ヨブ記講解(27)
説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記12:1~6
きょうは友だちの話に反論して、神様を誤解するヨブの姿から自分自身を発見して、神様のみこころが何かを調べてみましょう。
1. 友だちの話を皮肉って反論するヨブ
「そこでヨブが答えて言った。確かにあなたがたは人だ。あなたがたが死ぬと、知恵も共に死ぬ。」(ヨブ12:1~2)
ヨブの立場では、友だちが言っていることはばかばかしいのです。自分たちだけ正しいと言ってヨブを責めるので、ヨブははらわたが煮えくり返る思いでした。友だちが自分を教えていると思ったヨブは「あなたがたの話は正しくて、私の話は正しくないのか。じゃあ、私は人でもなくて、あなたたがだけが人なのか。あなたがたが死ぬと、知恵も共に死ぬのか」と皮肉を言っているのです。
ここでヨブが「あなたがたは人だ」と言った本当の意図は何でしょうか。互いに話が通じないから、イライラして「わかった、わかった」と一方的に話を打ち切っているのです。友だちが知識と知恵があるふりをしながら、自分を教えて無視していると思ったヨブは、はらわたが煮えくり返るようでした。それで、ひどく気を悪くして「あなたがたはそんなに知恵があるのか。じゃあ、あなたがたが死ぬと、知恵も共に死ぬんだね」と当てこすっているのです。
「私にも、あなたがたと同様に、悟りがある。私はあなたがたに劣らない。だれかこれくらいのことを知らない者があろうか。」(ヨブ12:3)
これは「私もあなたがたのように悟りがあって知恵がある。私はあなたがたより優れている。今まであなたがたが言ったことを私が知らないとでもいうのか。身の程知らずに私を指摘するのか」と言っているのです。互いが正しいと際限なく言い争っています。
しかし、神様は私たちに言い争ってはならないと言われました。夫婦の間でも、親子の間でも、嫁姑の間でも、そして聖徒の間でも、どんな状況でも言い争ってはいけません。
もし自分が正しいなら、まず相手に真理のみことばで悟らせて、それでも相手が悟れなければ、たとえを挙げて、それでも悟れなければ、そこでやめなければなりません。そうでなくて、腹を立てて言い争ったりするならば、互いに関係が気まずくなって、仲たがいまですることがあります。
ですから、相手が受け入れなければ、それ以上言い争わず、落ち着いて笑顔で話を終えて、次の機会を待たなければなりません。こうすると敵である悪魔・サタンが働けないし、神様の前に隔ての壁を作ることもありません。
2. 神様まで巻き込んで自己主張をするヨブ
「私は、神を呼び、神が答えてくださった者であるのに、私は自分の友の物笑いとなっている。潔白で正しい者が物笑いとなっている。」(ヨブ12:4)
ヨブは友だちに腹を立てると、次に神様まで巻き込みます。たびたび人々は言い争うと、全然関係のない第三者を巻き込んだりします。ある牧師先生がこう言ったとか、ある働き人がこう言ったとか、神様がこう言われたとか、聖書のみことばにこう書いてあるとか言いながら、自分を正当化するのに利用します。相手が自分の話を聞いてくれないので、自分より地位が高くて、相手が認めるほどの人の言葉や聖書のみことばを引用するのです。
しかし、こういうとき、神様のみことばを引用するのは良くありません。なぜなら、真理のみことばには言い争ってはならないとあるのに、真理に背いて言い争っていながら神様のみことばを云々するのは、それ自体が間違いだからです。
ここでヨブが「私は、神を呼び、神が答えてくださった者である」とは、神様と交わりがあるという意味ではありません。
ヨブは先祖を通して神様について聞いて知っていました。神様の生きておられることと、神様が力ある方であることも知っていました。それで、時に応じて神様に全焼のいけにえをささげたし、子どもたちの代わりにもささげました。このようにヨブが全焼のいけにえをささげれば、神様がお受けになって、答えと祝福を下さることを知っていたので、このように説明したのです。
ところが、潔白で正しいヨブが全焼のいけにえをささげたところ、かえって友だちの物笑いになったと嘆いているのです。このようなヨブの言葉は正しくありません。神様に正しく仕えた昔の信仰の人々は人にも認められてほめられたのであって、決して物笑いにはならなかったのです。
神様を愛して愛される人は異邦人も恐れたのが見られます。エジプトの王パロも預言者モーセに頭を下げました。イスラエルの民がモーセにつぶやいた時も、神様はモーセの肩を持ってくださいました。
もちろん、真理を聞くのを嫌って、神様のみこころに聞き従わない人々は、神様の預言者を嫌います。闇が光を嫌うのと同じです。しかし、こういう時も神の人々は神様が守って支えてくださり、結局高くしてくださいます。
預言者エレミヤは神様のみこころを宣べ伝えて民にあざけられるように見えましたが、いつも神様がともにいてくださいました。バビロンの侵略によってエルサレムが陥落して、多くの人が捕虜として連れて行かれたり殺されたりしても、エレミヤは命が守られただけでなく、かえってバビロン王からよくしてもらいました。
たとえ悪い人々が神の人を迫害しても、心では認めるのです。神の人はどこででもみことばの中で正しく生きていてキリストの香りを放つので、物笑いの種とはならないのです。
