるようになり、敵である悪魔・サタンも皆さんを訴えるようになります(マタイ7:1~2)。もし自分の目に他の人のちりが見えるならば、自分の目にはそれと比べられないほど大きい梁があることを悟らなければなりません。まず自分の目にある梁を取りのけてこそ、きよい目になって、兄弟の目の中にあるちりも取り除くことができます。自分の目に梁がある人が相手のちりを取り除こうとすれば、その言葉がとがったとげになって相手を苦しめます。


ヨブは、神様が友だちを責められるとき、その威厳があなたがたを震え上がらせないだろうかと言います。ヨブは、神様が威厳があって恐ろしい方で、その威厳がどのようなものか知っていました。しかし、愛なる神様は知らないまま、予定の神様だと誤解して、今恐れているのです。


私たちの神様は愛なる方ですが、公義の神様でもあります。それで、聖書を読むと、神様を愛する人であっても、神様のみことばを犯して罪を犯せば、厳しい試練に会ったことがわかります。


ダビデは神様に愛されて認められていましたが、彼がイスラエルの王になった後、平安になったとき、本性の中にあった悪が現れました。忠臣ウリヤの妻を召し入れ、これを隠ぺいするためにウリヤを戦場の最前線に立てて、異邦人の手で死なせたのです。その後、愛する子どもが死に、息子の間で殺人事件が起きたし、ある息子はクーデターを起こすなど、ダビデは実に厳しい試練に会わなければなりませんでした。


このように神様は、愛する者であっても罪については厳しく責めて、立ち返るようにされます。私たちが神様のみことばを守らないとサタンが訴えて、試練や患難が伴うことを心に留めなければなりません。罪人たちのためにひとり子を犠牲にするほど愛の豊かな神様であるだけでなく、悪を蒔いた者には悪の実を、善を蒔いた者には善の実を刈り取らせる公義の神様だからです。


2. 高ぶって自分が正しいと主張するヨブ


「あなたがたの格言は灰のことわざだ。あなたがたの盾は粘土の盾だ。黙れ。私にかかわり合うな。この私が話そう。何が私にふりかかってもかまわない。」(ヨブ13:12~13)


これまでヨブの友だちは自分なりに最善を尽くして神様のみことばを引用してヨブを悟らせようとしました。しかし、ヨブは彼らの話を真理として受け入れるのではなく、一つの格言かことわざとしか思いませんでした。


友だちがたとえ完全でなかったとしても、彼らの助言の中には神様のみことばが含まれているのに、ヨブはこれを単なる人の格言かことわざ程度に考えているので、どうして悟れるでしょうか。


今までヨブと友だちは互いに言い争って、攻撃と防御を繰り返してきました。ところが、ヨブは、友だちが防御する盾はすぐ壊れてしまう粘土の盾にすぎないと決めつけているのです。


このように人が高ぶってしまえば、神様のみことばも耳に入りません。または、神様のみことばを一つの格言くらいに、ただ耳障りの良い人間の言葉くらいに受けとめます。ことわざや格言でも教訓が込められた話は聞かなければならないのに、神様のみことばさえも人の言葉のように聞こえてしまうのです。


「それゆえ、私は自分の肉を自分の歯にのせ、私のいのちを私の手に置こう。見よ。神が私を殺しても、私は神を待ち望み、なおも、私の道を神の前に主張しよう。神もまた、私の救いとなってくださる。神を敬わない者は、神の前に出ることができないからだ。あなたがたは私の言い分をよく聞け。私の述べることをあなたがたの耳に入れよ。今、私は訴えを並べたてる。私が義とされることを私は知っている。私と論争する者はいったいだれだ。もしあれば、そのとき、私は黙って息絶えよう。」(ヨブ13:14~19)


今ヨブは自分のことを訴えています。まず「自分の肉を自分の歯にのせ」、みずから苦しみを招こうと言っています。そして「私のいのちを私の手に置こう」、つまり自分で自分のいのちを絶とうというのです。これは「私には何の過ちもないのに、どうせ神様が私のいのちを取ろうとされるんだから生きる望みがない。だからこそかえって私は神様の前で主張する。」つまり「白黒をはっきりさせて、これまで私がよくやったことを一つ一つ申し上げて、私には何の過ちもないことをはっきりさせる」と言っているのです。


「神を敬わない者は、神の前に出ることができないからだ。」とは、神様に逆らう者は神様の前に出ることができない、ということです。そして、「神もまた、私の救いとなってくださる。」と言いましたが、これはヨブ自身は神を敬わない者ではなく義人なので、神様の前に救われるべきだという意味です。


ヨブは相変わらず自分は正しいと主張しています。そして、自分が説明するから、あなたがたは聞いて悟れというのです。ヨブはこれまで、自分は正しい人で罪を犯したこともないし、悪いことをしていないと訴えてきました。


「私が義とされることを私は知っている。」とは、たとえ友だちが認めてくれなくても、自分で自分の行いを見ると正しい人だと自負できるということです。ですから、このように正しい自分と論争できる者はいないと言っています。


自分より正しい人こそ自分を指摘してくれなければならないのに、そんな人がいるかということです。もしいるなら「私は黙って息絶えよう。」と言います。つまり、その前で降参するというのです。


ヨブは誰かに悪を行ったことがなかったので正しい人だと思っていますが、これは真理を正しく知らなくて、罪に対する基準が違うからです。ヨブの基準から見れば、自分の方が先に人を殴ってののしるなら悪ですが、もし人が自分を殴るなら自分も立ち向かって殴り、人がののしるなら自分もののしるならば、罪ではありません。


しかし、マタイの福音書5:39~42に「しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい。あなたに一ミリオン行けと強いるような者とは、いっしょに二ミリオン行きなさい。求める者には与え、借りようとする者は断らないようにしなさい。」とあります。


ヨブの友だちはヨブの下着を取ろうとしたのでもないし、一ミリオン行けと強いたのでもありません。ヨブのみじめな身の上を聞いて、遠くから駆けつけて七日間悲しみ、ヨブを慰めて神様のみことばで悟らせようとしただけです。


それなのにヨブはそういう友だちを相手にする価値もないと非難しているので、決して正しい人の姿だとは言えません。ヨブは右の頬を打たれたなら左の頬も向けるのではなく、かえって二倍、三倍に仕返ししているのです。


また、ヨブはこの世に誰が自分より正しい人がいて、自分と論争できるのかと言っていますが、これは高ぶりの極みです。ヨブの言うとおりなら、論争する相手は神様おひとりしかおられません。ですから、次にヨブは神様と論じ合おうとします。


次の時間に続いて伝えます。

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