3. 悪い者を祝福する神様だとさばくヨブ
「安らかだと思っている者は衰えている者をさげすみ、足のよろめく者を押し倒す。」(ヨブ12:5)
ヨブは、自分は災いにあって苦しんでいるのに、友だちは心配も悩みもなく安らかなように見えました。ですから、安らかだと思っている友だちが災いにあって衰えているヨブをさげすんでいると言うのです。
ヨブはこのように友だちの助言を聞きたがらずに反論します。そして、「足のよろめく者を押し倒す」と言っていますが、これはヨブが押し倒された者であり、災いの中にあることを言っています。つまり、ヨブは潔白で正しいのに、そんな自分に災いが来て悔しいのです。
これまでヨブの友だちの話には真理と反対のものもありましたが、真理もありました。ですから、ヨブが友だちの助言を聞き入れて従っていたならば、災いは退いたでしょう。しかし、ヨブは友だちがいくら真理をもって説明しても、自分だけ正しいと主張して無視し続けるので、相変わらず災いの中で苦しみを受けるしかなかったのです。
「荒らす者の天幕は栄え、神を怒らせる者は安らかである。神がご自分の手でそうさせる者は。」(ヨブ12:6)
真理を知らない世の人々は「いい人はうまくいかないで、かえって悪い人のほうがうまくいく」と言います。しかし、善そのものである神様は心の良い人を愛してくださり、悪い人を愛されるはずがありません。また、公義の神様は正しい者を成功させてくださる方です(箴言12:2)。
ところが、ヨブは真理と反対に神様を悪い神様だと決めつけています。「荒らす者の天幕は栄え、神を怒らせる者は安らかである。」これは神様がご自分の手でそうさせているということです。そして、自分のように正しい者には災いが臨んだと言っているのです。どれほど神様を悲しませる言葉でしょうか。
ヨブは最初からこのように悪を口から出したのではありません。だんだん感情がエスカレートして、ますます心の悪が現れて、このような結果を生むようになったのです。
神様を信じると言う人の中にもこういう場合があります。初めは神様を愛すると言いながら熱心です。ところが、祈っても答えがなければ、だんだん熱心が冷めてしまって、祈らなくなります。すると周りから真理のみことばで勧められたり、訓戒されたり、叱責されたりします。それなのに受け入れられないと、つい口から真理と反対のことを言ってしまいます。
こういう場合、すみやかに悔い改めて立ち返ってこそ、敵である悪魔・サタンが離れます。そうでなければ、サタンがその負の感情をあおって、ついには自制できなくなってしまうのです。そうなると悔い改めようとしてもできないから、ヨブのように激しい風のような言葉をぶちまけるのです。
このように神様を悲しませることを言い続けると、結局守られなくて、災いが臨むようになります。ですから、真理が自分を照らしてくれる時に、すみやかに悔い改めて立ち返る知恵ある皆さんになりますように。
私たちの神様はヨブが考えているように決して悪い神様ではなく、愛と公義の神様です。皆さんの中にも、ひょっとして「今、世の中を見てみると、悪い人たちがうまくいって、不正な方法で儲かることが多いようだ」と思ったり、「悪を行う人が平安でうまくいっているようだが」と疑問を抱く人がいるでしょうか。
しかし、ルカ16章に出てくる金持ちは地獄に落ちて、神様を恐れていたラザロは天国に行きました。いっそ貧しくなってでも、神様のみことばを守り行って天国に行くことが祝福です。つかの間この世で生きているとき、もっと良いものを食べて、着て、楽しんでいて、地獄に落ちてはいけません。
また、詐欺など不正な方法で儲けた人はどうして心に平安があるでしょうか。いつも不安で心配、悩みが離れません。もちろん、彼らも悪が度が過ぎると、この地上でも突然災いが臨んで、さばきを受けるようになるのです。
したがって、詩篇37:1に「悪を行う者に対して腹を立てるな。不正を行う者に対してねたみを起こすな。」とあるとおり、いつも真理にあって考え、話し、真理を行うことでただ神様に喜ばれますように。
愛する聖徒の皆さん、
神様はヨブを愛して、ヨブが試練に会っている中でももどかしそうに見守っておられるのに、ヨブはそういう神様を知らないまま、続けて神様をさばいています。
自分の苦しみや問題のために祈って、すぐ答えを受ければ神様が自分を愛しておられ、そうでなければ見捨てられたのでしょうか。そうではありません。自分は悔い改めたつもりでも、まだ真理に変えられていないので、答えの時ではないのです。
忍耐とまことの信仰を持つことを望んでおられるので、祝福の時を遅らせておられる神様の心を感じてみてください。そして、自分の欠けているところを熱心に発見して変えられましょう。私たちを救ってくださり、強くしてくださる主を、父なる神様をさらにあがめるとき、答えと祝福が来るのです。
したがって、ハバクク3:17~19「そのとき、いちじくの木は花を咲かせず、ぶどうの木は実をみのらせず、オリーブの木も実りがなく、畑は食物を出さない。羊は囲いから絶え、牛は牛舎にいなくなる。しかし、私は【主】にあって喜び勇み、私の救いの神にあって喜ぼう。私の主、神は、私の力。私の足を雌鹿のようにし、私に高い所を歩ませる。」このような信仰の告白があふれる神様のまことの子どもになりますよう、主の御名によって祈ります。
